第6章 少女と蛇
 次の朝、テントを畳んで、出発の準備を済ませた一同は車の前に集まっていた。エスとブラッドは浮かない顔をし、カイルの姿がなかった。
 シェルは質問を控え、二人の話を待つ。エスが口を開いた。
「カイルは、味方じゃなくなったわ」
 シェルは驚くが、声は出さない。ココナは悲しい顔になる。
「でもシェルとココナには危害は与えないはず。まあ、内輪もめって言うのかな……シェルには迷惑かけるかもしれない。ごめんなさい」
 シェルは今までにない素直なエスの態度に戸惑った。
「そ、そんな。謝ることなど……」
 だが理由は聞かせてもらえない。聞きたかった。
「元々カイルは別の仕事でここまで一緒に来ただけだった。彼は彼で自分の任務に戻っただけ。あたしたちの仕事は今まで通り進めるわ」
「はい」
 素直に返事をするシェルだったが、どうしても気になることがあった。あまり深く考えずにエスに問いかける。
「あの……どうしてカイルのことを『彼』と?」
 エスは「しまった」と言う顔を向けた。隠す必要はないが、説明しなければいけない理由もなかった。シェルには関係のないことなのだ。
「ノリよ」エスは誤魔化すことにする。「カイルって、男っぽいじゃない。だからたまに彼って言ってしまうのよ。それだけ」
 エスはそう言って車に向かい、ブラッドとココナも後に続いた。シェルは納得していなかった。探りたいわけではない。部外者として扱われることに不満を持ち始めていたのだ。だが、やはりそれ以上は深入りできなかった。
 今日の運転はブラッドだった。隣にエス、後ろにシェルとココナが座る。ブラッドはまだ体調が優れなかった。顔の腫れもまだ引いてない。むしろ増えている。
「サンデリオルまで四時間ほどで着くわ」と、ココナ。「山の内部はどうなってるか分からない。もしかしたら徒歩になるかもね」
 言い終わらない内に出発する。


 ほぼ予定通りの時間に山の麓に着く。辺りは木々や雑草が生い茂り、道と言えるものは見当たらない。これ以上車で進むのは無理だった。やはり歩いていくしかないようだ。それも当然だった。サンデリオルの山は誰も近寄らない。竜だけでなく、恐ろしい妖魔が棲んでいると噂もある。見上げると、高く急な斜面が続いている。一同は車から降りた。
「シェル」エスが周囲を眺めながら。「本当に着いてくるの? あんたには無理なんじゃないの」
「そんな……」
「意地悪で言ってんじゃないのよ。竜だけで危険なのに、こんな山道……竜の鱗ならあたしたちが取ってくるから、ここで待ってた方が無難じゃないの?」
「いえ。それではダメなんです。鱗を手に入れ、目を覚ました竜にお願いをしなければいけないのです。足手纏いなのは分かっています。でも、どうか私を竜のところへ連れていってください」
「……目を覚ました竜、ね」エスはため息をつく。「生きて帰れる自信がなくなってきたわ」
「ごめんなさい……」
「もう。いちいち謝らなくていいの。分かったわよ。さっさと行きましょ」
 エスは大股で歩き出す。残された三人はそれぞれに顔を見合わせて、遅れないようにエスに続いた。


 一時間ほど草木を掻き分けながら山道を登ったところでシェルが膝をついた。一同は足を止める。シェルは顔を歪めていた。
「……ご、ごめんなさい。ちょっと、足が……」
 ココナが駆け寄り。
「どうしたの? 足、見せて」
 シェルはエスに選んでもらった編み上げのブーツを、不器用に紐を解いて脱いで見せた。白くひ弱そうな足はあちこちが擦り切れ、血に塗れていた。
「酷いな」ブラッドがココナの背後から。「今まで我慢してたのか」
