SHANTiROSE

INNOCENT SIN-32






 静寂だった世界に、膨大な量の「言葉」の帯が頭上高くまで、目まぐるしく、不規則な動きでくるくると回っていた。
 言葉は淡く光り、肉眼で読み取ることはできない。それらはぼんやりとした音を発しており、人混みの中にいるかのような騒がしさに苛まれる。音に意識すると、言葉が音を出しているのではなく、「言葉は音で伝わるもの」だと思い込んでいる者の錯覚だということが分かる。それでも、大量の情報を目の前にすると人はどうしても圧倒され、無理に自分の感覚に押し込めようとしてしまうのだった。
 言葉の帯であるアカシック・ローグが乱舞する中、ティシラは床に膝をついて一点に目を奪われていた。
 クライセンたちが消えたあと、彼らをどうしたのかとマルシオを責め立てた。マルシオは王座に腰かけたまま、空間に人差し指を立て、腕を回した。すると、まるで水面をかき混ぜるかのように、アカシック・ローグの一部が彼の指の動きに合わせて円を描き始めた。しばらくすると光る文字は楕円の枠を作る。次第に美しい水鏡へと姿を変え、ティシラの前に佇んだ。
 ティシラがそれを見つめていると、水鏡はたわみ、クライセンの姿を映し出した。
 そこに映ったものは、今クライセンたちが見ている世界だった。
「過去の一部を書き換えたときに生まれた、新しい記録だ」
 ティシラはマルシオへの怒りは収まらないまま、水鏡に集中した。
 彼らのいる場所は、ウェンドーラの屋敷の庭だった。会話は、途切れ途切れだが聞こえる。そこは、魔法戦争でランドール人が勝利した歴史の中。
 ティシラが息を飲んで見つめる中、もう一人の自分が出てきた。ティシラは小さな悲鳴を上げ、青ざめた。
 だが、水鏡の中で交わされる様子を見ているうちに、頬が緩み始めていた。
 すっかり機嫌の良くなったティシラは、背後で静かに目を閉じて瞑想しているマルシオを振り返った。
「ほら、見てみなさい」ティシラは立ち上がり。「歴史を変えても私とクライセンの強い愛は変わらないのよ。私たちを引き裂くどころか、あっちの私は私より先を行ってるじゃない。あれこそが本来の、私たちのあるべき関係なのよ」
 胸を張るティシラに、マルシオは目を開けて薄い笑みを見せた。
「これはお前たちを引き裂くためにやったことじゃない」銀の瞳の視線は上空を向いたまま。「過去の、僅かな一部を変えただけ。たったそれだけで、ランドール人が魔法戦争に勝利した。これは彼らが望んだはずの世界。だが完全に修正したわけじゃない。今はまだ『もしも』の世界をクライセンに見せているだけだ」
 思っていたものとは違う反応に、ティシラは唇を歪ませる。
「どうしてそんなことするのよ」
「言っただろう。選ばせてやると。俺の力を見てクライセンが何を考えるか、試しているんだよ」
「……あんたが変えた、僅かな一部って、なに」
 マルシオはその質問には答えなかった。アカシック・ローグを見つめる瞳が、左右に揺れていた。ティシラとの会話は最低限のもので、文字を読みながら別のことを考えている。
「ずっと不思議に思っていた」マルシオは独り言のように呟いた。「お前の過去を見ているが、おかしなことがある」
「え? 私の過去ですって? なに勝手に見てるのよ」
「お前とクライセンの縁を切るにはどこまで遡る必要があるのか、調べている。水鏡に映った新しい記録と同じように、お前たちは親からの繋がりが強い。そこを断ち切ればお前たちが出会うことはないと思った。だがそこにたどり着く前に、妙な現象が起きた」
 ティシラは胸の奥から激しい怒りを湧き上がらせた。マルシオが過去を書き換えて別の歴史を作ることができることは、水鏡に移った「もしも」の歴史を見て確信した。だからこそ許せなかった。彼は自分の過去を勝手に覗き見、書き換えようと考えている。そんなことをされたら、今までの自分の思い出が失われ、失ったことさえ現実から消えてなくなるのだ。
