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 音耶が仕事に集中できるようになって二時間ほど時間が流れていた。今日の死者の数は少ないほうで、このまま順調にいけばすべてを纏めることができそうである。
 そう思っていたとき、扉を二回、叩く音が聞こえた。音耶は顔を上げて、今度は誰だと思いつつ返事を返す。すると、扉の向こうからは聞き慣れない声が聞こえてきた。
「音耶様……今、少々お時間いただけませんでしょうか」
 遠慮がちな、細い女性の声だった。心当たりはない。当然だが鬼たちの中に、こんな声を持つ者などいるはずもないし、来客の予定も特に聞いていなかった。
 せっかく今日の仕事だけは片付くかもしれないと考えていたところに、また邪魔が入るのは勘弁して欲しいと警戒したが、聞こえた声の雰囲気は、時も場所も選ばずにズカズカと乗り込んでくる樹燐と比べれば確実に好感が持てる。
 用件だけでも聞いてみようと、音耶は姿勢を正しながら入室を許可した。
 ゆっくりと重い扉を開けた来訪者が、その隙間から顔を覗かせた。彼女は、女性とは言うよりは少女という言葉が似合う幼さが漂っている。屈託のない可愛らしい容姿と仕草で、散らかっている室内の様子を伺っていた。大きな瞳を左右上下に揺らしている姿は、本当にここが大王の書斎なのだろうかと考えているように見える。
 少女は書類で埋まった机の向こうに座る音耶と目が合い、あっと呟いて慌てて微笑んだ。
「は、初めまして」後ろ手で扉を閉めながら。「私、文殊もんじゅ菩薩の眷属・珠烙しゅらくと申します。突然お邪魔してしまってごめんなさい」
「はあ……」
 彼女が神族であることは一目で分かった。しかし、と思う。来客の予定はなかったし、普通なら客を通す前に鬼が声をかけてくるはずである。用件を聞く前に、どうやってここまで来たのかを確認しようと思う。
「えーと、何か、緊急で?」
「い、いえ」珠烙は扉に背を付けたまま。「急ぎではないんですが、その……樹燐様に、紹介されて」
 音耶はその名前に敏感だった。しかも先ほど追い返したばかりだ。珠烙からは危険は感じないが、眉を寄せて警戒心を強める。
 その表情に気づき、珠烙は肩を竦めて声を落とした。
「あ、あの、何かいけなかったでしょうか……」
 珠烙が何も知らないのならあまり厳しいことを言うのは可哀想である。しかし、遊び半分で出入りされるわけにはいかない。
「門番に止められなかったんですか?」
 明らかに不機嫌な音耶の口調に、珠烙は目線を落して更に体を小さくした。
「樹燐様にあなたのお話を聞いて、ぜひお会いしたいなって思ったんです」
 大した用事ではないのだけは読めた音耶は、再び書類に向かい、話半分で聞くことにした。
「それで、何の用でしょうか」
「そ、それで、樹燐様に会いたいって言ったら、音耶様とはさっき会ってきて、今なら暇そうだったから行けばいいって仰ってくださったんです」
 音耶は頭を抱えた。暇そうだからとは、大嘘にもほどがある。
「でも、いつもはお忙しいお方だから、急いだほうがいいって、樹燐様が紹介状を書いてくださったんです」
 言いながら、珠烙は一枚の紙を胸元から取り出して見せるが、音耶はそれに目を向けもしなかった。
「ですから、何の用ですか?」
「それは……」
「私の話って、どうせ悪口でしょう? 無能だとか、つまらん男だとか、樹燐様はそういうことしか言わないじゃないですか」
「……はあ」
 珠烙は否定をしない。分かっていることはとは言え、本人を目の前にそれもどうかと思っていると、珠烙は慌てて話し続けた。
「そ、そうなんですけど、でも」失礼なことを言いつつ、珠烙は少し頬を赤く染める。「私は、一生懸命頑張ってる男の人って、素敵だと思うんです」
「…………」
「樹燐様は厳しいお方ですけど、お話を聞いてると、まだお若いのに頑張っていらっしゃるんだなあって……だからぜひご本人にお会いしたいって思ったんです」
 悪い印象はないが、まだ疑いは晴れない。音耶はちらりと彼女に目線を移した。
「……で、ご用件は?」
「あ、はい、あの」珠烙は胸の前に両手を組んで微笑んだ。「私を、秘書にしていただけませんでしょうか」
 音耶はすぐには返事をしなかった。しなかったと言うか、できなかった。そんなことを急に言われてもという言葉しか出てこない。音耶が固まっていると、珠烙は気まずさを感じ取って急いで続けた。
「いえ、今すぐじゃなくていいんです。音耶様の事情も、地獄の方針もあるでしょうし、私にそんな能力があるのかどうかも自分で分かりませんし。だからまずは、あの、適正を試して、私にできることがあるかどうかを考えていただきたいんです」
 音耶は悩んだ。秘書だなんて今まで存在しなかったし、欲しいと思ったこともない。何よりも、必要かどうかを判断する前に、この珠烙という少女が本当に、真剣に仕事をしたいと思っているかどうかが問題である。
 仕草や話し方から怪しいと感じるところはないが、樹燐が自分に有益な方向へ持っていってくれるとは考えにくい。しかし、もしかすると音耶のためではなく、珠烙のために動いてくれたという可能性はなくもない。樹燐は姉御肌な性質であり、素直に頼ってこられると断れないところがあるからだ。
 それでも、先ほどの樹燐とのやり取りを思い出すと、何かを企んでいると思ったほうが利口かもしれない。だけどもし、珠烙が純粋に仕事をしたいと思っているとしたら、ここで追い返すのは残酷で、そのことでまた樹燐に責められてしまうのかもしれない。
