第3章 マザーの女たち
 夜も更けた頃、一行はアナスタの町についた。アナスタは大きな町だが、人口はあまり多くない。ヴァレルほどではないがここも少々ガラが悪い。周囲は荒野に囲まれ、近くに栄えた町もない。ここは宿屋を始め、武器屋や紹介屋ばかりが並ぶ、冒険屋や旅人がよく利用する町だった。
 エスたちは取りあえず、町で一番大きな宿屋に入り、二つの部屋を取った。女性三人がくつろげる大きめの部屋と、ブラッドが寝るだけのための小さな部屋だった。
 宿屋のカウンターでブラッドがエスに物申していた。
「なんで俺だけそんな狭い部屋なんだよ」
「寝るだけなんだからいいでしょ」
「一人じゃ寂しい」
「バカじゃないの」
「四人部屋を取ろう。二人部屋でもいい」
「夜這う度胸もない奴が、ゴチャゴチャうるさい」
 そこでブラッドは黙らされた。会話を聞きながら笑いを堪える宿屋の主人を睨んで、大人しく指定の部屋に引っ込んでいく。
 エスもブラッドのそれとは逆の方向にある部屋に向かおうとシェルとココナに声をかける、かけようとする。だが、何かに気づいて動きを止める。三人に背を向けてつまらなそうに廊下の奥に消えていくブラッドの背中を、シェルがいつまでも見送っていたのだ。気にしなければ気にならない行動なのだが、気にしてしまうと彼女の浮かべる表情の意味を探ってしまう。
 ブラッドを見つめるシェルの瞳に篭るものは、まるで愛しい何かとの、しばしの別れを惜しんでいるように見えた。エスはその光景に異常さを感じ、言葉を失ってしまった。そんな二人をココナは交互に眺めた。ココナは「そういうこと」には妙に勘が鋭い。二人の間に流れるおかしな空気を素早く読み取り、意地悪く微笑んだ。
「あれ?」意味ありげに。「二人ともどうしちゃったのかなぁ」
 ココナの声にエスとシェルは同時に我に返った。シェルは慌てて二人に向き直り、エスは彼女と目が合わないように顔を逸らす。
「……ああ」エスは口を尖らせて。「や、山に入ったらお風呂に入れないだろうし、今のうちに寛いどかないと、ね」
 繕ったような台詞をぎこちなく吐きながら室に向かって歩きだした。ココナは笑顔のまま、シェルは俯いてその後に続いた。


 女性陣は広い部屋でそれぞれに身繕いした後、電気を消して早目に就寝した。三つ並んだベッドにはシェルを真ん中に、エスは窓際で彼女に背を向けて布団に潜っていた。シェルは寝付けない様子でエスの背中に話しかける。
「あの……」
 エスは見向きもせずに、ぶっきらぼうに答える。
「なに」
「……あなたとブラッドは、どのようなご関係で?」
 エスはその質問に過敏に反応するが、それを表に出さないように体を固める。竜や仕事のことでも、エスのことでもなく、いきなりブラッドの質問かとシェルに嫌悪を抱く。だがなぜか反撃することを無意識に自粛し、簡単に答えた。
「商売敵よ」
「お付き合いは、どのくらいなのですか」
「何が言いたいのよ」
「いえ、仲がよろしいようなので……」
 そこで、ココナが布団から顔を出す。
「ブラッドはエスが好きなのよ」
「やっぱり」シェルはココナに体を向け直す。「そうではないかと思っていました」
「一目ぼれだって言ってたよ。仕事ではライバルだけど、ブラッドはエスが大好きなんだって」
 悪気はないが、ココナはシェルの心理や表情を探った。だが、シェルは不快な目つき一つせずに興味津々に問いかけてくる。
「では、エスは彼をどう思っていらっしゃるんですか」
 それはココナが予想していた態度ではなかった。少し違和感を抱きながら返答する。
「うーん、今のとこ微妙。エスは他にも気になる人がいるみたいだし」
 本人の前で堂々と話題にされ、堪らずにエスは体を起こす。
「もう。うるさいわよ。早く寝なさい」
