SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-46





(……誰だ)
 マルシオは、どこからか聞こえてきた誰かの声に耳を傾けた。
 ――お前の願いを……。
(誰だ。何を言っている)
 ――お前の願いを叶えてやろう。
(……願い? なんのことだ)
 ――その代わり……。
(……やめろ)
 マルシオはそれを拒絶した、はずだった。なのに、声はいつの間にか、彼の耳元まで近付いてきていた。
 ――お前の体を、私に。
 耳にかかった息は錯覚ではない。マルシオは背筋を凍らせる。
(……やめろ!)


 外で起きた奇怪な出来事を自室の窓から見ていたラストルは、従者に呼ばれて広場へ出てきた。
「父上、何事でしょうか」
 相変わらず冷静な彼を、トールとライザは警戒しながら出迎えた。
「非常事態だ」
「それは見れば分かります」ラストルは城下町の向こう、魔界の大木に目線を投げる。「あれは、『影』ですね」
 ライザは息を飲む。周囲の一部でさえ「影」にルミオルが関わっているのではと噂があったほどである。ラストルが疑わないわけがなかった。
 実際、トールとライザも例外ではなかった。証拠がない限り、決めつけることだけはしないように心がけてきた。しかし、それも今ここで、はっきりする。
「ラストル、お前はここにいなさい」
「……なぜでしょうか」
「私たちもここで知らせを待つ。万が一、あの場で防御できずに城や町にも被害が及ぶ場合は、また対策を考えねばならない。だから……」
「あ!」そのとき、ライザが大きな声を上げた。「あれを……!」
 彼女が指差すほうで異変が起きていた。
 呪樹の世界の一部が、白く光る。それは一気に膨張し、泡のように弾けた。そして周囲に銀の粉を散らしている。
 その不思議な現象は、一般人は当然、人間の魔法使いの魔力とも違った。
 マルシオだ。トールとライザは同時にそう思った。銀の光は美しいものだったが、あまり積極的に魔法を使わない彼があんなに大きな力を発揮するには理由があるはずである。
 それに、まだメイの兵は周囲を固めているだけで中に突入した様子はない。ということは、マルシオは一人で中に侵入したと推測できる。やはり、あそこに知った者がいたと、そう考えるのは不自然なことではなかった。
 ルミオルか、ティシラか、もしくは両方なのか。いずれにしても、なぜか嫌な予感が否めない。トールは走り出してしまいそうだったが、ぐっと我慢した。


