SHANTiROSE

HOLY MAZE-44






 ラストルがティオ・シールに滞在して四日目となっていた。
 ルミオルは変わらずクルマリムの宿で、ほとんどの時間を一人で過ごしていた。遊び相手だったティシラもマルシオもおらず、何もなければ退屈しているところだが、今の彼には考え事が多く、遊ぶ気分ではなかった。
 そんなルミオルの元に、三人の男性が訪れていた。ティオ・メイからの使者だった。彼らは黒いスーツ姿で手に大き目のカバンを持っているだけで特徴はない。
 勘当されているはずのルミオルだったが、息子が心配なトールがたまに様子を見るために使者を送ってくる。ルミオル自身干渉されることには慣れており、特に迷惑に思ったことはなかった。
 それに、魔女の事件については、ルミオルにとっては興味があるどころか、とても無視できるものではない。身動きの取れない中で積極的に情報を集めていたのだった。
 使者はカバンの中からいくつかの書類を取り出し、イスに腰掛けているルミオルの横に整列した。書類自体は少ない。内容はラストルの公務についてである。ルミオルが知りたいのは、物的な証拠を残すことができない情報、つまりこの場限りで交わす言葉のみのそれだった。
 ルミオルは一通り、ラストルの表向きの動向を聞くが、ほとんどが公表されているものと、それから想像できる範囲のことばかりで興味を示さなかった。
 しかし、使者が膝を折って耳打ちした話には戦慄が走るほどの衝撃を受けた。
 まさか、と予感したことはあった。ラストルがカーグに寄るか、大人しくメイに帰るか。可能性としては後者のほうが高いと考えていたが、もし前者になった場合は……メイがどう動くべきか、まだ答えは出せていなかった。
 実際に最悪の状況に進み始めても、まだ何も思いつかない。
 だがルミオルに焦る様子はなく、呆れたようなため息をつくだけだった。
「……それで、父上はどうするって?」
 彼の悠長な態度は今に始まったことではない。使者も動揺せず、姿勢を正して続けた。
「ティシラという少女、ご存じですか」
「ああ、知ってるよ。よく知ってる。シールに潜入してることも」
「その娘がラストル様を説得すると言っているそうです」
「へえ。失敗したら、どうするんだろうな」
「少女は必ず成功すると言っているとのことですが、陛下は秘密裏に軍や魔法兵に指示を出し、万が一に備えて準備させていらっしゃいます」
「そうだな。カーグも慎重に動いてるようだし、父上もできるだけ公になるのは避けたいだろう……皆が腹を探り合っている中、兄上だけが軽率な言動で周囲を翻弄している、っていう状況か」
 ルミオルはそう言って鼻で笑った。使者は何も言わず顔を見合わせる。勘当される前なら、彼のこういう態度は不謹慎なものに見えたが、今は素直に、彼の的確な判断に同意と感心しか抱かなかった。
「兄上のことは分かった」ルミオルは使者に顔を向け。「ティオ・メイ周辺で何か変わったことはなかったか?」
「変わったことと仰いますと……」
「なんでもいい。そうだな、新しい店ができたとか、病気が流行っているとか」
「ええと……ああ、そういえば、城下町の公園に住み着いていた猫が出産し、近所の者が引き取り手を探して城にもチラシを持ってきました」
 あまりに庶民的すぎる話に、隣の使者が肘で小突いてきた。しかしルミオルに「それでいい」と言われて、それぞれに口を開き始めた。
「クロワッサンがおいしいパン屋が店を増築していました」
「西のはずれの銭湯の煙突が故障し、修理の費用を援助して欲しいと申請していました」
「ライザ様がお気に召していらっしゃる本の作家が病気で亡くなったそうです」
「居酒屋グレン・ターナーが休業しています」
 使者たちが思いつくままに続ける中、一つの話にルミオルは瞳を動かした。
 グレン・ターナーはエルゼロスタ武芸団の拠点となっている居酒屋だ。ルミオルは一同を制止し、口を挟んだ。
「その居酒屋はいつから休業している?」
「は、確か、三日ほど前だったかと」
「理由は?」
「団員の体調不良だったと思います」
 ルミオルは使者の様子からして詳しいことは知らなそうで、これ以上聞いても無駄だと思う。使者から目を逸らして思案した。
 エルゼロスタとて素人ではない。メイにも何度も招かれている一流の芸能団体である。少々の体調不良で休むのは不自然だった。ということは、代えの利かない誰かが舞台に立てないということ。しかも、その者がいなければ舞台が成り立たないほどの人物――思い当たるのは、看板娘の踊り子・シオンしかいなかった。
 確信は何もないが、ルミオルの中に妙な不安が過った。


