SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-10





 ティシラとトールは小走りで階段を上がっていた。その少し後ろから先ほどの兵も着いてきている。もう少しで城内への扉に手が届く、というところで、内側から何かが飛び出してきた。二人は驚いて体を揺らすが、声は上げなかった。固まる二人にぶつからんばかりの勢いで、マルシオが体当たりしてきた。マルシオはト−ルに腕を掴まれ、かろうじて転ばずにすんだが、その顔は蒼白していた。
「どうしたんだ」
 こんなに混乱した彼を、あまり見たことがない。何かいいたそうにしながらも、口を震わすだけで声にはなっていなかった。
「マルシオ」
 再びトールに名を呼ばれ、マルシオは改めて彼と目を合わせる。マルシオの怯えたそれは、必要以上に何度も深く瞬きをしていた。そこから伝わるものは「言いたいことはあるが頭でまとめることができず、だけど誰かに救いを求めたい」というようなことだった。トールはそんな彼をどう扱っていいのか分からず、隣で目が点になっているティシラに顔を向ける。ティシラもトールに目を向けるが、その隙にマルシオは彼の腕を払い、着いてきていた兵を押しのけて階下へ駆け下りていった。
 反射的に追おうとするティシラの背中に、トールは困惑しながら声をかける。
「ティシラはマルシオを追って。僕は広場に行ってみる」
「分かった」
 二人は短く言葉を交わし、それぞれに背を向けて姿を消した。兵士はマルシオに壁に押し付けられた格好で、結局何が起こっているのかまったく理解できないまま狭い階段に取り残されてしまっていた。
 ティシラは小走りで階段を駆け下り、再び森の中へ戻った。足を止め、辺りを見回す。そして顎を上げたまま目を閉じてマルシオの魔力を探した。すぐに察知し、ティシラはそれを感じたほうへ足を進めた。
 大きな木に回り込むと息を切らしたマルシオが棒立ちしていた。顔を出したティシラと目が合い、咄嗟に出そうになった悲鳴を抑えるために両手で口を塞ぐ。しばらく、二人は向き合ったまま言葉を失っていた。次第にマルシオは落ち着きを取り戻し、腕を垂らした。
「一体何があったの?」
 体の力を抜き、木に背をつけて座り込むマルシオにティシラは首を傾げる。マルシオは俯き、すぐには答えなかった。
「ねえったら」
 ティシラは彼の隣に腰を折り、彼の顔を覗き込む。マルシオは心配している彼女の顔も見ないまま、ぽつりと呟いた。
「……絶対」マルシオは頭を抱える。「ミロド様の差し金だ」
「?」
「きっとフーシャは言いくるめられてここに来たに違いない」
 理解不能な独り言を続けるマルシオに、ティシラは遠慮なく問いかけた。
「ブツブツと何を言ってるのよ」大きなため息をつき。「ミロドとかフーシャとか、それって誰? 何があったのか、分かるようにちゃんと話してよ」
 きつい口調で言われ、マルシオは顔を渋々上げる。先ほどティシラを怒鳴りつけていたときの表情とはうって変わり、彼は今にも泣きそうな弱々しい目をしていた。理由は分からないがその姿があまりにも哀れで、ティシラも釣られて脱力してしまう。
 二人の周囲には、緩やかな風が揺らす葉や枝のざわめきだけが流れていた。時々、遠くから物音が聞こえることもあったが、二人の耳には入らなかった。
「幼い頃に、数回会っただけなんだ」マルシオは弱い目線を遠くに投げながら話した。「でもそれは天界では珍しいことじゃない。結婚相手はたいてい親が決める」
「結婚相手?」ティシラは目を見開いた。「誰の? え、あんたの?」
「一応……」
「ってことは婚約者? あんたの婚約者が人間界に来てるの?」
「そうだよ」
「本当? 何しに来たの? もしかして、あんたを連れ戻しに? あんたを愛するあまり、身一つで追いかけてきちゃったの?」
 ティシラはつい笑顔になってしまう。
「やだ、健気じゃない。じゃあマルシオ、あんた結婚するの? 人間界で? それとも、天界に帰っちゃうの?」
