第2章 竜の伝説
 今日のヴァレルはいつもより騒がしかった。「エスとブラッドが手を組んだ」と言う話で盛り上がっていたのだ。
 この二人はヴァレルで目立っていた。ブラッドは、世の冒険屋の組織で一番巨大と言われる「デスナイト」に所属し、まだ二十歳という若さではなかなか為し得ない功績を持っている。最初は数をこなしてきた彼も、今では質も立派なものだった。ここ数年は組織からではなく、ほとんど自分で仕事を取ってくる。デスナイトはブラッドにとって堅苦しく、上下関係も厳しくてどうも肌に合わなかった。それに、正直なところ組織からの堅い仕事よりもランに貼り付いていたほうが、彼にとっては面白い仕事が回ってくるのだ。誰だって同じ仕事なら楽しいほうがいい。それでも、デスナイトに嫌われたら仕事がやりにくくなることくらいは心得ている。依頼がきたときは適当に受けながら、彼なりのペースで組織にも貢献していた。
 エスラーダはかなり特殊な組織に所属していた。「マザー」と言う、「女だけ」の殺し屋集団である。その全貌は謎に包まれており、総人員数や組織の規模、その中で一体どんな規律があるのかなど、外部の者にはほとんど知られていない。所属する人材も、どのような基準で選ばれ、どんな訓練を受けているのかも自ら語る者はいない。表向きは「冒険屋」だった。だが本来は「暗殺」が専門だと言われている。表立って冒険屋の仕事をしているのは一部の者だけだった。マザーには横の繋がりもなく、依頼が成立すれば誰であろうと確実に「処分」してきた。例えそれが同業者だったとしても。ゆえに、いくつかある冒険屋の組織からは目の上のタンコブとして警戒される存在だった。そして、表立って活動するエスも暗殺術を持った者の一人であることは間違いなかったのだが、その現場を目にした者は、仲間以外は誰もいなかった。
 だが、エスは暗殺などと血生臭いものとはまるで無縁と思えるキャラだった。明るくて華があり、一見は若い健康的な少女だったのだ。派手で露出度も高くて目を引くが、顔を合わせる度に無駄に口説いてくるブラッドとの小競り合い以外、男との浮いた噂もほとんどない。目立つ割には同業者からそれほど嫌われていなかった。冒険やとしての仕事は問題なく、完璧にこなし、その小柄な体からは想像できないほどの実力を持ち合わせていたのだ。
 そんなエスとブラッドはまさに宿敵だった。どちらの報奨金も法外だったが、受けた仕事は確実にこなす。今まで張り合い続けてきた二人が手を組んだ。これは面白い話だった。
 ただ、現時点で仕事の内容は誰にも知られていなかった。基本的に依頼内容は、仕事が遂行されるまで他人に明かされることはない。冒険屋の決まりの一つでもあった。それでも情報屋が探りを入れようとしたが、ランの圧力がかかると深入りはできない。噂だけが一人歩きする中、二人の仕事の結果が楽しみな日々が始まった。


 ヴァレルの外れにある廃れた無人の小屋の前で、冒険屋らしい服装に身を包んだブラッドの姿があった。腰の左右に剣と銃。重く見えるロングジャケットの内側には様々な飛び道具が潜んでいる。その下からは履き慣らされたレザーパンツにタクティカルブーツ。全身を黒で纏めている。
 柱の影にコートを着たシェルローズがいた。フードを被り、顔を隠している。目立たないようにと、ブラッドの指示だった。
 ブラッドは周囲を見回した後、腕時計を睨みつける。
「遅い。エスの奴、何してんだ」
 約束の時間まで後五分。遅刻はご法度である。間に合わなかったら置いていくつもりでいた。
 後一分を切ったところで、いつもの明るい声が聞こえてきた。
「お待たせ」