 エスは再び布団に潜り込んだ。ココナは構わずに話を続ける。
「シェルは、ブラッドが気になるの?」
 ココナの幼い外見からは驚かされる鋭い指摘だった。そこで、シェルは初めて焦りを見せた。
「そ、そんなことは……」言葉を濁し。「ご、誤解を与えてしまったようですね。軽率でした」
 シェルは真っ赤になった顔を隠すように布団を被る。そこで会話は途切れた。
 静かな夜だった。エスはカーテンの隙間から覗く、鋭い三日月を見つめながら眉を寄せていた。


 同じ頃、狭く殺風景な室の簡易ベッドに腰掛けて、ブラッドも同じ三日月を眺めていた。消灯した暗い室内で、無意識に愛銃をいじくっている。物思いに耽っているときの彼の癖だった。


 夜が明けて、朝も早いうちに一同は宿屋のロビーに集合していた。エスとブラッドとココナが今日の計画を簡単に確認しながら宿屋を発つ。外の空気は少し冷たい。人も少なく、静かだった。車屋へ向かう一同はまだ眠気から解放されず、会話は少なかった。ブラッドが大きなあくびをすると、隣からシェルが小声で囁いてくる。
「あの」
 先頭にいたエスが、振り向かないでぴくりと耳だけを傾けた。ココナは遠慮なくシェルを見上げ、ブラッドは大きく開けた口を押さえながらシェルに目を移す。
「昨日は、よく休まれましたでしょうか」
「……え、ああ」
 ブラッドは深く考えずに返事をする。
「お一人で寂しくなかったでしょうか」
「…………?」
 シェルが優しい女性であることはこの短い時間でも十分伝わっている。そんな彼女の心遣いだろうと、ブラッドは思う、思おうとする。が、なんだろう。シェルの自分を見る目が、彼的にあまり見慣れないものだったために、違和感を覚えてしまった。見慣れないもの──それは、美しい女性からの好意的な熱い視線。慣れないとはいえ、ブラッドは僅かに胸が脈打ったことを否めなかった。もしかして、これは、と彼の口元が緩みそうになった途端、エスが素早く振り向いた。
「悪いけど」なぜかブラッドを睨み付ける。「あたし、寝起きがすっごく悪いの。お願いだから後ろでコソコソ喋らないでくれる? イライラするのよね」
 凄みのあるエスの表情にブラッドは顔を引いた。シェルも隣で口を噤む。車屋に着くまで、一同は黙々と歩き続けた。


 エスとブラッドはここでも口論となる。それでも、先ほどまでの険悪な雰囲気は時間とともに解消されていた。
「こんなボロ、嫌よ」
「別にいいだろ。往復分もてばいいんだから」
「金はお姫さまがいくらでも出してくれるんでしょ。なんでわざわざ乗り心地の悪い車で我慢しなくちゃいけないのよ」
「贅沢言うな。見た目より機能重視だろ」
 あれがいい、これがいいとなかなか話はまとまらない。そこに車屋の店長が声をかけてくる。
「あんたら、商品を物色する前に免許証を見せてくれるか」
「え? 何それ」
「車の免許に決まってんだろ」
「なんでそんなものがいるんだよ」
「こないだ監査が入っちまってな。しばらくは厳しくしなくちゃいけねえんだ。ま、免許くらい持ってるんだろ。見せてくれるだけでいい」
 二人は不満そうな顔をする。ブラッドが仕方なさそうに。
「エス、お前出せよ」
「は? あたし持ってない。あんたが出しなさいよ」
「何だよそれ。お前、運転できないのか」
「できるけど……無免許よ」
「……嘘だろ」ブラッドの額に汗が垂れた。「俺もだ」
「……じゃ、どうすんの」
 シェルが免許なんか持っているはずもない。ココナは対象外だ。また問題が発生する。
「悪いが」店長も困った様子で。「いくらお得意様でも今回は無免じゃ貸せない。紹介屋に行って運転手を雇うかどうにかするんだな」
「そんな……」
 ブラッドが深くため息をついた。隣でエスが呟く。
「ほんっと、使えない男」
「な、何だよ。お前だって……」
