千獄の宵に宴を



 第九場 麻倉家 


2


「どうして貴様がここにいる」
 虚空は忌々しいと言わんばかりに牙を剥き出していた。赤坐にはその意味が理解できない。
「あんた、俺を知ってんのか。だったら教えてくれよ。俺、どうなってるんだ」
 赤坐は虚空を怖いと感じなかった。殺されるかもしれないという危険はあったものの、刀から流れこんでくる苦痛がそれ以上に赤坐を悩ませていたからだ。
「貴様は依毘士に処刑されたと聞いた」
「あ?」
「あの男の牙にかかった者は完全に魂が消滅し、転生さえ許されないはず。なのに、なぜ生きているのだ」
「訊いてるのはこっちだろうが……俺に質問すんな、この鳥頭。一歩も歩いてないくせに一寸前に言われたこと忘れる性質か? 鶏以下かよ」
 緊張感のない赤坐に、虚空は苛立ちを覚えた。この口の悪さ。赤坐という人間も行儀のいい方ではなかったが、知らない相手にここまで毒を吐くほど軽薄ではなかった。虚空には、前にもこうして下劣な言葉で罵られた記憶があった。
 刃物のように鋭い赤い瞳と、天に向かって伸びる一本の角を持つ男・才戯さいぎ
 その暴虐武人な性質ゆえに天界から落とされた鬼神の末裔。彼は何をも許さず、そして恨むこともせずにただ強さだけを求めていた。目的のはっきりとした彼は、触れなければ害はなかった。しかし虚空もまた、盲目的に高いところを目指す生き物。虚空は彼に会った。そのときは相打ちとなり、お互い敵と認めながらそれぞれに更なる力を求めて別れた。
 そんな彼が殺されたと耳にしたとき、虚空はそれほど驚かなかった。理由が分かっていたからである。殺されて当然のことをしたのだ。何よりも、彼を戒めた者があの毘盧遮那仏びるしゃなぶつの眷属、天竜使いの依毘士えびしだと聞き、虚空は納得し、同時に笑いが込み上げた。
 魔界で才戯と同格の力を持つ者はいても、彼を確実に封じる方法はないと思われていた。しかし魔界以外のところにそれは存在したのだ。しかも依毘士は天界からの特別な使者。彼に捕われた者は輪廻転生の輪からも完全に排除されると、悪を孕む妖怪のすべてはその名を恐れていた。
 だから虚空は安堵さえ抱いた。自分にとって忌々しい存在がひとつ減った。そう思ったからだ。
 そのはずだった。なのに、と虚空は目の前にいる男が目障りで仕方なくなった。
 疑問は解消したいが、それ以上に強い野望がある。彼が邪魔なのは確か。まだ完全に妖力を扱いきれていないうちに殺してしまったほうがいい。そう考えを切り替え、表情を消した。
「その無駄に達者な口」虚空の指に力が入る。「今度こそ完全に封じてやろうぞ」



