SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-29





 ティシラはベッドの上で赤い目を見開いた。
 開けっ放しのカーテンの向こうには、朝の爽やかな空が広がっており、優しい風が彼女の黒髪を揺らしている。
 ティシラは今まで記憶を失っていたかのような錯覚を抱いた。別に自分の名前などを忘れたわけでも何でもないのだが、深い夢を見ていたような気がしたのだった。
 眠る前のことを思い出そうと上半身を起こした。思い出そうとする前に、自分が私服で、髪もそのままであることに気づく。普段は美容と健康のためにと、寝る前には必ず肌や髪の手入れをし、疲れが残らないように楽なものに着替えるのが習慣になっている。ティシラは魔族なので人間ほどの気遣いは無用なのだが、母の真似をしているうちにそれが当たり前になっていた。
 なのに、まるでどこかに出かけていたかのような自分の姿に首を傾げるが、頭は不思議なほどすっきりしている。こんなに寝起きのいい自分は珍しいと思う。
 しばらく考えた後、はっと顔を上げる。
 そうだ。昨日の夜、出かけたようなではなく、出かけたのだ。ルミオルと。なぜすぐに思い出せなかったのかも分かった。確か、ヤケクソになって強い酒を飲みまくり、酒場で暴れていた。しかしそこから先、いつ店を出たのか、どうやってここまで戻ってきたのかは記憶になかった。酔い潰れた。そうとしか思えなかった。
 結局一番の目的だった魔法使いには会えなかったのだが、改めて考えてみると、ティシラの中にあったストレスが解消されていることに気づく。それどころか、今までどうして悩んでいたのだろうと思うほど気持ちが軽くなっていた。
 何か特別なことをしたわけではない。ただ酒を浴びるほど飲んで、大声を出して騒いだだけ。難しいことではないが、この城の中にはない娯楽だった。
 ルミオルという道楽息子がいたからこそ、その彼が連れ出してくれたからこそ実現した一夜だったと思う。
 未だにルミオルのことは理解できないが、そんなに悪い奴ではない気がしてきた。一目惚れだのなんだの言って馴れ馴れしくしてくる割には、酔い潰れた自分を黙って、他の人にはばれないように寝室へ運んでくれたのだ。ここでもし手を出してこようものなら万死に値するが、衣服は多少皺になっているだけで乱れはない。それに、仮に隙をつかれたとしても、淫魔の魔力を持つティシラが相手ではルミオルの方がただでは済まないはずである。何よりも、今は変な指輪によって魔力の発動を制御されている。あの痛みに襲われては、どれだけ泥酔していても目を覚まさないことはあり得ないのだ。
 つまり、彼は何も言わずにティシラのしたいようにさせ、その後のこともすべてに責任を持ってくれているということだった。
 まだ全部を信用するには早いが、もしかすると本当に彼は親切心でティシラに近寄ってきているのかもしれない。魔法使いのことだけではなく、もっとルミオルのことも話を聞いてみるべきかもしれないとティシラは考えを改めた。
 少し強めの風がティシラの頬を撫でる。その感触で我に返り、とりあえず今の姿を人に見られる前に服や髪を整えなければと、ティシラはベッドから降り、部屋の設備の一つであるシャワールームへ足を運んだ。


