千獄の宵に宴を



  第十六場 千年の夜 


1


 麻倉家の広大な敷地の外は気味が悪いほど静かだった。
 中で起こっていることのすべてを、分厚く貼られた結界で音も気配も遮断されている。時は深夜。人通りは少なく、いつも順番に立っている門番がいないことに誰も気づくことはないまま、そのときを迎えようとしていた。

 屋敷の北側の一部が大きな音と埃を上げて崩れ落ちた。瓦礫となったそこから一羽の黒い鳥が飛び出す。翼を広げた虚空である。虚空は体のあちこちに傷を受けており、羽と血を散らしながら瓦礫の上に舞い降りた。
 立ち込める埃が収まると、そこには鋼の羽に塗れた赤坐が立っていた。赤坐は虚空以上に傷を負っているのだが、冷静に羽を払い落としていく。
 もう自分の体の変化には驚くことをやめていた。どうしてこんなに傷を受けても立っていられるのか、どうしてこんなに速く動けるのか、どうして、こんなに重い刀を体の一部のように自由に振れるのか。
 このおかしな力がなければ、自分は虚空の羽の一振りで死んでいた。正体不明の現象の理由を探っている余裕はない。しかし、一つだけはっきりさせておきたいことがあった。
「おい」僅かながら、赤坐の瞳が赤く光った。「俺たちが戦う理由は、なんだ」
 赤坐は真剣そのものだったのだが、虚空は初歩的な質問に苛立ちを感じる。兜の影がかかる鋭い目に怒りを灯した。
「貴様が俺の邪魔をするからだろう。面倒な奴だな、お前は。早く俺に殺されるか、もしくはさっさと記憶を取り戻せ」
「記憶……?」
 何のことだろう。赤坐には記憶を失った覚えはない。先ほど虚空は自分を「サイギ」と呼んでいた。その名前にも心当たりはない。
「だからさ、面倒なのはお前だっての。知ってることを教えてくれって言ってるだろう? なんではっきり言わないんだよ」
 虚空は答えず、広げた羽の先を揃えた。次第に、黒いそれは刃物のように尖っていく。赤坐は足を一歩引いた。
 それ以上は待たず、虚空は体を捻って赤坐に向かってきた。刃と化した翼が上下左右から飛んでくる。赤坐は慌てて踏ん張ってすべてを牙落刀で受け返す。反撃する余裕はない。
 一つ一つの羽なら多少硬くても避ければ凌げるが、大きな刃と化した二つの翼となるとそうはいかない。飛行も可能な二刀流の敵と戦うのと同じようなものである。赤坐は休む間も与えられずに追い詰められていく。辛うじて致命傷は避けられているものの、体のあちこちに無数の傷が増えていく。
 才戯の足元にも及んでいない赤坐に、虚空は舞いながら薄笑いを浮かべた。このまま体力を削り続ければすぐに赤坐は倒れるだろう。
 彼が才戯の生まれ変わりであることに間違いはなかった。牙落刀を使いこなせることが何よりの証拠でもあったのだが、それ以外にも事実を見せているものがあった。懐に忍ばせている金色の眼球である。心眼の力の宿ったそれが過去の因縁を見えない糸で繋いでいた。虚空にとって才戯は疎ましい存在だった。だが死んだと思っていた彼は生きていた。ならば、と思う。この手で殺してしまえばいいだけのこと。
 瓦礫の上では足元も安定せず、赤坐は虚空の動きを見るだけで精一杯だった。手ごたえからして、虚空の羽は刀の切っ先や物打と直接ぶつかることを避けているようだ。赤坐は、それが彼の鋼の羽より牙落刀の方が硬いということを示唆しているのだと思った。
 しかし赤坐が分かるのはそこまでだった。俊敏な上に夜の闇に紛れた黒い羽は捕え難い。これなら室内に戻ったほうがまだマシである。この場は離れよう。両手に力を入れ、双翼の中心に向かって刀を振り下ろす。虚空は瞬時に身を翻して赤坐と距離を取った。
 この隙に、と赤坐は思うが、すぐに追ってくるはずの虚空が目を見開いて静止していた。自分を見て驚いている? 違う。虚空の目線は赤坐を通り過ぎ、その背後に向いていた。
 彼の目線の先に何があるのか。赤坐は肩越しに振り向く。