 ココナが彼女の痛々しい足に優しく触れた。
「じっとしてて。治してあげる」
 ココナの手元が白く光る。するとゆっくりと痛みが引き、傷が癒えていく。ブラッドは感心して眺める。
「へえ、ほんとにココナは便利だな」
 この様子なら大丈夫だそうだと判断し、ブラッドはまた不謹慎な発言をする。
「それにしても」ニヤニヤして。「こんなに柔らかそうで上品な足、初めて見た」
 隣で素早くエスが睨みつける。
「何よ、あたしだって……」
「何?」
「……なんでもない」
 そんなことを言っている内に、シェルの傷が塞がっていく。
「もう大丈夫だよ」
 シェルの顔に笑顔が灯る。
「ありがとう、ココナ」
「靴に衝撃を抑える魔法もかけとくね。今までよりは楽になるはずだよ。でも、また痛くなったらすぐに言ってね」
「はい。ご面倒をおかけします」
 エスは改めて靴を履き直し、一同は再び進んだ。
 更に数時間が経ち、山の中腹辺りで一度休憩を取ることにした。木々は深くなり、嫌な空気が流れている。ブラッドは胸騒ぎがしていた。
「上に行けば行くほど妖気が増してるな。サンデリオルには竜の妖気に便乗して棲み付いてる妖魔がいるって聞いたことがある」
 エスもブラッドと同じものを感じていた。
「妖魔と言っても、人に危害を加えない奴だったらいいんだけどね」
「それは期待しない方がいい」
 その時、一同の視界が翳った。頭上に何か大きなものが被さり、光を遮られた。顔を上げるより早く、大地が激しく揺れた。目の前が真っ暗になる。違う。黒く巨大な物体が突然、空から降ってきたのだ。
 衝撃で体勢を崩し、地に伏せるシェルがそれを見上げて真っ青になっている。エスとブラッドは既に臨戦態勢を取っていた。
「噂をすれば……だな」
 ブラッドは剣を構えながら舌打ちする。エスの足元がふわりと光り、素早く愛剣を召還し、構えた。ココナは急いでシェルに駆け寄る。
 耳を劈く雄叫びが轟いた。その声は低く太く、それだけで体をバラバラに引き千切られてしまいそうだった。視界に収まりきらない巨体は、いるだけで周囲の木々を根元から倒している。ピンと尖った耳、丸めた背中、二つに別れた長い尻尾は毒々しいほど深い漆黒だった。耳の下に光る、真っ赤な二つの目は、獲物を捕らえて離さない。
 敵の全貌は、いつもは気まぐれに人に甘えてくる猫と同じ姿だった。だがそれは可愛らしさとは無縁の生き物だった。
「ジャシラか」エスが剣を握り、呟く。「黒猫なんて、縁起が悪いわね」
 黒猫ジャシラは背を伸ばし、再び嘶きながら空を仰いだ。裂けた口の中には、すべてを噛み砕く鋭い牙が並んでいる。エスとブラッドはそれを戦闘開始の合図に、同時に飛び上がった。
「シェル」ココナがシェルの腕を引く。「こっち」
 シェルは体が恐怖で固まって動けない。ココナは必死で彼女を引きずった。
「シェル、シェル……しっかりしてよ」
 ココナが必死で声をかけるが、シェルは震え上がり、声も出ない。涙が溢れ出す。ココナはとにかくその場に結界を張る。二人の足元に白い魔法陣が浮かび上がった。ココナはシェルにしがみつく。
「シェル。聞こえる? この円の中から出ちゃだめだよ」
 シェルの耳に声は届いているが、内容は消化できていなかった。シェルはココナに抱きつく。ココナは状況を冷静に判断し、眉を寄せた。結界を張ったとはいえ、この程度のものでは直接狙われたら塞ぎきれない。エスとブラッドが無事にジャシラを倒し、こっちに被害がこないことを祈りながら戦闘を見守った。
