SHANTiROSE

INNOCENT SIN-43






 ティシラは白い空間で眉間に皺を寄せていた。
 別次元の世界に迷い込んだクライセンの様子は、普段決して見ることはできないもので、ティシラにとってはそれもまた愛おしいものだった。しかもあちらの世界のティシラとクライセンは理想の関係にあり、もし自分もそうなったらどんなに幸せなのか、それを映像化されているようで興味深く見入っていた。
 だが次第に、浮かべていた緩い表情が強張っていった。
 それに気づいたマルシオが、高い位置から目線を下ろした。
「どうした。これはお前の理想だったんじゃないのか」
 ティシラはマルシオを睨みつけ、口を歪めた。
「そうよ。私とクライセンは相思相愛で永遠の愛を誓い合った恋人なのよ。でもね……!」ティシラは突然激高した。「あの黒いマントの彼は私のものなの! あっちの私には赤いマントのクライセンがいるんでしょう? どうしてあっちの私が私のクライセンの恋人面してるのよ!」
「……意味が分からないな。あそこにいるのもお前だろう」
「そうかもしれないけど、おかしいでしょ? あっちにはクライセンが二人いるんでしょう? でも私は今、こんなつまらない空間に、あんたと二人っきりなのよ。あっちの私だけがどうして、もう一人のクライセンにベタベタして幸せそうにしてるのよ」
 マルシオは目を逸らしてため息をついた。
「自分自身にやっかみか」
「やっかみじゃないわよ。理不尽よ。不平等よ。納得いかないの」
「ふうん」マルシオはやはり理解できなかった。「そもそもお前たちにとっての恋人や夫婦というのは一体なんなんだ」
「あんた今までそんなことも知らないでいたの?」ティシラは呆れた声を上げた。「この世でたった一人の、愛し合う者同士のことよ。生涯寄り添って、自分の幸せのために相手の幸せを心から願うの」
「自分の幸せのために?」
「そうよ。愛する人が幸せだと自分も幸せじゃない。分からない?」
「だから相手に愛を与えるというのか。それなら愛は無償とは言えないんじゃないのか」
「何言ってるのよ。相手に愛を与えたら、相手も愛を与え返すの。それが恋人なの。見返りを求めるのは一方的な片思いよ」
「じゃあお前はクライセンが幸せなら自分はどうなってもいいと思うのか」
「どうなってもって、どういう意味よ」
「例えば、クライセンを助けるために命を落としたり、あいつがお前のいないところに安住の地を見つけたりしたら、お前はどうする」
 ティシラはその問いに少し考えてみた。
 クライセンを救うためなら何でもする。何がどうなっても構わない。その思いに迷いはなかった。だが、彼だけを残して自分が消えてしまうとしたら? もしくはその逆のことが起こったら?
 ふと、体が震えた。
「マルシオ、あんた何考えてるのよ」
 何かを察したティシラに、マルシオは冷たい目を細めた。
「まさか……クライセンをあっち世界に取り残すつもりじゃないでしょうね」
「それはあいつ本人が選ぶことだ」
 やっぱり――ティシラは再び水鏡に映る世界を見つめ、汗を流した。
「選ぶってどういうことよ。あの世界を残すなら今までの人間界は消えてしまうんでしょう? そしたら、クライセンだけが記憶を持ったままあっちの世界の住人になってしまうの?」
 考えれば考えるほど、ティシラの焦りは募った。嫌な予感しかしない。
「大体、あんた天使なんでしょ? 神さまだろうが何だろうが、あんたに人間の世界をどうこうする権利なんかあるわけ?」
「そんな権利は、俺にはない。俺はアカシアの力を使って人間界の一部の歴史を少しだけ変えただけだ。しかし完全に書き換えたわけではない。いつでも消すことはできるのだから、まあ、覗き見してるってところだな」
 その「神」が覗き見している世界を、クライセンにも見せているだけのこと。マルシオはそう言った。
 人間の世界は、大地を構築したリヴィオラが支配している。それを同格のラドナハラスの力で大きく改竄しようとしたら、それは攻撃とみなされ衝突が起こる。だがマルシオがしているのは、人間の世界に、本人が気づかない程度の小さな傷を入れただけ。
