SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-12





 ティシラは屈んだまま声を漏らした。
「えっ、それじゃあ、あんたとその女、二、三回会っただけなの?」
「そうだよ」マルシオは憂鬱な顔で。「しかも、小さい頃」
「小さい頃って、子供のときから婚約者なんて決められるの?」
 二人は大きな木に背をもたれ、草の上に腰を下ろしていた。マルシオはティシラと目を合わせないまま質問に答える。
「年齢は関係ない。特に、それなりに身分のある者はすぐに相手が決められる。もちろん本人の気持ちだとか、そんなものも関係ないんだ。天使は自分から恋愛なんかしない。その類の感情がないわけじゃないが、宛がわれた相手を自動的に好きになったことになる」
「何それ」ティシラは眉間に皺を寄せた。「天使はみんな好きでもない相手と結婚しているってこと?」
「そうじゃないよ。だから……」
 マルシオは少し考えた。できるだけ彼女に分かる言葉で話しているつもりだった。ティシラがいない間にもだいぶ人間寄りの考え方をできるようになったし、実際その方が楽であることを自然と認め始めていた。それでもマルシオ自身の根本には天使の概念がある。幼い頃から根付いている考え方や性格を変えることは容易くない。どう説明すればいいのか、話している途中で何度も挫けそうになったし、今も壁にぶつかっている。マルシオは俯き、悩んだ。正直、これ以上話したくなくなってしまっていた。もう面倒臭いからこのまま彼女の言うことに適当に相槌を打って終わりにしようかと思う。だが、ティシラがそれを許してくれそうになかった。
「ああもう、イライラするわね。もっと分かりやすく説明しなさいよ。とにかく、あんたはその女のことをどう思っているのよ。まずはそこをはっきりしてよ」
 その質問の答えは簡単だった。
「なんとも思ってないよ」
 あっさりと、つまらない返事をされ、ティシラは更に問い詰める。
「じゃあ、あんたは一体どうしたいの」
「それは……」マルシオの表情が再び弱気になる。「彼女には興味がない。彼女に限らず、結婚する気なんて、今はない。その先のことも考えてない。天界に帰るつもりもない」
「…………」
「帰るつもりがなくても、帰らざるを得ない状況になればこれ以上逆らってはいられないかもしれない。それでも、俺自身はここにいたいと思ってる。できることなら天界の者に干渉されたくないんだ。フーシャには何も非はない。でも……いや、だからこそ、彼女には俺に関わって欲しくない」
 素直な気持ちを口に出すしおらしいマルシオの態度に、ティシラは勢いを消した。遠くに目線を投げる彼と同じ方向を見つめた。
 かと言って、意見があるわけではなかった。マルシオのためになるような言葉は出てこない。ティシラとしては「好きじゃないなら無視すればいいのに」としか思えないことだった。
 だが、自分に置き換えて考えてみると、彼の気持ちが理解できなくはなかった。そういえば、と思う。自分も父に無理やり結婚を勧められたことがある。その時点では決して相手の条件に問題はなかったわけで、でもどうしても気持ちが付いてこずに破綻した。
 その相手――メディスのことを思い出すと気分が悪くなる。ティシラは少し眉を寄せたが、今はそのことを考えるのはやめようと、すぐに頭の中にある彼の記憶を掻き消した。
 思考を戻し、真面目に考えることにする。最初はからかうつもりで話を聞いていたのだが、そんな気も失せ、ティシラは意外にもマルシオに素直に同情した。
 境遇は違えど、好きでもない人と結婚することの心痛は理解できる。身内や親族はそれを望み、決して悪意などはなく、彼が幸せになるのだと信じているのだと思う。だからこそ辛いのだ。誰も傷つけずにはすまないのかもしれないが、ただ理由もなく無碍に突き放すわけにはいかない。どう断り、最悪の事態を避けるか。こういった類の悩みは相談できる相手もなかなかいないものである。一人で悩めば悩むほど、答えは出ないまま結局自己嫌悪に陥る。ティシラはそのことを知っていた。だからこそ、マルシオを放っておけなくなってしまっていた。
