SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-07





 今の状態で話をしていても埒があかないと、ライザはティシラの様子を見に室を出て行った。

 静かな廊下を進み、ティシラの寝ている部屋の扉を、音を立てないように押し開ける。潜るように中に入り、後ろ手で戸を閉めながら室内を見回す。カーテンは閉じたままで、しんとしていた。まだ眠っているのだろうか。もしかすると横になったまま起きているかもしれない。そう思いながらライザはベッドに近づく。

「ティシラ?」
 起こしては悪いと小さな声で囁くが、返事はない。もう少し休ませておこうかと考えながら、少し腰を折って布団の中を覗きこむ。
 今までの物静かな仕草とは打って変わり、突然ライザは目を見開いて布団を素早く掴み上げる。
 いない。
 ベッドの中にはティシラの姿はなかった。ライザの顔が青ざめる。彼女が寝ていた形跡を残したまま布団が盛り上がっていたということは、また影に溶けて移動したと考えられる。なぜ──いや、悩んでいる場合ではない。布団から手を離し、ベッドに両手を付けて温度を確かめる。まだほんの少し温かい。きっとすぐ近くにいるはずだ。彼女を庇った手前、トールやマルシオにバレる前に自分で探し出して捕獲したい。ライザは、やはり足音を潜めて小走りで室を後にした。