 破壊された家屋と繋がる渡り廊下の柱の横に人影があった。それは赤坐と虚空以上に驚愕した表情を浮かべてじっとこちらを凝視している。見てはいけないものを見てしまった。逃げたくても逃げられない。胸の中を掻き毟られるような思いに苛まれている彼は、汰貴だった。
「あ……赤坐?」
 汰貴は、会いたいと心から願った彼がここにいたことを当然喜んだ。しかし、赤坐が赤坐に見えず、足が震えた。同じ人間として長年一緒に暮らした彼が奇妙な刀を手にして、明らかに人外であるカラスの妖怪と張り合っている。赤坐は斬太に襲われたときも信じられない動きを見せた。もしかしてと思うことがあったが、もう疑う余地はなかった。
 赤坐は、普通の人間ではない、と。
 汰貴の無事な姿を見て赤坐は安堵を得たが、不安は消えない。やはり彼がこの危険な場所に来ていたこと、今何を見て驚いているのかということが分かったからだ。もしも虚空が汰貴を狙ったとしたら守りきれる自信もなかった。
 逃げろ、と大声を出そうとしたとき、虚空が呟いた。
「……あれは、暗簾?」
 また知らない言葉が出てきたと思うと同時、赤坐は嫌な予感に襲われた。汰貴には何の変化も感じられないのだが、彼を見た虚空の様子が明らかにおかしい。何かがある。赤坐は緊張を高めた。
「違う……同じ姿、同じ魂を持った、別の人間……?」
 虚空は胸元に隠し持っている金の瞳で汰貴の心を探った。そして、ふっと口の端を上げる。
「そうか……」
 地味に高揚する虚空の様子に、赤坐は眉を顰めた。まずい。直感的に赤坐は汰貴に向かって駆け出した。
「そうか。貴様が……『鍵』か!」
 ほとんど同時、虚空も彼に向かって直進した。二人が自分に向かってくるのは見えるが、汰貴はすぐに動けなかった。青ざめる顔に大量の汗が流れ出す。
「汰貴! 逃げろ」
 赤坐が体を捻って虚空の行き先を遮るが、虚空は素早く軌道を変えて躱す。しまった、と思うより早く、赤坐は咄嗟に汰貴の隠れる柱に向かって牙落刀を投げつけた。
「!」
 虚空の爪先が汰貴に届く寸前、二人の間の柱に牙落刀が突き刺さる。虚空は手を引き、そのまま柱と刃に足をかけて飛び上がった。その間に赤坐が汰貴に駆け寄り、柱の影で腰を抜かして座り込む彼に声をかける。
「汰貴、大丈夫か」
 汰貴は震えてうまく言葉がでなかった。胸を押さえながら必死で冷静を取り戻そうとしる。
「赤坐……」何度も息を飲み込みながら。「どうして……」
 会えたら言いたいことがたくさんあったのに、何から言えばいいのか分からない。赤坐には汰貴の気持ちが分かる。助かる保障はなかったが、とにかく落ち着いてもらおうと冷静に考えた。
「汰貴。簡単に説明する。俺は、あのカラスの妖怪と戦ってる。理由は分からない。斬太に変な刀をもらってから、俺の体はおかしくなってしまったんだ。もしかすると、このまま俺は、俺じゃなくなってしまうかもしれない」
「……え? どういうことだ」
「少し前から俺は俺の体の中に何かがいることに気づいていた。それが中で大きくなっていっている。どうしてか、俺も何も分からないんだ」
 今のところ赤坐がまともであることは確かだと、汰貴は気を強く持った。
「な、何かがって……お前は、人間じゃないのか」
「分からない。だけど、もう認めるしかないんだよ。俺が俺じゃなくなったときは……俺は人間ではいられないんだと思う」
 赤坐は斬太の言葉を思い出す。
『その力を使えば、お前はいなくなる。仮に汰貴が救われたとしても、お前は一緒にはいられない。地獄に堕ちるか、この世で修行を続けるか、どちらかを選べ』
 その意味が、だんだん分かり始めていた。このままでは虚空には勝てない。虚空を倒すため、虚空から汰貴を守るためには内側に眠る未知の力に頼らなければいけないのだろう。だけど、それを選んだときには、自分は自分ではいられなくなる。
 赤坐は迷っていた。汰貴のことを、今までの二人の思い出を忘れてしまう。それで助かったとして、後はどうなるのだろう。都合よくなくしたものを取り戻せるとは思えない。一番大事なものを失ったとき、そこに戦う意味などあるのだろうか。