 マルシオは黙って眉間に皺を寄せた。
「あ、でもあんた、追放されたって言ってたわよね。そんなに簡単に帰れるものなの? そうだとしたら天界って結構いい加減なものなのね」
 次から次へと問いかけるティシラに、マルシオは嫌気がさしてくる。結局彼女にとっては他人事に過ぎないのだ。そうだった、と改めて深いため息が出た。
 それに気づき、ティシラはふっと笑顔を消す。口を噤み、体を縮めた。マルシオがどんな苦悩を抱えているのかは知らないが、このままだと話が進まないことに気づく。まずい。空気を読もう。ティシラは今更ながら声を落とす。
「えっと……あの」言葉を選び。「で、あんたの婚約者って人は、何しに来たの?」
 マルシオは表情を変えず、ぽつりと呟く。
「たぶん、俺を連れ戻したいんだと思う」
 なんだ。やっぱりそうなんじゃないかとティシラは思う。
「戻って和解できるならそれでもいいんじゃないの?」
「戻ったらもうここには来れない。そして、彼女と結婚するしかないんだ」
「……嫌なの?」
「今はそんなこと考えられない」
「嫌なら嫌だって言えばいいじゃない」
 ティシラにとっては当たり前のことを軽く口にする。マルシオとしては、それができれば苦労はしないとしか言いようがなかった。
「一応、断ったよ。彼女のことが嫌いだとかそういうことじゃなくて、興味がないというか」
「それって、嫌いってことじゃないの」
「違う。興味がないのは彼女にじゃないんだ。結婚だとか、跡継ぎだとかそういうことだよ」
「大げさね。結婚は好きな人とするものでしょ。それで子供ができることは自然なことじゃない」
 ティシラのいうことを理解できなくはなかった。だが、そうじゃないという言葉を何度も飲み込み、ティシラにこれ以上を説明しようかするまいか、そこを悩んだ。きっと、人種や世界の違いによる風習や考え方を理解してもらうには時間がかかると思ったからだ。ティシラという自己中心的な少女にはとくに難解なことのはずだ。それに内容云々の以前に、他人を尊重し、受け入れようとする意識が薄い彼女のことだ。天界の「神聖で気高い」空気など、読もうとも、読もうと努力してくれるとさえ到底期待することなどできなかった。
 だが冷静に考えて、読んでもらう必要はないのだ。今の状況では、簡単にでも話さずには済まされないだろう。打ち明けることに抵抗はない。だが、ティシラに話すことで何か解決法が見出せるわけがなく、慰めの言葉さえ出てきやしないのだろう。それどころか、馬鹿にされるのが目に見えている。どうしよう。そんなことを考えているうちに、マルシオは次第に冷静になっていった。
 それをティシラはじっと待っていられなかった。乱暴に肩をつかんで催促する。
「ねえったら。これ以上じらしたら殴るわよ」
 マルシオも不快な表情を彼女に向ける。じらしているつもりはないし、仮にじらしたからと言ってなぜ殴られなければいけないのだと不満を募らせながら彼女の腕を振り払う。
「分かった。話す。だけど」ティシラに向かって人差し指を立てる。「一回しか言わない。そして、少しでもふざけたらそこで終了するからな」
 そうきつい口調で言い切られ、ティシラは口を一文字に結んだ。なんとなく府に落ちない。そう思った。確かに話せと言ったのはティシラだが、よく考えるとそこまで言われても聞く必要のある話なのかどうかという疑問を持った。正直なところ、別にマルシオを心配しているわけでもなく、ティシラにとってその価値さえない彼の故郷の事情などどうでもいいことだった。だが唯一、マルシオの「異性関係」については興味があったのだ。彼には浮いた話の気配もなければ、煙さえ立たない。たまにからかってみても、マルシオは面白い反応さえもしてくれなかった。とりあえず話は聞いてみたいというのが正直な気持ちだった。聞いてみて、面白くなかったらからかってやろう。ティシラはそう思いながら、真面目な顔をして深く頷いた。
 マルシオはそれを確認して、仕方なさそうに彼女から目を離す。そして、息を潜めて聞き取りにくい声で話し出した。


