SHANTiROSE

HOLY MAZE-26






 マルシオは宿で一人、ティシラとロアの帰りを待っていた。
 落ち着いていられるはずがなく、そわそわしながら窓の外を眺めたりしている。外は少々騒がしかった。国民のほとんど、ラストルがやってくることは知っている。予定通りならば明日の入国となり、祭りが始まるのだ。祭りと言っても、結果的にそう見えるというだけの跡付けなのだろうが、人々はそれぞれの思いを胸に抱いていた。
 ふと、マルシオの目線が止まった。行き交う人々の中に様子のおかしい二人組みを見つけたのだった。
 二人は男女で、何やら言い合っているように見えた。ケンカだろうか。こんな人前で言い合わなければいけないようなことが何なのか気になり、そのまま見ていると、距離を置きながら見守る人混みを掻き分けて三人の兵士がやってきた。誰かが呼んだのだろう。先ほどまですごい剣幕で言い合っていた二人は兵士を見ると大人しくなったが、しばらく話したあと、兵士は左右から女性の腕を掴んで歩き出した。女性は振り返って、再度男性に大きな声を出し始めたが、そのまま兵士に連れられていく。
 女性が連れていかれたということは、きっと女性のほうに非があったのだろうと思う。マルシオは女性が何を言っているのか聞いてみたくなり、窓を開けようと手を出した。
 が、その寸前に、背後のドアがノックされ、我に返った。ドアを叩いた者はマルシオの返事を待たずに鍵を開けて部屋に入ってきた。
 ロアだった。ロアは俯き、暗い顔をしていた。
「……お、おかえり」
 マルシオはすぐに彼に駆け寄ったが、彼の落ち込んだ様子に戸惑った。
「どうだった? ティシラは……?」
 ロアは背を丸めたまま帽子をとり、マルシオに目も合わせずにソファに座り込んだ。
「ティシラは置いてきました」
「えっ」
「売り込みはうまく行きました。飛び込みで時間もないので、すぐにティシラを預かって、可能な限りで審問や教育を行うそうです……」
 ロアは言いながら、頭を抱える。マルシオは彼の様子も気になったが、その前にティシラのことを聞きたかった。
「……ティシラ一人で、大丈夫なのか?」
「さあ。でもオーナーはティシラをいたく気に入っていたし、彼女は魔女ですから、うまくやってくれるんじゃないでしょうか」
 ロアの言い方は投げやりに感じるが、これ以上ティシラと一緒にいれるわけではなかったのだろうから、後は彼女に任せるしかないのはマルシオでも分かる。ティシラのことは心配だが、そろそろロアの落ち込んでいる理由にも触れなければいけない。
「……で、ロア、どうしてそんなに辛そうにしてるんだ?」
 ロアは顔も上げず、はあ、と深い息を吐いた。
「……演技とは言え、あんな役を完璧にやり遂げた自分が嫌になってしまいました」
 何を言っているのだろうと、マルシオは汗を流しながら首を傾げた。
「落ちぶれた元一流階級、生活に困って娘を売る男……最悪じゃないですか」
「そんな、今更……」
「そのときは仕方ないと思って、やるなら本気を出すしかないと意を決しましたが……帰り際に、ティシラに『完璧だった、まるで本物の詐欺師みたい』なんて言われて……そのときに自分のやったことを客観的に見てしまい、石で頭を殴られたような衝撃を受けてしまいました」
 どうやら、ティシラの余計な一言が彼を傷つけたらしい。ティシラがそう言うということは、きっとロアの演技は完璧で、少なくともその場はうまく事が運んだのだと思う。
 その点は安心してよさそうだが、うまく行ったからこそロアは落ち込んでしまったということになる。どう励ませばいいのか、マルシオには分からなかった。
「……私は一体、何をしているのでしょうか」
 そう呟くロアに、マルシオは嫌な予感を抱いた。
「私には何の関係もないことです。友人を助けるためではありますが、私はもう十分に役目を果たしました。もうこれ以上の屈辱はごめんです」
「ちょっと待てよ」マルシオは慌てて口を開く。「ただの演技だろ。本当に娘を売ったわけじゃないんだし、そんなに深く考えなくても……」
 ロアにまでいなくなられたらマルシオは一人になってしまう。ティシラが今、そしてこれから、どこで何をし、誰とどんな話をするのかも何も分からないのに、自分で考えて行動しろと言われても非常に困る。
「大体、私は何のためにここにいるんですか。これ以上私にできることなんかないでしょう」
「そんなことないって……」
 いじけたように言い捨てるロアを必死で宥めようとするが、マルシオはうまい言葉が出てこなかった。
