第8章 青の涙
 ブラッドとシェルは暗闇の中を歩き続けた。小さなライトでは端まで光は届かない。二人は歩きながらできる範囲で水を払ったが、まだ体は濡れており、肌寒い。
(なんだ、この大きな横穴は)
 ブラッドは周囲の異様さに気づいていた。
(長い間、人なんか入ってないはずなのに、まるで造られたトンネルのようだ。決して人が通るためではないだろうが、障害物が何もないなんて……人や動物が造ったものではないとしたら、まさかこの穴は竜が?)
 ブラッドは急に足を止める。はぐれないように、すぐ後ろから着いてきていたシェルが背中にぶつかる。
「ブラッド。どうしたんですか」
 ブラッドはしばらく眼球だけを左右に動かして、空気を読んだ。シェルにはその変化は分からない。
「シェル」ブラッドは彼女の背中を押す。「離れていろ」
「ブラッド?」
 シェルは言われるままにブラッドから離れる。辺りは暗い。手探りで壁を伝った。
 ブラッドが振り向いてライトをかざすと、離れたところにいる何かが照らし出された。
 カイルだ。
「カイル」
 シェルが暗闇から声を出す。
「シェル、来るんじゃない」
「でも、カイルが戻ってきてくれたんですよ」
「カイルはもう味方じゃないと言っただろう」
「え……」
 暗闇に浮かぶカイルは銃を構えてブラッドを狙っている。ブラッドも銃に手を掛ける。
「ブラッド、遅かったな」カイルは待ち草臥れたと言わんばかりだった。「俺とお前とじゃ時間の使い方が違うようだ」
 ブラッドは息を飲んだ。相変わらずカイルから打ち付けられる殺気は半端ではない。しかも、この正体不明で暗い洞窟が更にブラッドの不安を煽る。圧倒されるが、ブラッドは必死で踏みとどまった。
「カイル。今は勘弁してくれないか。エスがいなくなったんだ。早く探さないといけない」
 それを聞いてもカイルは冷静だった。それどころか、ブラッドを見下した笑みを浮かべる。
「流石に、三流はミスのレベルが違うな。エスがいなくなっただと? その時点でお前は愚図の類だという自覚はあるのか?」
「ミスは認める。だが悔やんでる時間はないんだ。とにかくエスの身が心配だ。せめて無事を確認したい」
「その必要はない。お前がここで死んだところで現状は何も変わりはしないんだからな。俺がエスを守る。その方が事は順調に進むと思わないか? 少しは賢くなれよ」
「し、知らねえよ」ブラッドは否定できない。「そんな先のことなんか、誰にも分からねえだろ。過去は記憶、未来は想像だ。俺は今しか知らない」
「相変わらず口だけは達者だな。だが、その単純で下らない矜持が何の役に立った? 俺は常に先のことを考える。起こる可能性に対し、幾重にも予防線を張る」
 ブラッドは眉を顰めた。
「そんなの、臆病もんのすることだ」
「そうだ。俺は臆病だ。いくら天才と呼ばれようと、所詮は人間。痛みも感情もある。すべての未来を予測できるわけではない。失敗を恥じ、恐れる。だからこそ完璧に憧れ、完全を求めるのだ。己の力と器を知ること。それが一流の──ランの教えだ」
 ブラッドは息を飲む。カイルから放たれる殺気が微かに動いた。
「お前のように勢いで突っ走るだけの考えなしは、どうせろくな死に方はしない。雑魚は雑魚らしく、地味に死ね」
 カイルは銃を放つ。弾はブラッドの銃に当たり、弾き落とされる。その衝撃で右腕の筋を痛める。しまったと思うが、遅い。再びカイルの銃がブラッドに向けられる。今のはただの脅しだ。この暗さの中で、ブラッドの体に一切触れずに銃だけを狙う腕には屈服するしかできなかった。次は逃げられない。急所を狙い一発で終わらせるのか、じわじわと嬲りながら時間をかけて殺していくのか、どっちも願い下げだがブラッドに選ぶ権利はなかった。
 だが、なぜだろう。怖くない。
 理由は分からなかった。恐怖などもう通り過ぎてしまったのか、それとも覚悟を決め、既に自分の死を受け入れてしまっているのか。
「!」
 その時、穴の奥から奇妙な音が響いてきた。三人の間にあった張り詰めた空気が揺れた。同じ音がもう一度聞こえた。今度は少し長い。聞いたことのない音ではあったが、何かの唸り声に聞こえる。ブラッドの血の気が引く。
「……エス!」
 奥へ走ろうとするが、足元をカイルに狙撃されて先に進めない。