*****



 ティシラはあれから眠ることなく、寝室を抜け出して城の裏口から外に出ていた。
 別に何かを企んでいるつもりはなかった。ただ寝ていても気持ちは落ち着かず、思うようにいかない現実に苛立ちが募るばかりだった。太陽の光は苦手だが、カーテンの閉まった室内を狭苦しく感じてしまい、光を遮る北側の裏口へ移動していたのだ。
 周囲には背の高い木々が茂っている。レンガ造りの階段が各階ごとに折れ、城の西方の館の屋上まで続いていた。ティオ・メイの城は、見た目ではすべて繋がっているようだが、東方、中央、西方と大きく三つに分かれており、外部からの不審者の侵入を防ぐためか、西館から王室へ直接移動できる道は設けられていなかった。東は「紅陽(こうよう)の鏡」、西は「青月(せいげつ)の杯」、王室のある中央部は「神樹(しんじゅ)の枝」と呼ばれており、それぞれの壁面の上部に名を象徴とした紋章が描かれている。青月から神樹へ行くには、許可のある者だけが通れる関門を通過する必要があった。それも、影さえあればどこへでも移動できるティシラには関係のないことだった。それ以前に、彼女はそんな決まりがあることも知らない。そもそも城内を勝手にうろついていいものかなど、ティシラが気にするはずがなかったのだ。
 裏口はあまり日が当たらず、足場や手すりには深緑の苔や蔦が張り付いているが、人が行き来している形跡はある。そう頻繁ではなくとも、放置されているわけではないようだ。森と呼べる木々の集まりも一見は野生のようで、細い獣道のようなものがある。手入れされているとは思えないが、誰かがこの道を利用しているのだろう。森の先は高く厚い城壁で囲まれており、ティシラからは見えないがそこにも警備兵がいる。許可を持つ商人や関係者が近道や通路として利用する程度のものなのだろう。
 ティシラは俯いて階段をゆっくり下りていた。城の空気というものには慣れている。だが、ここは自分の城ではない。何をやっても怒られてしまう。どうしてここにいるのか。考えようとして、すぐに止めるを繰り返していた。
 これからどうしようか。ティシラは顔を上げ、足を止めて空を眺めた。壮大な青だった。眩しい。目が眩むほど。だけど、嫌いではなかった。
 そのとき、空よりも近い頭上から明るい声が降ってきた。
「ね、ね、君。黒髪の彼女」
「?」
 ティシラは目を丸くして上半身だけを捻った。見慣れない人物を視界に捕らえ、それと向き合う。
「わ、可愛い!」
 そこには、階段の上方の手すりから身を乗り出した青年が笑顔を向けていた。短い金髪を揺らし、綺麗な緑の瞳を輝かせている。高めの手すりに隠れて全身は見えないが、青年は白いシャツの襟を立てて胸のボタンをいくつか外し、そのラフな出で立ちからは高貴な者には見えにくかった。だが、ここにいるということは城の関係者であることは間違いないはずである。彼の浮かべる表情は無邪気なようで、気の強そうな目つきは印象的であった。
「ね、君さ」手すりに肘をつきながら。「好きな人いる?」
 なんだ、コイツ。
 僅かだが、彼の持つ色から、誰かに似ているような気がした。だがそれを探ろうという気は起きなかった。ティシラは彼のノリについていけず、あからさまに口角を下げる。青年はお構いなしに、今度は何かに驚いて目を見開いた。
「あ、指輪!」
 ぎく、とティシラは手を背中に素早く隠した。
「もう見たよ。もしかして結婚してるの?」
「ち、違うわよ」ティシラは慌てて反論する。「これは、その、パパに男除けに」
「本当?」
「そうよ!」
「じゃあ恋人もいないの?」
「いないわよ。そんなもの」
「じゃあ、好きな人は?」
 再び同じ質問をされ、ティシラは我に返る。初対面で、名前も交わさずにどうしてそんなことばかり聞いてくるのだろうという疑問を抱きつつ、声を落として答える。
「いないわよ」
「本当? 信じていい?」
 しつこい。だからなんだと言うんだ。それを言葉にはしなかったが、これ以上答えるつもりはない。無視して森の方に進もうと足先の方向を変えようとしたティシラを引き止めるように、青年は更に質問を続ける。
「じゃあ、俺にしない?」
 一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。理解しようがしまいが、そのバカげた問いに付き合う気力はない。背を向けながら、ティシラは冷たく言い残し。
「しない」
 そのまま階段を下りていく。青年は背を伸ばしてティシラを止めようとするが、思いとどまる。二度と振り向くこともせずに歩みを進める彼女を見送りながら手すりにもたれかかった。残念そうな表情を浮かべて、ため息をつく。
「ま、いいか」
 呟きながら体を起こし、ティシラとは逆の方向へ足を出した。すると、更に上方から誰かが姿を見せた。
「これは」警備兵の一人だった。「ルミオル様」
 警備兵は急いで彼に駆け寄り、青年ルミオルより下まで降りて頭を下げる。
「お戻りでしたか」
 途端に、ルミオルの笑顔に影が落ちた。先ほどまでの軽いそれとは明らかに違うものだった。
「父上が呼んだんだろう」
 口調も、言い捨てるような厳しいものだった。警備兵は目を合わせないまま、密かに汗を流す。
「は。しかし、もう謁見は終了して……」
「それは」ルミオルは声を低くし。「遅れたことを責めているのか」
 早口で言い放たれ、兵の体が固まった。
「いえ。決してそのようなこと」
「だったら余計な口を叩くな」ルミオルは兵を置いて足を進める。「父上はどこだ」
「国王陛下は、まだご友人と……」
「着替えてくる。それまでに呼んでおいてくれ」
「は……」
 考えのない兵は、ティオ・メイにはいない。彼もまた、瞬時にしてルミオルの言葉が順序を間違えていると判断していた。いくら「王子」とは言え、自分が着替えている間に国王を呼び、待たせるなど無礼に値することである。逆らうことはできないが、素直には聞き入れられない。返事を濁す兵に振り向き、ルミオルは笑みを消して眉を寄せる。
「息子と友人と、どっちが大事だ」
 ルミオルも自らの言い分が傲慢であると分かっていた。分かっていながらも命令を押し通す。兵に、彼に口答えできる権利も度胸もない。だがトールに事情を話せばきっと分かってくれると信じながら、心とは裏腹な返事をする。
「は、はい。お伝えいたします」
 最初からそうすればいいのだ。ルミオルはそれ以上言わずに顔を背けた。
 数段、歩み進めたところでふと足を止める。それに気づき、頭を下げたまま上目でルミオルの様子を伺っていた兵はすぐに目線を落とす。ルミオルはそんな兵には見向きもせず、表情を消して何かを思案した。
 確か、伝言として受け取った父トレシオールからの言葉には「会わせたい少女がいる」とあった。最初は、女という言葉でも出せば自分が食いついてくるとでも思っているのかと耳を貸さなかった。だからわざと遅れて顔を出そうと、今ここに着いたところだったのだが、ルミオルの脳裏に、先ほどの赤目の少女の姿が思い出された。単なる勘ではあったが、ぱっと見た少女の感じから決して身分の低い町娘には見えなかった。ルミオルは、彼女の消えていった階段の奥に目線を移した。すでに少女の気配さえもなくなっていたのだが、もしかしてと心の中で呟く。そして、口の端を微かに上げた。
 もしそうなら、きっとまた会える。そのときは、手厚くもてなしてやろうではないか。面白いことがありそうだと機嫌をよくしながら、ルミオルは再び足を進めた。
 彼の足音が遠ざかり、やっと頭を上げた兵の鎧の中は、嫌な汗で湿っていた。


   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.