Blood



 次の日の昼前には、昨日の雨が嘘のように快晴になっていた。
 雨の中を休まずに歩き続けてきたチビは、空が晴れたころにはローピアに辿り着くことができた。全身薄汚れてしまっていたが、大雨と泥水のお陰で血痕は目立たなくなっていた。夜通し森の中を走り続けたあと、休まずにここまで歩いた彼の顔色は悪い。疲れと眠気を我慢して、まずは休憩ができる宿屋に入った。当然、店員に驚かれたが、旅をしていて道に迷って森で一晩過ごしたと話し、ブラッドにもらった書類をみせて納得してもらった。年齢や状況からして不気味なほど落ち着いて見えたが、チビはただ疲れていただけだった。それが、店員に必要以上に突っ込ませない雰囲気を醸し出し、前料金だけを払って部屋を確保することができた。
 部屋に入り、チビはベッドに倒れこんだ。だが、まだ目は閉じない。なぜか眠る気になれなかった。しばらく横になった後、ゆっくり体を起こす。リュックを引き寄せ、布団の上に中身を出した。一番大きな人形の入った袋と一緒に、財布やら地図やらの小物が散乱する。泥水を浴びたそれらは半乾きで、泥と染みでぐちゃぐちゃになっていた。チビはひとつひとつを手に取りながら泥を払う。リュックの底に詰め込んでいた新しい服はビニールに入れたままだったため、汚れていなかった。着替えは買いにいく必要はなさそうだ。
 しかし、肝心の人形は、とチビは袋を開ける。耳を引っ張って取り出すと、これも袋がビニール製だったこともあって、そう汚れはひどくなかった。だが、なんともないわけではなかった。泥水が浸入し、あちこちに染み付いている。手で払ったくらいでは完全には取れない。それを眺めて、チビはため息をついた。


 チビは室内にある電話を使って、ブラッドが残したメモを見ながらイデルの連絡先へ繋いだ。彼の話は聞いているが、直接話すのは初めてだ。今あるイデルのイメージは、「もの凄く怖い熊」である。コールを聞きながら緊張した。
 電話が繋がった。チビは息を飲む。受話器の向こうから「誰だ」という、恐ろしくドスの利いた低い声が聞こえた。瞬間、イデルだと思った。どうやらこの連絡先は彼への直通だったらしい。
「あ、あの」
 チビが慌てて声を出すと、しばらく無言になった。イデルも声を聞き、この電話に子供がかけてくるということは、とすぐに悟った。それを示すように、少し声の音量を落として「どうした」と促す。
 チビに丁寧に挨拶するという礼儀はない。その上、声だけですっかり怯えてしまった彼は、とにかく用件を口にした。
「あの……えっと、に、人形が雨で汚れて……その、まだ間に合うけど、こんなに汚いんじゃ、届けていいのかよく分からなくって……」
 イデルはまた無言になる。数秒だったが、チビは「何かまずかっただろうか」と心拍数を上げていく。怒られたらすぐ電話を切ろうなどと考えた。そんなチビの気を知ってか知らずか、イデルは冷静に答える。
「洗うなり何なりして、できる限り綺麗にすればいいだろう」
 それを聞いて、チビの怯えは消えた。
「で、でも……相手は金持ちなんだろ? こんなに汚いの、欲しくなんかないだろ」
「そんなことは関係ない。お前の仕事は『届ける』ことだ。目の前で捨てられようがツバを吐かれようが、決まったものを決まった時間、場所、相手に届けさえすればいいんだ」
 チビは言葉を飲んだ。でも、と口を開こうとしたが、イデルは続ける。
「その町なら同じものが置いてある店があるかもしれないが、かなり高価なものらしい。手持ちがあったとしても、その人形は五十体しか生産されていない限定品で、宝石の裏にはシリアルナンバーが入っている。その中でも、お前に渡されたものは依頼主が特注した、存在しないはずのゼロナンバーなんだと」
「?」
