とある施設の殺風景な中庭で、小さな男の子が佇んでいた。
その周りを、彼より少し大きい少年たちが取り囲んでいる。一見遊んでいるようにも見えるが、事実はそのような心安らぐ光景ではなかった。
「ほらチビ、泣けよ」
少年たちの中で一番体の大きい者が「チビ」と呼ばれた子供の髪の毛を掴む。チビは眉を寄せるが、声を上げない。
「なんだよ、口が利けないのか」
少年はチビの短い黒髪を引っ張り、頭を地面に叩きつける。一斉に笑い声が上がった。泥まみれになっても、チビは口を開かない。地面に伏せたまま、唇を噛む。
ここではよくある、子供同士の「虐め」だった。ガキ大将的な存在の者に諂わなければ、当然のようにこういう目に合うしかないのだった。チビはそれを分かっていながら反抗し続けていた。虐めはエスカレートする毎日だったが、決して頭を下げることも、泣いて謝ることもしようとしなかった。
チビは物心ついたときからここにいた。生まれてすぐ親に捨てられ、死に掛けていたところを拾われたのだ。だが、それが幸運なのか不幸なのかチビには分からなかった。ただ、負けるのは嫌だ、死ぬものか、そんな理由のない漠然とした感情だけが彼をこの世に留めていた。
ここは行き場のない少年が収容される、冒険屋の巨大組織「デスナイト」の運営する孤児院だった。ここで育てられた子供の大抵が、自動的にデスナイトに所属し、冒険屋としての人生を送ることになる。世間からは「人殺しの養成所」だと、あまり好かれていない。ゆえに、こうした理不尽な虐めが行われていても、外部から止めようとする者などいなかった。孤児院で子供の世話や教育をする大人も、これも試練であると、よほど命に関わるような大事でもない限り口出ししない。いずれ冒険屋になれば、強い者だけが生き残るという無常のルールに従わなければいけないのだ。子供同士のケンカや虐めなどで道を見失う弱い男は組織に相応しくはない。力がないのなら、持つ者を盾にして自分を守る知恵を身につければいいだけのこと。
それが、今の時代の「親に捨てられた男」に強要される残酷な運命だった。
そういったここでの基本的な知識は先輩や教育者に教えられる。それでもチビは反抗し続けてきた。誰の意見も聞かずに、だが自分の行く末を決めることもできないまま、ただこの世のすべてを恨んでいた。口が利けないのかと疑問を持たれてもおかしくないほどにチビは口を閉ざし、何かに取り付かれたかのように自分の感情を押し殺し続けてきた。
こんなところ、いつか絶対抜け出してやる──そう心に誓うチビは、名前も与えられないまま院での生活、七年目を迎えていた。
チビは散々貶され、殴る蹴るの暴行を受けてボロボロになっていた。腫れた目元を撫でながら、トボトボと院内の渡り廊下を歩く。孤児院は大きな建物だった。専用の医者がいる保健室があるが、チビはよほどのことがない限り立ち寄らない。こんな日は大抵、狭い自室で不貞寝をする。今日もそのつもりで、まるで牢屋のような粗末な部屋へ向かった。
ふとチビの足が止まった。自分の部屋の前に誰かが立っている。大人だ。細身だが肩幅があり、少し長めの白に近いグレーの髪が暗い廊下でも目立つ。見たことはないが、きっとデスナイトの冒険屋だろうということくらいは分かる。特に武器などは身に付けていないが、ここにいるのは大人も子供もほとんどは組織の者なのだから。
自分に何か用でもあるのかと思いながら、チビは眉を寄せて足を進めた。チビの小さな姿を見つけ、青年は顔を向ける。優しそうな彼の瞳は、髪のそれと似た、薄い青色だった。青年は、無意味に自分を睨み付けながら大股で歩いてくるチビに微笑んだ。
「やあ」
青年は向き合い、声をかける。だがチビは返事をせずに彼の前で立ち止まる。じっと青年を見上げたまま「そこをどけ、邪魔だ」というテレパシーを送った。それは青年に届いていたが、彼はまったく構わずに和やかに話を続けた。
