SHANTiROSE

INNOCENT SIN-21






 二人の客人を迎えたウェンドーラの屋敷の一日は、確実にいつもと違った。しかし穏やかな夜の空気は何でもなかったように一同の頭上から静かに降りてきた。
 騒がしかったような、疲れたような……過ぎてみると、楽しかったようにも思える。
 こんな日は今までに一度もなかった。当然だ。ここは魔法戦争の後から今までずっと、クライセンが一人で重圧を抱え込んで、心を閉ざすための空間だったから。
 扉のなかにはこんなにも明るく、華やかな世界が広がっている。そのことを知る者は少なく、家族の増えた今、魔法王の周りには様々な人が集まるようになっていた。
 一人は楽だ。一人でいれば煩わしいことは何もない。それが許されるのは自分自身も他人の「煩わしい」ものにならずにいられる覚悟と責任が必要だった。クライセンにはそれがあった。一人でいい。誰も頼らない。孤独でいるために、力を付けた。そのうちに、他人との時間の流れさえずれ始めた。誰も自分を見ない。それでよかった。何も欲しくないから。すべてを持っている。いらないものばかり。何が欲しいかと問われても、考えたくなかった。きっと、「孤独」だと答えるから。だけどそれが本心なのか、自分でも分からなかった。だから答えたくなかった。認めたくなかった。だから、その質問さえさせなかった。
 自ら扉を閉じ、鍵をかけた。そこまではよかった。しかしクライセンはいつしか、かけた鍵を失くしてしまっていた。どれだけ時間をかけても、待ち続けても、もう扉は開かない。そのことに、本人も気づいていなかった。
 鍵は永遠に失われたまま、扉の向こうは朽ち果ててしまうのか。それとも、閉ざされた空間で、人の手の入らない自然の世界が構築されていくのか。
 いずれにしても、そこは新しい未知の空間となりつつあった。
 だが扉は突然開かれた。鍵を壊して、何度も、しつこく、追い払っても、諦めず、彼女たちは侵入し、荒らしまわった。
 二度と開かないと思っていた扉が開いた。
 今思えば、奇跡だったのかもしれない。
 持ち過ぎた力で完璧な魔法使いとなってしまったクライセンが、唯一起こせない魔法がかかったのかもしれない。
 だからクライセンは「煩わしいもの」を受け入れた。そして何の役にも立たないと思っていた自らの魔法を、大切なものを守るために使ってみたいという好奇心を抱いた。
 一人は楽だ。孤独も悪くない。だけど、開かない扉をこじ開ける「煩わしいもの」は、クライセンの知らなかったことを教えてくれた。この世界に終わりはない。常に変化し、新しいものが生まれている。見てみたいと思った。守りたいものの未来を。




「なんでまだあんたがいるのよ!」
 夕食も済み、これから体を休める準備に入る頃、まだまだ元気なティシラが大きな声を上げていた。
 唐突にやってきたミランダがまだ帰ろうとせずに、リビングのソファでふんぞり返ったいたからだ。
「あなたこそ、まだそんなことを言っているの?」ミランダはふんと鼻を鳴らす。「どうせここから家に着くまで日をまたぐのだから、今日中に帰る必要はないの」
「そんなこと知らないわよ。泥棒のくせに、まさか泊めてもらおうなんて思ってないでしょうね」
「そんなこと思ってないわ」ミランダは立ち上がり。「せっかくここまで来たのだからもう少し居させてもらうわ。でも部屋もベッドもいらない。何なら一晩、庭に居てもいいの。お構いなく」
「泥棒を放置して寝られるわけないでしょ。どうしてもって言うなら地下の倉庫に入ってなさい。ドアに鍵かけておくから」
「冗談じゃないわ。あなたはいつまで私を泥棒呼ばわりするつもり? いい加減にして」
 二人が睨み合っているところに、困った顔をしたマルシオとカームが仲裁に入ってきた。
「お前たち、いちいち騒ぐなよ」
 マルシオはもう、ミランダに関しては好きにさせるしかないと諦めていた。とっつきにくいが悪人ではない。何よりもここの主人のクライセンが容認している。どうしても嫌だと言えば考えてくれるかもしれないが、そこまで邪見にする理由はなかった。
 カームはやはりミランダに居て欲しい気持ちは変わっていない。女の子同士が甲高い声で言い合っているのさえも、彼には新鮮で刺激的なものだったのだ。
「まあまあ、こんな時間に女性一人、外に出るのも危ないですし……」
 ミランダの味方をしたつもりだったが、彼女は「女性一人」という言葉に反応してカームをまた一瞥した。
「お構いなくって言ってるでしょ」ミランダは顔を背け。「そんなに疑うなら外にいるわ。夜が明けるまで家の中には入らない。それでいい?」
「一晩中外に居られても気持ち悪いんだけど……」
 マルシオが呆れたようにつぶやくと、ミランダは素早く振り返った。
「気持ち悪い? 失礼ね。私が恨めしく徘徊する姿でも想像したの? ここの庭の木々や花々の生体を観察しているだけで朝まで時間は潰せるわ。ほっといて」
「何ムキになってるんだ。もういいから泊まっていけよ。空いてる部屋ならあるから」
 まだ意地を張る、かと思ったら、ミランダはふっと声を落とした。
「……なら、そうさせてもらうわ」
 結局彼女はそのつもりだったようだ。マルシオは深いため息をつき、カームは嬉しそうに微笑んでいた。
 ティシラは最後まで不満を口に出しており、機嫌を損ねたままシャワーを浴びに行った。