 落ち込む一同を他所に、横から一人の女性が店主に免許を突きつけてきた。
「車を貸してもらえるか」
 一同はその女性に注目する。確認して、エスが大きな声を上げた。
「カイル!」
 知り合いのようだ。ココナも続いて女性に駆け寄り、彼女の足にしがみつく。
「カイル。来てくれたんだ」
 カイルと呼ばれた女性は背が高く、エスとは対照的にシャープな印象を与える。体のラインを出さない黒いレザーのスウィングトップ、機能的なカーゴパンツにデルタブーツと色気の類は皆無だった。ブラッドと同じく腰の左右に剣とマシンガンを下げている。上着の中にもナイフやピストルを装備したその姿は、決してただの通りすがりではないと思わせる。整った綺麗な顔や、袖から覗く筋肉質の腕にはたくさんの傷跡があり、危険な雰囲気を醸し出している。無造作な黄色の短髪に深い紫の瞳。冷たさを感じさせる彼女は、美人だが、中性的と言うのだろうか。説明できない違和感があった。
「これはこれは」店主に笑顔が戻る。「エスのいるところにカイルあり、ってのは本当だな。いいぜ、好きな車を持っていきな」
「どうも」
 カイルは感情のない笑顔を返す。
 彼女もマザーの一員だった。エスとはかなり親しい。マザーの「処刑係」と言われる彼女は神出鬼没の、最も謎の多い女性だった。カイルの日常は当然、仕事の様子も知る者はほとんどいない。彼女の機嫌を損ねて、殺された同業者は数知れないと恐れられているほどだ。カイルが信頼する者はエスとランだけだった。ブラッドも知り合いではあるが、彼はあまりカイルをよく思っていなかった。
「カイル」と、エス。「どうしてここに?」
「ランから聞いたよ」カイルはココナの頭を撫でながら。「ブラッドに襲われてないかと心配でね」
 ブラッドが嫌な顔をする。彼女の皮肉も腹立たしいが、カイルには妙に協力的なランの態度も気に入らない。それを分かっているかのように、カイルは切れ長の目を更に細める。
「なんてね。仕事だよ」
「へえ。珍しいわね」
「じゃあ、カイルは一緒にいけないの?」
「いや。仕事は別だが、方向は一緒だ」
「どういうことだよ」ブラッドが声を上げる。「何でお前が俺たちの行く方向を知ってる」
「ランに聞いた、と言っただろう」
「な、何だよそれ。紹介屋が部外者に依頼内容を喋っただと? そんなことがあるか」
「知らないのか? 俺とランはデキてるんだ」
「はあ?」
「と言うのは冗談で……」
 むきになるブラッドに向けて、カイルは片手の人差し指と親指をつないでマルを作って見せた。そのサインは「金」を意味する。
「え、か……」ブラッドの怒りが増し。「ランを買収したってのか。そんなことあり得ねえ」
「信じる、信じないは勝手だ。事実は俺がここにいるってことだろ」
「じゃあ、何しにきたんだよ」
「仕事内容は他言無用。同じ方向だから乗せて行ってやると言ってるだけだ。嫌ならお前だけ別に行動すればいい」
「バカなことを。俺とエスが同じ仕事を受けてるんだ。お前は部外者のくせに、言ってることが無茶苦茶だろ」
「ちょっと、ブラッド」エスが割り込み。「さっきからうるさいわよ。カイルは信頼できる、あたしの仲間なの。免許も持たない奴が偉そうな口叩くんじゃないわよ」
 それを言われると二の句がつげない。エスの一言でブラッドは口を尖らせて拗ねてしまった。
「これでやっとまともに出発ができるわね」エスは機嫌がよくなる。「やっぱり持つべきものは有能な仲間だわ」
 ブラッドはとうとう背を向けて、完全にいじけてしまう。そんな彼を無視して、カイルはシェルに向き合い、まるで紳士のように少し腰を折り、右手を胸に当てた。
「姫。俺はカイルと言います。運転手として同行させて頂いても、構いませんかな?」
「は、はい……」シェルは戸惑って。「よろしくお願いします……」
