SHANTiROSE

INNOCENT SIN-62






 レオンは眩暈が起き、その場に膝を着いた。
 ガラスに映し出されていた夢の映像は掻き消え、先ほどの不気味な空気は上空に広がる青空が一掃してくれた。
「大丈夫?」
 そう声をかけるクライセンだったが、手を貸そうとはしなかった。
 今までのレオンは、ここで周囲の誰かに守られ、自室で休養を取ってきた。
(……それでは、いけないんだ)
 レオンは体に力を入れ、ふらつきながら立ち上がる。
 呼吸を整え、クライセンに顔を向けた。
「あの……」
 力なく声を出すと、クライセンは横目で彼を見据える。
「少し、考えさせてください」
 レオンの口から出たのは頼りない言葉だった。そんなものだろうと思っていたクライセンは「どうぞ」とだけ言って目線を空に移した。



 どれくらいの雲が流れていったのか、ぼんやりしていたクライセンの記憶には残っていなかった。
 レオンは天鏡台の傍にある椅子に腰かけ、書類の積み上げてある机につっぷしている。ときおり顔を上げて頭を傾けたりし、おおいに悩んでいるようだった。
 暇になったクライセンは一度ドアを開け、すぐ近くにいたラムウェンドに声をかけた。ラムウェンドは気が気ではない様子で、急いで部屋に入ろうとしたがクライセンに止められる。
「悪いね。まだ話は終わっていないんだ」
「え、でも……」
 ドアの隙間から見えたレオンは頭を抱えている。
「ああ、レオン様……どこか、お体の具合が悪いのでは……」
「考え事をしてるだけだよ。まったく、君たちが過保護にするから、彼は自分で何もできないお人形さんになってしまってるじゃないか」
「な、なんと無礼な……」
 さすがのラムウェンドも憤り、声を震わせた。
「ほら、あの姿」クライセンは物怖じせず、レオンを指さし。「あんなの見たことないだろう? 彼はバカじゃないんだ。ちゃんと考える頭を持ってる。それはきっと、君たち以上に高く、深い思考能力で、彼は皇帝陛下らしい決断を下すだろう」
「そうなんでしょうか……」
「そうさ。彼を誰だと思っている。あの世界最強の魔法使いザインの息子だよ。この世界を守り抜いた英雄の血を受け継いでいる。何もかも、レオンに任せればうまくいく」
「……そ、そうですよね。ええ、もちろん、きっと陛下もザイン様と同じように、我々を最善の道へお導きくださると信じておりますとも」
 ラムウェンドは不安から期待に満ちた表情に変わっていく。
 だが、会話が聞こえていたレオンにとっては褒め殺しにしか思えず眉間にしわを寄せた。
「あの……!」顔を上げず。「静かにしてもらえませんか」
 レオンが大きな声で言うと、クライセンは小さく笑い、ラムウェンドはさっと一歩引いた。
「そういうわけだから」クライセンはドアノブに手をかけ。「何か飲み物をもってきてくれないか。あと、悩める少年に甘いものを。よろしく」
 そう注文し、扉を閉めた。


 飲み物が運ばれてきた頃、レオンは再びガラスの前に立ち、空を見上げていた。
 一息ついたあとにクライセンは彼の隣に移動し、同じように目線を上げた。
「何を見ている?」
「空です」
「それは分かる。空に何があるんだ」
「星です」
「君は、昼間に星が見えるのか?」
「はい」
 レオンはそうはっきりと答えた。昼間の星見は太陽に反する行為。何度も言われ、見えるような気がするなどと誤魔化してきたが、彼に取り繕う必要はない。クライセンはそれほど驚かなかった。
「だからこの部屋に呼んだのか。で、星は何を言っている」
 レオンは目を左右に動かし、星々の声を探った。
「ずっと不思議に思っていました。確かに、私は太陽の光に隠れた星の存在を認識できます。だけどその意味が分からなかったんです」
 長い長い時間をかけて、遥か彼方から届いた光をまた一つ確かめ、レオンは数回瞬きした。
「これを見てもらえますか」
