SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-43





 マルシオとの話が終わったあと、ティシラは少し休みたいと席を立った。
「ああ、そういえば」室を出る前に振り向いて。「あんたの婚約者はどうしてるの?」
 マルシオの顔色が変わる。フーシャはしばらく静かに部屋に篭っており、それはそれで気になるが、何も要求されない限りどうしようもないと放置していたのだった。
「……さあ。部屋でじっとしてるみたいだけど」
 先ほど見かけたあの刺々しい「気配」。落ち込んでいるとは思えなかった。ティシラはマルシオに伝えるべきかどうか考えた。彼が気づいているのかどうかは分からないが、また騒ぎを起こされるのは勘弁して欲しいというのもあり、今は言わないでおこうという答えを出した。
「あんたと一緒にいるところを見たらまた噛み付いてくるかもしれないから、私は部屋に戻るわね。今日は本当に疲れてるの」
「う、うん」
 フーシャのことを思い出したマルシオは、途端に暗い顔になる。いつまでもこのままの状態でいられたら困る。ティシラをぶつけて何とか天界に戻ってもらおうと考えていたのだが、結局火に油を注いだだけのような気がしていた。
 未だ表面上では、ティシラとは恋人という設定のままである。それすらも意味がないとしたら、他にどんな方法があるのか、マルシオは思い浮かばない。
 このままティシラが飽きて、フーシャの件から身を引いてしまわれたらと思うと不安で仕方なかった。
 一人にしないで欲しいとでも言いたげなマルシオの情けない顔を見て、ティシラに余計な疲れが押し寄せた。
「また相談に乗ってあげるから、そんな捨て子みたいな顔しないでよ」
「す、捨て子ってなんだよ」
 顔を赤くするマルシオに背を向け、ティシラはハイハイと相槌を打ちながら扉に手をかける。
「……あ、そうだ。トールとライザも心配してたから、顔見せてやってくれよ」
 トールが今王室にいることを聞き、ティシラは軽い返事を残して室を出た。


 マルシオに言われたとおり、ティシラはトールに会いに王室へ向かう。しかしその途中の静かな廊下で鉢合わせになり、そのまま立ち話となった。
「マルシオが心配してたけど、何かあった?」
「ううん、別に。あいつは変なところで神経質なのよ。自分の嫁の管理もできないくせに、いちいちうるさいんだから」
 肩を竦めるティシラに、トールは困った笑顔を向けた。どちらかというと、ティシラが自由すぎだと思い、それに振り回されるマルシオの気持ちのほうが理解できるからだった。
「そういえば、ルミオルを知らないか?」
 ティシラは表情を消して、トールを見つめた。
「どうして?」
「いや、また出かけたみたいだけど、もしかして君と何か話してないかと思って」
 やはりトールは気にしているようである。
 トールには、話してみようか――ティシラはふっと目線を下げた。彼なら、すべてを知っても冷静に動いてくれるような気がする。そもそもどうして自分がルミオルを気遣い、あったことを隠そうとしているのか、ティシラは分からなかった。
 果たして、自分がトールに彼のことを知らせる行為は、ルミオルにとってどういう意味を持つのだろうか。ルミオルを邪魔するのか、それとも、守ることになるのか。今一歩踏み込めないわけは、きっと、ルミオルとラストルのことを理解していないからだと思う。
「……ねえ」ティシラは質問に答えず。「トールは、あの二人のことを、どう思ってるの?」
 トールは俯いたままのティシラの様子で、彼女が何かを見、知ったことに勘付いた。だが問い質そうとは思わなかった。ルミオルがティシラだからこそ打ち明けたことなのかもしれないからだった。無理に喋らせることができるなら、とうの昔に渦中の息子二人にやっている。
 トールも長いあいだ悩み続けてきた。二人を引き離すべきかどうかも、何度も考えた。しかしそれでは問題の解決にはならないと思った。たとえもう互いの信頼と尊敬は取り戻せなかったとしても、王家の人間としてそれぞれの役目を自覚して欲しい。トールはそう考え、今はまだただの「兄弟喧嘩」と割り切って様子を見ているところだった。
 トール自身、人に説かれるのではなく、実際に体験しなければ納得できなかった。頑固で分からず屋だったトールも周囲に散々迷惑をかけて、ここまで来たのだ。だから身勝手な息子二人にも「自業自得による痛い目」を見せてやりたく、黙って影から見守ってきた。
 ティシラの問いの答えは、もうトールの中でははっきりと出していた。
「――悪いのは、ラストルだ」
 想像していなかった言葉に、ティシラは顔を上げる。
「具体的な理由は知らないけどね。でも、ルミオルは弱いんだから、それを守れない、守ろうとしないラストルのほうが悪いと、僕は思ってる」
「……ルミオルが、弱い?」
「そうだよ。ルミオルは弱い。一人では何もできず、いつも人に頼ってばかり。それが悪いとは言わない。弟なんだから、兄にも僕にも、他の誰にでも甘えればいいんだよ。ただし、もっと素直にね。いつもああやって悪さをしているのも、もっと自分を見て欲しいから。そして、ルミオルが一番見て欲しい相手は、ラストルなんだ」
「…………」
「違う?」
「えっ」
 ティシラは背筋を伸ばして目を丸くした後、再度俯いた。
 トールの話を聞いて、ルミオルのことが見えた気がした。やはりトールは二人を見て、考えている。信用していいと、確信した。
 ティシラは静かに目線を上げ、トールを見つめた。
「……あのさ、トール、お願いがあるんだけど」
 まるで脈絡がなさそうな言葉だったが、きっとそうではないと思い、トールは戸惑わなかった。
「確か、私の願いを何でも叶えてくれるって、言ったわよね」
 ティシラの念押しに、彼は笑顔と冗談で答える。
「ああ。何なりと、魔界のお姫様」