 エスが悪びれた様子もなく走り寄ってくる。相変わらず身軽だった。胸元の明いたキャミソールに気持ち程度のスカーフを巻き、ヒップハングのプリーツスカートにヒールのあるロングブーツ。ブラッドは彼女の露出の高い服に呆れつつ、内心では喜んでいた。装備は腰に銃を一本。そして、傍らには幼い少女が一人。
「エス、遅いぞ」
「間に合ったじゃない」
 言いながら、ブラッドはエスの足元で無垢な笑顔を浮かべる少女が気になった。つぶらな青い瞳に薄い茶色の巻き髪。ナイフ一本持ってそうにもない、ゆったりとしたワンピースにローファーという姿は、まるで今から小学校の発表会にでも挑みそうな雰囲気である。
「なんだこいつは」
 エスは少女の頭に手をのせて。
「ココナよ。私の相棒」
「聞いてないぞ」
「この子はいつも一緒なの。どんなスタイルで仕事をしようが私の勝手でしょ」
「勝手じゃない。今回は特殊だ。俺のことも考えろ」
「この子の何が気に入らないのよ。素直でいい子なのよ」
「そういう問題じゃない。今から仕事だっていうのに、なんのつもりだ」
「この子もちゃんと役目があるの」
「俺は初対面のガキと仕事する気はないぞ」
「うるさいわね。言っとくけど、私はあんたと手を組んだつもりはないのよ。たまたま依頼主と仕事が同じだって思ってよね」
「じゃあこっちも言っとくが、報酬は折半だからな」
「はいはい。あんたみたいなセコイ男に何も期待してないから、安心して」
「あっそう。で、一体こいつは何なんだ」
「戦闘は専門外だけど、守護と治癒の能力があるの」
「こいつもマザーか」
「どうでもいいでしょ」エスはココナの背中を押して。「さ、姫さまに挨拶して」
 ココナは言われて、軽く頷く。エスの言葉に素直に従い、シェルローズに駆け寄る。
「初めまして。ココナです」
 無邪気なココナにシェルローズは好感を持つ。コートの端を持ち上げ、挨拶を返す。
「私はシェルローズ・アンティークと申します。ココナさん、お世話になります」
「ココナでいいよ」
「では、私のこともシェルとお呼びください」
 ココナは幼い顔でにっこりと笑う。シェルも釣られて、子供のように微笑んだ。その様子を見ていたブラッドは、ココナを「可愛らしい子供」だと思った。同時に、こんなのが本当に役に立つのかと不安も募ったが、追い払う気は起きない。エスは隣で彼の心理を読み取っていた。もしこれが男の子だったら何だかんだ言って置いていったかもしれない、と。単純な男、と改めて心の中で罵っていた。
 そして一行はサンデリオルの竜のいる東へ向かった。


 天気も風向きも悪くなかった。ヴァレルの東側周辺に町はない。見渡す限りの荒野にぽつぽつと枯れた木の残骸があるだけだった。一行は、取り敢えずと言った感じでシェルの言う方向へ歩きながら、詳しい話を聞くことにする。
「サンデリオルの山ってどこにあるのよ」
 シェルに対するエスの口調は厳しい。シェルは少し怯えている。
「このまま歩いていけば、二週間ほどで……」
「はあ? 二週間? なんで車のひとつも用意してないのよ」
「も、申し訳ありません。どこで調達すれば分からなかったもので……お金なら出します。車を貸して頂けるところを教えてもらえませんか」
「エス」ブラッドが口を挟む。「そんなにカリカリするなよ。お姫さまが怖がってるじゃないか」
「まったく。お姫さまだからって、なんでも許されると思ってるんじゃないの。アッタマくる」
「申し訳ありません……」
 シェルは俯いてしまった。
「泣かすなよ」
「泣かせとけば? それも姫の特権でしょ」
 シェルが慌てて顔を上げる。
「泣いてません」
「エス」ココナが笑顔で。「一日歩いたらアナスタの町があるよ。そこで車を借りればいいじゃない」
 ココナは地図を広げて見ていた。そう言った細かい作業は彼女の担当だった。ブラッドが感心する。
「へえ、お前より頭いいんじゃないのか」
「そうね。あんたよりずっと使えるわ」
