千獄の宵に宴を



  第十六場 千年の夜 


4


 斬太はあの時と同じように丸腰のまま虚空の胸元に飛び込んだ。虚空も同じように彼を翼で包み込み、高速で回転する。羽が辺りに舞い散り、意気消沈していた赤坐に降りかかる。彼は牙落刀の柄を持ったまま、呆然と二人を見つめていた。
 虚空は、やはり学習能力のないバカだと斬太を嘲笑っていた。しかし、斬太を侮った虚空への報復は大きな痛手となる。
 あの時と同じように、黒い羽に混じって血が飛んだ。あの時と違うことは、その血が虚空のものだということだった。虚空は心臓を握り潰されるような衝撃に襲われ、血を吐きながら回転を止める。翼の力が抜けると、そこから羽に塗れた斬太が飛び出してきた。鋼の羽は斬太に突き刺さっているものの、彼は大した痛みを感じていなかった。
 対し、虚空は至近距離で心臓を攻撃されて呼吸を乱している。内側に叩き込まれた斬太の妖力がまだ彼の中で力を余し、離れた後も何度か押し出されるように血を吐き出していた。
 油断していたのは確か。それでも、虚空は斬太の変わりように驚かざるを得なかった。鋼の羽をものともしない強靭な肉体、体の内側に妖力を流し込むという特殊な妖術。何よりも、その妖力の甚大さ。彼に暗簾や才戯ほどの鬱陶しさを感じたことを、虚空は認めるしかなかった。
 手を抜いていい相手ではない。虚空は内側に残る斬太の妖力を自分のそれで鎮める。次第に痛みは去り、口元の血を拭って気持ちを切り替えた。
「どうやら……もうただのネズミではないようだな」
「へえ」斬太は刺さった羽を払いながら。「高等妖怪の虚空様にそう言ってもらえるのは光栄だね」
 斬太には虚空を上回る余裕さえ感じる。
 傍観していた赤坐も斬太の強さに見入っていた。以前に襲われたときとは比べ物にならない恐ろしさがある。あの瞳にどんな力があるのかは知らないが、左目が戻ってからの彼の変化は、人間である赤坐にも分かるほどのものだった。
 憎くて憎くて仕方がなかった虚空を圧すという快感は、斬太にとって至福の瞬間だった。彼を殺すことだけが目的ではないのだが、虚空の苦しむ姿を、悔しがる顔を見たい。その欲求は止まらない。剥き出す牙の隙間から舌を覗かせ、両手を組んでその中に妖気を溜め込んだ。




 惣理の塔の鏡の前で、依毘士と鎖真、そして樹燐も、久遠と同じように靄の中に映る斬太の姿を見ていた。
 斬太の強さ、その変化は、誰が見ても異常である。どれだけ鍛えても元に土台がない妖怪がここまでの飛躍はあり得なかった。
 なんとなく怪しいと思っていた鎖真に、依毘士は静かに目を向けた。鎖真は素知らぬ顔で目を逸らす。
「……数年前」依毘士は鎖真から目を離さずに。「宮廷の倉から鍛錬酒がひとつなくなったらしいが、鎖真、心当たりはないか?」
 鎖真は目線を上げて首を傾げる。
「さあ。どこかの酔っ払いが間違えて飲んだんじゃねえの?」
 あれは間違えて飲めるものではない。鎖真の誤魔化し方は不自然以外の何でもなかった。
 正直なところ、鎖真は斬太と会ったときの後半は、深酔いして細かいことを覚えていなかった。後日、何か余計なことを喋ってないか不安になったが、斬太という小さな妖怪がどれだけ重要な情報を持ったとしても問題はないだろうと気にしていなかった。
 じっと鎖真から目線を外さない依毘士の威圧に耐えられなくなり、鎖真は彼の肩を強く押す。
「数年前のちょっとしたことになんでお前が目くじら立ててるんだよ。皇凰には関係ないことだろ? それに酒蔵の番は俺たちの仕事じゃない。どうでもいいじゃないか」
「あれは天界の宝の一種」依毘士は鎖真から鏡に顔を向け直し。「もしも悪に利用されることがあれば、私は容赦しない。それが、例え友であったとしてもな」
「…………」
 今度は鎖真が依毘士を見つめた。彼の言葉の端々に違和感を抱いていたのだ。
 悪に利用されることがあれば、ということは、依毘士は遠まわしに鎖真のしたことを許しているのだと思った。
 そして、一番重要なのは最後の部分である。
 例え「友」であったとしても――依毘士は遠まわしに鎖真を「友」と呼んだ。そう思った。
 依毘士が彼をどう思っているのかは、鎖真自身もよく分からないままだった。聞いても答えるはずがなく、鎖真は依毘士がどうであろうと彼を友だと思うことにしてきた。いくら冷たくされようと、例えいつか切り捨てられたとしても、鎖真は迷うことなく依毘士を信じ続けてきた。
 気にしていないつもりでも、やはり気になっていたことを鎖真は初めて自覚した。
 遠まわしに一言、「友」と言われただけで胸が熱くなっていたのだ。
 鎖真は自然と頬が緩み、先ほどより強く依毘士の肩を叩く。
「いやあ、今日はいい日だ。さすが皇凰様のお祭り。終わったら飲むぞ。朝まで付き合わせるからな」
 鎖真の豪腕で叩かれて痛くない者はいない。依毘士でさえ足元をふらつかせるものである。傾いた背を正しながら依毘士がゆっくり向けた目は、据わりきっていた。
「気安く触るな……殺すぞ」
 依毘士の感情に連動する天竜も頭を擡げ、喉の奥を唸らせて鎖真を威嚇してくる。
 鎖真は途端に青ざめて手を引っ込めた。それが友に言う台詞かと依毘士を疑い、もしかすると自分の思い違いなだけかもしれないと不安になる。やはり彼のことは理解できないと思い、鎖真は項垂れて深いため息をついた。