 そのあとルミオルは少しの雑談を続け、使者に退室を命じた。
 再び一人になった部屋で、ロアに預かった水晶に呼びかける。返事はすぐに返ってきた。
『ルミオル、お話ししたいことが……』
 ロアの神妙な声を遮り、ルミオルは話を進めた。
「知ってる。兄上のことだろう。さっき使者から聞いたところだ」
『そうでしたか。如何いたしますか』
「まだ最後の手段が残ってるんだろ?」
 ルミオルが笑いを含んで言うと、ロアも語気を緩めた。
『そうでしたね』
 最後の手段とは、他ならぬティシラのことだった。彼女の持つ力が大きいことをっているとはいえ、この状況に役立つのかどうか、誰も予想できずにいた。間違えれば歴史を動かし、戦争をも辞さないような瀬戸際に、少女一人に期待を委ねるというのもおかしな話だと思う。それでも、彼女が持ち帰る結果を待つしかなかった。
『ルミオル』ロアは声を落とし、呟いた。『……嫌な予感がします』
 それはルミオルも同じだったが、ロアの場合は第六感からのそれであり重みが違う。
『狂った歯車を無理に動かし続け、最後に崩壊する……そんなイメージが浮かぶのです』
「分かりやすいイメージだな」ルミオルは口の端を上げ。「それで、崩壊したあとはどうなる?」
『さあ……それが、何も見えないのです』
「なんだよ。それじゃ意味がないだろ」ルミオルは意地悪な笑みを浮かべる。「危険だけを煽って救いの手段がないなんて。優秀な占い師はそういう場合、見えても見えてないと言うのが礼儀だと心得ている。お前は最低の占い師だな」
『失礼ですね。私だって人を選んでるんです。こんな恐ろしいこと、心優しく繊細な相手には口が裂けても言いませんよ』
 どっちが失礼だと思いつつ、ルミオルは笑うのをやめた。
「それで、ロア。頼みがある」
『なんでしょうか』
「俺をメイに運んで欲しい」
『……いつですか』
「できるだけ早く」
 ルミオルが何を考えているのかは聞かず、ロアは考えて答えた。
『少し準備が必要です』外を見ると、陽が傾き始めていた。『暗くなってからになりますが』
「十分だ。夜のほうがいいだろう。目立たないからな」
 ロアは了解し、またあとで連絡すると約束して通信を切った。



*****




 その頃、ティオ・メイの城でも魔法使いの話し合いが人知れず行われていた。
 魔法の道具や本に囲まれた部屋の小さなテーブルで水晶を見つめていたのは、サイネラだった。
 水晶の向うにはサンディルがいる。この心労絶えない時期とはいえ、魔法使いとしてサンディルからの話を蔑ろにはできない。むしろ、こんなときだからこそ、何かを期待してしまうのだった。
 サンディルの話は朗報だった。
『世界を救えるかもしれない』
 サイネラの動悸が密かに早まっていた。
『準備は整った。あと少しじゃ。確信さえあれば、奇跡を起こすことができる』


 そうサイネラに伝えるサンディルの隣には、ラムウェンドがいた。彼は数時間前にウェンドーラの屋敷を訪ねていた。
 祭壇のろうそくの灯りだけが照らし出す、薄暗い紫の石でできた広い室内には、三つの呼吸があった。
 サンディルとラムウェンド、そして、淡い光の線で描かれた魔法陣の中央に横たわる、魔法王クライセン。
 彼は眠っていた。深い闇の中、長い長い夢を見ながら。


