SHANTiROSE

INNOCENT SIN-70






 空は地上に等しく光と闇を与える。
 誰がどれだけ悲しもうと、一瞬にして大量の命が掻き消えようとこの世界の周る速度は変わらない。
 たとえ歴史が書き換えられたとしても、空が地上に触れることは一切ないのだ。
 二つの世界を見たカームは、ジギルの部屋の窓からゆっくりと薄雲の流れる夜空を見つめてそんなことを考えた。
「……カーム、いる?」
 ドアがノックされ、ミランダの声が聞こえた。カームがはいと答えるとミランダがドアを開けて部屋に入ってくる。
「ミランダさん、調子はどうですか」
「もう大丈夫、疲れてただけ」
「よかった」
「ジギルはいないの?」
「はい。少し前に人に呼ばれて出て行きました」
「人って?」
「さあ。槐のマントを羽織っていて、フードで顔は見えませんでした。ベリルさんたちではない人でしたね」
「そう……」ミランダはドアを閉め、カームの隣に立って同じように空を見上げた。「ねえ、ジギルと何の話をしていたの?」
 もっともな疑問だった。なんとなく「二人の秘密の話」だと思っていたカームだったが、いつまでも隠してはいられない。
「ジギルは、悪い人じゃありません」
「そうね。そうだと思う。あんな気のいい子たちが友達みたいに懐いて信頼しているんだもの……でも、やってることは、悪いことなんじゃないのかしら」
「いい人が、悪いことをするんですか?」
「悪い人が悪いことをするのは、単純で分かりやすい。でも、いい人が悪いことをしたら、みんな、何が正しいのか分からなくなって、混乱する」
 いい人がする悪いことは、結果によってはいいことになることもある。いい人が失敗しても、この人ができないことは他の人もできないのだから仕方ないと思えるときもある。
「……そもそも、何がいいとか悪いとか、明確な答えはあるんでしょうか」
「それは誰もが一度は思う難問よね」ミランダは目を伏せ。「正解はないのだと思う。だけど、それでも人は、大体同じことを言うわ。自然の摂理を無視して強引に物事を思い通りにしようとすることは、許されないと」
 カームはうーんと首をひねったあと、困ったように笑った。
「どうしてなんでしょうね。僕も、なぜかそう思います。理由は分かりませんが」
「私もよ」
「この思いが、人間にしかない矛盾した感情であり、争いの種になるんですよね」
「ええ。だけど魔薬を使って何もかもを自由に操れてしまえるようになったら、こんな疑問は持たなくなるのかも」
「じゃあ、ジギルのしていることは、結果的にいいことになるのでしょうか」
「うん……」ミランダはカームに顔を向け。「だから、ジギルが何をしようとしているのかを知りたいの」
「あ、はい……そうでしたね」
 カームは愛想笑いを浮かべながら、念のために周囲を見回した。
「あの……」そして、ゆっくりと話し始めた。「もし、魔薬を無効化する方法があるとしたら、どう思いますか?」
「え? どういう意味?」ミランダも小声になり。「無効化って、魔薬で化け物になった人を戻すってこと?」
「はい。といっても、今すぐ、簡単なことではないみたいですけど」
「ジギルはその方法を知っているの?」
「実験して、成功してたんです……でも、ジギルはただ試しただけで、世に出すつもりはないようで」
「どうして?」
「今そんなものを出したら、今まで犠牲になった人の命が無駄になるし、死を覚悟して化け物になった魔士の士気が下がって革命軍は崩壊する……アンミール人はランドール人のように魔力に恵まれているわけではないからこそ、命懸けで立ち向かっています。魔薬が武器でなくなることはエミーさんへの裏切りでもあります。だから、ジギルはただの趣味で試してみただけで、その結果は記録にも残していないそうなんです」
「でも……必要なときにだけ力を増幅できるのなら、魔薬は便利な魔法になり得るんじゃないの? 無理やり命を削ってランドール人を攻撃するから野蛮で邪悪に見えるのよ。あんな危険なものを制御できるようになるなんて、私たちの世界でもなかったすごい技術じゃない」
「僕もそう思いました……でも、スカルディアの目的は『革命』なんです」
「え……?」
「ランドール人に勝つとか、権利を得るとか、そういう分かりやすい理由で戦ってるわけじゃないんです。エミーさんは、この世界そのもののルールを変えようとしています。革命が成功すれば、この地上に人種や国なんて概念もなくなって、人間は知能も感情も失った肉の塊になるんです」
 ミランダは言葉を失い、息を飲んだ。
「――って、ジギルが予想してました」
「予想? エミーから聞いたわけじゃないの?」
「そうみたいです。僕と話してるうちに導き出した一つの可能性です」
