第7章 遠い夢
 朝になったが、一行は出発できなかった。
 シェルが先に進もうとしなかったのだ。
「どういうことよ。ふざけないでちょうだい」
「だって」シェルは目が腫れている。「もうこれ以上、私には耐えられそうにないのです」
「……何を言ってるのか、分かってるの?」
「ごめんなさい。危険は覚悟していたつもりです。でも、妖魔があんなに恐ろしいなんて……私が浅はかだったんです。それに、今まではココナがいてくれた。だけどもう私を守ってくれる彼女もいないし、ココナだって、私のせいで……」
「いい加減にしなさいよ。あんた、あたしたちをバカにしてるの? ココナがいないからあんたを守ってくれる人がいないって? だったらあたしたちは何なのよ。今まであたしたちが趣味で戦ってきたとでも思ってるわけ?」
「そうではないんです。全部私が悪いんです。こんな無理なお願いをした私がいけなかったんです」
「無理かどうか、決めるのはあんたじゃないでしょ」
「ごめんなさい」シェルは泣き出す。「ごめんなさい。でも、ココナのあんな姿、一生忘れられないし、あなた方にまで何かあったらと思うと……もう」
「それ以上聞きたくないわ!」エスは大声を上げる。「偽善も大概にしなさいよ。あんたが言ってることはただの裏切りよ。あたしたちは怪我が怖くて、命が惜しくてこんなところまで来たんじゃないのよ。あたしたちはあんたとは違うの。命を懸けないと生きていけないのよ!」
「……ごめんなさい」シェルはその場に座り込む。「私は、怖いんです。このことは深く、一生かけて反省します。だから、もう許してください」
 エスは歯を剥きだして、彼女を睨みつける。握る拳は怒りで震えていた。
「ごめんなさい。報酬は指定された分、全額お支払いします。解約料も弔慰金も、納得のいかれる金額をご請求ください。どうかそれで、すべてを終わりにしてください」
 エスは込み上げる衝動を必死で抑えていた。噛み締める歯が擦れる音がする。これは冒険屋に対する侮辱だ。これほどの屈辱は未だかつてない。そう思った。シェルは腫れた目を押さえて顔を上げない。
 正直、ブラッドもいい気分はしなかった。こんな状況に陥ったことは初めてだった。ここまで危険な仕事だけでも稀なのに、今回は「姫」が同行している。厄介なのは分かっていたが、まさか途中放棄だなんて、冗談じゃない。そんな結果は認められない。怒りを露わにするエスとは逆に、ブラッドは冷静になった。考える。最悪な中での一番マシな方法を。そして、答えを出す。ブラッドはシェルの隣に膝を折る。
「……エス、どうしてもって言うんなら、仕方ないだろ。引きずって連れていくわけにはいかないじゃないか」
 シェルは蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と繰り返す。
 エスは黙った。一瞬、ブラッドの言葉を疑ったが、まだ彼が諦めていないことを鋭く察知した。ほんの少し、怒りが治まった。
「戻ろう」ブラッドはシェルの肩に手をかけながら。「シェル、カストラまで送るよ」
 シェルは小さく頷いた。ブラッドは立ち上がりエスに向きあって。
「その後、俺はもう一度ここにくる」
 シェルは驚いて顔を上げる。エスは続けた。
「あたしも、そのつもりよ」
「な、何を……」
「あんたを無事に城に送り届けたところで、契約は解消。後はあたしたちがどうしようと勝手でしょ。あんたには関係ない」
「でも、それじゃ……」
「竜に会って、何か適当に願いを適えてもらう。そうしなきゃ気が済まないの」
「ココナの死を無駄にはできないからな」
 シェルは涙目を見開いて二人の顔を交互に見上げる。エスはそんな彼女に嫌悪を突きつける。
「あんたは、冒険屋をただの商売だとでも思ってるかもしれない。確かに、規律は厳しいし、金にもうるさい。面倒臭いほどプライドも高いわ。でもそれ以上に……仲間を想う気持ちは、親子の血の繋がりより強いのよ」