 唸りながら体を丸めたマルシオは、突如大きな光を発した。それが破裂した後、呪樹の世界に銀の粉が降り注いだ。
 それは美しく神秘的で、中にあった瘴気を浄化していく。ティシラを始めとする一同は周囲を見回しつつ、彼の不可解な様子を伺っていた。
 光を受けた仙樹果人は小さく震えながら弱っていく。すぐに機能が停止するほどのものではなかったが、魔族がこのまま浴び続けていればいずれ衰退してしまうものだった。
 だがこの光はそのような些細なことを目的としたものではない。ただの「前兆」に過ぎなかった。
 マルシオが、顔を上げる。
 そこに表情はなかった。ティシラに、ゾクリと寒気が走る。
 ――マルシオじゃない。
 ティシラには、瞬時にしてそれが分かった。
 マルシオはゆっくりと背筋を伸ばし、氷のように冷たい笑みを浮かべる。目を細めて何かを呟くその唇の動きは、ティシラにはこう見えた。
『コロシテヤル』
 マルシオに何が起こっているのか、どうなっているのかは分からない。彼は怒りを露わにし、素直に感情を言葉や態度に表すことはあるのだが、今のように人を見下した不快な表情をすることはなかった。そもそも、マルシオはそんな性格ではない。
 明らかに、何かが違う。マルシオの様子もだが、彼から発せられるものがまた、「魔法使い」のものでも「天使」のそれでもないとティシラは感じた。
 それでも、彼はマルシオなのだ。それは間違いない。少なくともマルシオの変化のきっかけは、ティシラがフーシャを殺したと思い込んだのが原因だということは確かだ。そう見えただけで事実を確認もせず、勝手に勘違いして「殺してやる」とは、あまりにも早計すぎではないか。ティシラは、それが気に入らない。
「……殺す?」苦痛を隠し、体を起こす。「あんたみたいな根性なしに、そんな度胸があるわけないでしょ」
 マルシオは微笑み、肩を揺らした。
「できるものならやってみなさいよ」
 ティシラに煽られ、マルシオはぐっと背を伸ばす。すると彼を淡い光が包んだ。銀の長髪が、不自然に揺れた。
 マルシオから発せられる力はみるみる膨張し、周囲を取り囲む魔力をほとんど持たない鈍感な兵士さえその重圧を感じ取ることができるほどだった。
 天使の魔力は魔族のそれと対の存在でしかなく、決して魔族を滅するためにあるものではない。なのに、今のマルシオを包む光はその両方を凌駕するような重さがあった。
 睨み合う二人に腰が引けていたサヴァラスだったが、このままではいけないと察して、ティシラの前に飛び出した。
「おい、そこの天使」大きな声で、マルシオに語りかける。「貴様は何をしているのか分かっているのか。この方はお前の仲間を……」
「サヴァラス」それを、ティシラが遮った。「やめて。いいの」
「ティシラ様……」
「いいの。あいつはああいう奴なの……人のこと、ちっとも信用なんかしてないんだから。善か悪か、極端な基準でしか物事を図らない。本当のことを知ろうとしないなら何も知らなくていいのよ。私を殺したいなら、殺せばいい!」
 言い終わると同時、ティシラは痛みを堪えてマルシオに向かって飛び上がった。鋭く爪と牙を伸ばし、赤い瞳に熱を灯す。マルシオより高い位置から彼を睨み付け、両手の中に高熱の玉を作り出す。それをマルシオにぶつけるべく右腕を伸ばした。
 しかし、それが当たる寸前、ティシラとマルシオの間に透明の壁が現れた。ティシラはそれに押し返され、血を散らしながら弾き飛ばされる。
 サヴァラスが目を見開き、慌ててティシラを受け止めた。何事かと傍観していたロアとルミオルも二人に駆け寄ってきた。
 息を上げてマルシオを見ると、彼は目前にある光の壁に滴るティシラの血痕に目線を向けている。これで、もしかして彼女が怪我をしているのではと気づくか、酷いことをしてしまったと目が覚める。そう思いたかった。だが、マルシオは関係ないとでも言うように表情を変えなかった。
「……一体マルシオは、何を考えている」
 彼を知るルミオルは嫌な汗を流した。確かに石頭なところはあるが、情は深く、弱いほどに優しい性格のはず。だからこそフーシャを追い返すことができずに、ティシラを巻き込んで余計な面倒を起こしていたのだから。まさかこんな形でティシラを傷つけるなんて考えられない。
 サヴァラスは激しく憤り、呻くティシラを抱えた腕に力を入れた。
「よくも……」
 目を吊り上げ、魔力を上げていく。すると呪樹の世界全体がザワリと揺れた。意識のある仙樹果人がすべて、操られるようにマルシオに体を向けていく。それらは持つ枝という枝を、マルシオを狙って一気に伸ばしてきた。
 その量は当然、膨大なものである。空間を埋め尽くさんばかりの仙樹果人の鋭い枝の動きは、まるで気の立った蛇の集団のようだった。体を縮めるロアとルミオルと、傍で気絶しているフーシャを避け、武器と化した枝がマルシオを襲う。
 これを食らって生きていられる者はいない。ただし、仙樹果人の力を超えられなければの話だった。
「!」
 驚きも動きもしなかったマルシオを、再び白い光が包んだ。粒子の細かい、泡のような光は仙樹果人を上回る速さと大きさで世界を純白に染めていく。
 仙樹果人の動きが止まる。止まらざるを得なかった。光に触れたそれらはすべて、白い絵の具で塗り潰されていくかのように、掻き消されていった。
 その様子に、一同は呆然となった。
 光が収まると、そこはティシラたちと核が一本、そして先ほど動かなかった仙樹果人が残るだけとなっていた。
 勝てない。いや、勝敗のレベルではない。ここにある命を奪うだけなら、巨大な力があれば可能である。しかし、彼は自分を襲ったものだけを選び、「殺す」のではなく「消した」のだ。目の前にいるのは、存在という概念を操ることができるほどの次元の違う力を持つ者――存在の有無を左右できる権限など、五大天使でさえ持つと聞いたことがない。
 はっきりと分かったことは、今そこにいる少年が「異種」の者であることだった。