 智示は汰貴の姿を見て悲鳴をあげた。取り乱す彼の姿に釣られて汰貴も身を縮めたが、きっとこの状況に怯えてしまっているのだろうと、急いで平静を取り戻した。
「……あ、あの」
 しかし、初対面で何を言っていいのか分からない。自己紹介が先か、それとも今は自分が敵ではないことを示すべきか。汰貴は呼吸を整え、すぐに後者であると判断した。
「……お、落ち着いてくれ。俺は、あんたを……」
「来るな!」
 智示は床を這いながら、背後にあった柱に背をつけた。頭を垂れて両手で顔を覆う。声が漏れそうなほど深く呼吸をしながら、震える体から思いが溢れ出した。
「……その、私と同じ顔。同じ声。私はお前を受け入れることは、できない」
 汰貴は予想もしていなかった彼の言葉に、耳を疑った。
「……え?」
「私はお前を知っている……姿も見せずに私からすべてを奪った、憎き存在!」
 汰貴は出会い頭に怨念をたき付けられ、理由も分からずに立ち尽くした。
「私は生まれてくるべきではなかった。私は間違ってこの世に落ちた、必要のない存在なのだ。お前さえ、お前さえいれば、それでよかった。私など、生まれてこなければよかったのだ!」
 母親、月子は智示に厳しかった。麻倉家の跡取りとしての教育、躾けは徹底されており、泣いて甘えてくる子供に一人で歩きなさいと冷たく突き放し続けた。智示は寂しく辛い毎日を過ごす中、月子もまた苦しんでいることを、ある日知った。
 月子は夜中に一人で泣いていたのだ。子を愛せない自分を責め、不憫でならない智示を、そして、一緒に幸せを育めない汰貴を想って。一生汰貴に会えないのは覚悟を決めていた。せめて智示だけでも愛したいと願ったこともあったが、月子にはそれさえも許されなかった。
 智示を完璧で立派な麻倉家の跡取りにするために、何よりも背徳の子であることを疑われないために、長年心を削って智示を人形として扱い続けていたのだ。
 幼い智示がそこまで知る由はなかった。しかし夜中に声を殺して泣く母の姿を見て、何かを感じた。目に見えない何かが智示を支配し、その途端に「母には甘えてはいけない」のだと、深いところで自分に呪縛をかけた。それから智示は人が変わったように、大人の言うことに素直に従う「いい子」になった。愛想笑いも狡賢さも巧みに身につけていき、心のない「人形」へ変化していった。
 そんな彼の姿は、月子の悲しみを更に募らせていった。見ているだけで辛いと、月子はさまざまな分野の専門の教師を雇い、自分はできるだけ智示に近付かないようにしていった。智示も次第に母の名を口に出さないようになったが、誰にも気づかれないように彼女の背中を見つめていた。
「すべては、お前のためだったのだ」智示は手の中で涙を流した。「お前だけが幸せになるために、母は己を偽り、私を欺いた」
 汰貴の心臓が痛んだ。
 また、知らないところで誰かを傷つけていたことを知り、だけどその事実に抵抗する手段も持たずに虚ろになっていった。
「母は罪悪感に苛まれ続け、体に異常をきたして病に伏せた。生きる希望も、意味も失って衰弱していき、医者に後数日と宣告された。そのとき私には悲しみも何もなかった。ただ、母が最後に私に残したその言葉に……完全に心を壊された」

――私は、母親失格でした。

 智示はそのときの母の顔、母の一言がいつまでも頭から離れなかった。
「その意味が、分かるか」
 智示は顔を上げた。涙で濡れたその目は見開かれ、目の前にいる「実兄」を心底恨む証として凄まじい炎を灯していた。
「最後の最後に、母は……私など愛していなかったということを言い残して逝ったのだ!」
 汰貴は全身の力が抜け、その場に座り込んだ。
 ずっと隠していた十字架の首飾りが智示の胸元から零れ出た。汰貴は、それが自分もずっと持ち続けてきたものと同じだと思った。形も素材も、秘める意味もまったく同じものだった。
 自分と智示は他人ではないのだということが、心に刻まれた。なのに、唯一となった血の繋がる家族なのに、この現実は尚更辛いと思った。
 智示は汰貴にとって最後の希望だった。何も知らないうちに父にも、母にも先立たれ、心の拠り所だった赤坐にも見限られた。それでも、弟に必要とされればきっと救われるのだと、僅かな希望を抱いてここにきた。
 だけど、そのすべてが打ち砕かれた。離れていてもどこかで呼び合っているのかもしれないなどと信じた自分が情けなかった。必要とされるどころか、彼は己の存在価値さえ侵されるほど、自分を疎み、憎んでいたのだ。
 もう行くところはない。汰貴は涙で濡れた目で睨みつける智示から逃げるように背を向けた。せめて、これ以上彼を苦しめたくなかった。自分がいるだけで、智示の命が脅かされるほど追い詰めてしまっていたのだ。もうここにいてはいけない。汰貴は、目的地もなく走り出した。