 その言葉がシェルの胸を貫く。痛みが走った。
「あたしたちにはそれしかないの。家族も財産も何もない。仲間しかいないの。ココナだって、あんな死に方しちゃったけど、冒険屋ではそれほど珍しいことじゃないわ。逆に寿命をまっとうする奴の方が少ないくらいよ。確かにとても危険だし、とても怖い。だからこそ仲間が必要なの。自分が生きた証を残すのは、仲間との絆だけだもの。あんたからしたら冒険屋なんて低俗で野蛮な殺し屋にしか思えないかもしれないけど、これでも必死に戦ってる。強くなければ生きていけない、あんたとはまったく違う生き物なの。それが理解できなければ結構。いいえ、そもそも理解しろってのが無理なのよね。つまりあたしたちには最初から縁がなかったってことよ。ここで別れるのが賢明だわ。そうでしょ? でも……ひとつだけお願いがあるの」
 エスは冷たい目でシェルを見据えた。今までの意地悪なそれではない。
「シェル」エスは心底彼女を軽蔑した。「金なんかいらない。その代わり、一発殴らせて」
「エス」ブラッドが強い口調で。「やめろよ。そんなことしても何にもならないだろ」
「こんな女のせいでココナが死んだかと思うと我慢できないのよ」
「それは、違う」少し間を置く。「ココナはお前のために戦ったんだ」
 エスの表情が変わった。唇を噛み締め、目を泳がせる。そして、感情を抑えて背を向けた。
「行きましょう」
 エスは足を出すが、シェルは座り込んだまま動かない。すぐに気づき、エスは振り向く。
「何やってんのよ」
 シェルは涙でグチャグチャになった顔をエスに向ける。エスはその姿に苛立ちを覚え、早足で寄り、乱暴に腕を引く。
「立ちなさい! まさか抱えていってくれなんて言わないでしょうね。甘えるのもいい加減に……」
 言い終わらないうちに、シェルは子供のように声を上げて泣き出した。エスは目を丸くする。
「ごめんなさい……!」
 シェルは戸惑うエスに抱きつき、泣きじゃくった。エスは意味が分からず混乱し、冷たく突き放すことができない。
「な、何なのよ……」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 泣きながら、シェルは繰り返した。エスは呆気に取られた。
「ごめんなさい」シェルは必死でエスに縋り付いた。「私はなんてことを言ってしまったのでしょう。皆さんの気持ちも考えないで……愚かでした。こんなところで諦めて帰るなんて、そんなことが許されるはずがありません。恥ずかしいです。もう我儘は言いません。怖いけど、私も一生懸命戦います。だから……置いていかないでください。私も連れていってください」
「は、はあ……?」
「殴ってくれて構いません。いいえ、私はそれだけに値するほど酷いことを言ってしまいました。どうか、殴ってください、私を戒めてください」
 ブラッドも面食らっていたが、深く反省したシェルの姿に安堵する。
 シェルは本来、心優しい女性だ。人を想う気持ちが強かったからこそ、この仕事を依頼したのだ。彼女の弱さを責めることはできない。今まで王宮で何の苦労もなく、大切に大切に育てられてきた。そんな彼女がいきなり一人で外に出て、突然恐ろしい妖魔を目の当たりして、まともでいられるはずがないのだ。それでも、過ちに気づいて踏み止まった。お姫さまにしては立派な勇気だ。許し、受け入れることに、何の抵抗もなかった。
「ほら」ブラッドは二人に近寄って。「もういいだろ。行こう」
 わあわあと泣き止まないシェルに、エスは苦い顔をしながら困り果て、ため息をつく。
「な、殴らないから……お願い。離れて」
 シェルは離れない。一行はシェルが落ち着きを取り戻すまで、また少し時間を食ってしまった。それでも日が完全に昇ってしまう前には、三人で同じ方向に、山頂に向かって歩き出していた。