 音耶は仕事を忘れて考えこんだ。疑う暇があるなら働いたほうが建設的なのだが、彼の優柔不断な性格が足を止めてしまっていた。
 うーんと唸る音耶を見て、珠烙は困らせてしまったと更に慌てだした。
「あの、ごめんなさい。今すぐじゃないんですよ。まだ天上の上部に許可をもらってきたわけではありませんし。今はただ、音耶様のお手伝いがしてみたいだけなんです。邪魔でしたらすぐに諦めますから……」
 しおらしい珠烙の態度に、音耶は気を弱くする。
「……秘書って、一体何をするんですか?」
 弱々しくも、少しだけ前向きな言葉に珠烙は途端に笑顔に戻った。
「私もまだ分からないんですけど、えっと、そうだ、まずはお部屋の片付けなどさせてもらえませんか?」
「えっ」
 珠烙は輝かせた目で室内を見回した。広さは結構なものなのだが、そのほとんどに書類が散乱している。梯子が必要なほどの棚は壁を埋め尽くし、高い天上近くまで聳えている。
 すべての命の人生がここに書き綴られているのだ。そう考えればこの量は納得できる。しかしここまで散らかす必要は、特にない。
 片付けると言っても普通の部屋とは違うここを、どう整頓していけばいいのか珠烙は悩んだ。一通り眺めた後、足の踏み場もない床に座り込む。
「じゃあ、まずは床に落ちているものを集めますね」
 作業するには向いてなさそうな衣服の裾を片手で掴みながら書類に手を伸ばした。
 音耶は戸惑いながら椅子から立ちあがる。
「いや、ちょっと待ってください」
 こんなに今すぐ始めるのかという驚きもあったが、その前に書類を勝手に触られては困る。ここにあるものは、そうは見えなかったとしても、命の軌跡を記録した大事なものなのだ。何の前触れもなしにやってきた初対面の部外者に触らせていいものではなかった。
「か、片付けはいいですよ……手や衣服が汚れますし」
 珠烙は手を止めて音耶を見上げた。本当にただの親切心なのか、樹燐の草なのかはまだ分からないが、どちらにしても秘書をどうするのかという話は後にしたいところだった。
「それに、散らかっているようですが、これでもどこに何があるのかは自分で、大体は把握しているんです。だから、場所を変えられるのは、あまり……」
 言葉を濁す音耶の気遣いを察し、珠烙は書類を床に戻して立ち上がった。
「そうですよね。ごめんなさい」片手を口元にあて、くすりと笑い。「音耶様って、整理整頓が苦手なんですね」
「はあ……」
「そういうところも……可愛いですね」
「…………?」
 口籠りながら再び顔を赤くする珠烙に音耶は首を傾げた。とにかく、後で話しをする時間を作るから今は出ていって欲しいと伝えようとしたとき、珠烙がそれより先に背後の扉に手をかけた。
「そうだ、お茶を入れますね」
「え、ああ、はい。それなら……」
「ではっ、おいしいの入れてきますから、お待ちくださいね」
 お願いします、と音耶が言い終わる前に珠烙は退室していった。しばらく放心した後、眉を寄せて頭を捻った。
(……なんだろう、この感じ)
 もしかして、もしかしてと音耶は珍しく前向きな予感を抱く。
(もしかして……あの人は)
 自分に恋心を――? 一瞬、口元が緩んだ。音耶は今までにモテた経験がない。忙しいというのもあったのだが、元々引っ込み思案で、思考が後ろ向きで、人見知りも激しい。しかもこの地獄には人の姿さえしていない恐ろしい鬼しかいないのだ。煌びやかな天上界ならいくらでも美女はいるのだが、幼い頃に親に連れられてしか行ったことがない。
 天上とは違う次元の世界とはいえ、仮にも音耶には閻魔大王という名義がある。たまに天上の女官が興味を示してくることもあったのだが、まるで穴場とでも言わんばかりの目の色で、しかも数人で追いかけてくる。
 当然、いい気分のしない音耶は忙しいことを理由に逃げ回ってきた。忙しいのは事実だったし、あの派手な世界が苦手な彼は、そんな女官たちのせいで余計に天上を避けるようになっていたのだった。
 しかし、今回は何かが違う気がした。珠烙はもしかすると純粋に、音耶という男に好意を抱いているのかもしれない。確実に悪口しか言わない樹燐の話の中から自分のよさを見抜いてくれた――そうだとしたら、これは貴重な存在だと思う。
 今まで、面倒臭いから一人でいいと思い込んできた彼だが、心優しくて気の利く可愛らしい女性が傍で支えてくれるなら、なんて、安らぐ空間なんだろう。そんな未来があったなんて、音耶は途端に目が覚めたような感覚に襲われた。
「!」
 書類の隙間でうっかり妄想してしまった音耶は、はっと机上の置き時計に意識を奪われる。もうすぐ死者裁判の朝の部が始まる。実現していない理想の世界に酔っている場合ではないと、慌てて頭を切り替えた。


 裁判までになんとか整理を終わらせた音耶は、無事に死者の行列の先頭にある台座に時間通り座ることができた。
 あの後、数分後にお茶を運んできてくれた珠烙が急に輝いて見えた。だが、まだ信用していいかどうかという材料が何もない。正式に秘書として働いてもらうかを決めるまでは書斎に長居させることはできないと、昼の休憩まで別の部屋で待っていて欲しいと伝えた。
 必死で平静を保ちつつ、昼休憩が待ち遠しく思った。そのときにもっと話を聞きたいなどと考えてしまう。心が浮ついている音耶は、暗い顔の死者を目の前に、無意識に頬が緩んでしまっている。
 補佐役である鬼たちは、彼のそんな様子を不気味がっていた。



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