SHANTiROSE

INNOCENT SIN-72






 一晩眠れずに夜を過ごしたレオンは、虚ろな瞳で扉の前に立っていた。
 目の前の扉の向こうには、父ザインがいる。
 早朝に突然現れたレオンに戸惑う二人の警備兵は、彼の足元に跪いて冷や汗を流していた。ここは決められた人物以外通してはならないと、強い命令を受けていたからだ。しかし相手が皇帝陛下となると強硬手段には出られない。
 なぜ、どうしてと尋ねても、レオンは何も答えなかった。
 警備兵の一人が「ラムウェンド様をお呼びして参ります」と足を引くと、レオンは素早く彼を睨みつけた。誰も見たことのないレオンの厳しい表情に警備兵は怯み、体を震わせて再び膝を折った。
 レオンはゆっくりと扉に手をかけ、力を入れた。扉が開く。隙間から、澄んだ空気が漏れた。長い間、国の英雄が療養している空間だ。静かで清潔に保たれていることは想像できる。
 そこは広く天井の高い、円柱状の部屋だった。
 部屋の壁の半分ほどが窓で、すべてが薄いレースのカーテンで覆われていた。一部の窓が開いているのか、カーテンがふわりと揺れている。
 広い室内の窓際に、ベッドがぽつんと佇んでいた。それ以外は何もない、解放感のある部屋だった。
 屋根つきのベッドは白い布で覆われており、傍に行かなければ横たわっている者の顔は見えない。ベッドの隣には、三人ほどの付き添いの魔法使いが椅子に腰かけていた。
 予定にない時間にその扉が開いても、誰も反応しなかった。
 誰もレオンの顔を見ない。
 レオンは息を潜めて歩を進めた。
 静寂の中に、小さな足音が響いた。
 そこにたどり着くまで、長い時間がかかった気がした。
 レオンがベッドの横に立つと、黙って座っていた一人の従者が立ち上がる、頭を下げたまま、そっとベッドを覆う布を持ち上げた。
 そこに、やせ細った老人が眠っていた。
 真っ白な頭髪や髭は整えられ、肌も清潔に保たれている。老人、ザインはただ呼吸をしているだけで目を開けなかった。
 レオンは父に声をかけようとも、手を伸ばそうともせず、じっと青い目で老体を見つめていた。
(……これは、理想だ)
 夢だ、幻だ。
 ここで父の手を握り、涙を流して感動の再会を果たし、幼い魔法使いは父の死を乗り越えて強くなる美談が生まれる。
 ただ、それだけ。
 それでは、クライセンの言う秘術は受け継がれることなく、真実は人々の理想に埋もれて消えてしまうのだろう。
(これは私がいつまでも少年であるための、理想の神輿であるための、まやかし。自分の足で、先に進むためには……)

