SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-27





 しばらくして落ち着きを取り戻したティシラに、サンディルが体に異常などがないか尋ねた。しかしティシラはまるで何もなかったかのように、何度か首を横に振るだけで何も言わなかった。サンディルはそれ以上聞かず、虚ろな表情で室を出ていく彼女を黙って見送った。
 我に返ったマルシオは、突如あっと声を出した。トールに駆け寄り、小声で。
「フーシャは?」
 彼女の姿はここにはなかったが、今の一連を見ていたとしたら、また宥めるのが面倒だろうと思う。トールは首を傾げて答える。
「とてつもなく悔しそうな顔をしてたからどうなることかと思ったけど……」
 最後まで聞かず、マルシオは早口になる。
「ここに来て、見てたのか?」
「うん。一通り」
「どこへ行った?」
「さあ。でも、胸中穏やかではなかったのは間違いなさそうだったよ」
 当然だろう。どうして引き止めてくれなかったのかと文句を言うより早く、マルシオはフーシャを探しに走り出した。


 残った一同はそれぞれの気まずさを隠しきれずに、あまり言葉を交わさずにその日を過ごした。
 フーシャは大人しく自室に戻っていた。鏡台の前の椅子に腰掛け、マルシオが言い訳しようとしても「結構です」と遮り聞かなかった。振り向きも、鏡越しに目を合わせようともせず、淡々とした口調で語った。
「私はまだ帰りません。やることが残っていますので」
 今までの彼女とは明らかに態度が違った。いつものヒステリックなそれではないことは助かるが、これはこれで調子が狂う。
「や、やることって?」
「ご安心ください。何があっても、私はあなたにとって悪いことは致しませんから」
「それは、どういう……」
「私たちの素性を他人に明かすようなことも、武器や暴力を持ってして何かを奪うことも致しません。だけど、今はあなたとお話することも、ございません。私には私の意志がございます……どうか、しばらく一人にしていただけないでしょうか」
 マルシオは言葉を失った。今までのように、どうしてどうしてと捲くし立てられれば、今までのように逃げていたのだろうと思う。しかし、まさか彼女から突き放してくることがあるなんて、マルシオは想像していなかっただけに戸惑った。
 もう諦めてくれているわけでも、完全にマルシオに絶望しているわけではなさそうである。一体、何を考えているのだろう。マルシオは余計に不安になる。
 だがこのままここに突っ立っていても、彼にできることはなかった。少なくとも、先ほどの光景を見たのであれば傷ついているのは間違いないはず。今は彼女の言うとおり、一人にしておくのが得策かもしれないと立ち去ることにした。
 マルシオは扉を閉じる前に、言葉を残していった。
「……あのさ、俺は、この世界が好きなんだ。そうじゃないなら、いても、しょうがないと思う」
 言いたいことをうまく伝えられないまま戸を閉じる。ただ、フーシャにはもっと視野を広げて考えて欲しいと思った。自分はこの世界が好きでいる。だがフーシャはそうではなく、ただ自分を追いかけているだけ。追いかけることも目的の一つではあるが、お互いにいたいと思う世界がまったく別のものなのである。分かり合えることはできても、ずっと一緒に、というのは現実的に難しい。仮にお互いが同じ気持ちになったとしても、それ以前に二人の間には越えられない壁のようなものがあるのだ。彼女がそのことを踏まえてくれれば、もっと分かり合えるかもしれないのにと、マルシオはそう考えていた。
 しかし、そうはいかないのが女性の恋心と、意地である。
 僅かでも希望がある限り、簡単に身を引くことができなくなることがある。例えそれが自身のご都合解釈だとしても。いっそ引いてしまったほうが効果が出ることもあるのだが、フーシャという女性は真っ直ぐにしか進めない性格だった。自分に惚れさせようという考えは毛頭なく、それどころか自分とマルシオは結ばれる運命にあると思いこんでいる。なのにうまくいかない。その原因が「他の女」にあるとすれば、思いは「男への愛情」ではなく、「女への恨み」で膨れ上がっていく。
 そうなると、正しい判断ができないのは、確実にフーシャだということになる。
 そのことに気づくには相当の努力が必要であり、決して一人では解決に向かうことができないことが多いのが、現実だった。