 エスの剣が光り、魔力が灯る。ジャシラの顔面で振り下ろすと耳が削げ落ちた。ジャシラは黒い血を流し、耳障りな声を上げる。ブラッドは剣と銃を両手にジャシラの足元に潜り込み、腹に弾丸をぶち込んだ。素早く傷口に剣を刺し、硬い肉を抉る。ジャシラは前足を折り、体が傾く。ブラッドはすぐに剣を引き抜き、覆い被さってくる巨体から抜け出そうとするが、足が取られてしまう。
「……しまった」
 ジャシラは前足を振り上げ、倒れたブラッドを弾き飛ばす。ブラッドは数メートル飛ばされ、離れた大木に背中を強く叩きつけられた。同時に血を吐く。
「ブラッド!」
 エスはジャシラの背中に飛び乗り、首筋に剣を突き立てる。ジャシラはエスを振り落とそうと体を捻るが、エスは瞬時に背中の毛を掴み、留まる。が、背後から長い尻尾に襲われる。エスの体に二本のそれが絡まり、動きを封じられてしまう。ジャシラは小さなネズミを捕らえたようにエスを地面に叩きつける。エスは全身を強打し、視界が揺れる。なんとかして抜け出さなければと考える間もなく、ジャシラは容赦なく尻尾を振り回した。エスを掴んだままの尻尾は、周囲の木々を薙ぎ倒していく。エスは薄れる意識の中、剣だけは離さなそうとしなかった。
「クソ……エスを離せ」
 ブラッドが銃を捨て、剣を両手で持ち直しながら駆け出す。ジャシラはブラッドに気づき、彼に向かってエスを投げつけた。
 ブラッドは足を止め、無防備に投げ出されるエスを受け止める。だがその衝撃は凄まじく、ブラッドは再び血を吐く。
「エス……ブラッド……」
 ココナは落ち着いて状況を判断していた。二人の不利に見えるが、まだ分からない。このレベルの妖魔となら戦ったことがある。だが、今まではエスの傍にはカイルがいた。彼女が必ずエスを守ってくれていた。それでも、と思う。今回はブラッドがいる。確かにカイルほど頼りにはならないが、まだどうなるか分からない。このコンビの力は未知数だ。ココナは二人を信じた。
 シェルは違った。怖い。怖くて冷静ではいられない。涙で顔を濡らし、震えが止まらない。エスとブラッドが殺される──そう思って疑わなかった。自分のせいだ。自分がこんな無茶な依頼をしたせいで、二人を死なせてしまう。そんなの、嫌だ。
 シェルは恐怖が限界に達し、自分でも理解できない行動を取ってしまう。ジャシラに向かって、夢中で駆け出していた。
「シェル!」
 ココナが大声をあげ、急いで彼女を止めに後を追う。
「だめ! シェル、行っちゃだめ」
 エスとブラッドも顔を上げる。シェルとココナが駆けてくる。
「バカ、来るな!」
 ブラッドが体の痛みを堪えて叫ぶが、シェルには届かない。エスは体を起こしながら舌打ちする。
「ココナ、止めて!」
 言われるまでもなく、ココナはシェルに飛びついて彼女を倒す。だが、もう遅かった。ジャシラの炎のように赤い目が二人を捕らえていたのだ。
 シェルはその目と合って、恐怖は極限に達した。見開いた目から滝のような涙が流れ出した。
(……殺される)ココナはそう思った。(シェルが死んだら、あたしのせいでエスの功績にバツがつく)
 目の前でジャシラが吠えた。振動で体が内側から震える。
(そんなの……やだ。そんなの、だめだよ)
 無意識にココナは前に出た。
(シェルはあたしが守らなきゃ)
 エスは得体の知れない自分に優しくしてくれた。仲間からの冷たい視線に心を刺されながら、認められたくて、居場所が欲しくて一生懸命いろんな人に尽くしてきた。誰も喜んでくれなかった。人を守るこの能力さえ、呪術だと毛嫌いされた。自分がなぜ生まれてきたのか、分からなかった。もう生きていたくない。そう思ったとき、エスが笑いかけてくれた。まるで小さな子供が可愛い人形を手に入れたかのように、嬉しそうな顔で自分を抱き上げてくれた。この特殊な能力を必要としてくれた。白い光を灯すたびに、何度も「ありがとう」と言ってくれた。その言葉が欲しくて、戦ってきた。