 今すぐやめさせたく、ティシラはマルシオに駆け寄る、駆け寄ろうとした。
 それよりも早く、マルシオがティシラに鋭い目線を向けた。ティシラは怯み、足を止める。
「お前の過去の一部に、見えないものがある」
「え? 何を言ってるのよ」
「過去の記録はすべてここにある。過去とは既に終わったこと。隠ぺいも改竄もできない。なのに、お前の過去の一部に黒い陰りがかかって見えないんだ。アカシック・レコードに記録されない事実とは、一体、なんなんだ」
「よく分からないけど……記憶を失くしたからじゃないの?」
 ティシラが戸惑いながら言うが、マルシオはじっと彼女の目を見つめ、心理を探ろうとする。
「違う。喪失するまでもなく人の記憶は都合よく変化したり、忘れたりするもの。それでも正しく過去を残すのがアカシック・レコードだ。そこに残らないなんて……まさか、原始の石の力を超越する何かがお前たちに関わっているなんて、そんなことが、あり得るのだろうか」
 マルシオの行動に怒りを抱いていたティシラだったが、そう言われると気になってくる。自分の過去に何があるのかを知りたくなってしまう。
「私の過去が何だっていうのよ。あんた神なんでしょ? はっきりしないさいよ」
 マルシオはまた、目線を上げて黙ってしまった。ティシラはもやもやしながら自分で考えてみた。失くした記憶のことはどうしても思い出せない。となると、ティシラの中には人間界に来る前と来てからの少ない出来事しか思い出はない。たったそれだけの時間で、マルシオの言うような大きな力など……。
 そう思っていたティシラは、ふと目を見開いた。
 短い時間の中で起こった、理解できないおかしな出来事が甦った。
(メディス……?)
 ティシラは忘れかけていた彼の名を思い出した。
 最初は、ただの吸血鬼だったはずの彼。実は人間と魔族とのハーフで、魔法使いだった。突然現れた彼のことを知る者はこの世界の、どこにもいなかった。唯一彼が自分に接触した証拠だった指輪は、いつの間にか消え去っていた。いや、指輪などもう大した意味はない。メディスと出会った確たる証拠は、人間のことなど何も知らなかった自分が魔界を飛び出し体一つで人間界に身を置いていることだ。
 もしかしたらクライセンなら何か分かるかもしれないが、メディスは仮にも婚約させられそうになった相手で、彼には左手の薬指に指輪までつけられた。記憶のないティシラは親の言うとおりにしたほうがいいと信じて真面目に婚約を考えたこともあったのだ。それをクライセンに話すのはどうしても抵抗があって言えず仕舞いである。
 そうしてメディスは未だに謎のままで、いくら調べてもきっと分からないのだろうと、ティシラは直観で感じていた。何よりも、彼がしたことで自分は幸せを感じることができるようになった。そして、あれほどの騒ぎを起こした彼なのに、今はいなくても何の不自由もない。だから自分も誰にも言わず、一人で胸に秘めていくことができたのだ。
 なぜなのか、答えは出ない。あるとしたら彼の言った言葉の中にある。
 メディスは、「未来から来た魔法使い」だと言った。
 アカシック・レコードは過去にしか干渉できない。だから未来人であるメディスを記録することができないのではないだろうか――。
 そうだとしたら、とティシラは思う。
 クライセンと自分の両親が何かの縁で繋がっていたとして、マルシオがいくら過去を遡って書き換えたとしても、未来人であるメディスを消すことだけは不可能。
 つまり、時間を操る力を持つメディスが未来に存在する限り、クライセンと自分は、形が変わっても出会い続けるのかもしれない。
(ということは……やっぱり、私とクライセンは運命の赤い糸で結ばれているんだわ……!)