「あなたと話していたっていうのは?」
「僕が最初に、ジギルに魔薬の解毒剤があるんじゃないかって問い質したんです。そしたら話してくれて、そのことや、僕の世界のことも交えて、ジギルはエミーさんの本当の目的を読み取ったみたいで……」
 だから二人きりでこそこそ話し、秘密にしたり喧嘩したりしていたのだと、ミランダは気づいた。ジギルも、今まで誰にも言えなかったことを打ち明けることで何かが変わったのではないだろうか。だとしたら、このカームの鬱陶しい性格も捨てたものではないと思う。
「それじゃあ、あなたはジギルを説得してエミーの目的を阻止するつもりなの?」
 カームはえっと短い声を上げ、困ったように頭を掻いた。
「そうできたらいいというか、僕はそれが王道だと思うんですけど……」
「違うの?」
「ジギルが望むなら、僕はここにいてなんでも協力するって言ったんです。でも、彼は、そもそも元の世界に戻れる方法があるのか、と……」
 ミランダもはっと目を見開いた。
「人のことばかり構ってないで、自分の立場を弁えろ、なんて言われて、何をしたらいいのか分からなくなりました」
 そういえば、自分たちは迷子の状態だった。ミランダも改めて自分の立場を考える。戻れるのならそれを最優先しなければいけない。どんなタイミングでそのチャンスが訪れたとしても、この異世界から脱出すれば、二度と関わることはなくなる。この世界では「死んだ」に等しく、自分の世界ではここのことはすべてがただの夢になるのだ。
 この世界の未来を知りたくないわけではない。ベリルたちのことは好きだし、幸せになってほしいと心から思う。そのために何かできるのなら協力したい。
 もし自分の世界に戻るとしたら、ある時突然それは起きるに違いない。そのとき、この世界は消えてなくなるも同然なのだ。それが分かっていて、一瞬にして迷いなくこの世界と永遠の別れを選べるのかどうか、今は自信がない。
「もし、戻れなかったら、どうします?」
 戻れないという未来は十分ありえることだ。クライセンが頼りではあるが、彼が何もしてくれなかったとしても恨むことはできない。そのつもりで着いてきたのだから。
「戻れなかったら……この世界にとどまるしか、ないじゃない」
「ですよね……」
「でも、私は戻りたい」
「そうですよね。ミランダさんには帰る家があるんですよね。やっぱり、生まれ育った場所を失いたくないですよね」
「カームは違うの?」
「僕は、この世界も嫌いではないですし……」カームは乾いた笑いをこぼしながら。「いや、ほら、僕って家族もいないし、尊敬する人はたくさんいますけど、僕が誰かに頼られたりってことはないし。師匠のサイネラ様は、僕に行き場がなかったから引き取ってくださったわけで……だからもし、この世界で、僕が何か役に立てるなら、むしろ、ここが僕の居場所だって思えるかもしれないなあ、なんて……」
「何言ってるの」
 ミランダに大きな声を出され、カームは体を縮めた。
「あなたはティオ・メイ魔法軍の最高司令官の弟子なんでしょう? 居場所がないだなんて、どうしてそんなことを思うの?」
「それは……」
「まさか、ここにいたらベリルたちと仲良くなれるからなんて、邪な理由で……!」
「そんな!」カームは慌てて首を横に振る。「いえ、ここに残ればベリルさんたちと仲良くなれるかもしれませんし、そうなったら楽しいだろうなとは思いますけど!」
「ほら!」
「そ、それだけじゃありませんよ! 僕は、もしジギルが僕を頼ってくれるなら、そのためにここに来たって思えるんです」
「なによそれ……頼る? ジギルが? あなたの、何を?」
「それは……」
「あなたにそんな力があるの? ジギルは魔薬王よ。世界を滅ぼすことができるほどの力を持ってる。そんな彼に、あなたが何をしてあげられるというの?」
 もう潮時だと、カームは思う。
「……もう隠す必要はありませんね。僕の目には、生まれつき、強い魔力があって、見てはいけないものまで見えてしまうんです」
「え、何、どういうこと?」
「昔、自分の力がどういうものか分からず、見えるものを口に出してしまっていました。その人の本質とか本音とか、抱えている病気や悩み、恨みも秘密も、見てはいけないものが見えるんです。みんな、僕を怖がって近づかなくなりました。言わないようにしても、言わないだけで全部見透かされていると思うと、誰も、ひどい不快感に包まれてしまうんです。両親さえ、僕を部屋に閉じ込めて目を合わせないように避け始めました。あちこちの医者や魔法使いに相談していましたが、何も変わらない。誰も手に負えなくて、ティオ・メイの魔法軍に預けられました。それでもダメだったら、きっと、僕の目は潰されていたと思います。それを、サイネラ様が救ってくださいました。いつかこの力を魔法として使えようになるまでと、このメガネで封じているんです」