 斬太は小さな体を利用して虚空の翼をうまく翻弄していた。虚空のように大きな武器はなく、近い距離に入らなければ攻撃できないというのは不利だったのだが、斬太は一回の機会に容赦ない力を彼にぶつけていた。
 既に虚空は目を血走らせ、呼吸を乱している。斬太も無傷ではなかった。体を張って戦っているのである。何度も翼に叩かれ、再び目を抉ろうと狙われた顔や体のあちこちは、避けきれずに受けた傷だらけだった。
 二人はまるで野生の動物のように荒々しく、知性も理性もかなぐり捨てた野蛮な戦いを繰り広げていた。
 虚空にはもう赤坐との戦いで見せた凛々しさはなかった。鋭い翼で華麗に獲物を切り刻むという彼の姿勢は保つことができず、どちらが強いか、いかにして相手を苦しめるかなどの計算の余地など皆無。
 互いに「殺してやる」という単純な思いだけに捕われ、本能のままに敵の肉を傷つけていた。
 斬太は振り下ろされた翼と彼の体の隙間に滑り込み、猛獣並みの爪で足を切り裂く。片膝を付いて崩れる虚空の背中に、斬太は素早く乗って左の翼に両腕を回した。
「……な、何を」
 虚空は慌てて斬太を振りほどこうとするが、背中にしっかりと張り付いている小さな斬太を捕えることができない。
「虚空、お前に抉られた左目の痛み、味合わせてやるよ」
 虚空にはその意味が分かった。それだけはと抵抗する間もなく、斬太は虚空の翼に深く噛み付いた。虚空が悲鳴を上げる。右の翼が暴れ出し、羽先で斬太を傷つけるが、彼は更に力を入れて翼の一部を噛み千切った。
 とうとう虚空が地に伏せる。それでも斬太はまだ足りないと、血塗れで小刻みに震える翼を両腕で捻り上げた。ミシ、と嫌な音がする。虚空は目を見開いて、今までにない無残な声を上げた。
 斬太が歯を食いしばって翼を在らぬ方向に捻じ曲げると、虚空の背中から鮮血が吹き出す。それを浴びながら、斬太はとうとう翼を彼の体からもぎ取った。
 斬太は翼を両手に抱えたまま立ち上がり、空に向かって咆哮しながら、黒い羽を散らして翼をバラバラに引き千切った。
「……う、うう」
 自分の羽に塗れながら、虚空は悲痛な呻きを漏らした。
――悔しい、悔しい。こんな低級妖怪に、ここまで惨めに痛めつけられるなんて。許せない。こんな画にならない無様な自分など、認められない。
 虚空は憎悪を膨らませ、考えた。翼を失った痛手は大きく、伴う痛みでまともには戦えない。斬太を殺す方法は? この場で力を得る方法は? あるはずのないそれを、冷静に探った。
――そうだ。
 虚空の中に小さな火が灯った。
「あれ」を手に入れればいい。不死の肉体を。そうすれば受けた傷も塞がり、誇りである翼も取り戻せる。
 この閉鎖された空間で斬太を超える手段はそれだけだった。それだけでもあるのならば、虚空にとっては希望だった。虚空は、勝利を確信して気を緩めた斬太の隙を狙った。

 凄まじい戦いにすっかり意識を奪われていた赤坐は、斬太の足元で目を光らせる虚空の様子に眉を寄せる。まだ何かを企んでいる。違う、悠長に休んでいる場合ではないことを思い出す。
 汰貴は? 虚空に酷い傷を負わされていたのだ。斬太が虚空を抑えている間に探しておけばよかったと後悔しながら腰を上げた。
 まさか死んでないだろうか。赤坐の鼓動が早まった。そんなに時間は経ってない。どうすればここから脱出できるのかは分からないが、とにかく状態を知りたかった。
 赤坐は駆け出す寸前、虚空の残った羽が揺れたことを感じ取った。
「斬太!」
 反射的に大きな声を出したが、それより速く、虚空は低く飛んで斬太から離れた。
 片方の翼ではうまく飛べない。虚空は地面に沿うようにして汰貴と智示の気配を探した。
 まだ闘志が上がったままの斬太はすぐに彼の後を追った。虚空に留めを刺し、炎極魂を取り戻す。それですべてが終わる。斬太の心は揺ぎ無かった。
 赤坐はなぜか牙落刀から手を離すことができず、もう役に立たないそれを持ったまま後を追った。