 昨日の儀式に関わったマルシオを始めとするトール一同は、あまり眠れずに朝を迎えていた。ティシラのことが気になったまま、同じ思いを持ち寄って顔を合わせた。
 マルシオとトールとライザ、全員の顔は晴れない。この場にはいないサイネラも、事件のことを頭に留め置いて通常の職務に戻っていた。
 魔法に失敗してティシラを危険に晒してしまったサンディルの落ち込みようも並ではない。ただでさえ慣れない儀式で心身が疲労しているのに、それ以上の自責の念に捕らわれて落ち着きをなくしてしまっていた。あれから、周囲から城で休むようにと客室へ案内されたが、ティシラに謝りたい、もう二度と危険な目には遭わせないことを約束したいと彼女に会いたがっていたが、今はどちらも精神が不安定な状態である。サンディルの気持ちは分かるが、ティシラが落ち着いたときにゆっくり話をしたほうがいいと説得を続けた末、彼は枯れた老木のように生気を失くし、背を丸めてじっと時が過ぎるのを待っていた。
 あまり思い詰めないようにと誰もが慰めながら、同時にサンディルの体力と精神状態を気遣い、今もまだ部屋で一人にさせている。
 誰もが心労する中、心配はティシラやサンディルのことだけではなかった。態度が急変したフーシャにも注意をしなければいけなかった。
 彼女は未だ自室で、誰とも顔を合わせたがらずに引きこもっている。何を考えているのか、気分が悪いのではないかと時折声をかけてみるのだが、何も問題ないとしか答えてくれない。そんなフーシャを一番気にしているのは、当然マルシオだったのだが、彼の態度が状態を悪化させているのが事実。気になるのは分かるが、今のところフーシャは部屋でじっとしているだけである。ヘタに彼女に接触しないでくれとトールに注意されて、マルシオはそれに従って様子を見ることにしていた。
 問題が積み重なる中、何度か話し合った末に最も早く解決すべきはティシラのことであると答えを出した。
 ティシラは、どういう状態であろうと何をするか分からない性質である。普段から破天荒な彼女は、記憶を失くしてただでさえ不安定だった上に、更に周囲が追い込んでしまう結果となった。その責任は大きい。
「――とにかく」トールが低い声で。「ティシラが何か問題を起こすのではないかという警戒よりも、彼女の心の傷を癒すことが優先だ。そのことを忘れないように」
 マルシオとライザは頷いた。そろそろ朝食の準備が整ったとディルマンが声をかけてくる時間である。サンディルとフーシャ、そしてティシラの様子を伺いにいかなければいけない。場所を移動しようと廊下に出た、そのとき。
 長く静かな廊下の先に人の姿があった。その人物は三人に気づいて、そのまま歩いてくる。
 ティシラだった。いつもと同じように起床していれば朝食に向かう時間である。今彼女がここを通ることに問題はないのだが、今がいつもと同じではないことに問題があった。
 誰もが呼びに行くまで部屋から出ないだろうと思っていた。しかしティシラはいつもと同じ様子で、服を着替えて髪も整え、疲れた様子もなく廊下を歩いてくる。表情は、無い。三人は緊張して彼女を見つめた。ティシラがどんな態度で接してくるのかをじっと待つ。
 三人の前で立ち止まったティシラは無表情のまま、自分を見つめる一同に少し首を傾げた。
「何してるの?」
 ごく普通に声をかけられ、三人は我に返る。怒っているようには見えない。しかし逆に、平然としているティシラに疑問を抱くしかなかった。
 ライザが慌ててティシラに微笑みかける。
「お、おはよう。ティシラ、昨日は、よく眠れたかしら」
 言った後に、無神経な質問だっただろうかとライザが汗を流す。だがティシラは三人の不安を余所に、軽くうんと頷いた。
「お腹すいたわ。朝食は?」
 拍子抜けする一同は、反応に困って顔を見合わせる。ティシラの機嫌が悪くないのはいいことだが、あんなことがあったばかりなのだ。確かに彼女がいつまでも落ち込んでいる性格ではないとは言え、一晩眠っただけで忘れ去れることではない。何か理由があるはずだ。このまま何もなかったことにはできない。
 ただ、それを今尋ねるべきなのかどうかということをトールとライザは迷っていた。まずは朝食を済ませ、その後に話をしようか。もしかしたらティシラから何か話してくれるかもしれない。どうすべきか最善かを考えている間に、マルシオは待てずについ口をついて出てしまっていた。
「ティシラ……お前、どうして」
 元気なのか、という質問はどうかと思い、マルシオは言葉を詰まらせる。ティシラはきょとんとしたままだった。
「なに?」
「いや……」
 元気ならそれに越したことはない。しかし、マルシオはどうしても納得がいかなかった。
「いや、あのさ、昨日のこと……」
「昨日?」
 まるで忘れてしまっているかのような反応である。まさかまた記憶を失くしたのではないかと、違う不安が三人を襲った。
「ああ」だが、ティシラはただ肩を竦めるだけだった。「もう終わったことじゃない。別に体調も普通だし、もう大丈夫よ」
 これでいいのだろうか。いいや、よくないと、マルシオは続ける。
「な、何かあったのか?」
「なんで?」
「だって、あんなことがあったばかりじゃないか」
「だから?」
「だから、って……」
 いくらなんでも、と思う。トールとライザも戸惑っているが、ここでこれ以上彼女を刺激するのは利口ではない気がして、肩を叩いてマルシオを止める。
「まあまあ、ティシラが元気ならそれでいいじゃないか」
「そうですよ。さあ、一緒に食卓へ行きましょう」
 ティシラとマルシオは二人に背中を押されるようにしてその場を後にした。


 サンディルは、元気になっていたティシラの様子を聞いても安心することができなかった。それでも謝罪だけはしておきたいと、朝食が済んだ後に話をさせて欲しいと従者に伝えてもらった。
 フーシャは相変わらず、誰が相手でも扉を開けようとしなかった。食事はすべて部屋に運んでくださいと冷たくあしらい、食卓に顔を出すこともなかった。


 ぎこちない会話しかできないまま、ティシラたちの朝食は終わった。
 この後に魔法軍を含めた会議があるから参加しないかとマルシオが誘ってみたが、ティシラはどうせ面白くないからいかないと断り、自分からフーシャのことを尋ねてきた。
「ああ……よく分からないけど、部屋にじっとしているだけで何も言わないんだ」
「ふうん。確かによく分からないけど、まだ帰らないってことは何か考えてるんでしょうね」
「そう思うか?」
「さあ。もうめんどくさいから、結婚しちゃえば?」
 ティシラの軽い言葉にマルシオは身震いを起こす。
「えっ、そ、それはないだろ」
 今までの努力はなんだったのだと焦るうち、ティシラは笑いながらマルシオに背を向ける。
「冗談よ。ま、今は大人しいってことね。また何かあったら言ってくれていいわよ。協力してあげる」
 気が向いたらね――そうティシラは言い残し、疑問の残るマルシオを置いて廊下の先に姿を消した。


 ティシラは人気の少ない北側に向かい、誰もいないバルコニーに出る。
 あの時、ルミオルと約束を交わした場所だった。もしかするとここに彼がいるかもしれないと思い、足を運んだのだった。
 ルミオルの姿はなかった。しかし性格の悪い彼のことだ。また自分をどこからか監視し、脅かすようしにて出てくるかもしれない。いずれにしても、夜中に女性の部屋に忍び込んでくるような不躾な男なのだ。そのうち、こっちの都合も考えずに顔を出すだろうと、ティシラは手すりに肘をついて遠くを眺めた。


   

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