 皮肉で切り返され、ブラッドはふて腐れる。今はエスを刺激するのはやめよう、と口を閉じた。
「ココナ」シェルに笑顔が戻る。「ありがとう」
「どういたしまして」
 足の心配もなくなったところで、ブラッドが本題に入る。
「ところで、シェルのお願い事って?」
「それより」エスが遮る。「先に竜の話を」
「は、はい……」
 ブラッドは反抗的なエスの態度に苛立ちを覚えるが、ここはとにかく黙る。ただでさえ悪い彼女の機嫌をこれ以上損ねるのは面倒だと判断した。
 シェルは歩きながら語り始めた。
「この世には二匹の竜がいると言われています。東のサンデリオル、西のロースノリア。西の話はカストラには伝わっていませんが、サンデリオルについての古文書が四百年に渡り、我が国に受け継がれてきていたのです──」
──なぜ伝説が公にならなかったのか、それには深い歴史があった。
 太古の世界は二匹の竜が大地を支配していた。竜が自然を作り、そこに生命を生み出し、次第に人間や獣人が増え、歴史が積み重ねられているうちに文明が栄えていった。人の形をした新しい命はいつしか竜を必要としなくなり、それぞれに生きていく手段を確立し始めていた。生物や建物が増えるうちに竜は世界に狭さを感じるようになった。二匹は話し合いを続け、その末に新しい命に大地を譲ることにした。
 竜にはそれぞれに力があった。サンデリオルは繁栄、ロースノリアは富だと言われている。竜は自分たちの意志を人に告げ、安らかな眠りを守ってくれる人種にその力を与えると約束した。
 人類は困惑した。誰が竜を守り、その力を受け継ぐのか。人にとって、竜は最強で大いなる力を持つ、世界の頂点に君臨する恐れ多い存在だった。その力を人という小さき命が持つことがどういうことなのかを、すぐには理解できなかった。人類の代表数名によって話し合いは長く続いた。
 譲り合うことはなかった。誰もが自分の民族がどれだけ優れているのかを主張し、最初は他人の能力を尊重していた者もいなくなっていった。次第に人は他人を罵り、欺くようにさえなっていった。竜にとっては短い数十年という時を費やすにつれ、事態は更に悪化していった。人は力を誇示するために他人を傷つけ、支配欲が生まれた末には罪のない者への差別さえ始まってしまった。
 そして争いが起きた。知能を誇る人間は、その繊細な知識と技術を駆使し、武器や兵器を生み出した。反して、体が大きく腕力の強い獣人は鎧を纏い、形あるものを次々に破壊し、弱者を恐怖に陥れていった。
 長く醜い戦いは、二種の民族が竜の力を勝ち取ることによって終結した。同時に竜は約束どおり、世界のどこかで眠りについた。
 シェルは遠くを見つめながらそこまでを語った。
「その時カストラにいた民族、つまり私の祖先が、東の竜の加護を手に入れたのです。西の竜の力については、今はどこにあるのか分かりません」
 その事実はカストラの城に隠されていた古文書によって知り得たことだった。そこまでの大きな歴史が、なぜか現代ではあまり知る者がいなかった。何者かが、若しくはもっと大きな何かによって隠されてきたとしか考えられなかった。だがその謎は未だ解明されておらず、現代人は何も知らないまま大量の理不尽な血が流れた大地で息づいているということになる。稀に、竜の起こした戦争の悲劇を口にする者もいるが、なんの確証もない今では誰も簡単に信じられるものではなかった。それが現実だった。
「私たちアンティークの血族はサンデリオルの力を受け継いだ民族の末裔なのです。その古文書には『竜の眠りを妨げること勿れ。さすれば栄光と繁栄を約束する』と記されていました。カストラが長年に渡り、豊かでいられるのは竜の力の加護があるからなのです」
