07




 昼間でもぼんやり光る竹林の中を歩いていると、目が眩み、足がふらついてくる。
 急な坂を転がり落ち、体中を殴打した才戯だったが、休みたいというより早くここから出たいという気持ちのほうが大きくなっていた。
 やっと竹林の外に出た。空は高く、何もない草原が広がっており、今まで呼吸するのを忘れていたような錯覚に陥る。才戯は深呼吸し、何もない風景にほっとするが、竹林を出ることが目的ではないことを思い出す。見回してみても、何もない。目を凝らすと地平線の先に竹ではない木々が見える。さらにその先に大きな城があるのが分かった。どうやら不自然な靄に包まれているようで、遠くからだと注視しなければ気づくことができない。
 才戯は、できれば人のいそうなそこに真っ直ぐ向かいたかった。しかし草原はあまりに何の目印もない。体は痛いし、疲れで頭もぼんやりしている。草原の向う側に辿り着けないような不安に包まれた。仕方なく、竹林に沿って歩くことにした。

 城に近づくにつれ、甘い香りが強くなってくる。次第に、それが花や草などの自然なものではないことが分かる。香に興味のない才戯でも、複数の香料を調合したものだということくらいは感じ取れた。
 才戯はそろそろ「寂しい」と思い始めた。家族と離れ、自分がどこにいるのかも分からないし、体は怪我だらけの状況では無理もなかった。
 立ち止まったらもう歩けなくなる気がして、才戯は前だけ向いて進み続けた。

 影が少し伸びた頃、やっと小さな森が見えた。才戯はやっと助かると疑わずに歩を早めた。
 茂った木々も、山と同じように紅葉を始めている。いろんな木々が植えてあり、中でも真っ赤な山査子の実が今の季節を教えてくれるような風情があった。
 明らかに人工の庭だと分かる森に、才戯は潜り込んだ。
 人の気配がある。駆け出したい衝動を抑え、才戯は足音を忍ばせて箱庭をそっと覗いた。

「――違うの。私がお願いしたの」
 開放された縁側で、樹燐と実珂が口論していた。
 蒼雫が娘を置いて紅葉を見に行ったことに、実珂が不満を漏らし、それを聞いた樹燐が母を庇っているところだった。
「お母様には私が行って来てって言ったのよ」
「それは蒼雫様が行きたがっていたからでしょう?」実珂はため息をついて。「紅葉がどんなに美しいか、陶芸品がどんなに素晴らしいか、いつもこの時期になると語り出されるから……」
 樹燐の手には折りかけの鶴の折り紙があった。足元にもいくつか転がっている。
「そうよ。だから行って来てって言ったの。お土産もおねだりしてるのよ。絶対に素敵な器を私にくださるわ」
「だったら、樹燐様もご一緒に連れて行かれたらいいじゃありませんか」
「いいの。私は山道を歩くのに慣れてないから、きっとすぐに疲れてしまうわ」樹燐は折鶴を膝元に置き、外を見つめた。「それに、この庭もきれいに紅葉してる。お母様が私のために造ってくださったの。これで満足してるもの」
 実珂は健気な樹燐に胸を打たれ、涙ぐんだ。そんな彼女を安心させるように、樹燐は優しく微笑む。
「だからお母様を悪く思わないで。私が大きくなったらお母様は私にもっとたくさんのものを与えてくださるって、信じてるから。今はこれでいいの」
「……分かりました」
 実珂は無理に笑い、震える唇を隠すように腰を上げた。
「そうだ、蒼雫様がとてもおいしいお菓子をご用意してくださってるそうです。今、お持ちしますね」
「ええ。ありがとう」
「いい茶葉もあるんですよ。一番おいしいところを淹れてきますからね」
 そそくさと部屋を出る実珂の背中を樹燐は見送り、再び庭に目線を投げた。
 山へ連れていってもらえなかったことへの不満がないのは、本当だった。ここから自由に外出できないことも、ほかの人に会わせてもらえないことも、自分がまだそれが許されるに値しない未熟な子供だからなのだと、信じて疑っていなかったから。