 ザインの本当の心に触れるしかない――。
 
 レオンの黒髪が靡いた。
 今まで人形のように俯いていた従者が顔を上げる。
「レオン様、何を……」
 レオンは目を見開き、両手の指を複雑に組み始めた。
 彼を中心に風が巻き起こり、室内の巨大なカーテンを揺らした。従者たちは立ち上がり、風に押されるようにベッドから数歩離れた。そして、水面に映った映像のように掻き消えていった。
 ベッドで眠っていた老人が、形を崩していく。それはまるで紐で編まれた人形が解けていくようだった。
 枯れ木のようだった老体は、本当の枯れ木になっていった。
 ベッドの中から大量の蔦があふれ出す。
 それらは天井まで伸び、絡み合い、そこに何百年も寝付いていたような大木に姿を変えていく。
 何もなかった広い室内は、葉のない蔦で埋め尽くされた。
 そんな奇妙な空間に、蔦に埋もれたベッドと、一人の少年が佇んでいた。
 枕のある位置に、青い光が灯った。蔦の塊の一部が僅かに蠢く。この蔦のすべてがザインの体なのだ。
 これが、国を救った英雄であり、世界最高位の魔法使いの――死ぬに死ねなかったなれの果ての姿だった。
 すべてはザインの意志。こうしなければ寿命を迎えてもなお生き永らえることができないから。ザインはレオンが自ら高みに昇ってくる、このときを待ち続けていたのだ。
 レオンは膝を折り、両手を組んで額につけて俯いた。
 話す口も、握る手もなかった。
 だけど、分かる。
「……父上、私の役目は、終わらせることなんですね」
 長年かけてずれ続けた歪みはもう修復しても元には戻らない。
 ならば、壊して、壊して、新しいものを創るしかない。
 それしか、この世界を存続させる方法はない。
「どうか、もうすべてを私に委ねてください。何もかも、私が背負います」
 魔法の継承を決意したザインの意志が伝わった。
 レオンは顔を上げて天井を見つめた。彼の目線は天井を超え、雲を突き抜け、遠い空へと向かった。
 見えない星が瞬く。
 まだ地上に届くはずのない遠い星の光がレオンに語りかけた。
 星が地上に与える影響で様々な運命が左右される。逆に、いつか届く星の光の位置を先に捕えることができたら、未来を予測することも可能なのだ。
 その無限に広がる膨大な情報量は、人間の能力ではほんの一握りしか処理できるすることはできないほどのものだった。
 壮大なる世界の中で、人間一人など小さな存在だ。どれだけ多くの命を救おうと、一つの時代を築くほどの功績を残そうと、誰も成し得ない奇跡を起こす力を持っていようと、星の光一つで誰の記憶にも残らない幻想となる。
 虚しいと思う気持ちも、寂しくて孤独に苛まれる病も何もかも、小さな一人の人間のただの想像で、形になることなく煙のように消えていく。
「だけど……何もせずにはいられないのです」
 レオンは枯れた蔦の塊となった父に両手を添えた。
 手のひらに優しい熱が篭り、水を得た新芽のように、魔力が体中に行き渡っていく。目を閉じても星が見える。今まで以上に遠くまで、鮮明に。
 数多の銀河が集中し、瞬きを繰り返す銀河団は、暗闇にこぼれた消えない花火のように美しい。
 星々が寄り集まり、互いに影響を与え合い極彩色の光を放つ銀河は絵筆では描けない絵画の如し。
 巨大な二つの銀河が衝突し、大量の恒星を生み出し宝石のように光り輝く星の雲。
 そのどれも、人間には触れることのできない遠い世界の出来事である。星は常に動き続けている。自らの意志ではなく、宇宙の法則に従い、互いの光や力に影響されながら誕生と消滅を繰り返している。
 悠久を思わせる星々の転生は近いようで遠く、人が光を認識できたとき、既にその星はなくなっていることも多い。
(……見える)レオンは計算ではなく、意識の中で星の啓示を受け取った。(もう一つの世界の出来事が、見える)
 天使が介入しなかった歴史では、クライセンという人々の希望が世界を照らし、勇気を与えた。
(しかし、その強い光が生み出した影もまた色濃く、人々を絶望に追いやった)
 ノーラのことだ。クライセンは王に盾付き人の信頼や優しさを足蹴にし、それでも世界を救った。
(彼はそれだけの力を持っていたんだ。だから守りたいものを守ったその道の先で、彼もまた守られた)
 だとしたら、と思う。
(……この世界には誰がいる? クライセンは複数の魔法使いの一人だ。父はもう動けない……では、私が?)
 レオンは目線を空から外し、息を飲んだ。
(二つの世界は対になっている。同じではないが、似たような運命を持っているのだから。私に対比するものとは……エミーか?)
 あちらの世界ではエミーは運命の中で大きな役割は持っていない。こちらで頭角を現したことには意味がある。
(……違う)
 レオンは、まだ見ぬ「彼」の存在を思い出した。
(ジギルだ)
 スカルディアといえばエミーという印象が強かった。強い輝きを放つエミーに隠れて、ジギルという少年にはあまり触れられることはなかった。彼の能力がエミーの後押しをしているのは確かでも、エミーがいなければジギルが人類を滅亡させるほどの大罪に手を汚すことはなかったという話で情報は止まっているからだ。
(逆だ。ジギルがいなければエミーがここまで力を持つことはなかった。私たちが本当に注視すべきは、彼だったんだ)
 だけど――もう、手遅れ。
 レオンはその場に座り込んだ。ザインの胸元に置いた手はそのまま、顔を伏せる。
(……なぜイラバロスは、父を殺害してまで戦争を終わらせたのだろう)
 彼は一体何を見たのだろう。
(あの恐ろしい未来だけではないはず。予見ではなく、星の光から導かれた真実を知ってしまったに違いない)
 自分は生まれなかったのではない。生まれるべきではなかったのだろうか。ジギルという少年をこの世界に存在させないために。
(だけどクライセン様はノーラを倒した。本物の光を地上に与えた……私には、無理だということなのでしょうか)
 レオンの手がぴくりと揺れた。
 ぎゅっと強く拳を握り、静かに、父に別れを告げた。