 ミランダは改めてカームの目を見つめる。メガネがあれば普通の人と変わらないとはいえ、ガラス一枚あるかないかで自分のすべてを見抜かれてしまうと思うと、やはり寒気がする。
 怯えた表情を浮かべるミランダを見て、懐かしい痛みを思い出し、カームは俯いた。
「そうです。今メガネを外してあなたを見たら、僕はミランダさんの隠していることも全部見えてしまいます。みんな怖がりました。だけどサイネラ様は、この力はいつかきっと誰かの役に立つと信じて、僕を育ててくれていたんです。そんな僕が、必要とされているとしたら、僕はサイネラ様とお別れしてもいいと思っています。師匠も、喜んでくれるはずです」
 ミランダは額に滲む冷や汗を拭い、青ざめた顔を隠すようにカームから視線を外した。
「気にしないでください。誰でも驚きますよね。僕も化け物みたいなものなんです」
「……その力で、ジギルの解毒剤のことを知ったの?」
「はい。魔薬を使ったイジューを前に泣いた彼を見て、どうしてもジギルの本心を知りたくて、つい……見たことを伝えるのは、結構勇気のいる賭けでした。ジギルは僕の力を信じてくれたけど、このことがこの世界にどんな影響を与えるのかなんて、さっぱり……今の僕には、手に余る力なんです」
「それで、あなたは次に何をしようと思ってるの?」
「ジギルはまだ頷いてくれないんですが、イジューに解毒剤を作って欲しいと伝えました。ジギルはたった一つでも完成品を世に出してしまったら後戻りはできないと言うけど、まずは彼女一人を救うことで、彼の中で何かが変わるんじゃないのかなって思うんです」
「どうして、イジューを?」
「だって、あんなに小さな女の子が体を張って好きな人を救おうとしたんですよ。イジューは自分の障害を克服して、ジギルのつくった魔薬で人を幸せにできるってことを証明したかったんです。でも……」カームは拳を握り。「それは表面上のことで、彼女の体の中では、魔薬で命を削り取り続けられているんです」
「……やっぱり、そうなのね」
「はい。ジギルはそれも一つの生き方だと言ったけど、本心じゃないと思います。いえ、おそらくイジューのしたことに対して自分がどう受け止めるべきか分からないんだと思います」
 ジギルは今まで、命を賭しても戦いたいという覚悟を持った人だけに魔薬を与えてきた。そんな彼らが仲間に思いを託して死んでいくことにそれほど罪悪感はなかった。人によっては美談にさえなり得ることなのだから。だが、ジギルはエミーに村人にだけは手を出すなと約束していた。洛陽線の村人たちは無力だ。力を与えても役に立たない、という建前と、家族のように慕ってくれている彼らを自らの手で化け物にしたくないという本音を切り離してきた。ジギルはそうやって、どこかで現実逃避してきたのだ。
「だから自分にとって特別で大事な、家族のような人を救うことで、彼の中で眠ってる情や良心が芽生えるんじゃないでしょうか。今ジギルは魔薬の研究を趣味とか好奇心だといって、何が起きても他人事のように、目を逸らしている状態です。でも、ジギルは悪い人じゃありません。彼の気持ち一つでこの世界を救うほどの力を発揮できると思うんです」
「それで……ジギルを説得して、あなたはこの世界にどうなって欲しいと思うの?」
「魔薬を人間のために使う社会です。後遺症も危険も罪悪感もなく、魔薬を新しい魔法として、奇跡を起こし人々を幸せな未来に導く力に変えていきたいです」
 そう語るカームの目には強い意志があった。
 彼は力のせいで家族も居場所も失い、それでも誰も恨まずに人を傷つけないように黙って過ごしてきた。初めてその力が役に立つのかもしれない。そうだとしたら、きっと誰もがじっとしていられないだろう。
 おそらく自分も、と、ミランダは思う。安易にカームを否定することはできなかった。
「あなたの気持ちは分かったわ。私も、できることは協力する」
「本当ですか?」
「といっても、私は何もできないかもしれないけど……邪魔はしない」
「よかった。理解してくれるだけで嬉しいです」
「でも……帰るときがきたら、あなたも一緒よ」
 どこかでこの世界に残ってもいいと思っていたカームには、胸に響いた言葉だった。カームは笑みを消し、俯くミランダを見つめた。
「一人は、寂しいでしょ」
 カームに言っているのか、自分に言っているのか濁すように呟いたミランダは、目を合わせずに部屋を出て行った。





   

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