 シェルも彼女に違和感を持っていた。何より「怖い」と言う印象を抱いていたのだ。だがここまできて、彼らのやり方に口出しはできない。ここから先はもっと怖いことが待っているはず。できるだけみんなの足を引っ張らないようにしなければと、シェルは自分の心に言い聞かせた。
 出発までそう時間はかからなかった。カイルが仕切れば何事もスムーズにいく。ブラッドだけはいちいち反抗しようとしてくるが、カイルの言葉に間違いはなく、結局同意するしかなかった。車は五人が十分座れる大き目の四駆を選んだ。新しくはないが、頑丈でどんな道も走ってくれる。冒険屋に一番人気のある車種だった。燃料の補充、バッテリーやタイヤのチェックもカイルが慣れた様子で完璧にこなしていく。
「カイルがいてくれると仕事が早くていいわ」
 すっかり上機嫌のエスの隣でブラッドがぼやく。
「俺だって、あれくらいできる」
「じゃあ手伝いなさいよ」
「あいつと共同作業なんてごめんだよ」
「同感だ」カイルがブラッドに。「運転はお前に任せる」
「なんだって? お前、運転手だろ」
「俺はお前に雇われたわけじゃない。文句ばかり言ってないで働け」
「そうよ」と、エス。「少しは役に立ちなさい」
「なんだよ、みんなして」
 ブラッドは虐められている気分になる。不満は残るが、運転席にはブラッドが乗ることになった。カイルが助手席、体の小さいエスとシェルとココナが後部座席に並ぶ。ブラッドは隣がエスかシェルじゃないと嫌だと主張したが、「遊びに行くんじゃない」と彼の希望は当然のように却下された。
 一行を乗せた車はアナスタを出て数時間ほど、問題なく走っていた。荒野を抜け、辺りは緑が増えてくる。
「このまま進めばオーラドールの森に入るな」
 ブラッドが運転しながら誰にともなく伝えた。
「また増えてるのかしら」エスが応える。「三ヶ月前にアスランが百匹ほど片付けたって言ってたけど」
「何の話でしょうか」
 シェルが不安そうに尋ねる。
「ゴブリンよ。オーラドールには奴らの巣があるの。繁殖力が凄くて、殺しても殺してもすぐ増える、害虫みたいな妖魔よ」
「人間が好物なんだ」ブラッドが続ける。「女は犯して、男は八つ裂き。最後に殺して生のまま骨まで食い尽くす」
 シェルの顔が青ざめた。
「お、脅かさないでください。そんな恐ろしいところ、迂回されるんですよね」
 エスは肩を竦め、からかうような口調になる。
「お姫さまがそう仰っておりますが、どうする?」
「サンデリオルまでは」ココナは笑顔だった。「オーラドールを突っ切るのが一番早いよ」
「時間は貴重よね」
「早い・強い・かっこいいが俺の仕事モットーだ」
「志が高いのはいいことね」
「理想じゃない。現実だ」
 能天気な雰囲気の中、シェルだけが目を泳がせていた。車は迷わず直進し、すぐに森は深くなった。迂回する気などまったくないようだ。シェルはシートに深く座り、背を縮める。何も出てきませんようにと、声に出さずに祈った。
 その祈りは神には届かない。ブラッドは急に車を止める。シェルの心臓が縮み上がる。
「ど、どうしたんですか」
 つい高い声を上げてしまうが、一同は冷静だった。ブラッドはサイドブレーキを引いた後、背中とシートの間に詰め込まれた剣を引き出す。肩越しにシェルに微笑み。
「仕事だ」
 周囲は禍々しい空気に包まれていた。嫌な匂いが漂う。シェルは心の中でまさか、まさかと繰り返していた。隣からココナが声をかける。
「シェル」やはり笑顔だ。「車から出ないでね。シェルはあたしが守ってあげるから」
 エスとブラッドが同じタイミングで車から降りる。ブラッドは乱暴にドアを閉めながら、全開の窓に肘をついているカイルを睨む。
「カイルはまたサボりか」
「ゴミ掃除は依頼されてない。手伝って欲しいなら金を出せ」