*****



 それから十日以上、特に何事もなく時間が過ぎた。
 その間、ルミオルの姿はどこにもなかったが、いつものことと騒ぎにはならない。そしてフーシャは相変わらずで、ティシラと顔を合わせても睨み付けてくるだけだった。彼女はほとんど一人で過ごしており、周囲は「どうしていつまでも居ついているのだろう」と疑問に思うばかりである。
 もちろんマルシオは何度も話しかけたのだが、フーシャは簡素な返事しかしてくれない。しかし二人だけのときは、たまに神妙な顔で「もう少しお時間をください」と意味深な言葉を発していた。
 マルシオは、きっと彼女は気持ちの整理をしているのだろうと考え、できるだけ優しく接するように努めていた。
「あんたって、ほんとにバカよね」
 そんな彼を見るたびに、ティシラが冷ややかな目線を投げてくる。
「なんでそんなにあの女に気を遣うのよ」
「……傷ついたまま天界に戻っても、未練が残るかもしれないじゃないか。だから、この人間界をゆっくりでも知って、納得した上で帰って欲しいんだよ」
「で、フーシャはあんたを諦めてるわけ?」
 マルシオは息を飲んだ。そうだと思っていた、いや、思いたかった。そうしてもらわないといけないのだ。それしか、彼女の道はない。
 思い詰めるマルシオの隣で、ティシラはふとあのときのことを思い出す。フーシャが城の屋根から二人を見つめていたことを。
 だがあれ以来、彼女の妙な動きは感じられなかった。というより、ティシラはそのことを忘れていたため、あまり気に留めていなかったというのが正しい。もしもフーシャがティシラを監視していたとしても、ティシラには関係ないことだと思う。指輪の魔法に屈し、誘惑してくるルミオルもいなくなった今、ティシラに後ろめたいことはない。あったとしても、彼女にどう思われても構わなかった。