*****



 フーシャはライザたちに丁寧に案内された客室から窓の外の風景を眺めていた。淡い太陽の光に照らされた彼女の横顔は美しかったが、その銀の瞳はやはり悲しそうだった。
 周囲は必死で気を遣おうと様子を伺っているが、フーシャは黙って自分の世界に浸っていた。
 そこでドアがノックされ、急いでサイネラが向かった。本来ならばドアを開閉する役目はここにいる面子がやることではなかったのだが、今は緊急の事態である。女王陛下、魔法軍総長、アカデミー頭取の三人が顔を合わせることさえ極稀なことであり、隠すことがなければその情報を世界に配信されてもおかしくないほど貴重な時間だった。だが当の三人はそれ所ではない。身分や立場を見失いそうなほど困惑していた。フーシャという少女が何者で、どのような人格者なのかはまだ分からないが、この場に「天使」がいるという事実だけが我を失わせそうになるほどのことだった。
 天使は五千年以上も前にこの地上を離れた、今となっては幻のような存在である。だが決して幻ではなかった。そのことはマルシオの存在で確証はされている。そして同時に免疫もあったつもりだったのだが、実際目の当たりにしてしまうとやはり安易に受け入れることはできなかった。
 サイネラがノックに応えると、ドアの向こうからトールの声が返ってきた。サイネラは急いでドアを開ける。トールは、青月の扉で預けたマントを再び受け取り、それを片手に掴んだまま室内に入ってきた。三人は彼の姿を見て、少し安堵した。明確な理由はなかった。やはりトールは国王陛下である。彼がその地位に立ってから大きな事件はとくになかったが、トールは常に冷静な態度で物事を収めてきた。それを「能天気」だ「無神経」だからだと陰口を叩く者もいる。近しい者も一概には否定することができなかったが、それだけではないことも理解している。王の役目は導くこと。どれだけ力があっても信頼されない者は人を指導することなどできないのだ。そのことを心しているトールの周りには自然と賢人が寄ってきた。それを纏める能力を生まれ持つ彼の王政は、現在は安定していた。
 フーシャがゆっくり振り向いてトールを見るが、すぐに目を逸らした。トールは三人に小声で尋ねる。
「誰?」
 ライザが平静を保ちながら答える。
「フーシャ様と仰います」一度深呼吸して。「マルシオの婚約者である天使です」
「えっ」
 トールの額に汗が流れた。天使なのは、正直一目見て予想はできたのだが、まさか「あの」マルシオの婚約者だとはと耳を疑った。
「そ、それで、彼女は一体なんの用でここへ?」
 多少戸惑ってはいるようだが、やはりトールは取り乱すことはしなかった。ライザたちも落ち着き始める。
「それが、詳細はまだお伺いしていないのです」
 トールは、ライザたちが見た目以上に混乱していることにやっと気がつく。改めて、状況を考え直した。何の前触れもなく天使が現れたこと、そしてそれがマルシオの婚約者であること。そして、ライザとサイネラとラムウェンドは魔道に従事する者たちである。きっと天使という存在は神に等しいに違いないのだろう。例えばどれだけ意外で未知なるものであったとしても、守るべきものを傷つける凶悪な敵であれば気丈に対応できたのであろうが、フーシャという少女は決してそうではない。崇拝、敬愛するに相応しい存在が突如形になって触れる位置にいれば、まともではいられないものなのだと思う。
 そもそも、昔は人間と苦楽を共にした天使が遠い幻となってしまったには理由があった。その事実を受け入れ、長い時間をかけることで天使の存在価値は定着してしまっていたのだ。今でも人間界に天使が戻れる大地や魔力が復活すればと願う者は、いなくはない。だが、それを具体的に想像し、現実的に考えることができる者はほとんどいないはずだ。現実、天使が降臨することなどあり得ないということが前提だからこそ、そういった思いに夢を募らせることができるのかもしれない。いざ、自らの意思で天使が現れた今、実際ライザたちは戸惑うことしかできないでいる。
 それがいいのか悪いのかは、誰も決めることはできない。目の前にあることが事実なのだから。そのことを意識しながら、トールはマントを纏い、整えながらフーシャにゆっくり近寄った。


   

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