 レオンは踵を返して再び机に戻った。クライセンは彼の隣の椅子に腰かける。レオンは机の上にあった書類を引き寄せ、一枚の天体図を広げた。
「これが、術士の作成したものです」更にもう一つ、図を広げ。「こっちは私が作成したものです」
 二枚の図はそれぞれ違う位置に星が配置されている。クライセンは二つ目の図を手に取り、目線を上下させた。
「クライセン様は星見をされますか?」
「得意ではないが、なんとなく分かる」
「では、これを見てどう思われますか?」
「……こっちは見たことがある。私の世界の配置図だな」
「やはりそうですか。そちらは術士たちが見えない星だけを抽出したものです。試しに書き起こしてみると、きちんと数が揃い、まるで別の世界を描いているように思えたのです」
 しかしこんな世界がどこにあるのか、あったとして自分と何の関係があるのかまでは、星は教えてくれなかった。
「なるほどね……私をあっさり受け入れたのは予感があったからか」
「ええ。まさかアカシアがアカシック・レコードを改ざんして、もう一つ世界を創造したなんて思いもよりませんでしたが」
「それで、この図がどうしたって?」
 当然それだけで終わるとは思わないクライセンは図を机に戻した。レオンはそれを手に取って二枚の配置図を重ね、両手の指を微かに動かす。すると机が光を孕み、図を下から照らした。下に隠れた図は上に重ねられた図にきれいに浮かび上がり、二枚の図に描かれた星が重なり合った。
 それを見て、クライセンは自然と目を見開いていた。
「……分かりますか?」
 仮にそこにいたのがクライセンでなくても、重なった星の配置図の奇妙さに誰もが驚くだろう。
「グランド・クロスか」
 クライセンがつぶやくように言うと、レオンは頷いた。
「アンギュラーの1のハウスに土星・木星、4に太陽・水星・金星、7に月・火星、10に天王星・海王星が入ります。それだけではなく、二つの天体が重なることで四つのTスクエア、更に二つのグランド・トラインが重なり合います」
 レオンは一つひとつを指で示していった。
「ああ、見えないはずの星を重ねることで、魔法陣が出来上がるんだな」
「アカシアのしたことは魔法ではありませんが、アカシアのしたことで、私たちの世界の運命を変える強大な魔法が発動してしまうのです」
「これが現実で重なり合ったとき、私のいた世界は吸収されて消滅し、こっちは人類滅亡の末、生態系が変わり植物が支配する世界に変化するってことか」
「あなたの話を聞いて、この星の意味がやっと分かりました」
「だったら尚更、私は元の世界に戻らないといけないな」
「それで世界は救われますか?」
 クライセンはふうっと息を吐き、肩を竦めた。
「少なくとも私がスムーズに戻れたら、私の世界はそれほど大きな影響はないだろう」
 と言っても、マルシオがどうするのか、どうなるのかによってクライセンの周辺は何かしらの変化を伴うはず。だがそれは個人の生活レベルのことで、レオンに話すほどのことではないと思い、省いた。
「しかし戻れなかった場合は、こっちの『魔法戦争でランドール人が勝利した』という歴史だけが人間界のたった一つの事実となり、もう一つの世界は消滅する。私は元の経験も記憶も持ったまま、倒錯した存在としてこの世界で死ぬことになるな」
「もし……」レオンが自信なさげに話を遮ってきた。「あなたがこの世界に残ったとして、あなたは、エミーをどうなさいますか?」
 クライセンにはレオンの心情を読み取れていた。自分よりずっと経験豊富で魔力も知識も、レオンが知るすべての魔法使いの中でも群を抜く彼の力を借りたい。だがそんな甘えを容易く口に出すことができず、せめてヒントだけでもと模索しているのだった。
 クライセンは同胞であるレオンを、救うことも、突き放すこともできないという答えをすでに固めていた。
「もし私がここに残るしかないという結論が出た場合は、当然、私はエミーと戦うよ」