 呪樹の世界を囲んでいたティオ・メイの兵士たちは、新たなる未知の力の発生に慄いていた。
 サイネラの指示で魔法兵を前列に出し、強力な結界を作り出す。再び同じ現象が起これば人間の魔法で防ぎきれる自信はなかったが、できる限りの抵抗はしなければならない。無闇に中へ突入するのは危険だと判断して、とにかく呪樹の世界を封鎖する手段を取った。
 サイネラはダラフィンに「私が中の様子を見てきます」と伝え、ダラフィンが止める間もなく一人で駆けていった。
 侵入は簡単なものだった。サイネラは世界の隅で、異様な空間に圧倒されていた。
「……ここは魔界と人間界の境のあやふやになった、不安定な場所のようだ」乱れそうな呼吸を整えながら。「それだけではない。先ほどの光、あれはあってはならない危険な力……」
 中にはマルシオがいる。彼を探そうと、倒れている仙樹果人を乗り越えて奥へ進んだ。
 足元の仙樹果人からは、今のところ殺気は感じられなかった。しかし、もしもこれが動き出したらと思うと不安が募る。そのときは外の兵に合図を出すしかないと考えながら、サイネラは慎重にマルシオを探した。ふと、視線の先に天使の魔力を感じた。マルシオだとすぐに分かってそちらに向かったが、何かがおかしいことも瞬時に悟った。
 額に流れた汗は緊張からくるものだった。マルシオだけではない。ここにティシラとフーシャ、そして、もしかしたらルミオルもいるかもしれないのだ。
 どうか無事で、とサイネラは祈り続けた。


 その祈りが通じたと、無傷のルミオルの姿を見つけたときは、そう思った。
「ルミオル様!」
 大きな声を出すと、ルミオルと周りにいた一同がサイネラに注目した。その中で、ロアだけが気まずそうな表情を浮かべる。
 サイネラは息を切らせて駆け寄り、ルミオルの前で浅く頭を下げた。
「ご無事で、何よりです……しかし、一体」
 普段は落ち着いているサイネラも、さすがに混乱せざるを得なかった。ルミオルと一緒にいる見慣れない魔法使いと、見るからに身分の高い魔族。そして、血まみれで倒れているティシラとフーシャ。
「あ、ああ」二人を見て、サイネラは僅かに震え出した。「た、大変だ……」
 しかし、二人とも死んでいるわけではないことが分かり、では何から始めるべきなのかを考えた。できることならこの状況を一から把握したい。その上で解決策を見出すべきなのだが、そんな時間はないようである。
 ルミオルは、サイネラがよく知る彼の様子とは違った。冷静、というよりも、諦めの末に気力をなくした寂しい瞳をしている。
「サイネラ」ルミオルは低く呟いた。「俺はいい。終わるまで逃げも隠れもしないから。それよりも、あれをなんとかできないか」
「あれ……?」
 ルミオルが指差す方向に顔を向けると、そこには淡く光るマルシオがいた。
「マルシオ……?」
 どこからどう見てもマルシオであることは間違いないのだが、サイネラは無意識に疑問を抱いてしまっていた。その気持ちは、そこにいる者には分かる。
 そうしているうちに、マルシオが再び微笑んだ。悪戯っぽく少し首を傾げ、人差し指を一本立てる。小さな仕草なのに、一同はそれに集中し、次に何が起こるのかを見守った。
 その指を、しなやかにティシラに向けた。途端、彼女に向かって細い光が走った。
 光はティシラの首に巻きつき、悲鳴を上げる彼女を宙に持ち上げた。
「やめろ!」
 サヴァラスは腕から引き離されていくティシラを追うが、手の届かない位置にまで吊られてしまう。
「貴様、なにをしているのか分かっているのか!」
 マルシオに怒鳴りながら、サヴァラスは魔術を駆使した。核の表面の枝がティシラに向かって伸び、数十本のそれが彼女の体に絡みついた。
 マルシオの放った光に拘束され、苦痛を強いられているティシラの魔力が低下していたのだ。光から開放する手段が見つかるまで、なんとか彼女の魔力を維持させる必要があった。だからサヴァラスは、核からティシラに魔力を送って守ろうとしていた。
 だがこれは時間稼ぎに過ぎない。今のマルシオの力は、呪樹の世界の魔力よりも上だった。もし最後まで何の手立てもないとしたら、ティシラは呪樹の魔力が尽きるまで無駄に苦しみ続けなければいけなくなるだけである。
「ロア! じっとしていないで、何とかしろ」
 ロアははっと我に返る。いろいろ考えていたが、これといった方法は思いつかない。改めて、宙吊りにされているティシラを見上げる。
 やはり、指輪は沈黙している。
(……あれは、ティシラを守るものではなかったのか)
 ロアは歯がゆいかのように唇を噛んだ。
 今、確実にティシラの命が危険に晒されている。しかも誰一人彼女を救う手段を持っていないのだ。なのに、あの指輪が動かないというのは理解し難かった。
(まさか、ここでティシラは友人の手によって命を落としてしまう運命だというのでしょうか……)
 ティシラから、ポタリと血が垂れた。人間よりは回復力が強いとはいえ、彼女の中の魔力が激しく変動しているために傷が塞がりきれていないでいる。
 それだけではない。ティシラは確かに滅茶苦茶で強引なところがあるが、友を守るために自らの体を張って傷つき、魔界と天界の均衡を保つために最低限の義理を払っている。
 ティシラが苦しむ理由は、どこにもない。


   

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