「つまり、それはこの世にひとつしかないものってことだ。汚れたと正直に謝るか、届けることを憚るなら、行かなければいい」
 チビにはシリアルナンバーがどうとかと言われても分からない。とにかく、大事なものを汚してしまったことは確かなようだ。買い直すことも、別のもので間に合わせることもできないらしい。チビの悲壮感は更に増す。
「……分かった」
 チビが呟くと、イデルはそのまま電話を切ろうとする。その気配を感じ、チビは咄嗟に声を出していた。
「あの」
 切る気配は消えた。イデルは黙ってチビの言葉を待っている。だが、これ以上待たせると、今度こそ切られるだろう。チビは肩を落として、辛い現実を弱々しく口から漏らした。
「……ブラッドは」
 彼の名前を出したところで、続きを躊躇う。イデルに言ってどうしたいわけでもなかった。彼は自分以上にずっと付き合いの長い、ブラッドの大親友だ。きっとイデルは自分と同じくらい、いや、それ以上に悲しむのだと思う。だが、チビはそんなことまで頭は回らない。ただ、誰かに伝えたかった。一人で抱え込むにはあまりにも重い事実だった。同時に、それを自分の口ではっきりと言ってしまうのが怖く、そして悲しくて、声が出なくなってしまっていた。
 イデルはそんな彼の気持ちを読み取り、重い沈黙の流れる中で、更に声を低くした。
「……知ってる」
 チビは顔を上げた。また、目が熱くなる。こみ上げるものを抑えるので必死になり、やはり声は出ない。
「仕事が終わったら、うちに来い」
 イデルはそう言って、電話を切る。ツー、ツーと物悲しい音を聞きながら、チビは唇を噛み締めていた。涙を堪えたまま、受話器を置いてバスルームに駆け込む。服を着たままシャワーを全開にし、頭から浴びながら目を閉じた。必死であの光景を忘れようとする。今はとにかく、汚れを落として着替えよう。疲れてるし、腹も減っている。人形も洗わなければいけない。荷物も綺麗にして、目的地を確認して、今度は迷わないように、時間に間に合うように出発しよう。チビはシャワーの下で服を脱ぎ始め、途中で手を止めてその場に座り込んだ。


 約束の日時は、明日の十三時。
 チビは風呂から出て新しい服に着替えた。ビニールで包装されていたとは言え、湿りで少し変な匂いがする。チビは少し眉を寄せたが、そのうち乾くだろうと気にしなかった。改めて人形を抱えて、どうしようと考える。もう一度バスルームに戻り、タオルを濡らしてそれで人形をゴシゴシと擦った。何の素材でできているのかは知らないが、人形はすぐに毛羽立ってしまう。あまり強くやると余計に手がつけられなくなりそうだ。力を抜いてやり直すと、少しだけ汚れが薄くなる。チビは小さなため息をつきながら、しばらくその地味な作業を続けた。
 やはり綺麗にはならない。一時間くらいは続けていただろうか。泥染みのついた人形を抱いたまま、チビは眠ってしまっていた。


 数時間して、チビは目を見開いて飛び起きた。室内は真っ暗になっている。その中でチビも顔色も青くなっていく。ベッドから降り、窓のカーテンを開ける。外はすっかり夜になっており、華やかなネオンと着飾った大人たちが行き来していた。チビは慌てて電気をつけて時計を見上げた。針は八時過ぎを指している。あれだけ疲れていたのだから当然だが、熟睡してしまっていたようだ。だが、本人が思っていたほどではなかった。チビは何日も眠り続けていたような気がしたからだ。まさか本当に何日も過ぎているとは思えない。さすがに宿屋の誰かが声をかけるはずだ。すっかり体の疲れも取れ、安心したチビはまた人形の隣に腰を下ろした。
 疲れは取れたが、体のあちこちが痛い。あれだけ走ったし、所々ケガもしている。それに、変な格好で寝てしまっていたのもあって肩や腕の筋肉が凝り固まっている。はあ、と大きなため息をつく。