*****



 気候の穏やかな昼下がり、ティシラは一人で廊下を歩いていた。
 ティシラは北向きの屋上が好きで、退屈でふっと思い出したときによく足を運んでいた。そこはいつも高い塀の日陰になっている。なのに風通しも見晴らしもいい。昼間は視界の先は明るく照らされて、足元に広がる大きな森の緑が活き活きとして見え、夜は満天の星が絶景だった。そして、ほとんど人の気配がないというのもティシラにとってお気に入りの理由の一つにあった。
 今日はその場所に、人の姿があった。
 手すりの前に立って遠くを眺めているらしく、通りすがりではないようだ。先客とは珍しいと思いながら、ティシラは足音を潜めて壁の影から覗く。
 ティシラはその者が誰かをはっきりと確認して、一瞬、呼吸を止めた。
 ラストルだった。
 普段彼はほとんど人前に出てこない。たまに見かけることはあったが、いつも従者を共に連れ、周りなど見向きもせずにどこかに消えていっていた。だからティシラと会話どころか、目が合ったこともなかった。
 どうしてここに? どうして一人で?
 ティシラの中にいろんな疑問が浮かんだ。
 ラストルは目を閉じて緩い風を浴びながらじっと立っていた。まるで心を清めているように見えた。彼もたまには息抜きをしたいと思うのだろう。どんなに性格が悪くても、人間なのだから。
 先客がいるなら今はやめておこうかと、ティシラは片足を引いた。だが、別に遠慮することもないと、もう一度ラストルに目を移す。
 それに、自分を見て彼がどんな反応を示すのか、少しだけ興味が湧いた。
 ティシラは何でもないかのように、ラストルに向かって足を進める。気配を感じ取って、彼ははっと顔を上げた。
 二人の目が合う。ティシラは無表情でそのまま進む。対し、ラストルは嫌悪感丸出しの顔で彼女を睨み付けた。
(……わ、何あの顔)
 ティシラはそれだけで苛立ったが、眉一つ動かさない。これ以上近付いたら、きっとラストルはここから立ち去るだろうという予感を抱きながら、ティシラは口を開く。
「ルミオルがいなくて寂しいの?」
 いきなりティシラは、彼にとっては悪質な公害としか思えない者の名を出した。明らかに喧嘩を売っている。案の定、ラストルは過剰な反応を見せる。
「……なに!」
「ねえ、あんたは、弟を殺したいの?」
 ティシラはまったく動じずに、ラストルの前で立ち止まって彼に向き合う。
「それとも……」
「黙れ」ラストルも負けじと、睨み返す。「父上の客だからと言って調子に乗るな。私には貴様なぞ何の価値もないただの小娘だ。それ以上無礼を働けば」
「どうするの?」
 ティシラは赤い瞳に魔力を灯し、ラストルを威嚇した。ラストルは僅かに飲まれそうになったが、数回瞬きをして気を持ち直す。
「……ふん」ラストルは目を細めて。「恐れを知らぬ、愚かな娘だ。いつまでも父の名を借りて好き勝手にしていられると思うなよ」
「王子の立場に甘えてでかい顔してるのはあんたじゃない」人差し指を突きつけ。「そうやって自分の気に入らない人を迫害しているだけでしょう。あんたに何ができるのよ。今までに人の役に立ったことがあるの? 何様のつもりよ」
 ラストルは目じりを揺らしたが、平静を装いながら薄く笑った。
「私は、この世界の汚れたものをすべて排除する」
「汚れたもの……?」
「そうだ。父の王政は生ぬるい。悪は根から絶たねば、またいつか芽を出すものなのだ。私はすべての罪を罰し、この世を白く染め上げる。その力を近いうちに手に入れ、世界の頂点に立つ」
「……汚れたものって、その中に弟も入っていると思うの?」
「当たり前だ」
「弟なのよ。あんたと同じ血が流れた、たった一人の弟なんでしょ」
 聞きたくもないと、ラストルは顔を歪める。
「だからなんだ。ルミオルこそ邪悪そのものだ。奴は私を貶めようとしている。もし奴と兄弟として生まれた意味があるなら、奴の存在は私の王の道への試練に過ぎないのだ。あんなものに同じ血が流れているなど、認めない。私がこの手で罪人の首を落とすとき、最初は奴のそれと心に決めている」
 そう言って拳を握るラストルを、ティシラはこう感じた。
 狂っている。
 同じ捻くれ具合でも、人の話を聞いて笑ったり怒ったりするルミオルのほうがまだ人間に近い。
「……そして私が権力を頂いた暁には、貴様のような薄汚い娘など、真っ先に排除してくれるからな」
「な……」
 その言葉に、ティシラはとうとう頭に血が上ってしまう。
「薄汚い? 私が? 私のどこが薄汚いっていうのよ!」
 目を見開いて大声を上げる彼女に圧され、ラストルは笑みを消した。
「どこがだと? その姿、態度、言葉遣い、すべてだ。すべてが悪意に満ちている」
「なんですって……よくも!」
 ティシラは見た目を貶されることだけはどうしても許せない。かっとなり、ラストルの胸倉に掴みかかった。
 その途端、ラストルは血の気が引き、身震いを起こす。
「離せ!」
 ラストルは悲鳴に近い怒号を上げ、乱暴にティシラの腕を振り払った。その勢いにティシラは呆気に取られる。
 ラストルは数歩下がり、胸を押さえて呼吸を乱していた。
「……汚らわしい手で、触るな」
 額に流れた汗を拭いながら、深く息を吸い。
「私は潔白なる者。誰にも汚すことを許されない、高潔かつ崇高なる存在。もう二度と私に近寄るな……貴様の首を落とすことなど、容易いのだからな」
 ティシラは唇を噛み、肩を震わせた。
 ――たかが人間のくせに。
 ラストルはただの勘違い野郎ではない。その下らない思い込みで、弟を陰険に虐待してきた。その上、自らの手で家族の首を落とすと、冗談では済まされない戯言を平気で吐く男なのだ。
 これほどとはと、ティシラは怒りの炎を燃え上がらせていく。
「ラストル」
 重い足を運んで立ち去ろうとしていた彼は呼ばれ、肩越しに振り向く。
「あんたみたいなクズが王になんかなったら、この世界はお終いよ」
 ラストルは音がするほど奥歯を噛み締める。面と向かって、これほどまでに侮辱されたことは初めてだった。
「人殺しを企んでるヒマがあったら、自分の身を心配することね」
 ティシラは背を向け、その場から走り去った。
 一人になったラストルは彼女の消えた先をしばらく見つめていた。
(……人殺しだと?)
 下賤な、とラストルは思う。悪を罰することを人殺しと言うなら、この世に正義はない。
(私は、間違ってなどいない……!)
 そう自分に言い聞かせ、再度空を仰いだ。