 一人残された智示は、誰もいないこの場所で一心不乱に泣き続けた。ずっと我慢していたのだ。生まれて初めてこれほど泣いた。
 みんな死んだ。もう、誰にも遠慮する必要はないのだと、恥も理性も捨てて泣きじゃくった。
 遠くで建物が壊れる音がする。先ほどの二人が暴れているのだろう。思ったよりも器物の破損は大きくないような気がすると、届く音や振動に智示は呑気な感想を抱いた。言いたいことを吐き出し、今まで許されずに溜まり続けていた感情を排泄することができた。智示は自然と十字架を掴むことが癖になっていた。そっとそれに片手をかけ、肩を落とした。
『……もういい』
 智示は目を開いた。心で呟いたはずの言葉が、声になって頭上から届いたからだ。
『みんな死んでしまえばいい。誰も、自分も、全部、消えてなくなってしまえ』
「何者!」
 智示は十字架から手を離し、涙を拭いながら大声を上げた。
『愛して欲しかった』
「だ、黙れ」
『自由に笑う兄が羨ましかった』
「黙れ!」
 智示はいつもの厳しい表情を取り戻し、立ち上がった。腰に差した刀を抜き、構える。
 声の主は天井から智示の目の前に降ってきた。小柄な体を丸めて着地し、背を伸ばして彼の顔を覗き込んだ。
「…………!」
 突如現れた隻眼の妖怪・斬太は金色の瞳に妖気を灯し、一瞬にして智示の心を捕らえる。
『本当は、愛していると言って欲しかった。一度でいいから、その言葉を聞いてみたかった』
「……な、何を」
 心を、深層心理を読まれ、智示は再び息を上げた。斬太は足を引く智示を追うように、更に顔を寄せてくる。この距離では逃げられない。きっと、刀を振っても彼には当たらないのだろうと先読みする。
「も、物の怪め!」智示は迷いを振り払い、斬太を睨み返す。「この私を侮辱するとは」
 斬太に向かい刀を一文字に振るが、斬太は智示の背より高く飛んで軽く躱す。背後に着地する斬太に、智示は急いで向き合う。幼い頃から剣術、武術の類は一通り習っていた。しかし気を乱している智示はその一部も発揮できてない上に、できたところで斬太に通用するものではなかった。
 それでも心の中を読まれた智示は、どうしても斬太が許せなかった。怒りに任せて刀を振り上げる。斬太は眉毛一つ動かさずに片手を翳した。
 武具も武器も持たない、智示より小さな斬太の掌に、容赦なく刀は振り下ろされた。無事では済まない、殺してしまうかもしれない。智示はそれでも構わなかったのだが、刀は、まるで鉄にでもぶつかったかのように斬太の掌の上でぴたりと止まった。
「……何!」
 更に腕に力を込めるが、刀はそれ以上降りない。斬太はにっと笑い、指先で刃先をつまんで真っ二つに割った。
 その反動で智示は体制を崩して倒れる。折れた刀を捨てて、転びそうになりながらも斬太から離れた。慌てて体を起こすが、蒼白した顔で斬太の金色の目から逃れることができなかった。斬太は、彼の心を掴んだという確実な手応えを感じた。このまま妖気を浴びせ続けるだけで、智示は廃人になってしまうだろう。
 は、は、と智示は不規則に息を吐いていた。妖術に捕われた彼は、まだ僅かに残っていた気力で抵抗することをやめなかった。
 再び、心臓が熱くなってくる。大きく脈打つ胸の鼓動に合わせ、次第に呼吸もそれと同じ旋律を打ち、固まっていた体が軽くなっていくのを意識した。
 斬太は智示の変化に素早く気づく。智示の周囲を、同族にしか感じ取ることのできない光が包み始めた。それに操られるように、智示の長い髪が、蛇のようにうねり始める。
 この現象は――知っている、と斬太は笑みを消す。髪の毛が異常な動きを激しくしていくにつれ、智示の顔も恐ろしいものへと変わっていった。
「……死ね!」
 途端、智示の髪がまるで茨の蔦のように伸び、鞭のごとく斬太に向かって襲い掛かった。斬太はそれを跳んで躱し、そのまま柱に足をかけて逆さになった。斬太の身代わりになった柱には、武器と化した智示の髪の毛の束がいくつも串刺しになっていた。智示は我を失い、その力を操ることができなかった。鬼の形相で呻くと、柱に刺さった髪も連動して蠢いた。鋭い爪に掴まれたかのように、ミシ、と柱は鈍い音を立てる。かと思うと一瞬にして潰れ、粉々になってしまった。
