SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-38





 ティシラが息を潜めて見守る中、ロアは突然目を見開いて顔を上げた。
 今まで眠っていたように静かだった彼の全身から汗が流れ出し、遠くを見つめながら呼吸を荒げている。
 ティシラは目を丸くしながらも、彼が落ち着くのを黙って待っていた。何があったのか、そして魔術はどうなったのか――今の彼女には、指輪に何も変化が感じられないことしか分からない。
 ロアは我に返ったように、数回瞬きをした。肩を揺らすのを止めて、ティシラに目を移す。二人は数秒、見つめ合っていた。互いに今初めて対面したかのように沈黙していた。
 ロアは何をしていたのかを思い出し、頭の中を整理する。
(……そうだ。私は、指輪の術師に)
 逢った、とは言い難かった。存在を確認し、声を聞いたことは確かだが、会話すらろくに成立しなかったのだから。
 はっきりと言えることは、この指輪の魔術を破るのは不可能なことが分かったことだった。それ以外の収穫は、ない。
 解決とまではいかなくても、せめてもう少し彼に近付いてみることができればと、残念な気持ちが残っている。他の方法を考えることもできるかもしれないが、ロアの中では、これ以上は「野暮」だという印象が強かった。自分の勘は、よく当たる。疑うのはやめようと、体の力を抜いてティシラの手をそっと離した。
「……失礼いたしました」
 ロアはいつもの笑顔を見せ、少し頭を下げた。
「も、もう終わったの?」
 そうは思えず、ティシラは自分の左手を顔に近づけて指輪を眺めた。怪訝な表情をしている彼女に、ロアははっきりと結果を告げた。
「はい。ダメでした」
 彼の爽やかな声で綴られた言葉に、ティシラは首を傾げた。すぐには意味が理解できない。
「……え?」
「ですから、やはり私如きでは太刀打ちできなかったということです。申し訳ございませんでした」
 もう一度、ロアはペコリと頭を下げる。


 ルミオルは一人、退屈そうに隣の室にいた。待っていた時間は二十分程度だったのだが、早く終わらないのかとため息をつく。
 そのとき、二人がいる隣の部屋からティシラの声が聞こえてきた。悲鳴に近いそれに、ルミオルは何事かと腰を上げる。
「ウソーっ!」
 ティシラは椅子に座ったまま足をばたつかせて暴れていた。
「何よ! こんなに勿体ぶっておいて、それはないでしょ!」
「ごめんなさい」
 興奮している彼女に反し、ロアはそれほど申し訳なさそうでもない様子で謝り続けていた。ルミオルは、ロアに許可を得ようもせずに二人に近寄ってくる。
「どうした」
「あ、ルミオル様」静かに椅子を立ち、一礼する。「ごめんなさい。指輪の魔法は解くことができませんでした」
「え? どうして」
「私では敵わない、という一言に尽きます。お役に立てず、申し訳ございません」
「……そうなのか」
 ルミオルは意外な結果に驚いていた。しかし何かしら行動したことは確かである。詳しい話を聞いてみたいと思っているルミオルの傍で、ティシラが金切り声を上げた。
「信じられない! 私をこんなとこにまで連れてきておいて、何なのよ! 大体、あんたが一体何をしたっての? ただ目を閉じてただけじゃない。本当は寝てたんじゃないの?」
 ティシラは涙目でロアを睨み付けた。
「そんな、まさか」
「寝てたなら正直にそう言いなさい。そしてもう一度真面目にやりなさいよ。そしたら許してあげるから!」
 立ち上がって彼に詰め寄るティシラに、ロアは笑みを引きつらせて一歩片足を下げた。
「い、いえ、誤解ですよ。私は指輪の中に意識を飛ばして中を見てきました。でも、問答無用で術師に追い出されてしまったんです」
「じゃあ」ルミオルが口を挟む。「お前は術師に会ったのか?」
「いいえ。声は聞きました。だけどそれも一方的に発せられたもので話ができたわけではありませんでした」
「相手は何を言った?」
「私のことが嫌いだから、近寄るな、と」
「……それだけか?」
「はい」
 ルミオルは、つくづく「魔法使いは分からない奴が多い」と思った。相手の単純な言葉もだが、それにおとなしく従うロアの神経も理解し難い。
 おそらくそれだけではないはずだと勘繰るルミオルはロアを問い詰めようと考えたが、ショックで感情が昂ぶっているティシラが割り込んでくる。