「君が『チビ』だね」青年は大きな手をチビの顔の前に差し出す。「さっき、廊下の窓から見てたよ」
チビは青年の好意的な態度など受け取らずに、返事もしない。むしろ、余計にむっとする。彼が言う「見てた」というのは、さっきの集団虐めのことだろう。大人のくせに、子供が虐められているのを黙って見ていたのかと思うと、チビは彼が好きになどなれなかった。青年は一瞬、面食らったかのように笑顔を消したが、肩を竦めて手を引っ込める。
「笑っているんじゃないよ。驚いたんだ。小さな子が虐められるのはここではよくあることだけど、君のように黙って、泣きもせずにじっと我慢してる子は初めてだったから。君は、とても強いんだね」
青年は穏やかな声で続けた。
「本当は助けようかと思った。でも、君に僕の助けなんかいらなさそうだったから、つい傍観してしまったんだ。それで、近くにいた係の者に君のことを尋ねた。そしたら、あいつはあのくらいの怪我なら治療もしないで自分の部屋に戻るって聞いて、ここで待ってたんだよ」
ベラベラと喋る青年に、チビはやはり黙ったままで警戒を解かない。
「君は問題児のようだね。特に用事があるわけじゃないんだけど、よかったら話をしないか? ここじゃ人目が気になるだろうから、外に出よう」
――外、という言葉にチビは微かに反応した。院から外に出られないことはないのだが、細かい外出許可やら帰宅報告などが必要でなかなか自由が利かない。それに院内に籍がある限り、食料や衣服などの最低限ものはきちんと揃えられるが、金銭やそれに換えられるような物品は一切与えられないし持つことも許されていなかった。文無しの子供が外に出る用事はあまりないし、脱走したところで誰も追ってくるわけでもない。どうせ行くところもなければ、一人で生きていく力もないからだ。いずれここへ戻ってくるか、どこかで寂しく野垂れ死ぬしか道はなくなるのだ。
だが、保護者がいれば別だ。時々、こうして一人前の冒険屋がここを訪れることがあり、気に入られれば外へ遊びに連れていってくれる。体も大きく、金も責任能力も持っている大人と一緒ならば規制は緩かった。院内にいる子供はいずれ組織に貢献するであろう有望株、でなければならない。組織の幹部や院長は、冒険屋がそうすることを悪くは取らなかった。運よく遊びに連れていってもらった子供は、誰もがあった出来事を仲間たちに自慢げに語るものだった。チビは話だけは聞いたことがあったが、こうして声をかけられたのは初めてだった。
これが、噂の……と、興味を持たずにはいられない。その感情は素直に表情に出てしまっていた。青年は目を細めて微笑む。
「どうしようか。傷の手当をするなら待っててあげるよ」
チビは目を丸くして息を飲んだ。何を勝手に話を進めているんだと思いつつ、これ以上は強がれない。
「い、いや」チビの声は少し裏返ってしまった。「いい。こんなの、痛くない」
それを聞いて、青年は頷いた。
「やっぱり、口が利けないわけじゃないんだね」
なんとなく騙された気分になったが、青年がすぐに背を向けて歩きだしてしまったために、チビは慌てて後を追うことしかできなかった。
「院長に許可を貰ってこないとね」
青年は楽しそうだった。チビは緊張してしまい、俯いて早足で彼の後を着いてくる。いきなり、と言っても、こういうことはいきなり訪れるものだ。これが何かのきっかけになるのかどうかまでは考えられない。
ただ、子供なりに会話を捜していた。やはり、どこかで気に入られたいという気持ちがあったのだ。チビは思い出したように顔を上げる。
「そうだ……お前、名前は?」
院内の子供にはあだ名しかないが、自分で稼げるようになったときに自分の世話を担当してくれる先輩や上司に正式に名前をもらえる。当然、青年に名前はある。
「ああ」青年は歩きながらチビを見下ろす。「ごめん。名前も言ってなかったね。僕は『ブラッド』。よろしく、チビ君」