 再び、寂しさが襲ってきた。一度ブラッドと離れたときのものとは違った。あのときは、彼はどこかにいたし、いつか会えると思えた。だが、彼はもういない。泣きすぎて少し頭痛がするのに、また涙がこみ上げてくる。慌てて、チビはそれを振り払った。そうだ、食事をしなければ。まだ荷物も散らかしたままだ。一通り片付けて、もう一度眠ろう。そして明日の朝早くに出発すれば間に合う。そうしよう。チビは汚れた財布を握って、室を出ていった。


 ここの宿屋は前に一人で泊まったところより大きく、施設も整っている。食堂は数種類あり、チビは適当な店に入って食事を済ます。ブラッドといたときはあんなにはしゃいでいたのに、今はとても無理だった。かなり空腹のはずなのに食欲がない。金銭もまだ余裕はあるが、何があるか分からないという不安が、金銭感覚のないチビでさえ無駄遣いする気を失わせていた。
 食堂を出てフロントの前を通ったとき、受付の男性と目があった。向こうは小さな子供が一人で大丈夫なのかという、ちょっとした心配の目線を向けており、チビはそんな雰囲気に気づいて足を止めた。すると男性が愛想笑いをしてくれたのもあって、チビは彼に近寄った。
「どうしたの?」
 男性はフロントのカウンターから出てきてチビの前にしゃがみこむ。チビは少し俯いて。
「明日、朝早く出たいんだけど、目覚ましとか、何か……」
 チビの声はか細く、聞き取りにくい。男性は耳を傾けて笑顔を絶やさない。
「だったらモーニングコールを予約してあげるよ。何時?」
「……モー」
「予約した時間に君の部屋に電話をかけて起こしてあげるサービスだよ。無料だから、利用するといいよ」
「……うん。えっと」チビは少し安心して、大事なことを思い出す。「あ、そうだ。えっと、明日、昼までにあそこに行きたいんだ。お金持ちの家。なんだっけ、オート……」
「オートレイ?」男性は驚いた様子で。「この町で一番大きなお屋敷じゃないか。よく知ってるよ」
「ああ、たぶん、そこ。そこに間に合うように出たいんだ」
「だったら、そんなに遠くないから九時くらいに出発すれば十分だよ。じゃあ、八時に予約しようか」
「うん。それと、そこまでの道を教えて欲しいんだ……あ、えっと、親戚なんだけど、家に行くのは初めてで……」
 男性は、慌てて繕うチビを怪しまずに、快く地図のコピーを渡して方向を教えてくれた。
「じゃあ、明日、気をつけてね」
 チビは男性に肩を叩かれて、「ありがとう」と呟きながら立ち去った。とりあえず、起床の心配はなくなった。だが、気は晴れない。
 とぼとぼと部屋に戻ると、点けっ放しだった明かりの中で汚れた人形が転がっている。やはり、寂しくて仕方がなかった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。今度は我慢できずに、涙が零れた。あんなに孤児院が嫌いで、いつか出て行くと常に思っていたのに、それが叶ったなんて思うことができなかった。院が恋しいとも思わないが、今の気持ちを処理する手段が見つからない。それに、泣きたくなんかなかった。今は何も欲しくない。何もしたくない。
 何も考えたくない。チビは荷物も片付けず、電気も消さずにベッドに潜った。布団の端には彼が汚した泥がついたままだった。


 朝、時間通りに電話が鳴った。だがその時間よりも早くチビは起きていた。少し眠ったが、夜中に何度も目が覚めた。時々、涙で枕が濡れているときがあった。どうすることもできないもどかしさで、チビは頭がおかしくなりそうだった。それでも誰にも助けを求めようとしなかった。完全なる孤独を抱え、それと戦い続けていた。
