SHANTiROSE

INNOCENT SIN-03






 前人未到と言われている深く暗い森に人間の姿があった。
 いつからそこが「魔黒(まくろ)の森」と呼ばれているのか、誰も知らない。魔法戦争で亡くなった人の大量の遺体が未開だったそこに運びこまれ、人々の無念や怨念が渦巻き、緑だった森をすべて黒く塗り潰したという逸話がある。
 隙間なく生い茂る木々も、炎に焼かれた黒い消し炭のようだった。だが日光を遮るほど鬱蒼としている森の木々には先の尖った葉が開いており、それらもすべて真っ黒なのに、数か月ごとに枯れて落ちては新たな芽を出す。それはこの森が生きている証拠だった。しかし人々の目には不吉なものにしか映らず、誰も近寄ろうとはしなかった。
 時折、魔黒の森の上空を黒い禿鷹やふくろうなどの猛禽類が飛び交っている。その様子も不気味なものである。それ以外には動物は存在しないはずなのに、彼らは一体なにを食べてどこで繁殖しているのか、そもそも何のためにこんな森をすみかにしているのか、そんな興味深い謎の生態系を調べようと思う者さえ、「彼女」は長いこと見たことがなかった。
 魔黒の森にも、極稀に、来客がある。
 黒い森の中では時間も季節も関係なく、ただ黒い木々と鳥たちが少しずつ形を変えているだけだった。
 だからこの森の一番深いところで息衝く老婆・エミーは行方不明だったはずの彼の訪れにそれほど驚くことはなかった。
 木々に紛れて潜む尖った屋根の、黒い屋敷の小さな窓が開いた。黒い鳥が騒いだ。エミーは周囲の木々とよく似た、端々の欠けた黒いとんがり帽の下から、年期の入った黒い瞳を見開いた。もつれた綿のような白髪を乱し、突然の来客に不適な笑顔を浮かべる。
 黒い屋敷の中は物で溢れ返っており、足の踏みどころもない。だが家主のエミーにとってはここにあるすべてが、数千年という長い生活の中で増え続けた大事な宝だった。たまに……いや、割と頻繁に、うっかりぶつけたり、踏んで壊してしまうこともあるが、今更清潔で整理整頓された場所など求めてはいない。エミーにとってはここが生活の拠点であり、死に場所と決めている住居なのだ。
 エミーは魔法戦争より前から、魔法使いとしてノートンディルで修行を積んでいたアンミール人だった。魔法使いを目指してノートンディルへ移住し、名のある魔法使いの元で学び、努力を重ねて一人前になった。しかし戦争が始まり、師匠とは別れ、パライアスに強制的に帰らなければならなくなった。
 戦争が終結し、生き残ったものの、行くあてもなくパライアスを彷徨っているところで、赤ん坊を抱いた青年サンディルと出会ったのが、クライセンとの縁の始まりだった。
 こんなところに来る人間など限られている。エミーはすぐに旧友であるクライセンを歓迎し、黒い屋敷へ招き入れた。



「よかった。まだ生きてたんだな」
 顔を見るなり失礼な言葉をかけるクライセンに、エミーは歯のない口を開けて笑った。
「それはこっちの台詞だよ。まあ、あんたのことはどうでもいい。師匠は今も独身か?」
 師匠とは、サンディルのことだった。彼女のことはよく知っているクライセンは驚きもせずに「ああ」と答えた。
「そうか。いいことを聞いた。これは神の啓示かもしれないね。久しぶりに山を下りてみようかな」
 クライセンは呆れた顔で、天井から無造作に紐で括られているランプに火を付けた。
「あんたのそういうところが嫌で、爺さんはあんなヨボヨボになったんだろ」
「ふん。いつまで経っても妻だけを愛し続ける師匠の一途な気持ちが分からんのか。生意気な小僧が、口を慎め」
 クライセンは素知らぬ顔で、埃塗れの棚の一角に置いてあった別のランプにも火を灯す。
「ただ単に、頭のおかしい山姥なんか願い下げだってことだと思うけど」
「なんだって?」
 エミーはクライセンを睨みながら、やかんに汲み置きの水を入れて、かまどで炊き、茶で持て成そうとしている。
「ああ……あんな賢くて聡明な人からどうしてこんな根性のひん曲がった子ができるんだろうね。育児を私に任せてくれていたらこんなことにはならなかったのに」
 まだ少女だったエミーはサンディルの能力に惚れこみ、弟子に志願したのだった。息子のことで精いっぱいだったサンディルは断ったのだが、逞しいエミーは身を潜めて生きる彼の元に通い続け、勝手に弟子を名乗った。身寄りのないサンディルは健気に尽くすエミーに感謝していたが、そのうちにエミーはサンディルの人柄に惚れこんでしまい、私を後妻にと言い出したのだった。
 それからサンディルは苦悩した。エミーの献身さには助けられているものの、これからのことを考え、彼女に限らず異性との問題は断ち切ろうと決心した。そしてあえて姿を変え、息子とともにエミーの前から消えたのだった。
 エミーは優秀な魔法使いだった。ランドール人が魔力も魔法も統括していた時代に、希少な存在だった。なぜ特別な血筋も才能もない彼女がランドール人に劣らないほどの魔法使いになれたかというと、異常なまでの好奇心が始まりだった。エミーの脳が偏っているのか、他のことは何をやってもダメなのに、魔法に関しては恐ろしいほどの集中力を発揮する。最初は誰もが感心するものだが、次第に常識を逸脱していく様子に、誰もが恐怖することになる。睡眠も食事も摂らず、何日も勉強や修行を続ける。いつしか目の焦点は合わず、意味も分からないことを口走り始め、気持ち悪い動きで踊り出しても、エミーの魔法に対する探究心は止まらなかった。このままだと死んでしまうと周囲に心配され、頭を殴って気絶させなければいけない始末だったのだ。
 しかし気を失って数日後、目覚めたとき、エミーは更に高みに昇っていた。死にかけるほど詰め込んだ知識をすべて理解し、吸収して自分のものにしてしまう。間違いなく「努力の天才」なのかもしれないが、やはりその不気味な姿は常人には理解されなかった。人々に避けられ、いつしかエミーは森の中に迷い込み、この黒い森に安住の地を見つけたのだった。
 エミーは天才だ。それはクライセンも、サンディルも認めている。しかし人々には必要とされなかった。同情の余地はない。今エミーはとても楽しそうで、太く長い人生を謳歌しているのだから。