「邪魔するな。今のが竜の声だとしたら、エスが危ない」
「お前はここで死ぬ」
「だったらさっさと殺せよ!」
「何だと?」
「俺を殺して、お前がエスを助けろ。あいつの身が最優先だ」
 カイルは撃たない。凄まじい殺気は解かないが、これ以上待ってはいられない。ブラッドは一歩下がり、カイルが動かないことを確認しながら奥へ駆け出した。
「シェル」
 声を出すとシェルが返事をしながら暗闇から姿を現した。ブラッドに駆け寄りながら、浮かない顔をする。
「ブラッド。どうしてカイルと仲違いを」
「今はそのことはいい。とにかく奥へ。走るぞ」
「はい」
 二人は足音だけを残して走り去っていった。闇の中でカイルは一人、銃を降ろして佇んだ。


 ブラッドとシェルが走っている間にも、何度か声が聞こえた。それに近づいてきている。
「光だ」
 ブラッドが先を指した。長いトンネルの出口が見えた。と言っても外に続いているとは思えない。今はまだ夜だ。光が太陽のそれではないことは分かる。だとしたら、一体そこには何があるのだろう。二人に恐怖はなかった。近づく光は柔らかく、神聖なものであることを体で感じ取れていたからだ。
 トンネルを抜ける。視界が晴れる。再び大きな洞窟だった。二人は足を止めて目を見開いた。
 そこには、巨大な赤い竜が幾重にもとぐろを巻いて眠っていたのだ。その大きさは圧巻だった。長い体には、手のひらくらいの、透けた赤い鱗がびっしりと敷き詰められている。頭部を探すが見当たらない。光の正体は、鱗に纏う麟紛の輝きだったのだ。ため息が出るほど美しい。
「これが……」シェルが小声を漏らす。「サンデリオルの竜」
「でけぇ……」
 ブラッドは口を開けて竜に見入ったが、それ所ではないと我に返る。
「そうだ、エスは?」構わずに大声を出す。「エス!」
 やはり、返事はない。ブラッドの苛立ちが募った。焦る彼の隣でシェルがあっと声を出す。
「エス!」
 反射的にブラッドは顔を上げる。上空にエスの姿があった。薄く目を開け、顔色も悪くない。生きてる。怪我もないようだ。だが、ほっとはしていられない。明らかに様子がおかしい。
 エスは赤い竜の傍に、髪をなびかせて浮いている。ブラッドは目を疑った。空を飛べる人間なんて聞いたことがない。驚くべきことはそれだけではなかった。エスは虚ろな瞳で二人を見下ろし、今度は地の底から響くような、男のものか女のものかも判別できない低い声を出した。
『なぜ、竜の眠りを妨げる』
 ブラッドとシェルは絶句していた。一体彼女に何が起こっているのか、いくら考えても答えは出ない。
『娘』シェルを見据えて。『そなたにはカストラの血が流れている。そなたには加護を与えた。なぜサンデリオルの眠りを妨げる』
 今そこで話しているのはエスではない。それだけは確かだった。シェルが恐る恐る問いかける。
「あ、あなたは……誰?」
 エスはしばらく二人を見つめた。そこには表情も感情もなかった。ゆっくりと両手を掲げながら口を開く。
『私はロースノリアの竜。四百年間、ヴァレルの地に富を与えてきた神竜』
 どうやらエスの中で眠っていたロースノリアの竜が彼女の体を乗っ取っているのだろう。エスは両手を挙げたまま俯き、無表情の目から涙を流した。
『文明人とは愚かなり。力を欲するあまり、独占するが如く私を谷底に封印した。そのようなこと、無意味であることも知らず、愚かな生き物よ』
正体が分かればブラッドは恐れなかった。一歩前に出て。
「無意味って、どういうことだよ」
 エスの涙が落ちるが、雫は地に届く前に掻き消える。
『我々の時代はもう終わったのだ。ただ、それだけのこと。確かに人にはない加護の力を持っている。それは与えた。なのに、人類は更なる力を求めた。愚かなことだ』
「竜は、人類を恨んでいらっしゃるのでしょうか」
『恨んでなどいない。ただその浅ましさに涙を流さずにはいられないのだ。この気持ちは我々にしか分からない』
「じゃあ、今の声はサンデリオルの竜の泣き声なのですね」
『サンデリオルの竜は泣いている。自らの存在で無駄な血を流させてしまったと。我らは神竜。神聖なる者。生贄など、邪悪な思想だ』