「ねえ、それじゃあ、あんたは婚約者がおとなしく国に帰って、婚約も破棄してもう二度と近づかないで欲しいっていうのが一番いいと思っているのよね」
「え?」嫌味のない彼女の声に戸惑いながら。「そ、そこまで極端な言い方するなよ。別に彼女は悪い人じゃないし、嫌いなわけでもないし」
「そんな建前はどうでもいいの。そうね。円満にってのは難しいと思うわ。ただの意見の食い違いなら誤解を解けばいいけど、親とか家柄とかが絡んでくるとなると複雑だもんね」
 マルシオは耳を疑った。からかわれるか、理解できずに茶化されて終わりくらいにしか考えていなかった。なのにティシラが人の立場になって、親身になってものを考えているということは予想外の展開だったのだ。真剣に考えながら唸り声を漏らす彼女の横顔に面くらい、マルシオはフーシャのことをしばし忘れてしまっていた。瞬きさえ忘れて呆ける彼の気を知らず、ティシラは「そうだ」と大声をあげた。
「無理に納得してもらうんじゃなくてさ、彼女から帰りたくなるようにすればいいのよ」
「えっ」
 反射的に返事をしてみたものの、まだマルシオはぼんやりしていた。あわてて思考を元に戻す。
「ど、どうやって?」
「うーん、そうね」ティシラは人先指を顎に当てる。「やっぱり一番簡単なのは、あんたを嫌いになってもらうことじゃないかしら」
「嫌いにって、例えば?」
「あんたの嫌なところを見せてやればいいのよ。俺はこんなヤツなんだってことを教えてやればいいわ」
 自分の嫌なところ――マルシオは言われたとおりに考えてみた。思い当たることがないわけではない。いくらか頼りないかもしれないし、何よりもやはり、自分勝手に人間界に留まっていることは致命的なのではないだろうか。そこにおかしな理由をつけてしまえば……などと思っている横から、ティシラは透かさず声を高くした。
「何悩んでるのよ。そんなのいくらでもあるじゃない」
 マルシオは再び彼女に怪訝な目を向けた。ティシラは構わずに早口で続ける。
「バカだしドジだし、軟弱だし、猫にだって舐められてるじゃない。男としての貫禄も魅力もゼロ! 魔法だって未だにヘタクソだし、女の子にはモテないし、短気で泣き虫で無愛想で、気取ってるくせに人見知りだし。まだまだ山ほどあるわよ。まさか自覚ないの? むしろいいとこを探せって言われたほうが難解じゃないの」
「な、なんだと!」マルシオもかっとなって大声を出す。「そこまで言う必要ないだろ。大体お前にそんなこと言われる筋合いは……」
「あーもう!」ティシラは立ち上がってマルシオを見下ろした。「そんなこと言ってる場合じゃないんでしょ。今はあんたの婚約者をなんとかしようって話をしてるんじゃない。これは悪口じゃなくて、助言してあげてるの」
 マルシオも立ち上がる。確かに彼女の言うことは間違ってはいないが、今のは悪口だとしか思えない。しかし、今は怒りを我慢して冷静な判断をする努力をした。
「わ、分かってるよ。でも……お前が言ってることは彼女にとってはきっと問題じゃない」
「そうなの? 私だったら即却下だけどなあ」
 もういいから、とマルシオは一度目を閉じて罵倒を飲み込む。
「そもそも、彼女は俺のことなんかほとんど知らないんだよ。周囲に認められた婚約だから、そう簡単に破棄するわけにはいかない。だからそんな性格上の多少の欠点なんか理由にならない」
「ああ」なんとなく、分かると思い。「そっか、それもそうね。だったら天使にとって最悪なことってなんなの? 絶対に許されない行為とか」
 悪いことなんか考えつかないマルシオには難しい質問だった。許されないことはたくさんあるが、いざ自分と当てはめるとなると安易に想像できることではなかった。
「あ、これは? 人殺し」
 平然と言ってのけるティシラの言葉に、マルシオの顔が青ざめた。
「バカ。そんなことをしたことにして、天界に伝えられたら追放どころじゃなくなるだろ。速攻で上層が来て、問答無用で処刑される」
「そうなの? 天使って面倒臭いわね」
 殺しをして平気でいられるのは魔族くらいだと思い、マルシオはため息をついた。ティシラには少し黙っていて欲しく、彼女に背を向けて改めて考えた。