 チビは汚れたままの人形をまた元の袋に入れ、適当に口を縛り、他の荷物と一緒にリュックに詰め込んだ。それを背負い、室を後にする。
 フロントには昨日と違う男性がいた。チビの話を聞いていたらしく、同じように愛想よく声をかけて見送ってくれた。外に出て、チビは今更ながら町の大きさに驚いた。昨日は、やっとローピアに入れたという喜びよりも、まずは何をするべきかなどで頭が一杯になってしまっていた。雨や泥で汚れた自分を怪しまれないか気になったし、何よりも心身ともに疲れ切ってしまっていたため、この立派な町を堪能する気力などあるわけがなかったのだ。
 改めて眺めると、レンガで舗装された広い道を挟んで、大きな建物が建ち並び、そのひとつひとつが綺麗に装飾されたものばかりだった。中には一軒家や集合住宅もあり、人口も多く一目で栄えていると分かる。行き交う人々は誰も落ち着いて、穏やかだった。チビの目には絵に描いたような平和な町に見え、戦争なんか無縁だとしか思えなかった。
 そんな街中を眺めながら、オートレイの屋敷へ向かう。昨日の男性の話によると、チビの足で歩いてもここから一時間程度で着くらしい。時間に余裕はあるが、自分の方向感覚に自信のないチビは、とにかく目的地を確認しなければ気が済まなかった。


 出発して、二時間が過ぎていた。やはり真っ直ぐ進むことができなかったチビだったが、前回のことを反省し、通りに明るい店が多いのもあったおかげで気兼ねなく人に道を尋ねながら進んだ。そして、予定の二倍に時間がかかってしまったが、チビは無事に目的地へ辿り着くことができていた。
 立派な門を構えた大きな屋敷だった。広い敷地は、唐草模様を描いた黒い鉄の柵で囲まれている。その隙間から中を覗くと、芝生と木々で整えられた広大な庭が広がっていた。視界の端には白い石でできた噴水も見えた。これが個人の家なのかと、チビは疑うほどだった。チビの三倍は背の高い門の横にはインターホンがついている。押しても引いても動かない門の前を少しうろついた後、チビはそのボタンをを見つけて眺めていた。これを押せばいいのかと指を伸ばす。だが、すぐにそれを引っ込めた。そうだ、確か、約束の時間にはまだ早いはず。ポケットから、ブラッドに渡されたものの一つの懐中時計を取り出す。まだ昼前。十三時まで一時間以上ある。チビは彼の言葉を思い出した。「決まったものを決まった相手、場所、日時に──」
 チビは少し頷いて、時計をしまって一度その場から離れた。


 近くで時間を潰し、チビは改めて門前に戻った。十三時まで、後十五分。緊張しながら、震える指でインターホンを押す。音は何も鳴らなかったが、数秒して、マイクから返事が返ってきた。
「はい」
 チビはピンと背を伸ばし、慌てて声を出す。
「あ、あの、人形を持ってきました」
 声は女性のものだった。
「どなたでしょうか」
 チビは困ってしまう。何と説明すればいいのか分からない。
「あの、えっと『れいじょう』って人に、ウサギの人形を届けるように言われて……」
 意味不明だった。だが、女性は何かに気づいて返事をする。
「主人から聞いてます」少し驚いているような声だった。「今、開けますので」
 チビがポカンと口を開けたままでいると、門がガチャと鳴った。鍵が外れたようで、それを押してみると今度はゆっくりと動いてくれた。チビは警戒しながら中を覗く。誰もいない。勝手に入っていいものか戸惑いながらも足を進め、門を閉じる。すると、同じように門には自動で鍵がかかった。チビは恐る恐る石畳の道を歩いた。とにかく広いと思った。だが広すぎて、この空間に寂しさを感じていた。こんなに立派な庭と屋敷なのに、どうして殺風景に見えてしまうのだろう。整えられた木々や噴水を見ても楽しいとは思えなかった。チビは風景から目を逸らして、真っ直ぐ玄関へ向かった。