 シェルの胸が痛んだ。やはり父のしていたことは愚行であったのだと思い知り、その血を引く自分を心の中で責めた。だが、その償いをしたくてここまで来たのだ。引くわけにはいかない。
「も、申し訳ありません。私たちは過ちを犯してしまいました。謝って済むことではないと、心得ております。でも、今からでも罪を悔い、心を改めることを誓います。だから、どうか悲しまないでください」
『カストラの血を引く者。そなたの心は美しい。だが、すべての人間がそうであるとは言えない。いや、そうでない者の方が圧倒的に多いのが事実。争い、奪い合い、純粋な者が殺されていく時代が訪れた。今、我々ができることがあるとすれば……世界を滅ぼし、造り直すこと』
「そ、そんな……」
『太古、人間と獣人は互いに憎み合い、無益な争いを起こしていた。人間は獣人を知能の低い乱暴な生き物として軽蔑していた』
 このことは、古文書に限らず古い文献に記されている事実だった。だが、その詳しい情報はあまり現代に言い伝えられてはいなかった。
『そして獣人は、人間を弱く、情や理性を高等な感情であることを主張し、それを鼻にかける傲慢な生き物であると見下していた。二つの人種が交わることなどないかのように、我々の眼にはそう映っていた。だが時が流れるにつれ、争うことで互いは進化し、決して滅びの道を歩んでいるわけではないことに気がついた。次第に我々は彼らを尊重できるようになっていった。だからこそ力を授けようと決心することができたのだ。しかし、悲劇はその後に訪れた。サンデリオルは悲しんでいる。我々は間違っていたと。なまじ力を与えたことにより、人間は奪い合った。護るための力は破壊へ導いてしまったのだと』
「いいえ」シェルは必死で訴えた。「確かにこの世は荒れています。でも、みんな一生懸命生きています。人は弱い生き物です。だからいつも一生懸命なんです。誰もが幸せを求めています。あなた方の力の輝きが強くて、眩し過ぎて、目が眩んでしまったのです。それ故、一部の者だけが道を誤ってしまいました。だけど手遅れなことなんてありません。私が、きっと改めてみせます。だから、もう少しだけ時間をください。お願いします。この世は悪い人ばかりではありません」
 エスは、ロースノリアの竜は手を降ろし、じっとシェルを見つめた。濡れた頬はまだ乾かないが、涙は止まっていた。ゆっくりと口を開く。
『分かっている』
「……え?」
『私を封印したのは、この少女自身だった』
 ブラッドは耳を疑った。カイルから聞いた話の印象と違う。
「どういうことだ。獣人がエスを犠牲にしたんじゃなかったのか」
『この少女が何者で、どのような環境で育ったのかは私の知るところではない。だが、少女は暖かかった。それが私の心を潤した。四百年もの間、お互いに一言も言葉を交わすことはなかったが、何よりも、一人ではなかった。誰かと寄り添うことがどれだけ尊く、命の短い生物が執拗に欲しがる理由が理解できた。孤独で、眠りながらも少女は幸せを夢見続けていた。私はいつの間にか少女に同情するようになっていた。時代が変わったある日、一人の男が少女を谷底から連れ出した。我が眠りを妨げることを、疎ましいとは思わなかった。どこかで、やっと少女が救われたと放念することさえあった。そして私は少女と旅に出た』
 記憶を辿りながら、竜は続けた。
『私はこの少女と共に五年間、俗世を見てきた。醜く、汚らわしいものばかりだった。少女も、顔色を変えずに人の命を奪う恐ろしい一面を持つようになった。だが、大切なものを守り、新しいものを生み出そうとする強い生命力に満ち溢れていた。喜び、悲しみ、憎しみ……いつか訪れる死も恐れずに、短い時間を惜しむように戦ってきた。何よりも少女は誰からも愛される人物だった。そうあるに相応しい魂だからだと、私が気づくのに時間はかからなかった。我らと同じく四百年という時間、同胞の醜い執着により谷底に閉じ込められていたにも関わらず、ただ前だけを向いていた。次第に私の考えも変わっていった。たった五年という時間が私の積年の悲しみを払拭したのだ。この世はそう悪くない。まだ希望はある。それを少女が教えてくれた』
 エスは虚ろな表情のまま、微笑んだ。シェルも彼女の言葉の中にある竜の慈悲に感謝した。だが、ブラッドの心だけはまだ晴れない。
「それで、お前たちはどうするつもりなんだ」