 レオンは、それが最善ではないことをどこかで感じ取り、俯いた。
「ここにいる私と、この世界のエミーなら、私が勝つ。今の段階なら、魔薬を操っている彼女を止めれば革命は失敗に終わるだろう」
「今の段階とは?」
「エミーが本格的に魔法を発動させたあとは、魔薬は暴走し、人間を超越し、誰にも止められなくなるだろうね。もちろん、エミーにも」
「だったら、急がなくては……」
「急ぐ? 何を?」
 クライセンに冷たく言われ、レオンははっと息を飲んだ。レオンは、急いでクライセンにエミーを止めて欲しいと思ってしまったのだった。
「私がエミーを止めたら、世界の運命が大きく変わるよ。この星の配置も狂う」配置図に目を移し。「今二つの天体が重なっている。どの星がどの星に影響を与え、次にどんな形を描き出すか、それはアカシアにも、マルシオにさえも分からない」
「アカシアにも?」
「ラドナハラスは過去にしか干渉できない。未来は見えないんだ。だからマルシオは元の世界を消さずに、時空の歪みが起こす現象を記録し続けている。失敗すれば消してやり直せばいい。それが天使の力だよ」
「消して、やり直せばいい、って……そこに生まれて生きている命は、どうなるのですか?」
「記録になるんだよ。死ぬわけじゃない。過去に生きた者の軌跡のすべて、アカシック・レコードが大事に保管してくれる」
 レオンはあまりに理不尽な現実を受け入れられず、唇を噛んだ。天使はランドールの魔法使いにとって敬愛の対象だった。その天使が、人間をただの文字の羅列としてしか見ていないなんて、あまりに残酷な真実だった。
「天使は神じゃない。そして、アカシアのしていることは悪じゃない。天使は天使の生態に従っているだけ」
 レオンは素直に頷くことができなかったが、だからといって天使を恨んでも何の解決にもならないことを理解する。そんな複雑な思いを巡らせている彼の隣で、クライセンはポツリと愚痴った。
「まあ、マルシオは私に明らかな悪意を持ってるけどね」
「……え?」
「こっちの話。ああ、そういえば――」
 クライセンは服のポケットから球根を取り出した。レオンは彼が差し出した紫のそれを見つめた。
「これは?」
「ここに来る前に魔士が落としていったものだ。何だか分かるか?」
 球根の禍々しい色に加え、魔士が持っていたものと聞いて、レオンはいい印象を持たなかった。警戒しながらそっと手を出し、受け取る。
 レオンは両手で回しながら一通り眺めてみた。
「さあ、私には分かりません」
「どう思う?」
「球根のようなので、植えて水を与えると根を張り、何か花か実をつけるのでしょうか」
「それだけ?」
「……では、ないのでしょうね」
 魔薬であることは違いないはず。あまり触っていたくなかったレオンに、クライセンが軽い気持ちで提案してきた。
「魔薬なんだろうから、魔力を与えてみたらどうだろう」
「え……」
「魔士は私が留守だと思って私の家の近くに植えに来てたんだ。見つかったら自爆してでも球根を守ろうとした。何か重要な役割をもっているはずだ。このまま様子を見ているより、実験してでも正体を探る価値はあると思う」
「これに魔力を……私が、ですか?」
 あからさまに嫌そうな顔をするレオンに、クライセンは躊躇なく「そう」と答えた。
 確かに、せっかく手掛かりとなるものを入手したのに何もしないわけにはいかない。こういうのはいつも誰かがやってくれていたのだが、もう人任せにしていい時期は過ぎている。
 レオンは心を決めて、球根を乗せた片方の手のひらに淡い魔力を込めた。
 クライセンも集中した。傍には自分しかいないのだから、彼が危機に陥ることのないように注意を払う必要がある。
 何が起きるか分からない。室内に緊張の糸が張り詰めた。
 球根がわずかに動いた。