 そう、いつ死んでも、殺されても後悔しないように──。
(あたしはどうなってもいい。あたしはもう……十分生きた)
 ココナの体から黒い靄が立ち上がる。エスは何かに気づき、体の痛みを忘れて声を張り上げた。
「ココナ! ダメ!」
 ココナはジャシラに歩み寄る。その体は靄に包まれる。ココナの体の形が変わる。靄は膨れ上がるように巨大になっていく。ジャシラは再び危険を感じ、背を丸めて総毛立つ。形を変えるココナはジャシラの身長を越え、細長いものになっていった。靄は密度を増していき、はっきりと形を縁取っていく。
 ココナはシェルの目の前で恐ろしい姿を現した。それを見上げるシェルの涙は止まらない。
 ジャシラが唸りながら、ココナに牙を向ける。いや、もうそれはココナではなかった。少女の影も形もない、巨大で邪悪な醜い蛇だった。
「ココナ……なんで、なんでよ」
 エスは変わり果てた彼女を、震える目で見つめた。ブラッドはエスの傍で言葉を失っていた。
 巨大な蛇と猫が絡み合った。大地が揺れる。そこには知性も理性も何もなかった。野生の妖魔が本能で敵を捕らえ、野蛮な殺し合いを繰り広げているだけだった。ココナはジャシラの体に巻きつき、締め付けると傷口から血が溢れ出す。ジャシラは鋭い牙をココナの体に食い込ませる。二体の妖魔の黒い血が、どちらのものともつかないほど混ざり合う。力は互角だった。だがジャシラは先にエスとブラッドから傷を受けていた。ココナより早く弱り始める。ココナは止めを刺すように、ジャシラの背中を骨ごと食い千切った。ココナは口から血肉を滴らせ、長い首を擡げる。
 ジャシラが叫んだ。断末魔の悲鳴を上げながら黒い煙となり、空に昇っていく。ゆっくりとジャシラの姿が消えていった。
 ココナは勝利し、体をうねらせて奇妙な声を上げた。尻尾を振り上げて近くにあった岩を粉々に砕く。
「エス……」ブラッドの声は震えていた。「ココナ、どうなったんだよ」
 エスは答えない。ブラッドは苛立った。
「エス! 早くココナを元に戻してやらないと」
「……無理よ」
 エスは暴れるココナをじっと見つめている。
「あれがココナの本体。特殊な魔法で封印されていたの。解いたらもう、死ぬまで戻らない」
「な、なんだって……? じゃあ、どうするんだよ」
 エスは力なく立ち上がる。足元がふらつく。が、力を込め、剣を強く握る。エスの様子がおかしい。ブラッドは彼女の腕を引く。
「何をするつもりなんだ。答えろ」
 エスはブラッドの腕を振り払い、彼を睨みつける。
「ココナを殺す」
「な、なんだって」
「それがあの子の望みよ。このままだとあの子は邪悪な妖魔として、またたくさんの人間を殺すわ。マザーからも、あの子の封印が解けたときは殺すように指示されてる。あたしはそれを承諾してココナを引き取った。あの子も分かってて、すべてを覚悟の上で妖魔の力を使ったのよ。ココナの気持ちを裏切るわけにはいかない」
「でも……仲間だろ」
「そうよ。ココナはあたしの妹のような存在だった。だから、あたしが殺すの」
「……エス」
 エスは重い足を引きずった。ブラッドに向ける背中には、深く、重い悲しみが取り付いていた。ブラッドは唇を噛み締める。
 シェルは倒れたまま、大蛇を見つめ、何度も首を横に振っていた。その度に涙が散る。
「……ココナ」