 エスは眉を寄せて話を聞いていたが、どうしても作り話にしか思えなかった。あまりにも突然で、あまりにも壮絶な歴史の真実を、歩きながら聞かされても、そうすぐには受け入れることができなかったのだ。
「嘘臭い」
 エスが水を差す。それに反して、ブラッドは興味津々だった。
「その話が本当なら、凄いな。でも、竜の眠りを妨げたらカストラは滅んでしまうんじゃないのか」
「ええ。その可能性はあります」
 あっさりと答えるシェルに、ブラッドは戸惑った。
「ま、まずくないか? 自分の国が滅んでも、それでも平気なのか?」
「いいんです。もうこんな古い伝説に縛られたくないんです」
 ブラッドは真剣な彼女の言葉に態度を改める。エスも隣で耳を傾けていた。
「私の母は十年ほど前に亡くなりました。病気だと聞きました。幼くして母を亡くした私は、ただ抗えない不幸に見舞われたのだと、悲しみを受け入れ、聞かされた現実を疑ったことなどありませんでした。この古文書を見つけるまでは……」
 シェルは込み上げる涙をぐっと堪えた。呼吸を整えながら、話を続ける。
「決して、王族以外が知ってはいけない事実でした。そして、なぜこの事実が歴史上から隠されてしまったのか、当然それには理由があったのです」
 シェルの口調が重くなった。そこには、穏やかな彼女のイメージからは想像しにくい「憎悪」のような禍々しいものさえ放たれていた。
「私たちアンティーク一族は、一度手に入れてしまった繁栄を失うことを異常に恐れていたのです。古文書には先祖が書き足した忌まわしいものがありました。それは、現状維持とさらなる栄光のために……三十年に一度、竜に生贄を捧げると言うものでした」
「まさか……」ブラッドは息を飲んだ。「あんたの母親は……」
「そうです。生贄として、竜に捧げられていたのです」シェルは胸に拳を握った。「国の繁栄のために人が殺されるなんて、許されることではありません。だから私は決心しました。竜の鱗を使って、母を生き返らせようと。もちろん、母が恋しく、これでは余りにも母が哀れで、助けたいという気持ちもあります。でもそれだけではありません。もし竜が生贄である母を取り返されて、力を剥奪するような邪悪なものならば、そんな力はなくなるべきです。それで国が滅ぶのなら、カストラはそういう運命だったのです。私はこの馬鹿げた伝説を終わらせたい……誰かが止めなければいけません。そのためなら、私は命を惜しみません」
 一同はしばらく言葉を失った。エスも眉を寄せ、神妙な顔をしている。
 ブラッドは何かを考えていたようだが、思い出したようにあっと声を出した。
「……ルークス」そう呟いて。「エス、ルークスって男の話、知ってるか?」
「五年前に死んだデスナイトのナンバーワンだった男でしょ。それが何」
「ルークスの死因は謎だと言われているが、俺、聞いたことがあるんだ。ルークスは竜の谷に行ったんだって」
「竜の、谷?」
「内容も依頼主も分からないが、その仕事の成功と引き換えに命を落としたって。カストラと無関係ってことは、ルークスが行った竜の谷って、ロースノリアのことじゃないのか」
「噂じゃない。それに」エスはまだ半信半疑だった。「今はルークスもロースノリアも関係ないでしょ」
「でもルークスはデスナイトでは伝説の男だと、天才の冒険屋だと言われているんだ。うまくいけば俺は後に継げる」
 一同に注目される中、ブラッドは興奮し出す。
「これが成功したら凄いぞ。俺は大金持ちになって、最高の冒険屋になれる。そしたら、誰からも羨望の眼差しで見られ、ちやほやされる人生が始まるんだ」
 両手を広げて一人で盛り上がっているブラッドを、エスは冷たい目で一瞥した。ブラッドはそんな彼女に顔を寄せる。
「そしたら、お前は晴れて俺の女になる」
 エスはあからさまに嫌な顔を見せ付ける。すぐに目を逸らして。
「そういうことは成功してから言いなさい」