 問題は、そこに元の世界のクライセンを送り込んだこと。今、同じ世界に二人のクライセンが存在している。だからリヴィオラが違和感を抱いて、消えたはずの予見をレオンに見せたり、魔薬の王ノーラの代理人とエミーを会わせたりという見えない力を働かせているのだ。二人のクライセンがこのままでいられるわけがない。リヴィオラがどちらかを強制的に排除する前に答えを出さなければいけないだろう。
 その答えというのが、クライセンの選択だ。
「……クライセンが、自分の意志で、あの世界に残るとでも思ってるの?」ティシラの声は震えていた。「もう一人の自分を乗っ取って、今まで生きてきた世界を捨てるなんて、あり得ない」
「どうしてそう思う?」
 あの世界にはすべてが揃っている。ランドール人としての誇りも、地位も名誉も。仲間も、家族も、守るべき君主も。
「そして、運命の糸で結ばれている恋人も、そこにいる」
 マルシオは、水鏡の中にいるティシラを指さした。
「じょ、冗談じゃないわよ」ティシラは強がって笑って見せたが、胸が苦しく、息が深くなっていた。「私はどうなるのよ。クライセンがあっちの世界を選んだら、私もあっちに行けるの?」
「いいや。お前は今天使の世界にいる。どっちの世界を人間が選ぼうと、お前に変化はない」
「じゃあ私は二人存在したままなの?」
「元の世界が消えたら、今までのお前とクライセンとの関わりも消滅する。お前はどこにも属さない、孤立した存在になるだろう」
「そんなこと、私のパパが許さないわよ!」
「ブランケルの娘もまた、あっちの世界のお前に取り替わる」
「なんですって……?」
「魔界にも大きく干渉することはできないが、ブランケルとアリエラは人間に関わった部分だけが影響を受けることになる。クライセンと共に魔薬戦争を戦ったティシラは、どこにも存在しなくなる。魔薬戦争自体が、起きないのだからな」
 ティシラは、ごく自然に別世界に馴染み、もう一人の自分と寛いでいるクライセンを見つめ、目眩を起こした。
 そんな彼女に同情の欠片も見せず、マルシオは続ける。
「俺は未来がどうなるかまでは分からない。もしお前が孤立したとしても、何らかの外部からの力で接触は可能かもしれない。例えば、あの謎の影とかな」
 メディスのことだ。そうだ。彼がまた「魔法」でクライセンとの繋がりを守ってくれるかもしれない。そうでなければ、メディスも存在しないのだから。ティシラは焦点の合わない目を何度も瞬きして正気を保とうとした。
「だがそれは、本当にクライセンが望むことだと思うか?」
「……え?」
「もしクライセンがあの世界を選んだとしたら、それは本人の意志だ。本人が、そこに幸せを見出したからこその結論。それを邪魔するのが、お前の幸せなのか?」
 相手の幸せが自分の幸せ。
 ティシラは確かにそう言った。
 あの世界にはもう一人のティシラも存在している。もしクライセンがあの世界を選んだとしても、同時にティシラも幸せになれるだろう。だけど、それはここにいる自分ではない、別のティシラが、だ。
 あの世界でクライセンが本当に幸せになれるのなら、黙って身を引くことが「無償の愛」なのだろうか――。
 胸やけがする。体の中がゆっくりと炙られているような不快感が燻った。
「あっちの世界のティシラとクライセンは婚約という約束を交わしている。だが、ここにいるお前は、愛を与え合う仲ではなく、お前が見返りを求めて与えているだけの関係……つまり、お前はまだ片思いの状態、といういこと。選ぶのは、クライセンだ。お前はその答えを待つしかできないんだよ」
 マルシオの無情な言葉に、ティシラは気を失いそうになった。怒りと悔しさ、そして虚しさが全身を絞めつけていく。
「……私の好きなクライセンは」ティシラはこみ上げる吐き気を抑えながら。「こんなまやかしに、騙されるような、馬鹿な人じゃないわ」