 エスはブラッドに目を移す。
「もしかしたら、今の話は俗世の俺たちにはもったいないお言葉なのかもしれないな。でも俺には関係ない。エスがいい女だってのは、お前なんかより俺がよく知ってる。今更驚きゃしねえよ。生憎と俺たちは悟りを開くためにここに来たんじゃないんだ」
 その言葉の意味を考えるように、エスは黙った。笑みは消えている。光のない瞳がふっと翳った。ブラッドは表情の変化に気づき、無意識に厳しい顔になる。嫌悪を感じたのだ。
(……また、あの目だ)
 ブラッドを煩わしいものとして見下すそれだった。若い頃から何度も同業者に浴びせられてきた。その度に傷ついた痛みは消えることなく蓄積されてきた。だから今まで誰の指図も受けずに走り続けてきた。最初は誰からも敬遠された。仕事も取り難く、みんなに笑われながらもすべてに反発してきた。そんな自分にまともな仕事をくれていたのがランだった。彼を頼っているうちに、次第にブラッドは実績を重ね、認められていった。
 それでも、ただ一人だけはいつまでもブラッドを邪険にする者がいた。カイルだ。カイルは彼のすべてを否定する眼差しを向け、決して受け入れることはしなかった。その理由は分からなかった。カイルと自分の実力に雲泥の差があることは事実だった。悔しかった。その悔しさをバネに、更に走り続けた。カイルにだけは適うことはなかったが、やっと自信が持てるようになった。その頃、ライバルが現れた。それがエスだった。自分より若く、小柄な彼女は見た目からは想像できないほどの功績を引っさげて、自信満々で武勇伝を語った。すべてを前向きに受け入れる天真爛漫な彼女に、一目惚れしたことは否定できなかった。
 最初は「あんな生意気な女」と思いながらも、心を惹かれる理由を考えた。理由など分からないまま、ここまできた。その内に理由なんていらないと思い始めていた。それでよかった。
 エスは自分の辛さや苦痛を一切表に出さなかった。感情を露わにし、理不尽に怒鳴りつけられたり八つ当たりされることはしょっちゅうだったが、誰かに泣いて助けを求めることはしなかった。もしかすると、彼女の本心に触れることができたのはカイルだけだったのかもしれない。だが、ココナとの戦いのとき、カイルはいなかった。仲間を殺すという、耐え難い苦痛を一人で背負おうとした。それだけではない。記憶にないとはいえ、エスは四百年、たった一人で谷底に閉じ込められ、竜の加護と言う少女には重過ぎる力を内に秘めていたのだ。今の今まで、エスはずっと見えない鎖に縛られてきた。きっとその重みと戦いながら足掻いてきたのだと思う。それが人間であり、そしてエスは人間だ。エスにも自由になる権利はある。
 ブラッドはそんな彼女を見捨てることなどできなかった。エスと比べれば自分の傷の痛みなんて浅いものだ。そうだ、と思う。だから傍にいたい、守りたいと心から思って止まなかったのだ。その気持ちは、今までも、これからも変わらない。
 これ以上見えない運命に翻弄されるのは御免だ。竜なんか、クソ食らえ。
「俺、頭悪いから、そんな難しい話は分からねえ。それでもまだ説教したいってんなら、聞いてやるよ。だがその前に、とにかくエスを返せ」
 ロースノリアの竜は探るような目でブラッドを見据えた。その色は冷たく、彼の存在そのものを否定する。だが、竜に取っては所詮は非力に過ぎなかった。
『サンデリオルを止めるには』竜はゆっくりと告げる。『この少女の心が必要だ』
「……何だと?」
『この娘の魂は竜に捧げられる。私がそうだったように、サンデリオルにも少女の心を見せれば、この世の不条理を許せるはずなのだ。この世界の存続は私が約束しよう。だから──』
 ブラッドは最後まで聞く耳を持たなかった。
「ふざけるな! てめえもバカな人間とやってることは同じじゃねえか」
『少女には世界を守る力があるのだ。人間が竜の力を必要としたように、我々は少女の力を必要としている』
「何が神竜だ。結局てめえらじゃ何にもできねえんじゃねえか。エスを犠牲にした世界なんかいらねえよ。滅ぼしたきゃ勝手にやれ。俺には関係ねえ。エスは返してもらうからな」
 ブラッドは我慢できなくなったように、剣に手をかけて竜に近寄った。だが、素早くシェルに止められる。