 ココナに理性はなかった。暴れる大蛇の尻尾がシェルの目の前に叩き付けられ、シェルは体を大きく揺らす。震えで体のどこにも力が入らない。今のが当たっていたら、シェルは無残に潰されていただろう。それでも、シェルの脳裏には、無邪気に微笑むココナの姿が鮮明に描かれていた。
「ココナ!」エスが大きな声を上げる。「あたしはここよ。こっちへおいで」
 ココナはその声に反応する。一度体を高く伸ばし、エスを見下ろす。
「あんたはよくやったわ」エスは剣を掲げ。「もう休んでいいわよ……今まで、ありがとうね」
 エスの瞳が潤むが、ぐっと涙を堪えた。エスは一度深く閉じる。軽く息を吸うと、体中の震えが止まる。落ち着いて剣を握り直す。薄く開けた目には、凍てつくような鋭い光が灯っていた。ブラッドはそれに気づき、ぞっとする。エスに迷いはなかった。大蛇の命だけを狙っている。これが、エスの「殺し屋」としての顔だった。醸し出す殺気は静かだった。救うでも奪うでもなく、感情を切り離し、ただ「処分」することだけに精神を集中させていた。
 ココナはエスを敵と見做した。大きな口を開け、牙を剥き出してエスに襲い掛かる。
(……ごめんね)
 エスの剣とココナの牙が交わる寸前に、ブラッドが飛び出した。エスを突き飛ばし、牙を剣で弾き返す。エスはすぐに顔を上げて。
「ブラッド! 手出ししないで」
「いいよ」ブラッドは言葉少なく。「俺がやる」
 飛び上がり、ココナの頭に着地する。ココナは仰け反る。ブラッドはその動きに合わせて、もう一度宙に浮く。ココナはブラッドを視界に捕らえ、彼に巻き付こうと首を曲げた。大きな頭の影にブラッドの姿が隠れる。エスが大きく息を吸い込む。
 ブラッドはココナのうねりからうまく抜け出す。滑らかなココナの体から飛び離れ、引き抜いた剣には黒い血が滴っていた。大蛇の首筋を切り裂いたのだ。それだけではまだ倒れない。この程度では──エスがそう思ったと同時、大蛇の首筋が火を噴いて爆発した。
 ブラッドは爆風に襲われたが、今度はうまく着地する。エスがブラッドに駆け寄る。
 大蛇は首の肉を大きく失い、大きな頭を支えられなくなり、揺れながら崩れ落ちる。まだ生きているが、動かない。
 ブラッドは蛇の細い首を狙い、斬り裂いた傷口に深くに爆弾を押し込んだのだ。迷えば迷うほど苦しむ時間が長引く。殺すしかない、殺すと決めたからには容赦なく狙っていったほうがお互いのためである。この思想は暗殺術の一つだった。だが、情を切り離した後に押し寄せる後悔と罪悪感は並ではない。精神を鍛えていないと、きっと耐えられないだろう。できれば二度と使いたくないとブラッドは思った。
 エスは息を飲んで、ココナに近づいた。ブラッドも後に続く。
 エスは大蛇の千切れかけた頭の横に座り込んだ。じわりと大蛇の体から靄が立ち上がった。ブラッドはエスの隣に膝をつく。
 大蛇の全身が靄に包まれる。靄は小さく収縮し、少女を象る。ココナは首から肩にかけて肉が削げ落ちていた。体中傷だらけで、あまりにも哀れな姿に、エスはとうとう涙を流した。シェルも這うようにしてココナに駆け寄った。だが、彼女の惨い姿に目も合わせられなかった。
 まだ息のあるココナにブラッドが呟いた。
「……ごめんな」
 ココナは薄く目を開け、ゆっくりと一人ひとりの顔を見ていった。
「ブラッド」ココナは微笑んだ。「後は……よろしくね」
「…………」
「シェルは弱いけど、凄く優しいの。いつもありがとうってちゃんと言ってくれるんだよ。そして、エスは、強そうだけどとても寂しがり屋なの。本当は彼氏だって欲しがってるんだよ」