 レオンが室内に入ったあと、警備兵に呼ばれてザインの寝室前に駆けてきたラムウェンドは、扉の前で息を切らして立ち尽くしていた。
 慌てて扉を開けようと手をかけた瞬間、妙な違和感が襲われて開けることができなかった。
 寝室の中がどうなっているのかは、いつもザインの傍で見守る役目を持つほんの数人しか知らない。強い刺激や僅かな空気の変化がザインにどんな影響を与えるか分からないからという理由で、マーベラスの魔法使いさえ立ち入り禁止とされていたためだ。
 ラムウェンドは呼吸を整えるが、鼓動は早いままだった。中で何が起こっているのか、気が気ではなかった。このまま待つべきかどうか悩んでいるとき、扉が開いた。
 そこにいたのはレオンだった。父親と再会した少年とは思えないほど遠い目をしていた。
 彼の背後に見えた室内は、ここが立ち入り禁止になる直前の、静かで白いカーテンに包まれた簡素な状態のままだった。ベッドの隣にいる無表情の付き人が、レオンの背中を見送っていた。それをラムウェンドが目で追っているうちに、再び扉は閉ざされた。
「レ、レオン様……」
 レオンは横目でラムウェンドを一瞥したあと、静かすぎる態度のまま廊下を歩きだした。
「父に会いました」
「なぜ、突然そのようなことをなさいました」
「話してみたかったからです」
「そ、それで、何をお話されたのでしょう」
「父は話せる状態ではありませんでした」
「では……ザイン様は……」
「眠っていらっしゃいます。おそらく、もうお目覚めになることはないでしょう」
 ラムウェンドは強い衝撃を受けて足を止めた。
 何もかもが信じられなかった。
 この国で生ける神として人々の心の拠り所だったかつての勇者が、もう二度と目覚めることがないという事実。どこかでそうではないかと思っていても実際に言葉にされてしまうと、自分で予想できなかったほどの痛みが胸を切り裂いた。
 それだけでも体中が震えて力が入らないというのに、あの心優しかったレオンの冷酷な表情と声が、ラムウェンドの悲しみを掻き消していた。
 悲しい報せだけなら、泣き崩れてしばらく臥せってしまってただろう。
 だがそれ以上にレオンの心情がまったく理解できず、得も言われぬ恐怖に苛まれてしまっていたのだった。
 ラムウェンドは距離を置いてレオンの後を追った。彼が再び自室に入っていくところを見届け、すぐにクライセンとロアの元に走っていった。

 二人はレオンのおかしな行動を知らされ、顔を曇らせた。
「実際のところ」クライセンが眉間にしわを寄せ。「ザイン様はどういったご容態なんだ」
「私もあなた方と同じです」ラムウェンドの顔色は悪い。「ずっと床に伏していらっしゃるとしか聞いておりません」
「レオン様は話せる状態ではなかったと仰ったそうだが、それを確かめるために寝室へ向かわれたのか? それを知ってどうなさるおつもりだったのだ」
「分かりません……」
「レオン様に異変が起きるきっかけに何か心当たりは?」
 ラムウェンドはちらりと目線を上げ、厳しい表情の二人を交互に見て、俯いた。
「それがきっかけかどうかは、確かではないのですが……」
「何だ」
「クライセン様のドッペルゲンガーと、昨夜、お話されたそうで……」
 二人は顔を見合わせ、目元を陰らせる。ロアが語気を強める。
「何を話されたのですか」
「それが……そのうち分かる、と仰られて、詳しくは……」
「そのうち分かる? それが、今の状況なのですか?」
「ということは」とクライセン。「もう一人の私はレオン様に父に会うように言ったのだろうか」
「なんのために?」
「さあ……」
 何も分からない状況にロアはあからさまに苛立ちを見せる。
「クライセンのドッペルゲンガーに問い質しましょう。レオン様は皇帝陛下です。あんな得体のしれない化け物にいいように振り回されている場合ではありません」
 ロアの言うことはもっともだと思う二人だが、クライセンをよく思っていない彼にその役目を任せるのは最善ではないと考える。かといってクライセン同士が話をするわけにもいかない。
「わ、私が参ります」とラムウェンドが一歩前に出る。「私が二の足を踏んでしまうのは、レオン様のためを思うが故です。しかしもう事が動いております。これ以上別世界の歴史に翻弄されるわけにはいきません」
 クライセンとロアはラムウェンドを信頼し、まずはレオンの元へ向かった。