 大きな扉の前まで来て、チビは辺りを見回した。またインターホンらしきものもあったが、なんとなくそのままノックをしてしまう。とくに問題もなく、内側から扉が開く。そこから顔を出したのは、インターホンに出た女性だった。おそらく「令嬢」の母親だろう。とても優しそうな女性だった。目線を落として、微笑む。
「いらっしゃい」
 チビは少し顔を赤く染めた。「母親」というものを初めて見たからだ。憧れたことはなかったが、こんなにも温かい存在なのかと心を打たれてしまった。
「驚いたわ」女性は少し背を折り。「この日、この時間に届け物があるって聞いていたけど……まさかこんなに小さな子が来るなんて思ってもいなかったわ……だけど、昨日主人から連絡があって、届け物はないって聞いたの。どうして、あなたはここに来たの?」
 責めているような口調ではなかったが、チビは返事に困った。きっと、ブラッドが死んだことが組織にも依頼主にも伝えられたのだと思う。だから「届け物は来ない」ことになったのだろう。
 確かに、なぜ自分はここに来たのだろう。もう、誰も自分を、「届け物」を待っていてはくれなかったということなのだ。チビは暗い顔になって俯いた。それを追うように、母親はしゃがみこんでチビと同じ目線まで降りた。
「……娘の、ルイの誕生日をお祝いに来てくれたのね」
 チビの目が揺れた。母親の顔を見ると、優しさの中に微かな憂いが垣間見えた。チビはそれから目が離せなくなった。
「本当は、主人は今日、帰ってくることになっていたの。だからルイはとても楽しみにして、誕生日に家族でお祝いができるってリビングを飾ったりしてはしゃいでいたわ。だけど、急に戻れなくなったって連絡があって……ルイは途端に落ち込んで、部屋に篭って泣いているの。どなたかがプレゼントを持ってきてくれるということは、私だけに教えられていたわ。きっとルイは喜ぶと思って、私も楽しみだった。でも、それもなくなったって聞いてたけど……」
 母親は、もう一度微笑む。
「あなたは、来てくれたのね」
 母親の目が潤んだ。チビは複雑な気持ちになる。そんなに大事なものだったのかと、今になって責任を感じるが、人形は薄汚れてしまっている。まずい。見せたらまた悲しませてしまうかもしれない。やっぱり、来ないほうがよかったのかもしれないと後悔した。
 母親は立ち上がり、戸に手をかける。
「どうぞ。上がっていって」
 えっ、とチビは声を漏らす。慌てて頭を横に振る。
「ううん、いい。もう、帰るから」
「そう」母親は眉を下げる。「じゃあ、ルイを呼んでくるわ。少し待っててね」
 母親は戸を開けたまま、室内に戻っていく。チビは更に慌てる。いい、と言おうとしたが、間に合わなかった。あんなに汚れた人形、胸を張って渡せるわけがない。チビは逃げ出したくなった。どうしよう、足踏みしていると、戸の奥から女の子の声が聞こえてきた。
「本当?」
 とても嬉しそうな声だった。チビの心臓が締め付けられる。だが、逃げることはできなかった。そんなチビの気持ちを余所に、自分と同じくらいの年齢の少女が顔を出した。
 少女ルイは、可愛かった。ひまわりのような色の綺麗な長い髪、明るく光る紫に近い碧眼。肌の色は白く、フリルのついたピンクの服がよく似合っている。チビは真っ赤になり、それを隠すように急いで顔を逸らした。ただでさえ異性に縁がなかったのに、こんなに可愛らしいお嬢様を間近で見てしまっては落ち着いてなどいられなかった。そんな彼の態度にルイは少し首を傾げながら、声をかけた。
「あなたが、プレゼントを持ってきてくれたの?」
「え? あ、う、うん」
「ほんとに? 早く見せて」
「う、うん……」