 樹燐はそよぐ風に当たろうと庭に降りる。庭には灯篭や池があり、毎朝実珂が松葉箒で砂利にきれいな模様を描く。樹燐にとっては十分に立派なもので、それ以上を欲しいとは思わなかった。
 砂利を踏む音に紛れて、木の枝が折れる音が聞こえた。山査子の実が実った枝が、ばさりと地面に落ちる。
 この庭には知らぬものが訪れたことはない。たまに鳥が遊びにくることがあるが、樹燐は不自然に感じた。鳥なら、羽音もするからだ。
 樹燐は山査子の木に近づく。木々の隙間を覗き込むように、顔を傾けながら。
「――――!」
 樹燐は飛び上がりそうなほど驚き、咄嗟に両手で口を押え悲鳴を堪えた。
 そこに見知らぬ少年が潜んで、こちらを見つめていたからだ。
 樹燐は動揺し、おろおろと周囲を見回していた。片足を一歩退き、室内に逃げ込む、逃げ込もうとした。
「ま、待ってくれ……!」
 引き留められ、樹燐は体を大きく揺らした。
「道に迷ったんだ」才戯は青ざめている少女を怖がらせないように、声を潜めた。「親とも逸れたし、もう歩けなくて……」
 樹燐は知らない人に話しかけられたのは初めてで、どうしたらいいか分からない。才戯は返事もしない少女を不思議に思いながら、逃げられないように細心の注意を払った。
 樹燐はひどく怯え、震え出していた。今にも逃げてしまいそうだったが、大きな目を見開いて、才戯を見つめている。次第に彼が自分と同じくらいの、ただの子供であることを理解し、ゆっくりと体の力を抜いた。
「……ひどい怪我」
 恐怖でいっぱいだった目に、同情が浮かび始めた。
「道に、迷ったの?」
 才戯は数回、首を縦に振った。
「じゃあ、あなたは招かれてやってきたお客様ではないのね」
 そう問われ、才戯は気まずそうに、頷いた。
「……だったら、ここにいてはだめ」
「でも、帰り道が分からないんだ」
「ごめんなさい。私は助けてあげられない。早くここから立ち去って」
「な、なんだよ……」
 薄情者、と罵ろうとしたとき、部屋の奥から実珂の声が聞こえた。
「樹燐様、もう少しお待ちくださいね」
「え、ええ」樹燐は縁側に戻り。「慌てなくていいからね、実珂」
 そう返事をしながら、下履きのまま膝を着いて床を這い、折鶴を一つ掴む。実珂の気配を探りながら、すぐに才戯の近くに戻った。
「早く行って。見つかったら大変なことになる」
「そ、そんなこと言われても……」
「ここへは二度と来てはだめ」
「いや、だからさ……」
「無事ではいられないかもしれないのよ」
 才戯の話など聞こうともせず、樹燐は折鶴の腹を口に当て息を吹き込んだ。
 すると、命を吹き込まれた鶴はふわりと光り、風船のように膨らんで巨大化していく。
「これが山まで連れていってくれるわ」
 樹燐が大きな鶴を差し出すと、鶴は茂みを透過し、才戯を背に乗せて尖った羽を上下に揺らした。
「竹林の向うの山の頂上までなら持つと思う。そこなら人がたくさんいるはずよ。そこで助けを求めて」
 鶴は本物の鳥のように、木々を掻き分けて空に昇っていく。
「灯華仙を出たら術が切れて落ちてしまうから。着地には気をつけて……」
「お、おい……」
 あっと言う間の出来事で、才戯は鶴の背にしがみついたまま、遠ざかっていく樹燐を目で追った。
 樹燐は背を向け、茶菓子を運んできた実珂に返事をしていた。
 戻る直前に、足元に落ちていた山査子の枝を拾い、ふっと空を仰ぐ。
 そしてすぐに室内に姿を消した。


+++++



 折鶴は竹林を出ると高度を落とし、木々や岩を避けながら地面に沿って山を登った。じっと折鶴に身を任せていた才戯は遠くに人の声を感じた。だんだん近づいてくる。
「……才戯様!」
 那智だ。まるで悲鳴のような声で何度も自分の名前を呼んでいた。さすがの才戯も罪悪感を抱いたとき、鶴ががくりと傾き、地面に腹を擦る。それとほとんど同時に術が解け、小さな折鶴に戻った。才戯はまた地面に転がり、腰をさする。
 再び那智の声が響いた。やっと帰れる。才戯は痛みを忘れ、安堵した。折鶴を掴んで懐にしまい、声のする方にゆっくり歩いた。

「才戯様……!」
 そこは山の頂上の建物の裏で、才戯が落ちたところより少しずれた位置だった。
 ぼろぼろで疲れ切った才戯の姿を見つけ、半狂乱だった那智が泣きながら彼に走り寄った。傍に両親もおり、足元が泥で汚れている。「いたぞ」という誰かの掛け声で、周囲には一緒に探してくれていた人々が十数人ほど集まってきた。
「才戯様……よかった、よかった」那智は泣きながら才戯に抱き着く。「体は大丈夫ですか? いったい何があったんですか?」
「う、うん……」才戯はバツが悪そうに口ごもる。「大丈夫だよ」
「もう……どうしてあなたは少しでも大人しくしていられないのですか……!」
 とにかく怪我の治療をし、体を休めることが先だと、父が才戯を背負い、一同は帰路に着いた。