 神妙な表情で目を伏せる赤坐に、汰貴は不安を抱いた。
「赤坐?」
 汰貴に肩を掴まれ、赤坐は我に返った。そうだ、ここで悩んでいる暇はない。赤坐は立ち上がって柱に刺さった刀を引き抜いた。辺りを見回す。虚空の姿がなかった。
「汰貴。どこかに隠れ……」
 振り返り、腰が抜けたままの汰貴の腕を引こうとした瞬間、赤坐の顔が引きつった。
 汰貴の背後に、黒い影があった。反射的に刀を振り上げたが、間に合わなかった。
「…………!」
 赤坐と虚空の間に血飛沫が舞った。
 虚空の翼が弧を描き、その切っ先に背中を斬られた汰貴は何が起こったのかすぐには理解できず、その場に倒れた。
「……貴様」赤坐は全身に雷が落ちたような感覚に襲われた。「何をした!」
 頭に血の上った赤坐は形振り構わずに虚空に斬りかかる。虚空は顔色一つ変えずにそれを躱していく。
 当たらない。これではダメだ。呼吸を乱す赤坐は一度、両腕の力を抜いた。一瞬の出来事で途端に平静を欠いた彼の様子に、虚空が微笑を浮かべる。人間とは単純で愚かだと心底思いながら。
「……か、ざ」
 足元から僅かに聞こえた汰貴の声に、赤坐は顔を上げた。血塗れで立つ力もない汰貴が、必死で手を伸ばしている。赤坐は彼の隣に膝を折り、返事の代わりに汰貴の弱々しい手を掴んだ。
「……赤坐」汰貴の目は虚ろだった。「俺、弟に会った」
 そう言った途端に、涙が出てきた。汰貴の記憶には智示の深い憎悪を宿した瞳しかなかった。それが、怖くて仕方がなかった。この悲しみを赤坐に聞いて欲しくて、そして、彼の優しさと強さで掻き消して欲しかった。
 だけど、やっと会えた赤坐は、どこか遠くへ行こうとしている。
「俺は……やっぱりお前しかいないよ。一人じゃ無理だよ……お前だけは、嫌わないでくれ。一緒にいられなくてもいいから、お前だけは、俺の家族だって……思うくらいは、させてくれよな」
 赤坐はやり切れず、奥歯を噛み締めた。本心とは逆だった自分の言葉が汰貴の心を深く傷つけている。全部嘘だったのだ。もしも汰貴の行き場所がないのなら喜んで受け入れるつもりだった。その答えが出た。もう何も迷わずに、汰貴を「弟」として守っていいのだ。
 しかし、赤坐は素直に喜ぶことができなかった。
 汰貴を守るためには、力が必要だった。手に入れる手段はただひとつ。赤坐という自分自身を殺してしまうこと。
 赤坐ははっきりと認めた。汰貴への情が、邪魔であると。
 それが正しいのかどうかは分からない。きっと汰貴に尋ねれば、彼は守ってくれなくてもいいから、力なんかいらないから、このままでいて欲しいと言うだろう。
 だから赤坐は、潰してしまいそうなほど強く握った汰貴の手を、断りなく、離した。
 汰貴の弱々しい腕が床に落ちる。汰貴は大きく息を吸い込んで、力を振り絞って体を起こした。
「……あ、赤坐」
 黙って背を向ける赤坐には、目に見えない重いものが圧し掛かっているように見えた。汰貴の困惑は別のものへと変化した。
「な、何をするつもりだ」
 赤坐は虚空と向き合い、刀を構える。目を閉じて精神統一し、ゆっくりと瞼を持ち上げた。まだだ。まだ迷いがある。近くに傷ついた汰貴がいるせいかもしれない。ここを離れようか。そうするならば、虚空の標的を自分に向ける必要もある。
 それだけでは今までと変わらない。赤坐は考えた。どうすれば汰貴への未練を断ち切ることができるだろう。何か思い残したことがあっただろうか――そうだ、確か。
 赤坐は何かを思い出し、汰貴を振り返った。思っていたよりも穏やかだった赤坐の表情が、汰貴は余計に怖く感じた。
「汰貴」
 いつもの、いつも気楽にその日暮らしをしていたときの彼の笑顔だった。
「お前が足手纏いだって言ったこと」
「……え、何?」
「あれ、嘘だから」
 そうだ、これだけは伝えておきたかったのだ。そして伝えることができた。赤坐は満足する。
もう、どうなってもいい。
 赤坐はすべての感情を遮断し、「鬼」の道へ足を踏み入れた。