 急かされ、リュックに手をかけるが、やはり躊躇ってしまう。だが、もう見せずに済む方法はない。素直に謝ろう。それしかない、と腹を括る。
「あ、あの、その……」
「なあに?」
「実は……汚れてしまった、んだ」
「え?」
「急に、あ、雨が降って、それで、雨宿りもできなくって……き、汚くなって。だから……い、いらなかったら、捨てていいから、その……」
 しどろもどろのチビの言葉はまとまっていない。嫌な予感がして、ルイは少し悲しそうな顔になった。チビはそれを横目で見て、更に顔を陰らせた。心臓がバクバクと鳴っている。やはりこのまま渡さないで帰ろうかと思っていると、ルイの背後から母親が再び姿を現した。
「いいのよ」
 チビは顔を上げる。
「ルイに、渡してあげて」
 途端に、チビの心が楽になった。それでも渋りながら、リュックから人形の入った袋を取り出す。最初に掛かっていたリボンもなくなり、包装さえしゃれっ気も何もない。しかもチビが適当に詰め込んだせいもあって、ぐちゃぐちゃで皺だらけになっていた。チビはまた「しまった」と思う。だが、もう後戻りはできない。恥ずかしそうにそれをルイに差し出した。
 ルイは受け取り、中を開ける。出てきたものは、確かに欲しかった人形だった。だが、すっかり草臥れ、泥が染みついている。チビは彼女の顔を見ることができなかった。
 それでも、プレゼントは渡した。これで仕事は完了したのだ。もう、チビにできることは何もなかった。終わった。帰ろう。チビは肩の力を抜き、一歩下がる。帰る、と言っても帰るところはなかったのだが、とにかくこの場を離れたかった。
 二人に背を向けようとしたとき、ルイが呟いた。
「ありがとう」
 チビは耳を疑う。体は固まり、足が止まった。
「これね、世界に五十個しかないの。私、電話でお父様におねだりしたの。そしたら、誕生日にくれるって言ってくれたの。本当は、お父様は今日来てくれるはずだったけど、お仕事で来られなくなったって言われて、すごく悲しかった。でも、お父様は約束を守ってくれたのね。嬉しいわ」
 チビが顔を上げると、ルイは綺麗な顔に汚れた人形を摺り寄せていた。
「あなたはお父様の約束を守るために、雨の中、こんなに汚れても届けてくれたのね。一昨日の雨でしょう? 凄かったもの。私と同じくらいなのに、私は怖くて外にも出られなかったのに、あなたは強いのね」
「……え」
 褒められたのは、生まれて初めてかもしれない。チビはすぐには受け入れられなかった。
「ありがとう。大事にするわ」
 チビは呆然とする。とりあえず、少女は喜んでいるようだ。だが、その理由が分からない。ルイは人形を抱いたまま、チビに一歩近寄った。
「私はルイ。あなたの名前を教えて」
 チビは少し体を引いて、また顔を赤くした。名前。恥ずかしくて「チビ」とは名乗りたくなかった。それに、この仕事はもともと彼のものだ。感謝され、少女の心に残るはずだったのは「チビ」ではない。
「……ブラッド」
 チビは、その名前をここに刻んだ。
「ブラッド君ね」ルイはにこりと目を細める。「今日はとても素敵な思い出ができたわ。本当に嬉しい。ありがとう」
 チビは胸が熱くなった。きっと、彼女たちはこの名前をずっと覚えていてくれるだろう。ここに生まれた幸せな時間と気持ちは、彼のものだ。自分はそれを一緒に分かち合うことができた。このささやかなものが「ブラッド」がずっと欲しがっていたものなのだと思う。もしかしたら、これからもそうしていける手段があるのかもしれないと、チビは感じた。
 なぜリスクを背負いながらも諦めずにここまで来てしまったのか、自分でも分からなかった。だが、来てよかったと心から思った。自分の進むべき道が見えそうな予感がしたからだ。
 チビの不安は消え去り、再びしっかりと歩き出した。