「もう、あんた、何が特殊な魔法使いよ。役立たず! 代わりにあんたの血を……!」
 爪を尖らせてロアに掴みかかろうとする彼女を、ルミオルが慌てて止める。ロアは予想以上に憤慨するティシラに怯え、慌てて足を引いた。
「ご、ごめんなさい……ルミオル様、後は、お願いします」
 そう言いながら、ロアは小走りで室を出て行った。
「逃げるな!」
 ルミオルに羽交い絞めにされたティシラは、目に涙を浮かべて手足をばたつかせる。
「お、落ち着いて、ティシラ」
 さすがにルミオルも、子供が駄々をこねているのとなんら大差ない彼女の態度に戸惑っていた。このままルミオルを振り払ってロアを追うこともできたのだが、ティシラは急に力を抜いてがっくりと肩を落とした。
 諦めてくれたのだろうかと、ルミオルがそっと手を放して彼女の顔を覗き込む。ティシラはそれを避けるように椅子に腰を下ろして両手で顔を覆った。
「……もう、つまんない」
 完全にいじけている。ロアができないということは、理由はなんにせよ、できないのだろう。もし他にも方法があるのならそう言うはずである。
「俺も詳しいことは知らないけどさ」ルミオルは隣の椅子に座りながら。「あいつが何も言わないってことは、そのままでもいいんじゃないのかな」
 ティシラは顔を上げ、泣きそうな目をルミオルに向ける。
「なんでよ。あんなに痛いのに」
「もしも危険なものなら、ロアならそのままにはしないと思う。太刀打ちできようができまいが、少なくともその事実は教えてくるはずだ」
「……危険なものかどうか、それすらも分からないんじゃないの?」
 ルミオルは少し目線を上げたあと、苦笑いを浮かべる。
「まあ、後で俺から詳しく聞いてみるよ」
 それを聞き、少しの間をあけてティシラは大きなため息をついた。
 ルミオルも、何の進展もなかったことに気まずさがあった。どうフォローすべきか考えてみたが、室内には虚しい空気が漂うだけだった。
「もういい」ティシラがポツリと呟く。「帰る」
 ルミオルは動じず、気持ちを切り替える。彼にとってロアはティシラを釣るための餌でしかない。できればロアに魔法を成功させて彼女を喜ばせてやりたかったのだが、それは思い通りにいかなかった。しかし、ティシラをここに連れてきたことは、決して無意味ではない。
「そんなこと言うなよ」
 ルミオルはいつもの調子に戻り、背を丸めて落ち込むティシラの肩に手をかける。
「だってここにいても意味ないじゃない。もう疲れた。帰る。帰って寝るわ」
 ルミオルはティシラをゆっくり引き寄せながら、目を細めた。彼の馴れ馴れしい態度に慣れたティシラは顔も見ずに、もうひとつ悲しげな息を吐く。
「……どうして俺が君をここに連れてきたのか、まだ分からない?」
 何かを企んだような彼の囁きと、妙な雰囲気にティシラは眉を寄せた。
「君の願いは、今は叶えられなかったけど、俺は君が欲しいんだよ」
 唐突な「告白」に、ティシラは呆れた声を漏らす。
「……は?」
「そうでなければ、こんなところに連れてくるわけがないじゃないか」
「なによ、こんなところって」
 ティシラにとってはこの場が、何もいいことのない無能な空間でしかなかった。だがルミオルは二人の間にある温度差など一切、構わない。
「俺は自分の国を落とす武器を作り出しているんだ。国を攻撃するものとは、一体何か、ティシラにだってそのくらいは分かるだろう?」
 ――また始まった。今度は一体何なのだと、ティシラは仕方なさそうに彼の話を聞いてやることにした。
「国を攻撃するものは、国だよ。俺はここを一つの国にする。そのとき、君に隣にいて欲しいんだ」
 ルミオルは声を低くし、続ける。
「俺が王、そしてティシラが女王だ。悪くないだろう?」
 どうしてこの男は自分に付き纏うのか、ティシラは未だ理解ができない。その理由は、どうしてもルミオルがティシラに本当の愛情を抱いているとは思えないからだった。誰でもいいのならば、他に女ならいくらでもいるものである。
 確かにここは危険を孕む空間だった。今はまだ一つの国を滅ぼせるほどにまで成長していない。しかし、ロアの魔法とサヴァラスの魔力を掛け合わせれば、いずれティオ・メイを脅かす戦力は育つのだと思える。
 何よりも、ルミオルは本気なのだ。