 ブラッドはふんと鼻を鳴らしながら、車の前方に出る。シェルは二人を見送って、ココナに体を寄せる。
「い、一体何が始まるのでしょう」
「ゴミ掃除だよ。大丈夫、すぐ終わるから」
 そうは言っても、シェルは気が気でない。
 そのとき、茂った木々の間に黒い塊が蠢いた。シェルは目を見開く。その視界に、見たことも想像したこともないものが映った。「化け物」がぞろぞろと姿を現す。背は低く、頭部と手足が異常に大きい。一糸纏わぬ体は剥き出しの牙まで真っ黒だった。耳は大きく尖り、頭には不揃いな角がいくつも生えている。それは醜く、卑しい姿だった。ゴブリンは獅子鼻をひくつかせながら一行に近づいてくる。
「これはまた」エスが見回しながら。「大量ね」
「七十、いや、八十以上はいるな」
「ついでに空腹のようだわ。この息の匂い、吐き気がするわね」
「この数じゃ食料も不足して当然だな」
「早く楽にしてあげましょ」
 そう言うと、エスは両手を顔の高さに上げる。風もないのに彼女の髪が揺れた。いや、風は起きたのだ。エスの足元で小さな竜巻が円を描いていた。次に円の中から白い光が溢れる。
「エス。お前……何を」
 ブラッドは剣を構えながらエスの「魔法」に目を奪われる。エスの光る足元から何かが迫り出してきた。剣の柄だ。エスは片膝を付き、柄を掴む。彼女の小さな手には余る長さだった。
 危険を察知し、最後まで待たずに、数匹のゴブリンが雄叫びを上げながらエスに飛び掛ってきた。
「エス!」
 慌ててブラッドが剣を振り上げるが、突然巻き起こる衝撃の風に顔を伏せてしまう。すぐに体勢を整えると、周囲にはゴブリンたちの千切れた肉が、黒い血を流して散らばっていた。悪臭がさらに増している。
 心配無用だった。エスは膝をついたまま、魔法で召還した剣を片手に不適な笑みを浮かべている。巨大な剣だった。エスの身長を悠に超えている。彼女の小柄な体にはあまりにもアンバランスな剣だった。それを細い腕で軽々と構える姿もまた、異様だと言っていいほど奇妙に感じた。ゴブリンなど敵ではなかった。エスの一薙ぎで簡単に蹴散らされてしまう。
 言葉を失うブラッドを置いて、エスは剣で弧を描きながら敵の群れに飛び込んでいく。
「ブラッド。何匹殺ったか、競争よ」
 ゴブリンが吠えながら襲い掛かってくる。ブラッドは我に返り、エスに続いた。彼も負けてはいられない。まずはゴミ掃除を済ませてしまおう、と惜しみなく剣を振るった。
 エスは巨大な剣をうまく操り、木々の間を器用に駆け回る。剣捌きは見事なものだった。ブラッドの剣の腕も相当のものだったが、そんな彼に引けを取っていない彼女の剣術に驚かされる。それだけではなかった。この狭い森をうまく利用した身のこなしは軽く、俊敏で女性のしなやかさや小柄な体を最大限に活かしている戦い方も特殊だった。体のウエイトやサイズをいつも気にして筋肉がつくのを嫌がっている彼女が、男にも匹敵する実績を持っている理由が、今なら分かる。それにしても、速く、鋭い。誰もがそう簡単に身につけられる動きではない。まるで──そう、野生の獣が狩りをするときの生まれ持った能力のようだと思う。ゴブリンたちは健闘空しく、二人の剣に肉塊に変えられていく。
 誰が見ても圧倒的有利な状況の中、シェルだけが車内で震えていた。小さなココナの腕に縋り付きながらも、目の前の悍しい光景から目を離せないでいる。助手席ではカイルが黙って戦闘の様子を眺めていた。
 そのとき、車が大きく揺れた。シェルは思わず甲高い悲鳴を上げる。一匹のゴブリンが木の上から車の屋根に飛び降りてきたのだ。だが、悲鳴を上げたのはシェルだけではなかった。屋根の上のゴブリンは体を仰け反らせ、断末魔の声を轟かせる。その体から煙が立ち上がった。ゴブリンの全身が炎に包まれ、焼き尽くされたのだ。墨になったゴブリンは崩れ落ち、地面に叩きつけられる。その恐ろしい死体が窓のすぐ横を通過し、シェルは再び泣き叫ぶ。ココナは怯える彼女にこりと笑顔を向け。