 ルミオルが……と言っても、たまたまそこにいて頼まれただけでロアに協力する義務があるわけではない。ティシラが、と言っても、別に昔からの知り合いでも何でもないし、もちろんマルシオ自身も彼とはついこないだ会ったばかりである。考えれば考えるほど、ロアを引き止める理由は見つからなかった。
 マルシオが困り果てた表情を浮かべていると、それを見たロアが、逆に彼を気の毒に感じてしまう。
 ロアとて本気で今すぐここから消えたいわけではなかった。事の行方が気にならないと言えば嘘になる。ただ、人前に出て行動することには慣れていない。慣れていないというより、「苦手」だった。
 ここでマルシオを困らせる必要はない。深い息を吐き、気持ちを落ち着かせた。
「……もう二度と、こういうことはしませんからね」
 マルシオが顔を上げると、ロアは疲れた体で腰を上げていた。
「このことは私からルミオルに報告します」隣の部屋のドアに手をかけながら。「今日はもう休みます。明日、またお話しましょう」
 そう言うと、ロアはマルシオの返事も聞かずにドアの向こうに消えていった。
 マルシオは、とりあえずロアが踏みとどまってくれたことにほっと胸を撫で下ろした――のも束の間、改めてここにティシラがいない現実に顔を青くした。
 そうだ、今ティシラは一人で売春小屋にいるのだ。
 なんということだろう。今更なのは重々承知だが、ティシラを一人にしてしまったこと、しかも心身共に不安定な彼女を「売った」ことに恐怖さえ感じてしまっていた。こんなことがサンディルやトールに知れたら何を言われるか分からない。マルシオは胸を痛めた。
 本当に売春行為が目的ではないとは言え、もしティシラに何かあっても、守ることも、文句を言うこともできない状態である。確かに彼女は魔女であり、魔界ではマルシオの想像もできないような生活をしていたのかもしれないが、ここは人間界なのだ。魔界では「食事」でも、ここでは感覚が違う。
 何よりもマルシオの不安を煽ったのは、気まずくて考えたくなかった「彼」のことだった。
(……ティシラには、好きな人がいるのに)
 本人が忘れていたとしても、それは間違いない。明確な根拠はないが、見ていてもそう感じるし、他の人も同じだと思う。もし昔の彼女ならこんなことはしなかったはず。
(それなのに……こんなことになってしまうなんて)
 マルシオは自分の不甲斐なさに深く失望した。
(クライセンが戻ってきたとき、もしティシラに何かあったとしたら、あいつはきっと後悔するだろうな……)
 マルシオは自分のことのように悲観する。しかし、じゃあどうすればよかったのかと考えても答えは出ない。ティシラ自身が行くと言って聞かなかったのだから。
(やっぱり、あいつを止められるのはクライセンしかいないんだよな)
 どうか、無事に戻ってきて欲しい。マルシオはそう願うことしかできなかった。


 隣の部屋に移動したロアは、疲れた様子でイスに腰掛け、胸のボタンを外し楽にしてため息を吐いた。静かな室内では、カーテンの閉まった窓の向こうの声や物音が妙に寂しく聞こえる。ロアはそれを聞くでも聞かないでもなく、背もたれに体を預けて目を閉じた。
 一息ついたところで、やってしまったことへの後悔や罪悪感は薄れていった。過ぎたことは仕方がない。それよりも、動いたからには今後のことを心配しなければいけない。どうなるかなど、何も分からなかった。
 ロアは時折、ふっと未来を感じることがある。それがただの勘なのか、何かの能力によるものなのかは確かではなかった。どっちにしても、暗闇で右も左も分からない状態での賭けのヒントでしかない。予見により右を選んだとして、その結果が出たとき、あの時もし左を選んでいたならどうなっていたのかなど、誰も知らないからだ。
 今、目の前に道はなかった。普通なら何かを感じそうなものだが、ロアの瞳の奥には何も映らなかった。その理由は、なんとなく分かった。
 ティシラとマルシオがいるからだろうと思う。
 ティシラは言わずもがな、常人には理解できない考えを持ち、人の話など聞かずに暴走する。嫌いではないのだが、何の決まりもなく自由にさせていてはいけない。
 マルシオは一見まともそうだが、大きな爆弾を抱えていることをその目で見てしまった。あれが再び爆発することがあったとしても人の及ばぬものだろうと感じている。
 考えれば考えるほど、あの現象が現実のものとは思えなかった。ロアの持つ知識――おそらくこの地の魔法使いが持つそれの範囲を超えるものだった。
 あれは人間でも魔族でも、そして天使でもなかった。だとしたら「神」、もしくはそれ以外の、「人の知らない存在が形になったもの」。その答えが限界だった。
 しかしそのことが逆に、マルシオへの不安を薄れさせていた。考えても答えが出ないのなら、考えても無駄だからだった。つまり、あれは「人が逆らえない力」。そもそもマルシオ本人でさえ制御できないものなのだから、知らなかったことにしておいた方が精神衛生上、楽である。