 ティシラにとって一番気になるところは、彼が自分に付き纏う理由だった。ルミオルはティオ・メイを滅ぼして王になろうとしている。そのときに伴侶となる相手を必要とするところまでは分かるが、なぜ自分なのか、それがまだ納得できない。
 しかし、どんな理由があったとしても、やすやすとルミオルの妻になろうという気は、ティシラにはまったくなかった。
 邪魔な指輪が取れないことを思い知らされただけで疲労感は倍増である。顔を逸らしてルミオルを押し退けようとした、そのとき。
 そんな彼女の気持ちなど察する様子はまったくないまま、ルミオルは突然ティシラの首の後ろと膝の間に腕を押し込んで抱え上げた。
「……な、何よ!」
 ティシラが抵抗する間も与えず、ルミオルは向かいのソファに移動する。そしてその上にティシラを乗せて覆い被さってきた。
「ちょっと! 何考えてんの!」
 さすがに焦るティシラは腕を振り上げたが、乱暴に掴まれてソファに押し付けられる。
 睨み付ける彼女を見つめ返すルミオルの目は据わっていた。
「ティシラ、俺のものになれ」ゆっくり、顔を近づけながら。「いいだろう? なあ」
 あまりにも無礼な彼の言動に、ティシラの怒りが再燃してくる。
 誰がこんな奴のものになんか……ぶん殴ってやろうと、掴まれた手が拳を握る。
「だから、指輪の呪いで私は何もできないって……」
 ――しかし。
(……そうだわ)ティシラは目を見開き。(襲えないなら、襲われればいいのよ)
 と、そんなことを考える。
 ティシラが魔力を使って人を襲ったときに指輪は攻撃してくるのだ。ならば、相手から襲われてしまえばその力は効かないはず。
 そうだ、その手があったと、ティシラは途端にか弱い女を演じ始めた。
「……や、やめてよ」
 鼻の頭が触れる寸前にティシラは顔を逸らし、悲痛な声を上げる。ルミオルは声を潜めて、耳元で囁いてくる。
「なぜ君は俺についてきた? こうなることくらい考えられなかったわけじゃないだろう」
「……指輪を取ってくれるって言ったからじゃない」
 それは本音だった。本当は大声で怒鳴りつけてやりたいのを、ティシラはぐっと我慢する。
「じゃあ、どうして俺が君を苦しみから開放してあげたいと思ったのか、その理由くらい分かってたよね。それを知ってて、ここまでついてきておいて、やめてはないんじゃないか」
 今まで自分を好きだという態度を見せたことなどないくせに、と思いつつ、ティシラはひ弱な声を上げた。
「でも、こんなの……イヤ」
 ――キリ。
 そのとき、指輪が動いた。
 だが、まさかとティシラは気のせいだと思うことにする。襲われているのに、指輪にまで攻撃されるなんて、あまりにも理不尽である。
 もっと嫌がらなければ。
「やめてよ。私はまだあんたのこと……」
 キリ、キリ。
「もう、手遅れだよ」
 ルミオルはティシラの腕を離して彼女の胸元に指を這わせてくる。
(……ウソ。そんな)
 ティシラの顔色が変わる。ルミオルは彼女を変化を鋭く感じ取っていたが、緊張しているものだと疑わなかった。
(なんで? そんな、そんな……!)
 キリキリキリ……!
「……たっ」
 とうとう、ティシラは歯を食いしばって顔を歪める。そのとき既に、彼女の頭の中からルミオルの存在は消えてなくなっていた。
「……いっ……たーっ!」
 ルミオルにはティシラの悲鳴の意味が分からなかった。やっと彼女の様子がおかしいことに気づいたときは、もう遅かった。
 反射的に上げたルミオルの顔に、ティシラの鉄拳が直撃する。
 何が起こったのか知る由もないまま、ルミオルは気を失って床に転がり落ちた。
 彼が体から離れた途端、指輪の拷問はピタリと収まる。ティシラは呼吸を乱し、呆然とソファに横たわっていた。
「……なんなのよ」自分の左手を持ち上げて、指輪を見つめる。「なんで? おかしいでしょ。どうしろっていうのよ!」
 ティシラは一人で、ただの物質である指輪に怒りをぶつけ続けた。
「何がしたいの? 信じられない。私は襲われていたのよ。同情されたっていいくらいなのに、どうしてこんな仕打ちを受けなきゃいけないのよ!」
 指輪は何も答えなかった。ピクリともせずに沈黙している。
「私が一体、何をしたっていうのよ!」
 その悲痛な叫びは誰にも届かなかった。
 隣の室から、中の様子を静かに透視していた魔法使い一人を除いて。


   

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