 水晶越しに、彼の安らかな顔が見えた。ずっとこのときを待ち望んでいた。サイネラはこみ上げるものを我慢し、体を震わせる。
 サイネラは「そのときが来たら、私はすぐにそこへ参ります」と、力強くサンディルに応えた。
「ライザ様にも伝えておきます。あの方も同じお気持ちですから」
 サンディルがすぐに返事をしない理由は、サイネラにも分かった。
「……ライザ様は聡明な方です。信じてください。ライザ様のご判断は、いつも正しかったのですから」
 サイネラのその言葉に、サンディルはやっと頷いた。
 そして、時を待つように言い残し、通信を切った。


 サンディルとラムウェンドは地下の部屋を後にし、庭を見渡せるベランダに出た。
 影が長く伸び、緩い風とそれに靡く草木の音が風流だった。
 本当に間に合うのだろうか。
 そんな不安を拭えずにいたラムウェンドに、サンディルはハーブティーを運んできた。
「すべて運命で決められておる」サンディルは皺の中から目線を遠くに投げ。「必要なら帰ってくる。まだ先なら、待つだけじゃ」
 毎回味の違うお茶を口に運び、ラムウェンドは微笑んだ。
「あなたが未知の世界を研究し続けることも、運命の一つなのですか」
「もちろん」少し、間を置き。「息子がこんな目に遭ったのも、儂のせいなのじゃから、当然のこと」
「責任を取ろうとしていらっしゃるということでしょうか」
「違う。常に探究心を持ち、物事の真理を研究することが儂の役目。だから死ぬまで、ずっと続けていく」
 強がったり、弱音を吐いたり忙しい人だとラムウェンドは思う。お茶を味わいながら、赤くなり始めている空の下に広がる賑やかな花畑を眺めた。
「今日私を呼ばれたのは、理由があるのでしょう?」
 サンディルはカップを持ち上げていた手を止め、ラムウェンドと同じ方向を見つめた。
 ゆっくりと、枯れた枝のような人差し指を立て、庭の一角に向ける。
「あそこに、ティシラが植えた花がある」
 いろんな草花が並ぶ中、ここからではラムウェンドにはどれのことか判断できなかった。
「ティシラが出かけたあとに花をつけた。しかし……今朝、そこだけが萎れてしまっていたんじゃ」
 その話だけで、悲しい気持ちになる。ラムウェンドはなぜ「今」なのかを悟った。
「ティシラの喜ぶ顔が見たく、いい肥料を撒いて大事に育てた。なのに、そこだけが頭をもたげてしまったのじゃ」
 他の花はいつもと変わりはなかった。そもそもこの庭はランドールの魔力に満ち、サンディルの知識で好きなものを好きだけ育てることが可能。手入れを怠って枯らしてしまうことはあっても、なんの原因もなく命を奪われるなど不可解なことでしかなかった。
「……嫌な予感がする」
 サンディルも、ロアと似たようなイメージを持っていた。
「狂った歯車を無理に動かして崩壊する」という言葉がぴったりな不安だった。
 しかし、サンディルのイメージはそこで終わらなかった。歯車は再び動き始めたのだ。一度闇に閉ざされた世界は元に戻った。壊れたものが修復されたのか、新しいものができたのかまでは分からないが、サンディルは壊れたあとの未来に希望を見出していた。



*****




 あれからラストルは再度カーグに呼ばれ、改めて会議室で話し合いを行った。
 その場にはノイエとアジェルもいたが、ラストルの傍にドゥーリオはいなかった。牢獄で交わした結束を再確認し、裁判について話を進めた。
 トールにも口裏を合わせるラストルの様子から、カーグは彼を手中に収めたことを確信し、気を良くしていた。
 裁判は裁判官などと具体的に計画を立てていき、できるだけ早く行うことになった。彼らの目的は国民を不安に陥れている「魔女」を裁き、処刑すること。答えは既に用意されていた。
 カーグはラストルを、ティオ・シールという国家の一員として国民に受け入れてもらうために、最終決断を任せたいという案を出した。
 ふと、ラストルの脳裏にティシラの顔が浮かんだ。彼女の言うとおりに事が進んでいたからだった。ティシラの言っていたことは本当なのかもしれないと一瞬迷ったが、だとしたら今世に蔓延している「魔女」は一体何なのだという疑問が生じた。本当に物語に出てくるような魔女がいるのなら、牢獄にいた女性たちはなぜ捕まっているのかということになる。これは、罪人となった彼女たちとその家族を救うための裁判だ。ラストルはそう信じた。