 ブラッドはエスから体を離して、足を速める。
「よーし。がぜんやる気が出てきた。頑張るぞ」
「……天才冒険屋が命を落としてるってのに……どうしてあんなに元気なのかしら」
 一同は、単純な理由で浮かれるブラッドに冷たい目線を送った。今までの重い話も、大きな歴史の事実のすべても、彼にとってはさほど重要ではないらしい。そんな楽天的な彼の背後ではそれぞれが複雑な顔をして、足取りも重かった。
「ねえ、シェル」エスがブラッドを他所に。「一国の姫が何日も城を開けて大丈夫なの?」
「はい……遠い国の叔母のところにいくと伝えてあります。でも、いつまでもそんな嘘は通用しないでしょう。もし私がサンデリオルの山へ向かったと知れてしまったら大騒ぎになってしまうかと」
「つまり、あんまり時間はないってことね」
「申し訳ありません……」
「それと、ランから話は聞いてると思うけど、依頼者が同行するのはかなり特殊な仕事になるのよ。任務だけじゃなく、依頼者の保護っていう面倒臭いオプションがつくんだから。結果、例え伝説がガセでも、竜がいたとして国が滅んでもそれはあたしの責任じゃないからね。あんたが路頭に迷おうが、関係ない。報酬はきちんと払ってもらいますからね」
「は、はい。心得ております」
 自分をおいて話を進めているエスに気づき、ブラッドが振り向く。
「エス、依頼者を脅すな」
「あたしは当然のことを教えてるだけよ。あんただって報酬がもらえなきゃ困るでしょ」
「そりゃそうだけど……」
「伝説だろうが何だろうが、仕事は仕事よ。真面目にやってよね」
 エスはそう言って、ブラッドと入れ替わるように大股で一行の先頭に立った。ココナが小走りで後に続き、彼女の裾を掴みながら。
「ねえ、エス。ロースノリアの力はどこにあるのかな」
「さあ。カストラに並ぶ先進国って言えば、ダルトールとかエンバイスだから、その辺りじゃないの」
「ロースノリアは富の力なんでしょ。ってことは一番お金持ちの国じゃないかな」
「興味ない」
 エスとココナから少し遅れて、ブラッドとシェルが着いてくる。未だに不安そうなシェルにブラッドが優しく声をかける。
「エスのことは気にしないでいいよ。気は強いけど、あれで結構いい奴だから」
 シェルはブラッドをちらりと上目で見て、目が合うとすぐに逸らしてしまった。
「……はい」俯いたまま、微笑んで。「ラン様から伺っております」
「ランはあんたに相当入れ込んでるみたいだな。やっぱりあいつも美人には弱いのかな」
 シェルは照れて顔を赤くする。
「そんな、美人だなんて……」
「エスの不機嫌な理由はそこにあるのかもしれないな」
 ブラッドは何やら思案するシェルに気づかないまま。
「あいつ、自信家だから、きっと姫のことをライバル視してるんだ。自分以外の美人が気に入らないんだよ」
 シェルの気を解すための軽い冗談だったのだが、エスの地獄耳はそれを聞き逃さなかった。鬼のような顔をしたエスの、強烈な回し蹴りがブラッドの後頭部に炸裂した。

*****


 深夜、ロードは閉店し、片付けが終わった店内でランが静かに一人飲みをしていた。看板を下ろし、カウンター以外は消灯してしまっている。ランは明かりから離れた客席に腰を下ろしていた。
 ロードの閉店時間は特に決まっていない。今日は少し遅い方だ。ランの古い友人である数人の獣族に捕まり、騒ぎに付き合わされたのだ。盛り上がってくれるのは構わないが、ここではマナーの悪い客は追い出すことに決まっている。いつまでも帰ろうとせず、収拾のつかなくなった獣人たちは、ランを始め、彼に従う仲間たちに無情に追い出されてしまった。
 それを手伝った一人が戻ってくる。後ろ手で戸を閉め、静かにランの前に座った。
「もう片付けは終わったのか」
