千獄の宵に宴を



  第十六場 千年の夜 


6


 今度は南側の家屋が半壊した。屋根が傾き、瓦が崩れ落ちる。
 至近距離で振り下ろされた牙落刀を躱して斬太が体を丸めて飛び上がる。斬太はあまり高くは飛ばずに、押さえつけるように刀を踏みつけにした。才戯は刀を持った右手から体制を崩して膝をつく。肩に力を入れて持ち上げようとするが、斬太の顔が目の前に迫り、光を宿す千里眼を突きつけられて目を眩ませた。
 才戯はそのまま攻撃されると覚悟をしたが、斬太は彼の肩を掴んでじっと心の中を探った。心眼に捕われた才戯は動くことができず、体中に温い水が流し込まれているような不気味な感触に包まれる。
 斬太は才戯から何かを読み取り、彼から離れて走り出した。彼の向かった方向は中庭、暗簾がいる場所である。おそらく、暗簾と交わした会話を読まれたのだと思い、何度か瞬きしながら才戯も庭へ走った。
 もう暗簾は目的の場所へたどり着いているはず。しかし、虚空のことは気がかりだった。一体どこへ――?

 才戯の頭の片隅にあった不安は、最悪の結果で払拭された。
 中庭に戻ると、砕けた灯篭の傍で虚空の翼に串刺しにされた暗簾の姿があった。斬太もそれを目の当たりにして立ち尽くしている。
 虚空は暗簾ごと翼を持ち上げる。暗簾の足が地から離れ、力なく垂れ下がった。彼の腹部から止め処なく流れ出る赤い血が、着物や足を、虚空の羽先を伝って地面に血痕を作り続ける。
「……炎極魂は、その十字架の中か」
 どうりで見えなかったはずだと、虚空は悔しさを噛み締めていた。
「小賢しい真似を……これでもう貴様を生かす理由はないな。死ね」
 心臓を抉ろうと、虚空は片腕を上げる。人間の肉体である暗簾が味わっている苦痛は、妖怪だった頃には受けたことのないものだった。こうしている間にも暗簾に刺さった翼は彼の中の肉をじわじわと潰し続けている。
 暗簾は内に妖力を持ち、それを操ることができるために即死は免れているものの、このままでは、虚空があと少し力を入れるだけで簡単に命を奪われる。
 暗簾の中にある呪文がなければ炎極魂を解放することはできない。虚空にそのことを知らせなければと思うが、暗簾は体に力が入らずに声が出なかった。
 暗簾を助けるというよりも、まだ殺してはいけないと才戯は大声を上げた、上げようとした。それより早く、斬太が虚空に向かって怒鳴った。
「虚空、暗簾を離せ! そいつを殺したら炎極魂は封印されたままだ。解き放つ方法を知っているのは、暗簾だけなんだ!」
 虚空は目を揺らした。斬太の言うことが本当かどうか、確かめる方法はなかった。虚空自身、まとも戦える状態ではない。やっと捕らえたと思った暗簾を離すことで転機を失うかもしれないのだ。
 虚空が迷っている僅か数秒で、暗簾に闇が落ちてきた。

 このまま、死ぬのか。
 暗簾は意識の奥でそう呟いた。
 助かる方法が、一つだけある。手の中にある炎極魂を自分のものにしてしまうことだった。呪文は完全に思い出した。意味の分からない文字をいくつか唱えるだけで、不死の肉体を手に入れることができる。
 声を出そうと腹に力を入れると、熱い血が逆流してくる。唱え終わる僅かな間だけ体が持ってくれればいい。
 呪文を頭の中に思い綴った。