 四人はぐったりと疲れた顔で家に帰りついた。
 そこまでずっと寝ていた才戯はすぐに目覚め、怪我の治療より先に食事にがっついた。その様子で、肉体的にも精神的にもとくに大きな問題はなさそうだと、那智と両親は安心した。
 だがそのあと、才戯は三人からこれでもかというほど叱られ続けた。改めて座敷に正座させられ、永霞に長々と説教を食らう。
「才戯、一体あんな危ないところで何をしていたのだ」
 鬼の形相で睨みつける永霞の頬に、かすり傷があった。これは才戯を探していてできたものではなく、蒼雫に引っかかれた傷跡だった。先に蒼雫に蹴りを入れて口火を切ったのは永霞のほうだったのだが。
 永霞はただでさえ嫌いな蒼雫と顔を合わせたうえに、彼女の目の前で息子が行方不明になるという大失態を犯してしまった。才戯が無事だと分かった途端に苛立ちが募っていく。
「……退屈だったから、ちょっと遊んでただけだよ」
 才戯の隣に、一緒に正座していた那智が、俯く彼の顔を覗き込んだ。
「だったら、どうして私に声をかけてくださらなかったんですか」
「近くにいたから、気づいてると思ったんだ。それに、ただ建物の裏道を歩いてただけで、別にイタズラしてたわけじゃない」
「そうだとしても」永霞は声を荒げた。「取り返しのつかぬことになったらどうするのだ。お前はまだ子供。遊ぶのは結構だが、一人で行動するのは慎みなさい。そのために那智を傍に置いているのだぞ」
「そうですよ」那智は才戯に体を向け。「才戯様は私を信頼していらっしゃらないのですか?」
「そ、そうじゃない。本当に、すぐ戻るつもりだったし」
「私は、万が一のことが才戯様にあったら……責任をとってあなたの後を追うつもりなのです。それほどあなたを大事に思っております。でも、才戯様が私を必要としていらっしゃないのなら……」
「違うって!」才戯はたまらず大声を上げた。「何もなかったんだからもういいだろ」
 那智も負けじと大きな声を出す。
「よくありません。何かあってからでは遅いんです」
「うるさいな! 大体、お前がいつもぼけっとしてるのが悪いんだろ」
 才戯に人差し指を突き付けられ、那智は唇を噛んだ。
「今日だって、俺は道を外れたあと、振り返ったんだぞ。なのに、お前はいなかったじゃないか。何やってたんだよ、この間抜け!」
「才戯!」
 永霞に怒鳴られ、才戯は我に返った。目の前の那智は顔を真っ赤にして膝の上に置いた拳を震わせていた。
 言い過ぎた。
 そう思うが、素直になれない才戯は顔を背け、正座を崩して胡坐をかく。
「……永霞様」那智は永霞に向かい直す。「才戯様の仰るとおりです」
 両手を前につき、深く頭を下げた。
「私の力不足で才戯様を危険な目に合わせてしまいました。申し訳ございません。心から謝罪いたします」
 いつになく真剣な那智に、才戯は冷や汗を流す。永霞も不穏な空気に眉を寄せた。
「才戯様に怪我をさせたのは、今回が初めてではありません……もしかしたら、私は、才戯様をお守りするに値しない者なのかもしれません。だから、どうか、これを機に、賢明なご判断を……」
 永霞は彼の言葉を遮る。
「那智、頭を上げなさい。才戯の性格は私たちもよく知っておる。そう自分を責めるでない」
 那智が何を言おうとしているのか、永霞にはすぐ分かった。自分を才戯の付き人から降ろして欲しいということ。だが本音ではない、はず、と永霞は彼を引き留めた。
「才戯」永霞は目を吊り上げ、才戯を睨んだ。「謝りなさい」
「はあ? 誰にだよ!」
「那智に決まっているだろう」
 那智は頭を下げたまま、肩を揺らした。
「なんでだよ」
「言い過ぎだ。今日の事故は、確かに那智にも手落ちはあったかもしれぬが、どちらかというとお前が悪い。謝りなさい」
「嫌だ!」
「結構です!」
 反発する才戯の隣で、那智が土下座のまま声を張り上げた。
「もう、結構です」ゆっくりと、顔を上げ。「これ以上みなさんにご迷惑をかけられません。いただいたこの役目、私には重すぎました……辞退、させていただきます」
「……え?」
 那智の発言に才戯は目を丸くした。才戯には彼の覚悟などまったく伝わっていなかったのだった。
「那智。落ち着きなさい」
 永霞が宥めるが、那智はもう一度頭を下げ、立ち上がった。
「お世話になりました」
 暗い顔で退室する那智の背中を、二人は黙って見送った。永霞は長い息を吐きだし、才戯は茫然としている。
 那智もまだ大人とは言えない年の子。責任感からではなく、才戯へ怒りの感情を抱き、止められなくなったのだろうと永霞は思う。
(……まあ、たまにはこういうことがあってもいいだろう。様子を見るか)
 永霞はあまり深刻には捉えなかった。当の才戯は予想以上に衝撃を受けているようで、言葉を失っている。
「な……なんだよ!」
 戸惑いを処理できず、才戯はあてもなく駆け出し、部屋を出てどこかへ走り去って行った。
 そのとき、彼の懐に入ったままだった折鶴についていた香りが僅かに室内に零れ、永霞の鼻につく。
「……これは灯華仙の香? なぜこんなところに?」
 永霞は舌打ちし、ほこりを払うように自分の袖や裾を叩いた。
「私の服に着いていたのか? クソ、忌々しい!」
 今日の散々な一日を思い出し、永霞は上着を脱ぎ捨てた。




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