 その日は機嫌のいいカーグといろいろな話をした。
 会議が終わったあとは、またカーグの家族と一緒に食事を楽しんだ。


 やっと解放されたラストルは自室に戻り、酷く疲れた様子でベッドに倒れ込んだ。
 そこにドゥーリオの姿は、やはりなかった。どこに行って何をしているのか気になったが、家来に尋ねることはしなかった。


 空は雲に覆われており、その上に輝いているはずの月が丸いのか細いのかも分からない夜だった。
 ラストルは疲れているはずなのに、すぐに眠ろうとしなかった。眠れば朝になる。その朝が怖かったのかもしれない。ドゥーリオを切り捨て、父に背を向けた自分がこれからどんな道を進むのか、まだ何も見えなかったからだ。
 夢が叶う。こんなにも早く。そう思った。だから決断した。しかし、ずっと敵対心を持ち続けてきたシールを、そう簡単に家族だと思うことはできない。
 ラストルは急に襲ってきた孤独感に身震いを起こす。
(……迷っていては、どこにも辿り着かない)
 心の中で呟き、窓から暗い空を仰いだ。
(私は一人でもやっていける。いや、一人であるべきなのだ)
 何かを手に入れるためには何かを切り捨てなければいけない。そのとき、情に惑わされては正しい判断ができなくなる。だから人の上に立つ権力者は孤独を恐れてはいけない。
(孤独を極めて初めて、人は完璧になれるのだから)
 ラストルは灯りを消し、ベッドに潜った。
 眠れば朝がくる。そう思い目を閉じるが、しばらくすると瞼が自然に開いてしまう。何度も寝返りを打ち、時折体を起こしてベッドの横のテーブルに置いてある水で喉を湿らせた。
 こんなにも不安定な自分に苛立ちながら、ラストルは夢現を行き来していた。