「そうだ。俺だってあいつを騙そうなんて思ってないよ。クライセンは普通じゃない。異常な魔力と経験を兼ね備え、死神にさえ屈しない強い精神力を持っている。だがな、クライセンは聖人でも、人格者でもないんだよ。何を失い犠牲にしようとも、あいつは自分がそうしたいと思ったことしかしない、ただの気まぐれな人間だ……それは、お前もよく分かっているんじゃないのか」
 ティシラにはもうマルシオの声は聞こえなかった。いや、聞こえているのだが、聞きたくなかったのだ。
 大丈夫、とティシラは気を強く持とうとした。大丈夫。彼はきっと正しい道を選ぶ。何があってもクライセンを肯定してきた。今までも、これからも、ずっと変わらずそうしていく。そんなティシラの気持ちに、彼はきっと答えてくれるに違いない。
 そう思うしかなかった。
 だけど……もし、クライセンがあの世界を選んだとしたら――それも含めて、自分が好きになった彼の決めたこととして受け入れるしかないのだろうか。自分のいない世界で、クライセンが本当に幸せな人生を送れるのなら、それでいいと思えるだろうか。
 いいや、そんなはずがない。ティシラは首を横に振った。
 クライセンが英雄でも白馬の王子様でもなんでもないなら、自分だって可愛いだけが取り柄の耐え忍ぶ悲劇のヒロインではない。
 欲しいものは奪ってでも手に入れたい性分だ。これは父親譲りで今更否定はしない。
 ティシラは負けるものかと気合を入れ、水鏡を睨み付けた。
 ――だが、そこに映っているのは、穏やかに微笑む自分自身。
 もしクライセンがあっちの世界を選んだとしても、彼の隣には「ティシラ」がいるのだ。クライセンはティシラと婚約し、いつか夫婦となり、理想の家庭を築いていくことができる。
 クライセンはティシラを裏切るわけでも、見捨てるわけでもない。ティシラの気持ちに答えて、相思相愛になるのだ。
(でも……私はどうなるの?)
 ティシラは今すぐ彼に駆け寄って問い詰めたかった。
(私はここで、あなたが私ではない私と幸せになる世界を見つめているだけしかできないの?)
 まるで幻だ。
 天使の世界で永遠に、マルシオと時間を過ごして、いつか彼のことを諦め、興味を失うのだろうか。信じられない。そんな自分は想像もできない。
 マルシオがまだ歴史を完全に書き換えない理由が分かった。クライセン自身にティシラと、弟子であるマルシオを切り捨てる選択をさせるためだ。残酷な現実をティシラに見せて絶望させ、クライセンへの思いを失わさせるため。
 彼が何をしても、どんなに卑怯で醜い姿を見せたとしても、ティシラはすべてを愛していくと決めていた。
 だけど、今その決意は揺らいでいる。
 いくら強く思っても、彼が背を向けるならどんな愛でも与えようがないのだから。
「いいえ……私は信じるわ」ティシラは汗でぬれた手を強く握った。「今までのこと、全部無駄だったなんて、考えられない。そんなこと、神が許しても、私が許さない」



 マルシオにはまだ明かしていないことがあった。
 イラバロスが見た「予見」だ。
 同じものをザインも予知夢として見ようとしているが、まだすべてではない。彼はこれからすべてを知り、その頃には「夢」が現実になっていく。
 マルシオが過去を見たうえで、イラバロスに予見させないよう改竄したことには意味があった。

 別世界のクライセンは、ティシラと結婚する前に死んでしまうのだ。そう、予見が語っていた。

 もし彼があっちの世界を選んだとしたら、同じ運命を辿る可能性がある。いずれにしてもあの世界のクライセンとティシラは結ばれることはない。
 予見どおりの未来が訪れたとき、二人の縁は切れる。
 だが決して確実ではない。あっちの世界に特殊な力を持つ魔法使いであるクライセンが存在する。彼があの世界でどう動くかで予見の示す未来に変化があるかもしれない。それはそれで楽しみだった。
 絶望の淵に必死にとどまるティシラとは対照的に、マルシオは薄い笑みを浮かべて記録を見つめていた。
 運命の時間は止まることなく進んでいく。





   

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