「大丈夫だってば。あたしが車に結界を張ってるの。ゴブリン程度の妖魔なら、中には入ってこれないよ」
 シェルは涙目で、必死で自分を落ち着かせようとした。守護の魔法とか結界と言われても、彼女には分からない。だが、こんな小さな子が平気でいるのに、情けないと思う。それでも、怖がるなと言っても無理な注文だった。この人たちを信じる。それが今の彼女にできる精一杯だった。
「……四十五、四十六……」
 エスが殺した数を声に出してブラッドを挑発していた。ブラッドもなんとなく釣られて、心の中で数を数えていた。彼のカウントは四十八。残りあと数匹になったところで、エスが最後の一匹に止めを刺す。
「五十一! これで最後」
 と、呼吸を整えようとしたとき、ブラッドが大声を出す。
「エス、右!」
 死体の陰に隠れて死んだ振りをしていたゴブリンが、油断したエスに襲い掛かってくる。剣を持つ手に力を入れるが、まずい、と思う。間に合わないと瞬時に判断した。だが悲鳴を上げたのは、やはりゴブリンだった。額の真ん中から黒い血を流しながらエスの足元に転がる。エスは木々の間から車の方に顔を向ける。そこには、助手席から銃を構えたカイルが見えた。
「あと一匹だ」カイルは銃を納めながら。「エスは詰めが甘い」
 結局最後を締めたのはカイルの銃だった。エスは援護してくれたカイルに笑顔で駆け寄った。
「カイル。ありがとう。助かったわ」
 戦闘が終わってもブラッドは気分がいまいちすっきりしない。最後にカイルに撃ち殺されたゴブリンを、離れたところから眺める。ゴブリンは目と目の間を綺麗に撃ち抜かれていた。カイルの乗っている車からここまで二十メートル以上はある。この距離から森の中の状況を冷静に、完璧に判断する洞察力は並ではない。その上、木々の間から標的を一発で仕留めるその腕は、偶然でないのなら神業に等しいと思える。エスの剣術にも驚かされるが、それ以上にカイルの計り知れない力に恐怖を覚える。
「カイルって、ほんとかっこいい」
 思案していたブラッドの耳に浮かれたエスの声が届いた。顔を上げて、声の聞こえた方に目を向けると、車のドア越しにカイルに抱きついて甘えているエスの姿があった。途端にブラッドが面白くなさそうな顔をする。
「ねえ、カイル。どこまで一緒にいれるの? カイルがいないと不安だわ」
 エスの無神経な言葉にも腹が立つ。俺がいるのに、と眉を寄せる。見ていると、カイルが何かエスに答えているようだが、彼女の声は低くてブラッドまで届かない。ブラッドが、どうせまた俺の悪口だと察しながら、車に向かって歩き出す、出そうとする。足が止まった。
 優しくエスの頭を抱きながら、カイルがブラッドに微笑んでいた。
(……なんだよ、あれ)
 ブラッドはその笑顔に胸焼けがした。まるで勝ち誇ったような、見下した目。カイルはブラッドの嫌悪の眼差しを確認して、目を伏せてエスの額に軽く唇を当てた。
(カイルの奴、何考えてんだ)
 殴ってやりたい衝動を抑えて、ブラッドは大股で歩き出した。
 エスとカイルの様子を眺めていたシェルも、異常なまでに仲睦まじい二人に驚いていた。先ほどまでの恐怖は消え去っている。ココナが小声で囁いてくる。
「あの二人、まるで恋人みたいだよね」
 シェルが戸惑い、必要以上に小声になる。
「ええ、でも……」
 それ以上は言わなかった。ここはシェルの知らない世界だ。自分の中の常識を押し出す勇気は出なかった。
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