 レオンの手のひらから出る魔力の光が球根を包んだかと思うと、ものすごい速さで頂芽部分から大量の細い茎が飛び出した。
 咄嗟に振り払うより早く、茎はレオンの手を包みこみ、皮膚の中に潜り込んでいく。
 レオンは歯を食いしばり、急いで袖を捲る。すると茎は腕の中にまで侵入して肘から肩に向かって伸び進んでいた。
「これは……!」
 レオンは体の中を虫が這うような嫌悪感に包まれ、体を屈めてうめき声をあげた。
 クライセンがすぐに球根に手を伸ばしたが、素早く球根は根を伸ばしてレオンの手のひらに絡みついており、力任せに引き剥がすわけにはいかなかった。
 レオンの手や腕から血は出ていない。茎と根は皮膚を食い破っているのではなく、土の中を掻き分けて成長する植物そのものの動きをしていた。
 このままではレオンの体中を茎と根が侵食する。人と同じで本体を潰せば動きは止まる。クライセンは少々乱暴なのを承知で球根に強い魔力をぶつけようとした。
 だがそれより早く、レオンがもう片方の手のひらを球根の上で開いた。
 レオンは目を閉じ眉を寄せ、手のひらに集中する。叫びたいほどの恐怖を堪え、小さな声で呪文を唱えた。
 茎と根の動きが止まる。
 紫の球根は痙攣するように震え、それも次第に弱まっていき、外側からゆっくりと黒ずんでいった。
 レオンが目を開けると、茎と根の動きは止まり、球根は完全に沈黙していた。
 クライセンの目には、死神が命を吸い取っていく様に見えた。見えたのではなく、まさに、レオンは球根の命を奪ったのだ。
 レオンは呼吸を整えながら球根を持ち上げた。ずるりと、体の中に侵入していた茎と根が引き抜かれていく。やはり傷跡はなかった。
「これは、魔力を吸い取る植物です……」レオンは球根の死骸を机に置き、汗を拭った。「いえ、少し、違った気がします」
 クライセンも困惑の色を目に灯し、胸中のざわつきが止まらなかった。
「どう違った?」
「魔力で成長するのは確かです。ただ、奪うだけではない気がするんです」
「エミーはそれを世界のあちこちに植えている。その球根が世界中の土の中で根を張り成長したらどうなるか、イメージできるか?」
 レオンは言われたとおりに考えてみた。先ほどの感覚を思い出しながら、あれが自分の足元にもあるとしたら、と想像してみる。
「……少し、待ってもらえますか?」
 どっと疲れが押し寄せたレオンはイスに腰を下ろし、激しく脈うつ心臓に手を当て肩を上下させていた。
「慣れない魔法を使ったのと、こんなに恐ろしい目に遭ったことがなかったもので……」
「ああ」クライセンもまだ頭の中の整理ができていなかった。「あまりに一瞬のことだったんで、力になれなかった。悪かったね」
「いえ……私で試して正解でした。あなただったら、きっと私は怯えて、すぐに動けなかったでしょう」
「なぜ瞬時に判断できた?」
「球根から、とてつもない生命力を感じました。それは、ただ法則に従い、人の感情など存在さえも知らず、自由を奪い命を操る……まるで、太陽の光のような力強さが、体の中に流れ込んでくるようで……」
「だから、命を奪ったのか」
「……はい」
 レオンは不吉な星の配置、悪夢が予知夢であることと、もう一つ、誰にも言えずにいたことがあった。ザインの息子でありながら、まだ自分の魔法の本性は覚醒していないことを恥じている「フリ」をしてきたこと。周囲は彼の気持ちを察しながらも、急ぐ必要はないとあまり触れずに来た。本当は、レオンは自分を力を自覚していた。不吉なものの気配を感じ続けてきたレオンは、持つ力もまた不吉なものなのではと自ら否定してきたのだった。
 だがこれももう隠す必要はない。レオンは自分の手を見つめ、受け入れる覚悟を固めたかのようにぎゅっと拳を握った。
「私は、エヴァーツ(死)の魔法使いです」





   

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