 暗い屋敷の中の、あちこちに置いてあるランプに一つ一つ火をつけていき、やっとお互いに顔が見えるようになった。
 キッチンと繋がっているリビングのテーブルは毎日使っているのだが、なぜかいつも物が散らかって食事のたびに毎回片付ける必要があった。
 とにかく物が多く、片付けても片付かない屋敷だった。ぼんやりと照らし出されている部屋の中には、天井まで積み上げられた古い本やよく分からない動物の剥製や瓶詰、黒い石ころと光る宝石、壊れた楽器、理解不能な絵画など、どこを見てもゴミにしか見えないものばかりだった。
 ここにあるもの全部捨てろなんて、クライセンは言う気にもならない。そんなことを言い出したらエミー本人もゴミに見えてくるからだ。
 エミーは不器用な手つきでいそいそとお茶を淹れて運んできた。悪態を付き合いながらも、エミーにとってはクライセンは弟のようなもの。それに、人間と話をすることも滅多にない。邪悪な顔で嬉しい気持ちを押し出していた。
 エミーが出したお茶は妙な匂いがする。色は、部屋が暗くてよく分からないが、透き通っていないことは確かだった。クライセンは「ありがとう」と言い、素直に口に運んだ。不思議と、喉を通る頃には甘みを感じ、爽やかな香りが余韻を残していく。
 エミーがいた頃のことなんて覚えていないのに、このお茶を飲むたびに懐かしい気持ちになる。
「ところで、そう言うお前もまだ独身か」
 ニヤつくエミーに、クライセンは動揺もせず「ああ」と答えた。
「だと思った……お前、魔女に取りつかれているらしいね」
 だがその言葉でクライセンはついむせてしまう。
「そりゃ他の女も寄りつかんだろうに。それだけ色気出しておって、とんだ災難だな。どうだ、私が祓ってやろうか?」
 冗談なのは分かる。だがエミーのお祓いは強力だ。聖でも魔でもなく、単純かつ強大な魔力による暴力だから。ティシラでも適わないかもしれない。だからクライセンは断った。
「いい。今の生活、結構気に入ってるから」
 エミーは分かっているかのように「へえ」と言うだけで、それ以上は訊かなかった。
「魔女と……天使か」エミーも茶を口にする。「お前も大概変人だね」
 そう言いながら笑うエミーを、クライセンは遮って用件を切り出す。
「ああ、そう、その天使だけど」
「なんだい?」
「その様子だと、分かってるんだろ?」
 エミーは間を置いて、また笑い出した。肩を揺らしながら席を立ち、奥の暗がりの中に姿を消す。笑いながらゴソゴソと音を立て、クライセンが黙って待っていると大きな紫の水晶を抱えて戻ってきた。
 エミーは乱暴にテーブルの上のティーセットを避け、黒い布を広げてその上に水晶を置いた。
 エミーの透視が始まる。彼女に自然の魔力はない。過去や未来、世の中の神秘や謎を見通すことはできない。水晶の中に漂う光や影の動きを見て、頭の中で素早く、正確に計算し、答えを導く。的中率は相当高い。それが、エミーの才能だ。
 クライセンはマルシオが豹変し、見たことのない力でティシラを殺そうとしたことを、トールたちから聞いていた。そのあとマルシオが自らを眠らせたこと、そうして一時的に封じたときの記憶を消していることも。
 ライザやサイネラは、原因も正体も何も分からない限り、またいつか出てくるかもしれないことをクライセンに伝えた。その場にいなかったクライセンには思い当たることもないし、本人には言ってはいけないことになっていて、これ以上の情報は得られない。
 そんなマルシオが、無邪気に弟子入りを志願してきた。このまま封じていられるならそれでいいと思う。しかし必然的に人類の脅威になるのなら、彼の保護者としてどうすべきか考える必要がある。
 いや、必要があるのかどうか、まずそこを知りたかった。ないならないに越したことはない。
 しかし、もしマルシオがマルシオでなくなるのなら、彼との付き合い方を模索しなければいけない。もし、マルシオが助けを求めるなら、できることがあるはずだ。
 きっと、そのために自分はまだ生きているのだと、クライセンは思うから。





   

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