 そう考えるのはロアだけではないだろう。あれを見た他の魔法使いもルミオルも、どこかでなかったことにしようとしている。今はそれでいいと思う。
 マルシオの中に何があるのかはともかくとして、彼もまた掴みどころがないのは確かだった。特に付き合いは長くないが、自分の正体も知らず、天使でありながら人間界に身を置いている時点で普通ではないことは分かる。
 この手に負えない二人に付き合ったのは、ルミオルに頼まれたからだけではなかった。
 興味があったのだ。正確には、あの二人を引き付けた魔法王、クライセンに。


 ロアは背を伸ばして座りなおし、首からさげた水晶のネックレスを片手で掴んだ。それを額にあて、声に出さずに呪文を唱えた。
 呪文が水晶の中に溶けるような感覚を確かに感じ取り、中に細い道ができていく様子をイメージした。その道の先はルミオルに繋がっている。彼の返事を待つ。
 間もなく、ルミオルの声が届いた。
『ロアか。どうなった』
 連絡を待っていたルミオルは、慌てることなくすぐに返事をした。
「予定通り、ティシラをうまくミスレに送り込みました」
『ティシラはどうしてる?』
「時間がないということで、ティシラは店に置いてきました。ラストル様の到着まで大人しくしてくれるといいのですが」
『もう一人にさせたのか? 大丈夫なのか?』
 意外にも、ルミオルは驚きの声を出していた。つい先ほどマルシオにも同じような反応を向けられたことを思い出し、ロアはまるで自分だけが悪者になっているような気分になる。
「……私はただの協力者ですよ。一番やる気のあるのはティシラ本人で、今回のことを提案したのはあなたです。そういう言い方をしないでください」
『ああ……それもそうだな』ルミオルは声を落とす。『問題はティシラが兄上にうまく近付いてどう説得するかだよな。兄上は、何も問題が起きなければ明日到着するはずだが、まあそれまで様子見しかないな』
「そうですね……」ロアは一息置いて。「あの、ところで、ラストル様のことですが」
 すぐには続けず、少々言いにくそうに切り出す。
「あの方は、本当に女性と関係を……?」
 水晶の向こうから小さなため息が聞こえた。
『確かめようがないから、俺は聞いたことしか知らない。今言えるのは、もしティシラと二人きりになっても、それだけの理由でどうこうなることはないだろうということだ』
「どうしてそう言えるのですか?」
『勘に過ぎないが、もし兄上が女を好きだとしてもかなり相手を選ぶはずだ。でなければ今までに一切噂がないというのは考えられないだろう。そして、ティシラは兄上の好みの女ではない。ティシラは指輪で制御され誘うことができず、兄上もティシラに手を出すことはない。となると、二人の間に情が芽生える可能性は限りなく低い。俺はそう思ってる』
 ロアはルミオルの話に異論はなく、素直に頷き、小さな声を漏らしていた。ただ、そこまではいい。ロアが気にしていることは、他にあった。
「以前私が見た、居酒屋の娘……彼女がラストル様の好みの女性とお思いで?」
 エルゼロスタのシオンのことだった。以前にロアはルミオルに彼女を調べるように言われ、足を運んだ。理由は追求しなかった。
 その頃ルミオルはラストルへの恨みに支配されており、心情に深く立ち入ることができないほど神経が張っている状態だった。だからロアは言われたとおりに動いていた。ラストルの好みには興味はないが、もし関係があるなら聞いておきたいことだった。
 ルミオルに動揺はなかった。ああ、と、忘れていたかのような反応を見せる。
『それも噂だ。あまり感情を出さない兄上が熱心に舞台を見ていたんだとか。もし人知れずあの女を買っていたとしたら、ちょっとした弱味を握れるかと思ったが……まあ、確かにいい女だったが、所詮は身分も地位もない芸人。今となっては些細なことだ』
 今となっては――ルミオルは変わったとロアは思う。以前は今以上に一緒にいた時間が長かったのに、こんな話はできなかった。
 次はラストルの番なのか。ティシラに関わった者は変わってしまうのだろうか。ロアは自然と笑みを浮かべていた。それは冷たくも優しくもない、まるで他人の不幸を楽しむような皮肉なものだった。ルミオルが目の前にいれば睨まれていただろうが、今はお互いに顔を見ることはできない。
 ルミオルは何も気づかずに続けた。
『仮に兄上がこそこそと、どこぞの女と関係を持っていたとしても、名もない女と長く付き合っていられるわけじゃない。罪作りだとは思うけどな……』
 次第に独り言のようになっていったルミオルの言葉を聞きながら、ロアは笑みを消した。
