16




 二人は縁側に隣合って腰を降ろし、樹燐はしばらく声を押し殺して泣き続けていた。
 こんなに泣いたのは初めてだった。今まで蓄積されていたものが噴出しているようだった。こんなにも感情をため込んでいたなんて自覚していなかった樹燐は、抑えられない自分に困惑していた。
「いつまで泣いてんだよ」
 どうしたらいいか分からない才戯は退屈になり始め、樹燐にちょっかいをかけてくる。樹燐は鬱陶しいかのように頭を横に振る。
「泣いたらブスになるんだろ?」
 意地の悪いことを言う才戯に、樹燐は涙目で睨み付けた。
「あなたのせいじゃない」
 目元を拭う袖は涙で濡れ、目は充血しており、もう誤魔化しがきかない顔になっている。
「あなたが来るまで、こんなに悩んだり泣いたりすることなんかなかったのよ」
 毎日いろんなことを学び、母の喜ぶ顔が見たくて努力してきた。努力すればするほど、母は思うとおりの反応を見せてくれた。だから自分を磨くことに生き甲斐を感じていた。
「私の周りはみんな優しくて、上品で親切な人ばかり。だけど、あなたは違う。することも言うこともめちゃくちゃで、乱暴で、怖い」
「怖い?」
「ええ。怖いわ。外の世界は、あなたみたいな人ばかりなの?」
 才戯は少し考える。樹燐の言う外の世界には老若男女、いろんな人がいる。だが、自分が特に変わっていると思ったことはなく、無責任に答えた。
「うん、まあ、そうだな」
「……だったら、やっぱりお母様の仰ることは正しいのね。外は怖いところ。争いや誘惑、強奪が蔓延り、危険がたくさんあるのでしょう?」
「いや……」どういう意味だと、才戯は思いつつ。「そういうことばっかりじゃねえよ。面白いこともたくさんある。欲しいものや競う相手がいれば俺だって努力するし、叶えば嬉しくもなる」
「些細なことだわ。私は外になんか行きたくない。ここで、綺麗なままでいたいの」
 そう言い切る樹燐に、才戯は面食らった。閉じ込められて寂しい思いをしているものだとばかり想像していたし、彼女を知る者も哀れんでいるような様子だった。なのに、当の本人は出たくないと言う。
「本気なのか? お前は死ぬまでここにいるつもりなのか?」
「私は鬼子母神を継承するという夢があるの。お母様の夢でもあるわ。だから外に出る必要なんかないの」
「何を継承だって?」
「お釈迦様の誕生日に曼荼羅を見たことがあるでしょう? あそこに並ぶ神々の中の一人になるということよ」
 才戯も一応、釈迦の生誕祭には参加している。あまり興味なかったが、曼荼羅だけは見事だと思う。あの中の一人になるなんて考えたこともなかった彼には途方のない話だった。
「だから、こんなふうに目を腫らすほど泣いている場合じゃないの」
「じゃあ泣き止めばいいだろ」
 悪気なく言う才戯の言葉に、樹燐はむっとする。
「あなたのせいだって言ってるじゃない」
「なんで俺のせいなんだよ」
「それは……」
 少し口を開いたまま、樹燐は返事に困ってしまった。
 才戯と会ってから、今までにないほど悩んだ。胸が痛んだ。もう忘れようと苦しんでいたのに、彼はまた会いにきた。嬉しくて、安堵して、涙が出た。
「……やっぱり、あなたのせいだわ――あ」