『……暗簾』
 呪文を掻き消すように、誰かが暗簾に語りかけてきた。聞いたことのある声だった。暗簾は耳を澄ました。
『……暗簾。やめるんだ』
 声は二重に重なっている。どうやら二人が同時に喋っているようだ。
(お前たちは……汰貴と、智示か)
 二人は答えなかったが、間違いないと思った。暗簾の中に残っていた二人の思念が何かを訴えようとしている。暗簾は呪文を唱えるのをやめ、この不可解な現象を受け入れた。
『炎極魂は皇凰の魂。神の魂を穢し、強引に手に入れたところで本当に不死身になんかなれるわけがない』
(……どういうことだ)
『炎極魂を支配する方法があるのなら、とっくの昔に誰かがやってる。それができないからこそ天上の神々さえもことの成り行きに従っているんだ』
 声が二つに別れた。
『そして、炎極魂が人の心を掻き乱すだけの代物ならば処分することも可能。だけど神はそれをしない。どういうことか分かるか』
 二人は交互に語り続ける。同じ声のため、暗簾に区別はつかなかった。
『皇凰にも役目があるからだ』
『その役目は千年に一度だけ』
『千年という周期は、目前に迫っている』
『誰も知らないということは、知る必要がないから』
『罪人の魂は、人知れず浄化される』
『俺たちは見た』
『私たちの胸にある、十字架に宿る皇凰の姿を』
『だから、お前に忠告することができる』
 声が遠ざかっていく。暗簾は二人の言葉の意味を必死で考えていた。
(……言いたいことがあるなら、もっと分かりやすく話せよな)
 正直、理解不能だった。ただこれだけは分かる。
(炎極魂を俺のものにしても……いいことはないってことか)
 ならば一体自分たちは今まで何をしてきたのだろうと、虚しさを感じた。
 暗簾は遠くへ意識を飛ばし、己を省みる。才戯や虚空と戦ったこと。天界の使者に追い詰められて怯えたこと。輪廻の輪をこの目で見てきたこと。武流と勝負をしたこと。斬太に脅かされたこと。一人ぼっちになって、それでも諦めなかったこと――再び暗簾として、ここに戻ってきたこと。
 そして今、とうとう最後の時を迎えようとしている。長かったような、短かったような。
(……でも)暗簾は、笑った。(楽しかったな)
 暗簾は今の自分が嫌いではなかった。ここで天の宝を支配して最強になり、弱者を嘲笑いながら脅かすというのは、自分には似合わないと思う。
 できることなら昔のように、どうでもいいことで無駄に血を流したりしていつまでも遊んでいたかった。
 決して自分を善人だとは思わないが、悪役に徹することは性に合わない。
 それは、他の者に任せよう。

「…………!」
 ほとんど意識のなかった暗簾は、突如大きく目を見開いた。
 虚空の翼に串刺しにされたまま、力を振り絞って懐にある十字架の首飾りを掴み、鎖を引き千切った。両手に一つずつを持ち、重ね、虚空の胸に当てる。
「……そんなに、これが欲しいなら」
 暗簾が何をするつもりなのか、誰もが目を見張った。虚空は戸惑うが、やはり彼から翼を引き抜こうとはしない。暗簾は苦痛で顔を歪めながらも必死で口の端を上げる。
「くれてやるよ」
 暗簾の手元が、十字架が強い光を放った。
 斬太は、まさかと、それだけはと震え上がる。
「あ、暗簾! やめろ、やめてくれ!」
 斬太の悲痛な叫びは激しい閃光に掻き消される。誰もがその光をまともに見ることができずに顔を伏せた。
 暗簾も目を閉じて素早く唇を動かす。そこから、炎極魂を解放する呪文が紡がれた。
 光は更に力を増していき、虚空を包んでいった。虚空は一度光の塊になり、人の形を失う。暗簾に刺さっていた翼が消えたことにより、暗簾は傷から血を流しながら地面に落ちた。
 暗簾は苦しみに耐えながら呪文を唱え続けた。その間、光は揺れながら何度も伸縮を繰り返す。
 光から流れ出る見えない風圧に押され、才戯と斬太は吹き飛ばされないように踏ん張っているのが精一杯だった。斬太は今すぐ虚空の変化を阻止したかった。しかし虚空から、炎極魂から放出される強大な力を前に一歩も足を進めることができない。
 暗簾は身動きが取れず、足元にあった灯篭の瓦礫に押し付けられている。その間もずっと呪文を呟くことを止めなかった。
 光は膨張し、周囲を白く包んだ。一同の視界から色という色が消える。目を閉じているのか開けているのかも判断できなかった。次に、波が引いていくかのように光は虚空の中心に吸い込まれていった。
 才戯と斬太に色彩が戻ったとき、今までの現象が夢だったのかと思わせるほど中庭は静まり返っていた。だが、夢などではない。殺伐とした庭で一つの変化が起きていた。
 呻く暗簾の傍に立つ虚空の翼が、斬太が奪ったはずのそれが再生していたのだ。それだけではなかった。全身にあった傷も衣服の損傷もすべてが塞がっており、血や埃などの汚れさえも消え去っている。
 斬太は何よりも恐れていた出来事に足が震えた。
「……どうして」込み上げる涙を飲み込み、声が上擦る。「どうして、こんなことに」
 最悪、絶望。もう何一つ、救われない。斬太は今にも倒れてしまいそうで、力が抜けてその場に膝をついた。
 虚空は自分の中に宿った皇凰の魂を噛み締め、味わいながら胸に手を当てる。
 完璧だ。
 その言葉が一番相応しい。完璧を手に入れた虚空の心は快感で満ち溢れた。