「――ルミオル」
 ルミオルはロアの低い声で呼ばれ、無意識に顔を上げた。
「確認しておきたいことがあるのですが、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
 ロアのこの妙にくどい言い方のときは何かある。ルミオルは気を引き締めつつ、冷たく「どうぞ」と答える。
「では、率直にお聞きします。あなたは、ラストル様をどうなさりたいのですか?」
 ロアには、ルミオルが驚くことも慌てることもしなかったことが、水晶越しでも伝わってきた。彼がただ静かに、兄と同じ色の瞳を揺らし、心を静めている様子が見える。
 それは、ルミオルが時折見せる「王子」としての姿だった。彼がどんな育ち方をしどんな性格で、どんな知識や経験を培い、その上で今どんな状況にいようと、ルミオルに流れる血は本物なのだ。それは、おそらく自分が一番知っているとロアは思っていた。今なら彼の本心が聞ける。なぜなら、水晶の向こうから感じるルミオルの表情が、まるで目の前にいるかのように想像できていたからだった。
『兄上は将来、必ずティオ・メイの王になる男だ。あの人にはその価値と、器がある』
 そう言い切るルミオルの表情は、無に等しかった。過去に見せていた孤独で悲壮感漂うそれではない。人に言い聞かせ、語りかけるため、相手に安心感を与える、深く、広い眼差しと声。
 ロアはルミオルのこの「王子の姿」を初めて垣間見たとき、戦慄したことを覚えている。そのときは、冷酷なラストルではなく彼が王位を継ぐべきではと感じたこともあった。だがルミオルはそうではないと言う。その理由は、ルミオルが兄を恨みながら、己の命を懸けてまでも決して彼を殺そうとはしなかったところにあるのだと思う。その答えを、やっと聞ける。
『だから俺は、次期国王としての兄上を、そして、国王となった兄上を、何があっても支えていくつもりだ。それが俺の役目だと、信じている』
 ロアに再び戦慄が走った。
 きっとこの話だけを聞いた者なら、ルミオルの言葉の意味が理解できないだろう。しかしロアには分かった。やはりルミオルは「本物」。目覚めた彼にかつての迷いは一切ない。大きな挫折を味わったことで、確実に今のラストルより以上に強い男に成長している。そして同時、そんな彼が心酔するラストルも「本物」に違いない。迷いから目覚めたとき、ルミオルの言うとおりの男になるのだと思う。
「もう恨みはないのでしょうか」
『ない』ルミオルは落ち着いた声で続けた。『分かっていたんだ。兄上が俺にしたことは間違っていはいなかったことを。だけど、受け入れることができず、感情に任せて復讐を企てた。俺が愚かだったんだ』
「……ラストル様が、あなたにしたこととは?」
『兄上が俺を見殺しにし、自分だけ助かろうとしたことだ』
 ロアは息を飲む。崖から落ちて一命を取り留めたというあの話――そのときから二人は不仲になった。ラストルがルミオルを見殺しに……その衝撃的な事実を、ルミオルは胸の内に秘め続けてきた。あれだけの憎悪の中、両親にさえ告げ口しなかった。それも偏に、ラストルに非があってはいけないと信じ、自分だけが完全な悪となるためがゆえの行動だった。
『もちろん、最初は酷いショックを受けた。だけど、一命を取り留め、二人とも無事だと分かり俺は喜んだ。あの頃から、俺は兄を支える弟だという自覚があった。だから俺は恨みも怒りもしなかった。兄が無事でよかった。ただその一心だった。あのとき、俺の手を離さなければ二人とも死んでいたかもしれない。だからあれでよかったのだと、兄の行動は正しかったのだと、信じて疑わなかった』
 なのに、ラストルはルミオルの無事を喜ばず、迫害を始めた。
『俺は兄の仕打ちに困惑した。そのうちに、兄は俺に消えて欲しいのだということを理解した。だから望み通り、消えてやろうと考えた』
 その手段が、あの未遂のクーデターだった。改めて、失敗してよかったと心から思った。
 二人の不仲の理由がだいぶ分かってきた。あとはラストルの本心次第だ。あと少しで二人は和解する。だがそのためには、まだ痛みや犠牲が必要だとロアは感じていた。
 ルミオルが口を閉じると、ロアは感動に似た安堵を得て、肩の力を抜いた。
「……安心しました。私のしていることは無駄ではないようですね」
 なぜこんなことを、友人のためとはいえ、ここまでする必要があるのかと戸惑うこともあったが、もう迷いはなかった。
 ルミオルのため、ラストルを救う。ロアはこれで心置きなくティシラたちの力になっていいのだと確信した。





   

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