 汰貴と智示は廊下を越えて中庭の灯篭の影に隠れていた。外に出られない以上、どこに行っても同じだと思った。それに、汰貴の血は止まらない。背中を斜めに横断する深い傷では応急処置の手段もない。周りは死体だらけで不衛生で、汰貴の顔色も紫に近いほど血の気が引いていた。
 このまま見殺しにするしかできないのか。今まで無心で培ってきた知識など何一つ役に立ちはしないと、智示は自分自身に腹を立てていた。それだけではなく内側に眠る奇妙な力もまた、ここでは使い道がない。救う手段はないのか。目の前で弱っていく兄を見ているだけしかできないことが悲しくて、ずっと身につけてきた十字架を掴んで神に祈った。

 しかし、その祈りが神に届くことはなかった。近寄ってくる恐ろしい殺気を感じて智示は顔を上げた。朦朧としていた汰貴も同じものを感じ、目を開ける。
「……と、智示」汰貴は弱い声で弟の名を呼んだ。「逃げろ」
 汰貴は自分の死期を受け入れていた。もう助からないのだから、せめて智示だけでも逃げて欲しかった。智示にはその気持ちが理解できたが、素直に従うことはできない。
 話したいことも、何もなかった。それでも見捨てることだけはできなかったのだ。
「兄上」汰貴の冷たい手を握り。「死ぬときくらいは、お供させてください」
「…………」
 汰貴は微笑んだ。瞼を落とし、最後の時を待つ。

 中庭の近くで火花が散った。汰貴たちを追う虚空と斬太がぶつかり合ったのだ。その衝撃は二人にも届き、恐怖が走った。
 智示は少しでも汰貴を庇いたいと立ち上がる。背を向ける彼に、汰貴は行くなといいたかったが声が出なかった。苦痛のためでもあったが、智示に起こった奇妙な現象に言葉を失ったのだった。
 智示の長い髪が、まるでヘビのように蠢いたのだ。神経の通っていない人間の頭髪は、いくら力を入れてもそんな動きはしない。だけど、汰貴はもう驚かなかった。
 そうか、彼も……と、そう、穏やかに受け入れた。受け入れながら、手足に力を入れた。
 智示は自分に狙いを定めてもらうために、自ら灯篭の影から出る。斬太に追われていた虚空は、鋭い目で彼の姿を捕らえた。移動速度だけは斬太を上回る。虚空は彼を振り切り、槍のように智示に突き進んでいった。
 虚空の向かう先に立つ智示に気づき、斬太は焦りを見せた。彼が殺されたら元も子もないのだ。しかし虚空を止める手段がない。
 智示は向かってくる虚空を睨み付け、人間では不可能である俊敏な動きで彼の凶暴な爪を躱した。予想外ではあったが、驚いている暇はない。虚空は智示とは比べ物にならない速さで身を翻し、翼を振り上げて彼の体を切り裂いた。

 斬太も、赤坐も間に合わなかった。息をするのも忘れて、頭の中が真っ白になった。
 虚空の翼の軌道に沿って、致死量の血が流れた。

 虚空の狙いは外れていた。智示ではなく、最後の力を振り絞り、彼の前に飛び出した汰貴が代わりに傷を受けていたのだった。虚空の切っ先は心臓まで届いており、ただでさえ弱っていた汰貴は倒れる前に事切れていた。
 智示は崩れ落ちる汰貴を受け止めながら膝をついた。兄の死体を抱える顔は蒼白し、腕は震えて力が入らない。

 斬太は、彼が死んだことで炎極魂がどうなるのか、まったく予測できず立ち尽くしていた。同時に、罪のない少年がまた目の前で惨殺された事実に心が痛んだ。汰貴には何の義理もなかったが、怯えながらも素直に人の話を聞く純粋な彼に、僅かでも情を抱いていたことは確かだった。昔の自分だったら、友の死に泣き崩れていたのだろうと思う。

 赤坐の悲しみは斬太よりも、智示よりも大きいものだった。汰貴の死は、確認せずとも見れば分かるほど確実なものだった。奇跡など起きない。例え汰貴の中にもおかしな何かがあったとしても、死んでしまったものが生き返ることはあり得ないのだ。
 赤坐は駆けつけることもできずにその場に座り込んで片手で顔を覆った。
 あまりの衝撃に自分の感情を制御できない。叫びたい、暴れたい、自分も死んでしまいたい。もう守るべき汰貴はいない。
 誰か、俺を殺してくれ。
 赤坐は視覚を、聴覚を、体の感覚を失っていった。自分が立っているのか倒れているのかも分からなくなったとき、彼の中の何かが、砕け散った。