 自分でも制御できないほどの溢れる感情だけではなく、確かな証拠を掴んだティシラはこみ上げる喜びを必死で堪えた。ここで笑ってしまったらマルシオを変に刺激してしまうかもしれない。だが、どうしても笑みがこぼれそうで、両手で口元を隠した。
「……もうひとつ」
 悠長に幸せを噛み締めているティシラを余所に、マルシオは続けた。
「クライセンの過去にも、同じようなもやが見える」
 ティシラは笑いを堪え、マルシオの意外な言葉に耳を傾けた。
「あいつが少年の頃だ……戦後間もない、寂れた土地で、クライセンは禁忌を犯した。そのとき、クライセンは死神に永遠の苦しみを架せられた。だがその見えない何かの影響で、あいつは違う形で罰を受けることになった」
 それが、死神との契約だった。
 その話はマルシオは既に、本人の口から聞いていた。実際に正しい記録として文字をたどったみると、ほとんど違いはなかった。問題は、ラドナハラスの力を通しても、見えない部分があるということ。
 クライセンは、知らない魔法使いが現れたが、顔もほとんど見ていないし名前も知らないと言っていた。それは本当のようで、過去をたどってもクライセン自身、その魔法使いについて何一つ情報を得られないまま今に至っている。クライセンとティシラの過去をいくら遡っても、黒い陰りを知る者も、確かな情報も見当たらなかった。
 顔を上げたティシラには、一変して不安な表情が浮かんでいた。もう一つの陰りとは一体なんだろう? それが二人を繋ぐ縁に影響があるのかないのか、あったとして、いいものなのか悪いものなのかを知りたい。
「おそらく、ティシラとクライセンの陰りは、同じものだ」
「そうなの? どうして?」
「正体不明の力は自分の役目を知って動いている。だから一部を歪めながらも最低限の傷だけを残して二度とそこには現れない。最初から、何をどうすれば何がどうなるかを知っているとしか思えない。その力は偶然でも突発的でもなく、法則に従って働いているからだ」
(じゃあ、メディスは、昔のクライセンとも会っていたの?)
 ティシラは困惑しながら頭の中を整理した。
 メディスの話が本当なら、彼は本人が生まれるまでのことをすべて知っている。マルシオのことも、アカシアのことも、ティシラが辿る道の一つに違いない。そのうえで過去に干渉したのなら、二人が結ばれるという運命は変わらないはず。そうでなければ、「二人の間に生まれた子」であるメディスは未来にもどこにも存在しないのだから。
 メディスは未来から来た魔法使い。半信半疑だったティシラは今――あまりメディスが好きになれなくて素直に認めたくなかっただけだが――彼の言葉はすべて真実だったのだと、やっと信じることができたのだった。
「その陰りとやらが何なのか知らないけど」ティシラは白を切りながらも、得意げに髪をかき上げ。「私とクライセンは神でさえ邪魔できない強い縁で結ばれているようね。他の浮かれた恋人なら簡単に引き裂くことはできたかもしれないけど、よりにもよって私を選んだあんたはやっぱりマヌケな天使だったってことだわ」
 マルシオは、自信満々で煽ってくるティシラを、見下したような目で見つめた。
 彼女の言葉の棘は、マルシオの心に引っかかった。ティシラの言うとおりだ。もしもマルシオが別の願いを抱いたなら、誰も触れることのできない謎の陰りを知ることはなかった。アカシック・レコードに記録されないものが存在することは、神さえ干渉しない自然が生んだ歪みと同じ次元の真実なのだ。
 だがマルシオはそれを知るために過去を覗いたわけではなかった。
「……神の爪痕」マルシオは意味深な言葉を吐き、腰を上げた。「俺は人間の望む偶像に過ぎない。だが、それも神だ。そして、偶像ではない神も、別の次元に存在する。それらが悪戯に俺たちの世界に爪痕を残すことがある。無意識に、巧妙に、命の循環という玩具で戯れているんだ」
 ティシラはゆっくりと心拍数を上げていた。胸が苦しい。
 やはりマルシオは原始の石を持つ者。魔法使いの頂点に立つクライセンより高い場所に位置し、魔界を創造し統治するブランケルと同格の「神」だ。彼自身がそのことを意識し、別次元の神に対抗する手段を探っている。
「石を持つ者がその神々に劣っているのではない。交わる手段を知らないだけのこと。だったら、その爪痕を消すのではなく、傷のある部分をもぎ取って、捨ててしまえばいい」
 マルシオは再びティシラを見つめ、口の端を上げた。ティシラは背筋に寒気を感じる。
「俺がまだ歴史を完全に書き換えずにいる理由は、二つの世界を跨ぐ存在を残すためだ」
「それが、クライセンなの?」
「そうだ。そして」マルシオはティシラを指さし。「お前もだよ」
 ティシラの悪寒は、恐怖に形を変えた。はっきりとした原因は見えないものの、マルシオが過去を利用して今までに誰も為し得なかったことを為そうとしていることだけは分かる。
 まだ喜ぶには早い。そう感じたティシラは、固唾を飲んで水鏡に向き合った。





   

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