 斬太は瞬時に柱から離れて智示を超えて着地する。それとほとんど同時に、太い柱に支えられていた屋根が瓦礫を落としながら傾いた。
 智示は髪をうねらせながら振り向き、斬太を目で捉える。斬太は妖術を操る智示に驚きも恐れもせずに、冷たい表情で彼を見据えた。
「……まだだ」
 智示は再度尖った髪の鞭で斬太を襲う。自分でも何が起こっているのか、何をしているのか分かっていなかった。ただ恐怖を打ち消すがためだけに、目の前の敵を倒さなければと本能が煽動する。
「お前の力は、まだ、そんなものじゃない」
 斬太は、嗤った。顔の前で両手を組み、腰を入れて足を踏ん張る。小さく構える彼に、智示の武器が容赦なく全身突き刺さった。
 智示は確かな手応えを感じ、仕留めるために力を込める。しかし、彼の体に刺さったそれらが、柱のときのようには動かせなかった。
 髪の蔦に捕らえられた斬太は、腕を少し下ろして光る隻眼を覗かせた。
「違う。お前の力は、そうやって使うんじゃない」
「……あ、あ」
 智示は体を揺らした。自分の体の一部のはずの髪が、今度はいくら押しても引いても動かなかったのだ。すぐに、捕らえられたのは自分の方だと気づき、汗を流した。
「そうやって体の一部を相手に射し込み、それの養分、水分、血液、脂肪、そして魂や妖力のすべてを吸い尽くすのが本来の力だ」
「……は、離せ!」
 智示は聞く耳を持たず、もがいた。しかし斬太は体中の筋肉を固め、逃してはくれなかった。
「そうやって若さと強さを保ち続ける貪欲で卑劣な妖。同族殺しの『暗簾あんす』!」
 斬太は感情的になり、嫌悪の念を彼にぶつける。
「自分の家族も兄弟も、女子供も、同じ血を持つ仲間をすべて喰い尽くして力を手に入れたお前が、家族との縁が薄くて当たり前だろうが! お前の不幸は報いだ。人を責めようなんてお門違いもいいとこなんだよ」
 智示には彼が何を言っているのか分からない。ただ怖くて、怖くて逃げ失せたいという気持ちしかなかった。斬太は、智示が完全に恐怖に支配されていく様が手に取るように感じ取っていた。脅かすだけが彼の能力ではない。極限に達した魂を壊すときこそが、悟りの至福のとき。
「ほら……喰いたければ、思う存分喰うがいい!」
「…………!」
 斬太に刺さった髪の蔦から、望みもしない強大な妖気が一気に押し寄せた。術は使えど、智示はただの人間。内に流れ込んでくる重い妖気に急激に内臓が圧迫され、血を吐いた。
「……う」
 殺される。今度こそ、確実に。智示は崩れ落ちるように膝をついた。体のどこにも力は入らず、絶望し、虚ろに見開いた目で斬太を見つめた。その視界が白み、意識が遠のく。智示が血の海の上に倒れると、張り詰めていた髪の毛も力を失い、元の長さに収縮して床に垂れた。血に濡れた十字架が、気を失った彼の顔の横で、見守るかのように鈍い光を灯した。



 斬太は横たわる智示に寄り、静かに見下ろした。
 深い夢の中で呟く彼の声が、斬太には聞こえた。智示が死を覚悟したその時に呟いたものは、ずっと思い続けていた母の名ではなかった。名前も知らない、一度顔を合わせただけの、恨み節しか唱えられなかった相手――。
『……兄上』
 その切ない感情さえも斬太には感じ取ることができた。きっと、助けて欲しいのだと思う。やはり、血を分けた兄弟を心底恨むなど、自分を慕ってくる純粋な者を憎むなど、簡単にできることではないのだ。
 耳を澄ますと、兄を呼ぶ別の声も聞こえた。
『……赤坐……』
 汰貴の声だ。
『兄ちゃん……助けて』
 切実な声に、斬太は胸を痛めて目を閉じた。すると、もう一つ別の声が、彼の記憶の中から甦ってきた。

『兄さん……』
 今はまだ、あの笑顔は彼にとっては傷を抉る、鈍い切っ先でしかなかった。