 ティシラは怒りで少し顔を赤くしたまま城内を飛び出した。
(あのクソ野郎……! 許さないわ。絶対に泣かしてやるんだから)
 何を思ったか、ティシラはそのまま城下町を駆け抜けていく。
 ティシラは今、直接人間に呪いをかけることができない状態にある。ゆえにラストルを攻撃するには別の「武器」が必要だった。
 仮にもラストルはティオ・メイの王子。国の力を借りることは難しい。だからこそ今まで野放しにされてきたのだから。
 だから、ティシラはこの世界のものではない力を利用しようと考えた。
 つまり――。
 ティシラはレンガ造りの門を出て、城下の外の広い荒野で足を止める。
 呼吸を整え、上空を睨み付けた。
 ポケットを探り、水晶のネックレスを取り出す。これを使うことはないと思いつつ、なぜかいつも持ち歩いていたのだった。
 右手の中に収めて額に近づける。目を閉じ、念じる。ロアに、語りかける。
 柔らかい風がティシラの黒髪を揺らす。
 そのとき、どこからともなく魔力が降り注いできた。目を凝らさなければ見えないほどの細かい光の粉に、ティシラは包まれていく。
 そして彼女は、大気に溶けていくように姿を消した。

 そのとき、ティシラは自分を、淡い光の小さな塊が追ってきていたことには気づかなかった。


*****



 魔樹の世界では、ロアとルミオルがティシラを出迎えた。ルミオルは彼女の姿を見て愕然としていた。
「ティシラ……どうして? なにをしに来たんだ」
 ティシラは牙を剥き出し、苛立ちを露わにして二人に近寄った。
 ルミオルはティシラとの再会を喜んではいなかった。別れを決意したからこそ本当の気持ちを伝えたはずだったのに、どんな顔をして彼女に接すればいいのだと戸惑いを隠せない。
「ロア、これは一体どういうことなんだ!」
 ルミオルはロアに怒鳴り、責め立てようとしたが、喉の奥から唸り声を漏らすティシラに胸倉を掴まれて息を飲む。
「……ルミオル、あんた、私を共犯者にしたかったんでしょう?」
「それは……」
 もう終わったことと、ルミオルの中ではティシラを帰すことしか考えられなかった。だが、彼女から突きつけられる怒りに飲み込まれ、逆らうことができない。
「共犯? この私が、そんなものに甘んじるとでも思っているの?」
 今更ながら利用しようとしていたことに腹を立てているのだろうか。とにかく、謝ってみようとルミオルが言葉を探していると、ティシラは眉を寄せたまま不適な笑みを浮かべた。
「私が、主犯よ」
 ルミオルは当然、ロアさえも、ティシラが何を言っているのか分からなかった。


   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.