 そのとき、室内の向うの廊下に人気配を感じた。樹燐は慌てて振り返り、腰を上げる。
「大変。誰かいる」
「えっ?」
「隠れて。音を立てずに、じっとしてて」
 才戯も息を飲み、言われたとおりに庭に降りて縁側の下に潜った。
 樹燐も急いで、忍び足で部屋に戻り布団に入って形を整える。少し間を置いて、座敷を挟んだ先の廊下から囁くような声が聞こえてきた。
「樹燐様」実珂だった。「お休みでございますか」
 起きているなら聞こえる程度の声をかけ、返事を待ったあと、そっと戸を開いた。中を覗き、静かに入室する。御簾で区切られた寝室まで来て、樹燐の寝息に耳を澄ました。
 実珂はときどき、こうして様子を見に来る。もっと遅い時間のときが多く、樹燐は眠っていて気づかないことがほとんどだった。たまに眠れずにいたときは少し話をしたり、飲み物を運んできてもらうことがある。寝たフリをすることは初めてだった。
 実珂は部屋を見回し、何も変わったことはないと確認して退室していった。
 樹燐は彼女の足音が遠ざかっていったのを聞き届け、また床から出て縁側に向かった。
 這うようにして軒下を覗くと、才戯が顔を出す。
「もう大丈夫よ。でも、今日は帰って」
「あ、そうだ。なあ、これ……」
 才戯は地面に屈んだまま、胸元から何かを取り出した。差し出した手には、樹燐にもらった折鶴があった。
 羽の先が折れて草臥れてしまっているが、がさつな彼なりに大事にとっていたようだった。
「それは、あのときの……」
「そう。お前にもらったやつ。これ、もう匂いがしなくなったんだ」
「匂い?」
「ここ、なんか変な匂いするだろ? これにもついてたんだけど、もう消えてしまってるんだ。どうしたらまた匂うようになる?」
「どうして?」
「匂いを嗅ぐと、お前を思い出すんだ。離れているときも、お前がそこにいるような気がする。だからまた匂うようにしてくれないか」
 才戯の気取りも飾りもしない言葉は樹燐の心に沁みた。同時に、胸の奥に痛みを感じた。
 彼も同じように、小さなものに思いを込めてとっておいてくれた。山査子の枝は枯れてしまったけど、大事にしていたことを恥じる必要はなかった。
「……待ってて」
 樹燐は一度室内に戻り、鏡台の上から小さな瓶を持ってきた。瓢箪に似た形の薄いガラスには菱の模様が彫られている。鮮やかな赤と金で装飾されているが透き通っていて、中に液体が入っているのが見えた。蓋の底には長く細い棒が着いていて、その先は液体で湿っていた。
 樹燐は折鶴を指先でつまみ、手につかないように羽の内側を濡れた棒の先で数回、撫でる。
「香水よ。これで、また香るようになるわ」
 才戯は鶴を鼻に近づけ、「本当だ」と呟いてまた懐にしまった。
「ねえ、また来るの?」
「ん、ああ。また来る。じゃあな」
 そう言いながら、才戯はいつも行き来している山査子の木の下に駆けて行った。
 戻るときも同じで、行きたい場所を想像すれば移動できる。消える寸前、才戯は振り返った。
 縁側で見送る樹燐の顔は、やはり少し目が腫れているように見えた。しかし、その一瞬が印象に残ったのは、いつもより「ブス」だからではなかった。
(……笑ってる)
 樹燐は自然と微笑んでいた。