 婚約者のフーシャが絶望するようなこと。先ほどティシラが羅列した個人的な欠点は使い物にならない。天使という括りの中で、背徳に値すること。その上で、いくらか軽蔑される程度で済むことという「都合のいい」理由を探すことにする。
 それでも、やはりマルシオは自分が汚れずに済むならそれに越したことはないという希望を拭い切れずにいた。だがそれでは駄目だと、自ら心に鞭打つ。ここは恥を捨てるしかない。そうだ、罪を犯す必要はない。恥を晒すくらいなら何とか……。
 喉を唸らすマルシオの様子を伺うようにティシラが彼の顔を覗き込むが、マルシオは彼女から逃げるように方向転換する。背後で面白くなさそうな顔をするティシラを放置し、マルシオは更に考えた。
 ふと、マルシオの脳裏にある自分の言葉が思い出された。
『それは一体いつのことだよ。それまでずっと俺が恥をかきながら保護してなきゃいけないってのか。無理に決まってるだろ。俺に死ねって言ってるのと同じことだぞ』
 ピタリとマルシオの動きが止まる。そうだ、これはつい先ほど自分自身で豪語したものだ。もちろん本気で、心からそう思って出た台詞であることは間違いない。
(確か……なんの話だっけ)
 マルシオはティシラと喧嘩し、本人のいないところで散々貶したこともすっかり忘れていた。
(あ、そうだ)
 トールに無茶な提案をされたことを思い出して顔を上げた。そして再び、顔の血の気が引いていった。
(……ティシラの、恋人の振りをしてくれって)
 改めて背筋に寒気が走る。しかし今はそれについての意見を纏めているときではない。なぜ自分がそこまで嫌悪を抱くのかを分析した。
 最初に出てくる理由は、やはりティシラを女として見ることができないこと。それから、何よりも彼女にその魅力を感じることができないことだった。今までも一緒にいるだけで恥ずかしい思いをさせられたことが多々あった。きっとこれからもなくなることはないと思う。
 だが実際、ティシラを可愛いだの美人だのと形容し、彼女の度を越したデタラメな言動を女特有の我侭だと許容し、それも個性だと受け入れる者は少なくないのだ。自分も、なんだかんだで彼女とは友であり、無理なく生活を共にすることができている。意地を捨てれば、決してティシラのことは嫌いではない。いや、嫌いという感情はない。好きか嫌いかと問われれば、好きなほうなのだと思う。戦争後、何十年も彼女の行方も消息も不明のまま、ずっと待ち続けてきた。そして、やっと会えた。ティシラのことは好きなのだ。それは否定できない。決して本人には言える言葉ではなかったが。
 ならば、一体ティシラの何が許せないのだろう。許せないとまではなくても、どうして無意識に拒絶してしまうのだろう。
 そうだ。マルシオは目を揺らした。
 魔族だからだ。
 もちろん、魔族という名前だけではない。魔族だからこその残酷な思想や考え方。そして行動。その中で、今までに何度も喧嘩してきたがティシラが決定的な罪を犯すことはなかった。だから一緒にいれたものの、もしこれからティシラがそれを行ってしまったとき、それでも彼女を憎まずにいられるという自信はなかった。
 そんなティシラと恋仲に――振りでもあり得ないし、それだけはできないという答えをマルシオは出した。
 そこには種族の違いによる偏見が伴っている。それは認めるしかなかった。
「……そうだ」
 マルシオは漏らすように呟いた。ティシラがその声を聞き取り、数回瞬きをした。
「それなら、もしかして……」
 マルシオはやっとティシラに向き合ったが、彼女の顔を見た途端に言葉に詰まった。
「何?」
 ティシラは彼のおかしな態度に眉を寄せる。マルシオはしばらく目を泳がせた後、深呼吸をした。そして、断腸の思いで言葉を搾り出した。
「ティシラ。俺の、恋人の振りをしてくれないか」
 マルシオは、言った後に激しい後悔に襲われた。しかし今は、これだけは嫌だということをする必要があるのだ。
 目が点になっているティシラを見ていると、恥辱が増す。早く返事を、できるだけ軽く、と願っていると、ティシラがやっと口を開いた。
「……は?」
 二人の間に、冷たい風が流れた。


   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.