 しばらく歩くと、急な岩壁にぶつかった。荒い岩が積み重なるように連なっている。ここからは歩くと言うより、よじ登ることになる。見るからに骨を折りそうだが、断崖でないだけマシだと思うことにした。
 シェルは二人に手を借りながら必死で着いてくる。彼女を気遣いながらの岩登りはなかなか進まない。それでもシェルは疲れや手足の痛みを堪え、弱音を吐かなかった。靴にかかっているココナの魔法がまだ残っているのを確認するたびに、「ありがとう」と何度も呟いていた。そして、遅れを取っても決して見捨てないエスとブラッドにも、「ごめんなさい」ではなく、「ありがとう」と自然に言えるようになっていた。
 確実にシェルは変わり始めていた。エスもそれを認め、彼女の根性を見直すしかなかった。泥や汗で薄汚れた顔も拭わずに息を切らすシェルに、エスは照れたように微笑んで手を差し伸べる。シェルも力強い笑みを返し、エスの腕をしっかり掴んだ。


 休み休みではあったが、一同は何とか頂上に辿り着いた。空は暗くなっていた。月はすっかり細り、光はほとんどない。空気も薄く、シェルが胸を押さえながら呼吸を整えていた。
 頂上は大きな噴火口になっていた。深い穴は真っ暗で底が見えない。
「シェル」ブラッドが彼女の肩を掴んで。「落ちるなよ」
「はい」
 エスはその隣で中を覗き込んでいた。耳を澄ましたり、匂いを嗅いだりしている。
「ここって火山だったのね。でも何の音もしないし、変な気体も出てないわ。熱気もないし、長いこと活動はしてないようね。ただ、とにかく深いみたい。この底に竜がいるのかしら」
「竜を呼び出す方法とかないのか」
「いえ、鱗を手に入れた者が竜に会えるとしか……」
「中に入るしかないの? でも深さも分からないのに、どうやって底に降りればいいの」
「一応、俺がワイヤーくらいは持ってるけど、この深さじゃ役に立ちそうにないな」
「ないよりマシじゃない? 少しずつ降りながら様子を見てみましょうよ」
「そうだな。しかし」ブラッドは空を仰いで。「せめて日中だったらなあ。こんなところで休むのも何だけど、朝まで待ってみないか」
「眠るんだったらここじゃ危ないわ。少し戻って足場のあるところを探した方がいいと思う」
「ああ。でも足場がなかったら戻り損だ。俺が探してくるから、エスはシェルを頼む」
「分かった。あんまり遠くまでいかないでね。十分毎に声を出し合いましょう」
「了解。一時間探して何もなかったら戻ってくる」
 ブラッドは岩を降りようと体勢を変える。
「…………?」
 その時、エスは何かを感じた。再び噴火口の暗闇を見つめる。
(……何かいる)
 エスは穴の中に引き込まれる錯覚を起こした。その「何か」に意識を完全に奪われ、現実から五感が遮断される。
(……あたしを、呼んでる)
 エスは目眩を起こし、吸い込まれるように暗闇に落ちていった。
「!」
 シェルの甲高い悲鳴が轟く。ブラッドもほとんど同時に振り向くが、間に合わない。
「エス!」
 ブラッドは身を乗り出し、噴火口に顔を突っ込む。だがエスの姿は既に闇の中に消えていた。やはり物音ひとつしない。相当深いことを確認する。
「シェル、エスはどうしたんだ。なんで落ちた」
 シェルは真っ青になっている。
「わ、分かりません。急に、まるで気を失ったように……」
「急に? どうして……まさか、気を失うほど疲れが溜まっていたのか」
「そんな……もしかして、また私のせいで……」
「そんなことはどうでもいい。これは、ゆっくり休んでる場合じゃなさそうだな」
 ブラッドは再び暗闇を見つめた。険しい表情になり、息を飲む。そしてシェルに見向きもせずに、彼女を抱き寄せた。
「ブ、ブラッド……?」
 ブラッドはシェルを掴む腕に力を入れる。
「しっかり掴まっているんだ」
「何を……」
 まさか、とシェルは震え出した。
「怖いか?」