+++++



 早朝、樹燐は実珂が来るまえに起きて、冷たい水で顔を洗っていた。思ったより泣いたあとは残っていなかった。たぶん大丈夫……毎日顔を見ている実珂を誤魔化せるか自信はなかったが、素知らぬふりをしようと考えた。
 だが挨拶より早く、実珂は樹燐を見て目を丸くした。
「どうなさったんですか?」
 もうバレた。そんなに変な顔になっているのだろうかと不安になりつつ、樹燐は恥ずかしそうに俯いた。
「……分かる?」
「分かりますよ。何かあったんですか? まるで泣いたあとのようです」
 実珂の察しのよさに樹燐はぎくりと肩を揺らす。
「昨夜、夜中に目が痒くなって、擦ってしまったの」咄嗟に嘘が口をついて出る。「よくないのは分かっているのだけど、寝ぼけていたから、つい、力が入っていたみたいで……」
「そうでしたの」実珂は心配そうに。「今日は念入りに掃除をしておきます。寝具も新調できるよう、蒼雫様にお願いいたしますね」
「ええ……でも、お母さまには言わないでね。この顔、化粧で隠せるかしら」
「そのくらいなら、もう少し時間が経てば引きますよ」
 よかった、と樹燐は胸を撫で下ろした。


 その日、実珂は早速人を呼んで樹燐の部屋の清掃を始めた。そのあいだ、樹燐は別室で読書することになった。部屋は狭く殺風景だったが、実珂はできるだけ樹燐の傍にいて、いろいろな本や茶菓子を運んでくる。樹燐はいつもと違う部屋で過ごす時間を楽しんでいた。


 室内にはたくさんの本が山積みになっていた。中には詩集や小説もあるのだが、それらには目は通さず、今日の樹燐は絵画に夢中になっていた。
 画集もあれば、一枚絵の束もある。樹燐は大きさも紙の質も違う絵をゆっくり眺めていた。
 壮大な水墨画や色鮮やかな浮世絵が、整頓されてないまま積み重なっている。樹燐はあれも好き、これも好きと思いながら、言葉には出さずに黙々と鑑賞していた。その中から、とくに気に入ったものを抜き出している。一通り見終わったあと、別にしておいたものを改めて手に取った。
 樹燐が心惹かれていたのは、色とりどりの花に囲まれた恋人の絵だった。大人の男女が手を取り合い、見つめ合っている。足は宙に浮き、まるで花の海で泳いでいるようだった。
 隣から実珂が覗き込んでくる。
「綺麗な絵ですね。お好きなんですか?」
「ええ。とても綺麗……」吸い込まれるように見つめ。「ねえ、この二人は夫婦なのかしら」
「そう見えますね。でも、恋人同士なのかもしれません」
「どう違うの?」
「夫婦は家族です。愛し合ってはいますが、その愛情は親や子にも注がれ、二人だけのものではなくなります。恋人は、ただただ相手だけを一途に想い、寝ても覚めても愛する人のことで頭がいっぱいになるのです」
 それはときに危険で、相手も自分自身も、周りの人さえ傷つけても貫きたいと思うほど情熱的で、盲目に燃え上がることもあると実珂は続けた。
「それは間違っているの?」
「いいえ。必ずそうなるわけではありませんから。その危うい愛を温めて育んで、確かな信念の末に周囲に認められれば二人は夫婦になります。もしも、その愛情に歪みが生じてしまったら、二人は離別し、傷だけが残るのです」
「その傷はいつ、どうやって癒えるの?」
「残念ながら、癒えることはありません。だけど傷を負っても、それを糧にしてもっといい人と出会えば、また新しい道を進むことができるんです」
 樹燐は再び絵に見入る。このとき、樹燐は絵の女性に自分を重ね合わせ、男性のほうには才戯の姿がはっきりと描かれていた。
 しかしいろいろ想像してみても、母が彼を認めてくれる未来は見えなかった。
「……私も、そんな相手と出会うの?」
「もちろん。鬼子母神は愛情深い一族です。樹燐様はいつか素晴らしい男性と恋をして、妻となり、母となるのです」
「それも、お母様が与えてくださるの?」
「いいえ。それは樹燐様自身が選択なさるのですよ」
「どうやって私に相応しいって分かるの? 間違えてしまったらお母様に怒られないかしら」
「恋心は自然と生まれるものなのです。樹燐様が美しい女性であればあるほど、それと同じくらい素敵な男性と出会うことができます。だから今は蒼雫様を信じてご自分を磨かれて、いつかくるその日に備えていればよいのですよ」
 同じような話を、母から聞いたことがある。そのときは理解できなかった。今も、まだ具体的には自分の未来を想像できない。
「ねえ、実珂……もし、今の私が出会うとしたら、それは間違っているのかしら」
「え?」
「今の私はまだ子供で未熟だわ。だから、今誰かを好きになってしまっても、選ぶことは許されないの?」
 実珂には樹燐の問いの真意が分からなかった。しかし、まだ幼く、外の世界を知らないとはいえ、樹燐も女。恋愛に興味を抱くのは当然だと思う。
「そんな心配はなさらないで大丈夫ですよ。間違えて傷を負わないように、蒼雫様が大事にお守りされているのですから」
 樹燐は実珂の答えに満足できなかったが、これ以上は訊けなかった。




・・・  ・・・  ・・・  ・・・




Copyright(c) RoicoeuR. All rights reserved.