「ブラッド」腕を掴み。「だめです」
「何だよ。邪魔すんな。お前は竜の手先か。エスを見殺しにしても願いを叶えたいってのか」
「だめです!」
 頭に血が上るブラッドを抑えつけるように、シェルは大声を出した。こんなにも力強い彼女を初めて見たブラッドは戸惑い、その迫力に圧される。
「だめです」シェルは涙を堪えていた。「力で奪っても、何も手に入りません」
「…………」
「ましてや守るなど、力ある者の驕りに過ぎません。なぜ竜がエスを欲するのか、お考えください。エスの儚さと優しさが竜の心を動かしたのです。それが世界を救う力なのです。その意味がお分かりにならないのですか」
 ブラッドは息を飲む。シェルの言葉は彼の心に響いた。冷静さを欠いた自分が恥ずかしくなる。だが、エスを救う手段は見つからない。
「……俺だって」ブラッドは俯いた。「エスが必要だ。世界が平和でも地獄でもどうでもいいんだ。エスがいなきゃ、意味がないんだ」
 シェルはブラッドから手を離した。気持ちが通じたことを喜び、微笑む。
「私も、エスが好きです。掛け替えのない大切な友達です」
 ブラッドは顔を上げた。
「エスも同じ気持ちです。だから、きっと通じます」
 シェルは宙に浮くエスに向き直った。
「エス。聞こえますか」言いながら、竜に駆け寄る。「戻ってきてください」
 シェルは竜の鱗に手をかけ、その体によじ登る。鱗は硬く、力を入れると人間の皮膚など簡単に切れてしまう。シェルの指から血が流れた。
「シェル」ブラッドも後に続き。「無茶するな」
「エス、エス」シェルはブラッドに見向きもしない。「行かないでください。あなたはいなくなっていい人ではありません。いなくなっていい人なんかいないんです。人はいつか死にます。でも、あなたは一人じゃない。あなたは人間です」
 エスは、痛みを堪えて叫ぶシェルを見つめた。その目は遠く、冷たかった。それはいつものエスの表情ではなかった。エスはこんな顔はしない。
 ブラッドの脳裏に、あの夜のエスの姿が鮮明に蘇った。
「あたしはエス、エスラーダよ」
 そう必死に訴える彼女の姿が。
「過去がなんだってのよ。あたしが竜なら、エスって誰よ。あたしは一体どこにいるのよ。何のために生まれてきたと言うの」
 そうだ、エスはロースノリアの竜ではない。ブラッドも竜の鱗に手をかけた。シェルと同じように鱗で手を切るが、構わずに身を翻して、シェルを超えて竜の体に飛び乗る。
「エス」ブラッドも彼女を見上げ。「お前はエスだ。目を覚ませ」
 ブラッドは顔を上げたままシェルの腕を引く。
「エス、帰ってこい。お前の居場所はこっちだ」
 エスの体が微かに揺れた。再び、彼女の冷たい目から涙が流れた。
『……私は』
 エスは顔を両手で覆った。宙で体を縮め、頭を垂れる。泣きながら苦しみに顔を歪める彼女の表情は、人間のものだった。
『いやだ、もういやだ……誰か、あたしの名前を呼んで……』
 もうすぐで届く。ブラッドとシェルは更に高みを目指す。
「エス!」
 その時、激しい爆風が起きた。その衝撃でブラッドとシェルは体勢を崩し、地面に逆戻りする。すぐに体を起こし、何が起きたのか確認する。
 カイルだ。カイルがいつの間にか洞窟の入り口に立ち、サンデリオルの体目掛けて爆弾を投げつけたのだ。
「カイル」ブラッドが立ち上がり。「何するんだ!」
 言い終わる前に、もの凄い轟音に襲われた。洞窟中に響き、咄嗟に耳を塞ぐ。竜の雄叫びだった。顔を上げると、とぐろを巻いていたサンデリオルの竜が飲み込まれるほど大きな顔を持ち上げて、天に向かって嘶いていたのだ。炎のように赤い瞳は憂いに満ち、その大きさだけで人間の小さな心臓など簡単に縮み上がらせるほどだった。開いた口に並ぶ鋭い牙は成人男性の身長を悠に超える。妖魔など比ではない。世界を創り、滅ぼすに値する竜の迫力は人の想像を超越していた。
 波打つ竜の傍でエスも髪を逆立て、白目を剥いて悲鳴を上げていた。
 ブラッドはすぐにシェルの前に出て彼女を庇うが、身動きが取れない。混乱が起こる中で、カイルだけは冷静だった。その目には、氷のように冷たい残酷な色が灯っていた。
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