SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-25





 マルシオとフーシャは客室の窓際のソファで、テーブルを挟んで向き合っていた。トールはマルシオの隣に、居心地悪そうに腰掛けている。室内の空気は張り詰めていた。マルシオは俯き、フーシャは鼻をすすりながらハンカチを握り締めている。
「……マルシオ様」声も途切れ途切れだ。「本当に何も覚えていらっしゃらないのですか」
 マルシオは苦笑いを浮かべる。
「あれほど素晴らしい行いをされたというのに、それがすべて幻だったなんて……信じられません」
 トールは二人を見ようとはせず、心の中で「もっとマシな嘘をつけばよかったのに」と思う。
「思い出してください」フーシャは身を乗り出した。「邪悪な魔力に、長い時間を掛けて侵蝕されたそのお心が、私という魂の伴侶に共鳴し、あなたは自ら強い正義を呼び起こしたのですよ」
 マルシオは「はあ」と声を漏らす。フーシャには聞こえていなかった。
「悪に打ち勝ったそのお姿は、それは大天使様にも劣らぬほど凛々しいものでした。やはりマルシオ様は、特別な力をお持ちなのだと、私の目は曇ってなどいなかったと、どれだけ感激したことか」
 トールは顔を逸らしたまま、彼女の見事な勘違いっぷりに感心していた。
「それなのに……魔女は更なる暴力でマルシオ様を傷つけ……だけど、その御眼が再び開かれたとき、マルシオ様が真のお目覚めをされると、私は信じて疑いませんでした。なのに……」
 フーシャは声を落として、止め処なく涙を流す。目を擦り過ぎたせいで、少し瞼が腫れていた。
「まだ呪いは解けていなかったなんて……一体、どうすればあなたをお救いできるのでしょう。私はもう悲しみで命が削れてしまいそうです」
 マルシオは、やはり咄嗟に取ってしまった自分の行動が更にフーシャの勘違いを暴走させてしまっていると思った。どうしたらいいのか分からないのはこっちだと、心の中で反発する。
 だが、今はとりあえず時間を稼ぐことを考えていた。現在行われている魔法の結果を待てば、何かしらの変化があるはずだからだ。
 しかしマルシオは、いろんなことがあり過ぎて疲れていたせいか、「予測できるはずの事態」と、そこから生まれる「予測できない未来」への警戒を見失ってしまっていた。
 それが明るいものであるのならそれに越したことはないのだが、自分を含める周囲のほとんどの者たちの精神状態が不安定になっているのだ。奇跡でも起きない限り、そう事はうまく進まないのが現実だった。