 ブラッドに耳元で囁かれ、シェルはつい頷きそうになる。シェルも暗闇を見つめた。怖い。だけど、そこにはエスがいる。エスを助けなければ。シェルは一度強く目を閉じてすぐに開き、闇を睨みつける。ブラッドの質問に震えながら、しっかり答えた。
「いいえ。怖くありません」
 ブラッドは口の端を上げ、それ以上は待たずにシェルを抱えて竜の元へ飛び込んだ。
 深い、深い穴の中にシェルの悲鳴がこだまする。その声も二人の姿も、闇の中に溶けていった。


 暗闇はしばらく続いた。シェルはブラッドの腕の中で気を失う寸前だった。真っ直ぐに落ちる時間は、二人には異常に長く感じた。ブラッドはその間にいろんなことを考える。辿り着いた先が地面や岩だったら、叩きつけられて即死は免れない。ちょっと考えがなさ過ぎたかもしれないと後悔するが、もう遅い。何よりもエスの身が心配だ。もしかしたら先に死んでしまっているかもしれない。もしそうなら、自分たちも抵抗する間もなく後を追うことになる。だとしたら、なんて間抜けな結末だろう。
 ブラッドは微かに空気の抵抗を感じた。冷たい。何だろう、と思ううちに、二人は頭から強い衝撃を受ける。痛くはない。落下速度が急激に落ちる。
 息ができない。水だ。二人は深い水溜りに沈んでいく。死なずに済んだことを確認して、ブラッドはシェルを抱えたまますぐに身を翻す。水を掻き分け、水面を目指す。
 二人は同時に水中から顔を出して呼吸を整える。
「シェル」ブラッドは彼女を抱え直しながら。「大丈夫か」
「はい……泳げますから」
 それを聞いて、ブラッドはシェルから手を離して陸を探して泳いだ。シェルも後に着いてくる。数メートル泳ぐと地面があった。先にブラッドが上がり、シェルの腕を引く。二人は全身びしょ濡れで堅い地面に倒れ込む。ブラッドは息を整えながら辺りを見回す。暗くてよく見えないが、必死で目を凝らすと少しずつ闇に慣れてくる。ゆっくりだが、湖やシェルの姿くらいは確認できる。この湖は、噴火口から注ぐ雨水が、長年に渡り大きな水溜りを作り続けてきたものだろう。噴火口を仰ぐと、微かに夜の空が見えた。周囲はどうやら大きな洞窟になっているようだ。その先はどうなっているか分からない。
 ブラッドはすぐに体を起こして大きな声を出した。
「エスは? エス! どこだ」
 返事はない。耳を澄ますが、物音ひとつしなかった。
「まさか、意識を失って、沈んでないだろうな」
「で、でも、人の体は浮くはず……」
 微かに揺れる水面を見渡すが、何も浮いてない。
「なんでいないんだよ」
「竜を探しに奥へ行かれたのでは?」
「無事なら待ってるだろ。落ちてそんなに時間は経ってない」
「ここには竜がいるはずです。何かを感じられたのかもしれません」
「何かって……」
 ブラッドはカイルの言葉を思い出す。いや、なぜ今までこんな大事なことを忘れていたのか。いろんなことがあり過ぎたとは言え、自分の考えのなさを改めて悔やむ。
 エスの中にはロースノリアの竜がいるのだ。そしてここはサンデリオルの竜の住処。エスが気を失って落ちたと言うのも、もしかしたら、二匹の竜が共鳴したのかもしれないと思う。竜の生態も何も分からない以上、すべての可能性を否定できない。
「行こう」
 ブラッドは急いで立ち上がり、奥へ歩き出す。シェルも慌てて後に続く。ブラッドは早足で歩きながら、コートの内側からライトを取り出す。スイッチを入れるが点かない。水に浸かり、調子がおかしくなったようだ。苛立った様子で叩いたり振ったりしながら何度もスイッチを押す。何度か繰り返すと、明かりが点いた。ほっと息をついて、前方を照らす。大きな横穴が続いていた。
「この奥に竜がいるのでしょうか」
 シェルが背後から囁く。
「さあ。でも行くしかない。少なくとも、エスはいる」
「はい」
 深い穴の中に、二人の足音だけが響いていた。



 何かが見える。