 才戯も当然、この状況をよく思っていなかった。暗簾がなんのつもりで虚空に炎極魂を渡したのか、理解ができない。この面子の中で最も手にしてはしてない人物だということくらいは分かっているはず。斬太だけではない。才戯も、当然暗簾も、虚空は今までの恨みを込めてどこまでも残虐な方法で血祭りにあげることは容易く想像できるのだから。
 その暗簾は息も絶え絶えに横たわったまま虚空を見つめている。その目に表情はなく、何かを企んでいるとも後悔しているとも読めないほど脆弱だった。

 虚空は深く呼吸をして気を高めた。やっと願いが叶ったと、笑わずにはいられなかった。まずはこの場の鬱陶しいゴミを片付ける。
 雄々しく逞しい両の翼を大きく広げた。
「……返せ」
 静寂の中で、斬太の弱々しい呟きは虚空の耳に届いた。虚空はゆっくりと彼に向き合う。斬太は片足を立てて、虚空に一歩近付いた。
「……弟を、久遠を返せ」
 もう片方の足にも力を入れ、立ち上がる。見開いた目から、大粒の涙が零れた。
 虚空は、そんな斬太の姿が滑稽なものにしか見えなかった。
「俺をここまで追い詰めた努力は認めてやる」
 虚空の笑みは生気に満ちて潤っている。自信に満ちた残酷なもので、美しくさえ見えた。
「しかし……やはり貴様は所詮、ただのネズミだったということだ」
 斬太の心が、音を立てて崩れ去っていく。才戯が止める間もなく、斬太は虚空に向かって駆け出した。
 虚空は黒く光る翼を揺らして斬太を歓迎した。力は同等でも、もう斬太はまともではない。それに、虚空はどれだけ攻撃されても痛手を受けない完璧な肉体を手に入れている。魔界の森で与えた苦痛や屈辱以上を味合わせてやると牙を見せた。そして、今度こそ息の根を確実に止めてやると瞳の奥に深い炎を灯す。
 才戯には斬太を助ける手段はなかった。これ以上自分にできることはないと立ち尽くす。
 だが、暗簾は違った。
 ふと暗簾と才戯の目が合う。暗簾は瞼を落とすと同時、微かに口の端を上げた。

 無防備で、感情に任せて虚空に飛び掛った斬太は、虚空の翼の一振りで左手の肘から下を失った。斬太は悲鳴を上げてその場に倒れ込み、虚空はそれを乱暴に踏みつけにした。その衝撃で斬り落された左腕から血が噴出す。虚空は気味がいいかのように、その傷口に何度も踵を打ちつけ、惨い傷を踏み潰していく。斬太は地面を這いずり回って逃れようとするが虚空がそれを許さない。
 今度は斬太の胸倉を掴み、持ち上げる。喉が詰まって呼吸もまともにできない斬太は悲痛な声を漏らし、彼の瞳は絶望の涙で濡れ、力を発揮することができなかった。
 元々斬太は、虚空たちのように戦闘には慣れていない。希望が、目的があったからこそ心を鬼にしていられたのだが、虚空が炎極魂を手に入れたことで彼の精神は完全に乱れてしまっていた。虚空と妖力は同等でも、もう斬太はまともに戦える心理状態ではなくなっている。
 虚空はそんな斬太を嘲笑い、爪を尖らせて彼の右目に近づけた。
「今度はこっちを抉ってやる」
 斬太は冷静に物事を考えることができずに、ただ涙を零しながら虚空を睨んでいる。今の虚空に怖いものはない。虚空は戸惑いもなく斬太の右目に指先を突き刺した。
 再び斬太の悲鳴が庭に轟いた。虚空は彼の千里眼など、もう欲しがってはいなかった。二度と取り戻せないように、奪った目玉を彼の顔の前に突きつけて、握り潰した。
「こっちもだ」続けて、血に塗れた指を斬太の左目に向け。「もう貴様に希望は残さん」
 虚空は瞼のない斬太の左目にも同じように指を突き刺し、抉らずに、中で掻き回す。
 斬太は涙を流す手段も奪われ、叫ぶことしかできない。斬太が苦しめば苦しむほど、虚空の感情は昂ぶった。