*****



「ティシラ、ティシラ!」
 紫水晶の空間は騒然としていた。
 ティシラは、失った記憶へ突入した直後に、突然悲鳴を上げた。その場に仰向けに倒れ、形振り構わずに床を転げまわった。尋常ではない彼女の苦しみように、サンディルは顔色を変え、いつもの穏やかな彼からは想像できない険しい表情で魔法を中断してティシラを引き戻すように二人に命じた。
 ライザとサイネラは急いで空間を現実のものへ戻し、間もなくティシラに魔力を注ぎ込み始めた。
 ティシラは白目を剥き、断末魔の悲鳴を上げながら止め処なく涙を流した。サンディルも自分を必死で落ち着かせ、召還した精霊たちを自然へ還した。この手順を間違えれば、変換された異空間が壊れ兼ねない。異常を察した精霊たちは静かに姿を消してくれた。それを確認し、サンディルは暴れるティシラに近寄った。彼女の魂がここにないことに気づき、その居所を探した。
「いかん……このままでは、ティシラの自我が崩壊する」
 ライザとサイネラは心臓が掴まれたかのような痛みを感じた。このままティシラが戻ってこなければ、彼女は死ぬ。
 魔族は人間と違い、肉体と魂が同じもので構成されている。その魂を過去へ送るということには相当の危険が伴う。人間であれば、肉体と繋がれている魂の糸を保護し、うまく操れば魂そのものの業を浄化することも可能である。だが逆に、肉体と魂が一体化している魔族は、体がある限り魂に直接触れることは不可能であり、してはならないことだった。
 今ティシラの体が起こしている反応は、魂が感じているものなのである。肉体と魂が別であれば、魂が抜けた肉体はただの器に過ぎない。だが、ティシラは違う。魔族の肉体は魂を映す鏡のようなものである。このまま体の一部である魂が、何か得体の知れないものに傷つけられたり奪われるようなことになってしまったら、肉体は生きる上で必要不可欠な「核」を失い、機能を停止することになる。
 それを承知の上でサンディルに従い、正しい魔法を行ったつもりだった。手順は間違ってはいない。ただ、その先にあるものに対する警戒が足りなかったのだ。
 三人は取り返しの付かないことになる前にと、震えを抑えてティシラの意識を探る。自分も引き込まれてしまわないように気をつけながら、彼女の中に入っていく。だが、意識の深層まで探しても彼女の魂はどこにもいなかった。
 どこにいる……どこに。早く見つけなければ、魔力が尽きれば完全に手遅れになってしまう。
 サンディルは最悪の結果を想像した。もしも、ティシラが捕われているのが「あの場所」だとしたら、そうだとしたら、内側は当然、外部からの侵入は本来不可能。そしてあの場所とは、肉体を始めとする形ある物質の存在できないところ。もし迷い込むことがあっても、肉体は例外なく消滅するのだ。だがティシラの肉体は、ここに留めてある。つまり今彼女の体は、受けるべきではない苦痛を味わっているということになる。
 ティシラが「あの場所」へ赴くことは予測できた。もしそうなったとしても魂をうまく切り離したうえであれば可能だと考えたのだ。
 だが、誤算があったことに、今気づく。「あの場所」は物質的な「虚無」の世界ではない。サンディルは確信した。あれは精神世界の「虚無」の空間なのだと。
 しかし今はその計算している暇はない。サンディルは、何が何でも彼女を助けると強く誓った。


*****



「!」
 マルシオとフーシャは同時に顔を上げた。今までの、それぞれに情けなかった二人とはまるで別人のような表情だった。二人の変化に気づき、トールはやっと口を開いた。
「どうした?」
 マルシオは問いに答えず、何か異常なものに気を集中する。フーシャも同じものを感じており、厳しい声を出した。
「……あなた方は、一体何をされているのですか」
「え……」
 意味も分からずに責められるトールが戸惑っていると、隣でマルシオが立ち上がった。
「トール。魔法は、どこで行われている?」
「え、えっと……魔法軍の施設の、確か、紫水晶のところだったと思うけど」
 マルシオはその場へ向かおうと背を向けたが、トールに腕を掴まれる。
「どうしたんだよ。まだ立ち入り禁止じゃないのか」
 マルシオは聞く耳を持たず、腕を振り払う。
「精霊が騒いでる」
「?」
「サンディル様が呼んだものだろう。何か、よくないことが起こってる。そう言ってるんだ」
 トールにはマルシオの言ってることが理解できなかった。魔法使いかそうでないかは関係なかった。自然界の心である精霊の気配を、無意識のうちに感じ取れるのは、自然界に近い生態か、それに触れることのできる限られた人間だけである。前者であるマルシオとフーシャは精霊たちの動揺を敏感に察知し、それを無視することはできなかった。
「ティシラが危ない」
 マルシオは部屋を飛び出した。トールも急いで後に続き、残ったフーシャは一人、佇んでいた。フーシャも精霊の声に不安を抱いていた。しかしそれ以上に、真剣にティシラの心配をするマルシオの態度にやり切れない痛みを受けていたのだ。これ以上傷つくのは怖い。もう逃げ出してしまいたいくらいの恐れに襲われたが、フーシャはそれを振り払い、勇気を出して二人の後を追って行った。


   

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