 埃に塗れた欲望が押し寄せてくる。怖い。背後の森の向こうの騒音には、たくさんの動物の鳴き声が入り混じっている。それは鎧や軍服に身を包んだ荒々しい獣たちのものだった。
 怖い。少女は身を縮めて震えた。
 猛る獣は剣を天に掲げる。その切っ先の指し示す方向には、光る鱗粉に包まれた巨大な青い竜が空を照らしていた。
 少女は聖衣を纏い、長い眠りにつくことを心に決めた。その掌には青い鱗が握られている。涙は出なかった。家族、時代、争い、生まれてきた自分、そのすべてに別れを告げる。
 目の前には叩き割られたような深い谷があった。濃い霧が漂い、谷の底までは見えない。少女は鱗を抱き、祈る。
 谷の周囲では激しい戦闘が行われていた。その振動が少女にも伝わってくる。これ以上時間を引き延ばしても、奪われる命の数が増えるだけ。少女はそう思った。目を閉じる。抱いた鱗に光が灯った。強まり、少女の顔を照らす。青い竜が光に共鳴する。上空高くで嘶いた。
 その時、少女の背後に足音が近づいてきた。足音の主は光に包まれる少女を視界に捉え、鋭い緑色の目を見開く。牙の並んだ大きな口は呼吸を乱していた。彼は狼の半獣人、ヴァーレル・サイバード。後にサイバード一族を最強へ導いた将軍として歴史に名を刻む男だった。その勇姿が確立されるには大きな犠牲が伴ったことを知る者は少ない。ヴァーレルが声を上げるが、少女には聞こえなかった。ただ、彼が自分の名を呼んでいることだけは分かる。
 獣人の中に、ごく稀に人間の姿をして生まれてくる者がいる。原因は分からない。分からないからこそ、人々はそれを恐れた。不吉の前兆として少女は同族から忌み嫌われた。その中で両親だけは自分を愛してくれた。一族の恥とまで言われた娘が谷底に身を投じようとする今も、全身全霊で守ろうと大きな腕を伸ばしてくる。
 嬉しい……もう、怖くない。
 少女の願いは、この青の争いを終わらせることだった。人間でも獣でもない、居場所のない自分が、生まれてきたことを後悔せずにいられる唯一の手段だと思った。
 少女と竜の放つ光が繋がった。
 竜が舞い降りてくる。少女と一つになり、谷底に吸い込まれていく。
 ヴァーレルは再び娘の名を呟いた。
 その後、サイバード一族が勝利を収め、ロースノリアの加護を手に入れた。同族に「サイバードは自分の娘を生贄に権力を強奪した」と責められたこともあった。同時に「あの娘は邪悪の象徴だと、殺せと騒いだのは我ら獣人だ」とサイバードの勇気を称える者もいた。ヴァーレルは何も答えなかった。真実は語らず、ただ時代の流れを見守った。
 時が過ぎるにつれ、サイバードの世代も変わろうとしていた頃、ヴァーレルは一つの事業を起こそうとしていた。残りの半生を罪の呵責で過ごしてきた彼は、加護によって手に入れた富を利用し、戦争によって進化してしまった「暴力」を人を守るためのものに変えていこうとしたのだ。それが「冒険屋」の始まりだった。周囲はただの金稼ぎだとしか思わなかったが、ヴァーレルの計画はこの荒んだ世界では簡単に形になっていき、理不尽に蔑まれる者、有り余った力を持て余す者たちが生きる希望を与えられることとなった。
 いつしか、誰からもサイバードが信頼されるようになる内に、少女の存在も名前も忘れられていった。
 それでいい。いつか必ず救い出されるときがくるまでに、少女に科せられた「無実の罪」と、体に流れる「穢れた血」を消してしまおう。それがヴァーレルのせめてもの罪滅ぼしだった。だから彼は二度と少女の名を口にはしなかった。


 エスは遠い夢を見ながら、涙を流した。今までに何度も見た夢だった。だが、目を覚ますといつもその夢は強い思いに掻き消されてしまう。エスがこの涙の意味を知ることは決してなかった。
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