 レオンの部屋の前に辿り着くと、警備兵が三人の姿を見て一礼した。
「レオン様は退室なされました」
「え?」クライセンが短い声を上げ。「どこへ行かれたんだ」
「とくに何もお伺いしておりません」
 クライセンはロアに「星見の部屋か」「まさかまたドッペルゲンガーのところに」などと小声で話す。
 だがここで問答していてもどうしようもないと、三人は踵を返してレオンを探した。
 早足で廊下を進む途中、城内を見回っていた警備兵からレオンを見たという報告を受けた。彼はリヴィオラの浮かぶテラスに向かったとのことだった。
 嫌な予感しかしない。三人はその場に急いだ。



 レオンは報告通りの場所におり、リヴィオラを見上げていた。
「レオン様」
 三人の姿を見たレオンは笑いも驚きもせず、静かに姿勢を整えた。
「お探ししました」とクライセン。
「探した? なぜ?」
「え……?」
 ラムウェンドの言っていたように、レオンの様子は今までと違っていた。
 いつも物腰柔らかく、優しい表情と口調で誰もを受け入れる少年だった。しかし今の彼は石のように堅く冷たい。
 レオンはいつもと違う服を身に着けていた。正装でも普段着でもない、魔法軍が訓練用に着用している動きやすい制服だった。長く美しい黒髪を一つに束ね、朝の涼しい風を受けて艶やかに光っていた。
「レオン様」クライセンは一つ呼吸を置いて。「ザイン様に会われたそうですが、詳しくお話してもらえませんか」
「ああ……それより」レオンは空を仰ぎ。「出かけます」
「え?」と三人が同時に目を見開いた。
「出かける、とは? どなたがですか?」
「私ですよ」
「え? どこへ行かれるというのですか」
「まだ決まっていませんが、少々確かめたいことがありまして」
「一体何を仰っているのですか」ロアは狼狽し。「どうしても外出なさるのなら私とクライセンもお供いたします。いつご出立なされるのでしょう」
「今です。共はいりません。ついてこないでください」
「なりません。この世界に安全な場所などないのです。レオン様に何かあったら、この国は成り立たなくなります」
「そうでしょうか。父は寝たきりの老人でした。それでも国を守った勇者として、今も変わらず国を支える柱の一つ。私も同じでしょう。いてもいなくても、国を守る力は変わりません」
 クライセンとロアは愕然とする。信じ難いレオンの発言に言葉を失った。それでも彼を一人で行かせるわけにはいかない。困惑しながらもレオンを止める気持ちを失わなかった。
 そのときラムウェンドが大声を上げた。
「……いい加減になさってください!」
 ずっと虚ろだったレオンの瞳が揺れた。いつも穏やかだったラムウェンドの怒声はクライセンとロアも度肝を抜かれる迫力があった。
「あなたを、心配しているのです」ラムウェンドは声を震わせて。「レオン様は国の宝。皆、あなたのために戦っています。あなたに、万が一のことでもあったら、お父上が守られたこの国は、崩壊してしまいます」
 ラムウェンドの心からの訴えは、生まれたときから自分の価値を教え続けられてきたレオンに届く、はずだった。
「それは……」レオンは目を伏せ。「私が、皇帝陛下だからですか?」
 一時の気の迷いに違いない――という、彼らの希望は打ち砕かれる。
「だったら、辞めます」
「は?」という言葉が三人の心の中で同時に発せられた。
「皇帝陛下を辞めます。あとのことは、あなた方にお任せします」
 レオンは最後まで感情のない声で意志を伝え、三人に背を向けた。
 止める間もなく、レオンは囲いに上り、そのまま体を倒して飛び降りた。
 クライセンが急いで囲いに駆け寄ってレオンの姿を目で追うと、レオンは城の上空を飛んでいた大きな鷲を呼び、彼目掛けて矢のように急降下してきたそれの背に乗って遠くへ飛び去って行った。





   

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