 その者の声は低く、落ち着いていた。店内は暗くて顔は見えないが、シルエットは人間のものだった。ランは「彼」にビールを出しながら答える。
「従業員もとっくに帰ったよ」
「お前も薄情な奴だな。あの客、友達じゃなかったのか」
「それを嬉々としてつまみ出したのはお前だろう。一体どこのゴミ置き場まで捨ててきた?」
「お前が困っていたから、手を貸しただけだ」念のために。「ああ、安心しろ。『サービス』まではしてない」
 ランは「当たり前だ」とでも言いたげだった。「サービス」とは、専門用語で「任務外の殺し」のことだった。
「……そうだな。カイル。友達ってのは、お前みたいなのを言うんだ」
 カイルと呼ばれた者はグラスを手にして、ふっと笑った。ビールを口に運びながら。
「お前は人を選び過ぎじゃないのか」
「過ぎるくらいでちょうどいい」ランは手酌をしながら。「来るものを全部受け入れてたら身が持たない」
「その割りに、今回はやけに気の利いた仕事をしたじゃないか」
 ランは手を止めてカイルを見つめた。目が合ってもカイルの表情は変わらない。ランはふっと目を逸らす。
「サンデリオルのことか。そうだな、情が入ったのは否定しないよ」
「別に責めてるつもりはない。竜の話を聞けば、その胸中も穏やかではなかっただろう」
「…………」
「それは、俺も同じだ。よく分かるよ」
「カイル。俺はお前を巻き込んでしまったことを……」
 ランは片手で顔を覆った。カイルはその言葉を遮る。
「巻き込まれた覚えはない」
 ランは言葉を失った。数分、二人は黙ってビールを飲んでいた。グラスを明けて、再びカイルが口を開く。
「ブラッドは相変わらずか」
「ああ。今回は美女が二人で機嫌がよかった」
「だろうな」カイルも冷たく微笑む。「もう一人『美女』が増えれば、体が持たないほど喜ぶかもな」
「美女ね……」ランは何かを含んで。「美女にもいろいろいるもんだな」
「今更、感心することか。嫌というほど知ってるくせに」
「お前と一緒にするな」
 カイルはふふ、と不適に笑ってみせた。目だけ動かして、窓を眺めながら、カイルは席を立った。
「仕事だ。そろそろ行くよ。お前は少し休んだ方がいい」
 ランは顔を上げない。そんな彼を見ながら、カイルが皮肉な笑みを浮かべる。
「お前がそんなにナーバスになってるのも久しぶりに見たな。そろそろ手酌は終わりにしたらどうだ?」
「フン……余計な世話だ」カイルを睨み。「そもそも、お前が俺の周りをうろちょろしてる限り、上手くいくものもいかないんだよ」
「よく言う」肩を竦め。「贅沢なだけだろ」
 カイルはテーブルに適当に金を置いてドアに向かった。ランはそれを見送りながら。
「カイル」
 呟くと、カイルは足を止める。
「行くな」
 カイルはその言葉に、まるで機械のように反応する。表情を消して振り向く。
「それは、命令か?」
 ランは鋭い目をカイルに向けた。カイルも冷たく深い目線を返す。
「そうなら、俺はお前の言葉に従う」
 今までそうしてきた。カイルは彼の答えを待った。ランは少し考えた。命令だと言えればどんなに楽だろう。だが今は、自分にその資格はない。ランは目を伏せる。
「……いや、忠告だ。嫌な予感がする。お前は関わらない方がいいかもしれない」
 ランは、それでもカイルが踏み止まらないことを知っていた。だが力ずくで止めることもできない。もう後戻りはできないのだ。これは始まりではなく、一つの終焉を迎えようとしているのかもしれない。これが運命なら、避けられない道だった。今更迷うことはなかった。
「心しておくよ」
 カイルは肩越しに微笑み。
「じゃあな。帰ったら、また飲もう」
 ランに背中を向けて、扉の向こうに続く道に従った。
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