 ミランダは客室だけ借り、それ以外は何もいらないと言って部屋にこもった。
 マルシオは勝手に屋敷をうろついたら迷子になるぞと強い口調で伝え、大人しく寝てくれることを信じてその場を後にした。脅しではなく、本当に迷子になられては困る。この屋敷は生きているのだ。それほど親しくはないとは言っても、彼女に危険が及ぶのは不本意だ。ミランダもそのくらいのことは、この短い時間でも分かったはず。
 リビングに戻ると、キッチンの奥から仄かな花の香りがした。キッチンに灯りはついていないが、窓から差し込む月の光がティシラの後ろ姿を照らし出していた。
 灯りも付けずに一人でいるあたり、シャワーを浴びてもすっきりしなかったのだろう。お気に入りのハーブティーで一息をついているようだ。きっと、ミランダが嫌いなわけではなく、「よく分からない女」が近くにいるのが面白くないだけ。一晩眠れば忘れるだろうとマルシオは思う。声をかけようか迷っていると、玄関からクライセンが入ってきた。彼はマルシオを見つけるより先に、ハーブの香りに気づいて暗いキッチンに入っていった。影になっていてどんな顔をしているかは分からないが、ティシラに近づき、何やら会話している。
 これで彼女の機嫌は、間違いなく直る。一安心して立ち去ろうと足を引いたとき、背後からカームがやってきた。
「マルシオ、どうしたの?」
 カームはマルシオは見ていた方に目線を投げる。そこに二人の姿を見つけて、目を細めた。
「うわあ、あんな暗がりで、何してるんだろう」
 カームは隠れるように壁に体をくっつけて小声になった。
「ティシラが一人でいじけてるところにクライセンが来たんだよ」
「そっかあ。クライセン様、気を使っていらっしゃるんだね。優しい人だね」
 カームは自分が嬉しいかのように頬を染めて、目を輝かせている。
「うーん、優しいといえば、優しいのかな……」
 クライセンのことを優しいと思う自分など、昔は考えられなかった。だが今は、彼の懐の深さ、器の大きさを知っている。ティシラだけではない。サンディルのとんでもない失敗の後始末も厭わず、マルシオの幼稚な願いにも付き合ってくれる。怒るときは怒り、言うべきことは言い、道を間違った人を導く。取り返しのつかないことになっても、必ず何とかしてくれる。これほどまでに「優しい」人がほかにいるだろうか。
 マルシオは今更ながら、あのティシラが夢中になる気持ちが分かった気がしていた。情の種類は違えど、マルシオもクライセンに憧れているのだ。傍にいられることを不思議に思うほど、彼のことが大きく、遠く見えることがあった。
「あの二人、いい感じだね。何の話をしているのかなあ」カームは覗き見ながら。「ねえ、マルシオ、もし……キスなんかしちゃったらどうしよう」
 勝手に盛り上がっているカームに、マルシオは冷たい目線を投げる。
「何言ってんだよ。そんなことあるわけないだろ」
「どうして?」カームは残念そうな声になり。「だって、夜遅くに暗闇で二人っきりなんだよ?」
「どうしてって、二人はそういう関係じゃないし……」
「だから、いい雰囲気になって、今、ここから始まるかもしれないじゃないか」
「ないよ」
「何? マルシオ、怒ってるの?」
「お前が変な言うことからだよ」
「なんで変なの? 二人の間には恋愛感情があって、いつも一緒にいるんだよ。いつ何があってもおかしくないと思うよ」
「そうかもしれないけど……」
「でしょ?」
「でも、今はない」
 カームの「どうして?」がまだ続きそうだったとき、暗いキッチンからティシラの金切声が飛んできた。
「あんたたち、うるさいわよ!」
 マルシオとカームは悪事が見つかった子供のように飛び上がり、慌てて廊下の奥に走り去っていった。
 せっかく二人きりで幸せ気分のティシラだったが、背後でブツブツ言い合っている二人の声はだんだん大きくなり、会話の内容まで聞こえてきて、とうとう我慢できなくなってしまった。クライセンは聞こえていないふりをして目を逸らしていたのだが、ティシラは二人のデリカシーのなさに耐えられなくなった。恥ずかしさも後押しし、顔を真っ赤にしてひと時の幸せな時間は終わりを迎えることになった。
 ああもう、とティシラはまたヘソを曲げていたが、心の中は十分に満たされていた。これ以上は、二人の言うとおり、突然にクライセンと進展があったとしても、まだ準備が整っていないから――と自分に言い訳しながら、火照った顔に手を当てて俯いた。
 そんな彼女の単純な気持ちなどお見通しのクライセンは、困らせるつもりはなく、「おやすみ」と一言残して立ち去った。ティシラの頭に軽く、手を乗せて。そのとき指に絡んだ一房の髪が、あとを引くように彼を追っていた。そのほんの僅かで、たった一瞬の感触が、ティシラの胸の中の導火線に火を付け、不発のまま消え去った。
 暗い部屋に一人残ったティシラは骨抜きになり、床にへたりこんだ。
「もう、もう……何よ。あいつらが邪魔しなかったら、今頃……」
 そう呟いたあと、顔から湯気を出してしばらく暗がりで転がっていた。





   

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