 エスはココナの手を握った。
「……何言ってんのよ」
「でも、カイルが邪魔してきたんだ。カイルはかっこいいけど、でも……間違ってる。そんな気がするの」
 こんなときまで人の心配をしなくてもいいと、エスは堪らずに遮った。
「ココナ、もういいよ」
 ココナはエスに微笑んだ後、俯くシェルに目を移した。
「シェル。怖い思いさせてごめんね。シェルを守るにはこうするしかなかったんだ」
 あまりにも優しすぎるその言葉に、シェルは咄嗟に顔を上げた。
「謝らなければいけないのは私です。私は怖がってばかりで……そのせいであなたをこんな目に合わせてしまうなんて」
「ううん。シェルはあたしを頼りにしてくれた。嬉しかった」
 シェルは何も言えなかった。涙を流しながら再び俯いた。
 ココナはエスの手を握り返す。
「エス、あんなにたくさんの人間を殺したあたしが……八年も人間として生きれた。いっぱいエスの役に立てた。あたしは凄く幸せだよ。生まれてきてよかったって、本当に思ってる。エスのお陰だよ。だから、泣かないで」
 エスは何も言わない。ココナは空を眺め。
「今度はちゃんとした人間に生まれ変わりたい。そしたら……また友達になってね」
 ココナは瞼を落とした。エスの手を握った指の力が抜ける。


 空は朱に染まっていた。もうすぐ夜が訪れる。
 一同は静かに地面に腰を下ろしていた。三人の前には土が盛り上げられ、そのてっぺんには十字に括りつけられた木の枝が刺さっていた。土の下にはココナが眠っている。
 シェルはまだ肩を揺らしていた。自分のせいではないと二人に説得され、受け入れた今も、どうしても涙が止まらない。
 エスは、有り合わせの粗末な墓標を眺めながら呟いた。
「ココナは八年前まで、邪悪な妖魔だった。無差別に村や町を襲い、人間を食い漁っていた。大蛇退治はマザーに依頼された。仕事を受けたマザーの殺し屋は、自分の命と引き換えに大蛇を封印した。大蛇は、殺し屋と入れ替わるように産声をあげた。そして、マザーに引き取られた」
 ブラッドもエスと同じものを見つめていた。
「……なんで、殺さなかったんだよ」
「殺すこともできた。だけど、有能な殺し屋が命を落とし、代わりに新しい命を生み出すことで、ココナは守護の力を手に入れたのよ」
「それがマザーのやり方か」
「自己犠牲……それが女の、マザーの力の源なの」
「……俺には理解できない。やっぱり、マザーのやり方は好きにはなれない」
「あんたには分からないし、分からなくていいことよ」
「……そっか」
 二人が沈黙すると、シェルの嗚咽だけが聞こえる。エスはしばらく間を置いて。
「ごめんね」
「……何が」
「やなこと、やらせちゃって……」
 ブラッドはエスの横顔を見つめた。
「別に」目を逸らし。「俺、あんまり役に立ってないからさ」
 我ながら、ブラッドは不器用だと思った。本当は少しでもエスの負担を軽くしようと、咄嗟に取った行動だった。当然、辛かった。こんなに後味の悪い妖魔退治なんて初めてだった。だが、ココナを殺した理由に「お前のため」だなんて言う気にはなれない。エスはまた涙が込み上げてきた。エスにはブラッドの単純な真意など、とうに伝わっていたのだ。
「……ありがと」エスは両手で顔を覆った。「あんたがいてくれて、よかった」
 空は紫から、深い青に変わっていった。その夜はテントも結界もなかった。怪我の治療も応急処置しかできない。
 三人はそれぞれの思いを胸に、夜明けを迎えた。
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