*****



 その日の夜、ティシラは部屋のベランダで一人、夜風に当たっていた。
 今日は疲れた。今日だけではない。思い出してみると、ここ数日ずっと何かしら気を張り続けている。退屈は嫌いだった。しかし時には心安らぐ時間も、無意識のところで体が求めていた。
 あれからほとんど部屋で、一人で過ごしていた。気になって仕方ないとでも言う様子でマルシオやライザが何度も戸をノックしていた。ティシラは返事だけは返して戸は開けず、それ以上を語ろうとはしなかった。
 空を見上げると、満月に近い月がくっきりと浮かんでいた。人間界では月が大きければ大きいほど魔力が増幅するという。同時に、月の光は人の心を惑わし、狂気を帯びさせる。それは魔族であるティシラも例外ではなく、体を取り巻く魔力が微かに騒いでいるのを感じていた。だがティシラは目線を遠くに投げるだけで、何もしようという気にはなれなかった。
 もう今となっては、自分がここに何をしに来たのかなど考えるつもりはない。今は気分が沈むばかりだった。どうして、と何かに問いながら自分自身を追い詰めようとしていた。
 ティシラは月から静かに目を離し、背を向ける。室内は明かりを点けておらず、窓から注ぐ月明かりだけが注ぎ込んでいた。誰もいない、豪華な一室。まるで、ヴィゼルグの自分の部屋のようだと思った。ティシラは窓を開けたまま、ベッドに向かった。今日はもう眠ろう。
 眠れば明日がくる。だけど、と思う。きっとまた同じことの繰り返し。自分が何者であり、何をすべきなのか、何も分からないまま周囲に振り回されていくのだろう。それは魔界に帰ったところで変わるものではない。魔界でも同じ日々の繰り返しなのだ。そして、両親もきっといろんなことを知っているはず。なのに、何も教えてくれない。
 何よりも、ティシラ自身も自分が何をしたいのかが明確ではなかった。
「そのままでいい」というメディスの言葉を思い出すが、どうしても素直に信じることができなかった。
 ティシラは俯き、無意識に声を漏らしていた。
「……誰か」
 それが誰に宛てたものなのか、それすらも分からなかった。体の力を抜き、瞼を落とす。
 しかし、ティシラはすぐに目を見開いて振り向いた。
 不自然で大きな影が自分を包んだ。開け放されたままの窓の向こうのベランダに、いつの間にか背の高い男の姿があった。月の逆光で顔が翳っている。彼は影の中で僅かな光を拾い、緑に光る瞳を細めた。
「姫」指先を揃えて、手を差し出し。「お迎えに上がりました」
 ティシラは戸惑いながら男を見つめた。
「……あんた、何? どうして……」
 男はルミオルだった。襟の高い黒いマントを羽織り、胸に光る水晶のペンダント。その姿はまるで魔法使いのようである。隣に駆け寄ってくるティシラの肩に、ごく自然に手をかけた。
「どうしたの。そんなに寂しそうにして」
「べ、別にそんなことないわよ」彼の手を払いのけながら。「それより、どうやってここに来たのよ」
 ティシラの部屋は客を持て成す来賓室ひとつであり、見晴らしがよく安全性の高い城の上部にある。隣のベランダともかなりの距離があり梁もほとんどない。外から簡単に侵入できる造りにはなっていなかった。
「入り口には鍵をかけてるはずだし。まさか泥棒みたいに窓を伝ってきたんじゃないわよね」
「俺がそんな品のないことするわけないだろう。あれだよ、あれ。あれでひらひらっと、蝶のように舞い込んできたんだよ」
「あれって?」
「魔法」
「……でも、ここも結界が張ってあるって……」
「だから、俺は誰も知らない魔法を知ってるんだって。こないだも言っただろう?」
 ティシラはルミオルと話したことを思い出す。
「そうだわ。ねえ、もしかしたら私の呪いが解けるかもって言ってたわよね」
「ああ。言ったね」
「あのときの約束はどうなったの? 早くなんとかしてよ」
「だから」ティシラに顔を寄せる。「迎えに来たんだよ」
「ほ、本当?」
 ルミオルは背を伸ばして顔を背け、わざとらしく眉を寄せた。
「まったく、君にあんな酷いことするなんて、乱暴な連中だね」
「あんた……また見てたの?」