 もう日が変わったころ、やっと意識が遠のいていたラストルは小さな物音で目を開いた。
 気のせいなのか、窓の外から何か音がしたのかを確認しようと耳を澄ます。
 それは、室内を歩く足音だった。
 ラストルは目を見開いて起き上がり、枕元に置いていた剣を握った。
 黙って人の部屋に入ってくる無礼者などいるはずがない。こんなところに泥棒がいるとも思えない。何よりも、ドアを開ける音がしなかった。
 ラストルは怯えることなくベッドから降り、足音のする方に向かって剣を構えた。
「……お前は」
 暗闇から姿を見せたのは、ティシラだった。
 ラストルは怒りを通り越し、本当にカーグに突き出すか、正当防衛として斬り捨ててしまおうと考えた。
「貴様……どうしてここにいる」
 ティシラは無表情で一歩近づいた。
「それ以上近寄るな」
 ラストルが剣の切っ先を向けて威嚇するが、ティシラは更に一歩進む。
「聞こえていないのか」
 ティシラがもう一歩足を出すと、ラストルは舌打ちし、剣が脅しではないことを証明しようと腕に力を込めた。
「私を斬るつもり?」ティシラは表情を変えず、抑揚のない声を出した。「できるものならやってみなさい」
 そして、闇に潜む野獣のように赤い目を光らせた。
 途端、ラストルの体の自由が利かなくなった。彼は何が起きたか分からず、指一本動かせないまま動揺した。
「……何をした」
 ティシラが目を細め、口の端を持ち上げると鋭い牙が覗いた。
 ラストルは彼女の赤い瞳から目を離せなかった。ティシラは魔法使いなのか? いいや、違うとラストルはすぐ否定した。目に炎を宿し、飢えた獣のように牙を見せて笑う彼女は、あまりにも邪悪だったからだ。
 ラストルの体から汗が吹き出し、震え出す。悲鳴を上げようにも、どうやったら大声が出せるのか、考えることができない。
 ただティシラの瞳を見つめることしか許されない状況の中、恐怖の対象である「悪魔」は一歩ずつ近づいてくる。
「悪いけど、もうあんたと話し合う気はないのよ。何を言っても聞かないんだもの……でも、あんた、証明しろって言ったわよね」
 ラストルは立っていることさえ不思議に思うほど強い目眩に襲われていた。ティシラから目を離せず、彼女の発する言葉を聞いているのがやっとだった。
「だから、証明してあげる。本物の『魔女』を見せてあげるわ」
 ティシラはゆっくりと彼に近付き、剣を持った手に自分のそれを乗せる。すると固まっていた指が垂れ、剣は虚しい音を立てて床に落ちた。
「言ったでしょう? 私は魔女だって。ずっと近くに本物がいたのに、あんたは一体なにをしていたのかしらね」
 ティシラは細い腕を伸ばして体を寄せ、抵抗できないラストルの頬を撫でる。ラストルは彼女の指先が触れただけで、そこから全身へ、疼きが広がっていくのを感じた。
 来るな、触るなと、残った理性が必死で叫んでいたが、それは次第に別のものに掻き消されていく。
「教えてあげる。魔女ってのはね、こうやって男を虜にして、下僕にする悪魔なの。怖いでしょう? 逆らえないでしょう? 人間ごときが魔女の名を利用しようだなんて、思い上がるのも大概にしなさいよね」
 ティシラは触れるか触れないかの位置に顔を寄せ、彼の口に吐息をかけながら囁いた。
「欲望に素直になりなさい。そうすれば、苦しみから解放されるから」
 ラストルの瞳が虚ろになっていく。次第に体から力が抜けていき、固まっていた腕が上下し始めた。
 それは自由を取り戻したわけではなかった。ティシラの魔力に侵され、彼女の虜になろうとしている兆候に過ぎなかった。
「私は魔女――ねえ、分かる?」
 ラストルは小さく頷いた。そして、まるで子供が甘えるようにティシラの背中に腕を回し、自ら顔を寄せてくる。
 ティシラはもう正気を失っているラストルの口元に人差し指を当て、意地悪な笑みを見せる。
「私が欲しい?」
 ティシラの声は、既に呪文となっていた。いつもの少女の声に被せるように、低い男のような声が混じっている。
「私を愛してる?」
 ラストルはもう一度頷いた。もう我慢ができないかのように、両腕で彼女を引き寄せてくる。
「だったら、私の言うとおりにしなさい」
 ラストルは頷く。それ以外に選択肢のない彼は、母親がいなければ何もできない赤子同然だった。
「そうよ。それでいいの……最初から、そうしてればよかったのよ」
 ティシラが手を降ろすと、遮るものがなくなり、すぐに二人の唇が重なり合った。
 触れた唇から、痺れに似た刺激が流れ込み、ラストルの全身に沁み渡っていく。
 ラストル自身はもう操られているとは感じていなかった。ただ目の前の悪魔に欲情し、止めることができない。
 ラストルは完全に理性を失い、ティシラは床に押し倒し、激しいキスを繰り返した。魔女の呪いを欲し、吸い上げながら体を弄って服を脱がしていく。
 その姿は「理想の王子様」とはかけ離れた野蛮なものだった。


 ティシラは歓喜の声を漏らして悦んだ。
 魔界の女王であるアリエラでさえ、こんな上等な獲物を味わったことはないのだから。


 しかしそんな最高の快楽でさえ隠しきれない小さな痛みが、胸の裏側で魔女の笑顔を奪っていた。
 ――どうして?
 極上の精気を欲し、獲物の上に跨る魔女は、喘ぎながら涙を流した。
 ――指の一本や二本、なくなってもいいと思ったのに……。
 それほどの覚悟をもってここへ来た。
 もしかしたら気力より痛みのほうが上回って失敗するかもしれない。もしかしたら本当に指が千切れて死んでしまうかもしれない。
 それでもいい。
 そう思ってここへ来た。
 ――私はこの世界が、気に入ってる。だからこいつ一人のせいで壊されるなんて許せなかったの。私以上に我がままな奴の存在が気に入らなかったの。暴力には暴力を。強い者が弱い者を服従させるのは自然の摂理であり、魔界ではそれが普通のこと。人間の常識や義理なんて関係ない。私は、何も悪くない……。

 反応しない指輪が視界に入るたび、あの痛みより強い激痛がティシラの心を引き裂いていた。





   

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