 ルミオルは、まるで大げさな演技でもしているかのようにくるくると表情や体制を変えている。今度は優しく包むようにティシラを見つめた。
「ティシラのことが心配だったんだよ」
 しかし、ティシラは彼のそんな仕草に興味は示さなかった。
「嘘ばっかり。なんなの? こそこそと人のこと覗き見ばっかりして」
「やだなあ。人聞きが悪い。助けてあげたかったんだけどさ、あんなに大物ばかりが集まってるんじゃ、さすがの俺でも手出しできなかったんだよ。でも、こうしてちゃんと迎えに来たんだから、そんなに怒らないで。ね?」
 信用できない。ティシラはそう思うが、恐れる相手ではない。
「いいわよ。で、迎えに来たって、どういうこと?」
 ルミオルは微笑んだまま肩を竦める。
「約束したじゃないか。君を特別なところに連れていってあげるって」
「今から?」
「そう」
「……どこへ?」
「それは着いてからのお楽しみ」
「だ、誰かに言ってあるの?」
「まさか。秘密の場所だからね」
 ティシラは少々不安になり、声を低くした。
「大丈夫なの?」
 その質問で、ルミオルはふっと表情を消した。そして、笑みを不適なものへと作り変え、攻撃するかのように言葉を吐く。
「……何が?」
 ティシラは息を飲んだ。また、この表情。どうも苦手だ。そう思った。
「な、何がって」目を逸らして。「だって、黙っていなくなって、誰かに見つかったら騒ぎになるんじゃないの? 秘密の場所なんでしょ? 探されたらどうするの」
 ルミオルは分かっているかのように、更に口の端をあげた。
「怖いのか?」
 質問に答えず、挑発してくるルミオルの態度にティシラは苛立ちを覚えた。怖いはずがなかった。しかし、このまま乗せられるのも気に入らない。ルミオルはそれに気づきながらも続ける。
「君は何を心配している? 自分がいなくなることで困る人たちのこと?」
「な、なんですって」
「マルシオは迷惑な婚約者を追い払うため。父を含め、魔法使いたちは、魔法王とやらを探すために君を利用しようとしているだけじゃないか」
「…………!」
「どうして君がそんなことしないといけないのかな。そうすることで、君に何のメリットがある? 何のために、誰のために君は自分を苦しめてまで犠牲にならないといけないんだろうね」
「……犠牲、ですって?」
「そうだよ。ティシラ、君はほんとに可哀想な人だ。自由を奪われ、心も体も傷つけられて……」
「私が……そんなこと……」
 ティシラは拳を握りながら迷いを振り払おうとするが、ルミオルはその隙を見逃さない。
「君は本来自由であり、誰からも愛されて大事にされるに値する女性だ。そうだろう? 俺にはそう見える。違う?」
 ティシラは返事が出てこなかった。そうだと言いたいが、当然だと思うからなのか、それとも、今はそうではないことを気づかされた悔しさからなのか、ティシラには分からなかった。
「なのに、今はまるで篭の中の、歌い方も知らない小さな鳥のよう。その美しい姿はただの観賞用であり、歌いたいときに、歌いたい歌を歌わせてもらえず、周囲が必要とするときだけ、無理に鳴かされて……そしてまた、篭の中へ……」
 ティシラの中から、何かがこみ上げてきた。目頭が熱くなる。嫌だ。こんな男に弱味など見せたくない。ルミオルは、彼女が顔を隠そうと俯けば俯くほど、腰を折って覗き込んでくる。ティシラは堪らなくなり、寄り付くルミオルを押し返す。
「もう、いい加減にしてよ」
 つい大きな声を出してしまったティシラに、ルミオルは人差し指を自分の唇に当てて見せた。静かに、と。ティシラは我に返り、冷静になる。
「……何よ」
 だが、湧き上がった悔しさは消えない。
 怖くない。怖くなんかない。ティシラは赤い目でルミオルを睨み付けた。
「連れてって」自棄のように、片手を差し出す。「どこでもいい。誰にどう思われてもいい。私は私よ。何も怖くなんかないわ」
 ティシラの決意を、ルミオルは月明かりで陰る微笑みで受け入れた。


   

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