5



 薬を飲んで眠っていた才戯は、夜中に目が覚めてしまい体を起こしていた。頬と口元には赤黒い痣がある。樹燐に殴られた痛々しい痕だった。
 祠の縁側に出てしばらく満月を眺めた。薄い雲と風に吹かれる花びらを見ているうちに酒が飲みたくなり、神棚に置いてあった徳利を持ってくる。
 胡坐をかいてぼんやりとしていると、杯の中の酒に花びらが浮いていた。才戯はそれを飲み干し、背を丸めて深く息を吐いた。
 まだ気分は落ちている。杯を足元に置いて頭を垂れていると、背中に温かいものを感じた。それが何か瞬時にして分かり、才戯は驚くこともなく頭を上げなかった。
 こんな時間に気配もなく現れる女性といえば一人しかいない。まだ人間に扮装したままの樹燐だった。思いつめた様子で才戯の背後から腕を回し、彼の肩に頬を寄せた。
(……また来たか)才戯は反応しない。(今度は何なんだよ)
 いつもと様子が違うのは分かるが、あまり相手にしたくない気持ちは変わっていない。才戯のそんな気も知らず、樹燐は目を閉じて、しばらく彼の背中の広さと温度を味わっていた。
「……おい」
 流れる静かな間に耐えられなくなり、才戯が呟く。
「何のつもりだ。汚らわしいんじゃなかったのかよ」
 樹燐は薄目を開けて、数回首を横に振る。返事はそれだけで、彼女はまだじっとしたままだった。珍しく女らしいことをしている彼女の戸惑うが、それを隠して才戯はため息をもらす。
「お前な……何がしたいか知らないけど、いい加減に時と場所くらい選べるようになれよ。あんまり俺をバカにしてると、病気移すぞ」
 軽く脅したつもりだったのだが、樹燐は想像もしていなかった返事を返してくる。
「いいよ。移して。そしたら私もお前の苦しみが分かるから」
「……は?」
「私はお前のことが知りたい。心も体も、いいところも悪いところも全部、教えて欲しいんだ」
 才戯は返事に困り額に汗を流した。どんな風の吹き回しかと思いながら、少し彼女に顔を傾ける。
「うわっ」才戯は驚いて背を伸ばした。「なんだ、その格好は」
 才戯に肩を押されて樹燐は体を離した。座り直し、才戯が驚いている理由に気づく。
「ああ」違和感のある黒髪に手を当てて微笑み。「似合うか? たまにはこういう質素なのもいいだろう?」
「に、似合わねえよ。何が質素だ。どこの成金かと趣味を疑うぞ」
「え……そ、そうなのか」
 樹燐には意外な反応だった。何か間違っていたのだろうか。だとしたら、この姿で昼間に大通りを歩くべきではないのだなと思う。
 樹燐が今の状況とは関係ないことを考えていると、才戯は嫌な予感を抱いた。この女が人間界で動くとしたら、自分に関係のあることのはず。
「お前……」声を落とし。「変装なんかして、一体何をしていた」
 樹燐はいじけたような目を向け、睨むように才戯を見つめた後、ふっと体の力を抜いた。
「女に会ってきた」
 やはり、と才戯は眉を寄せる。
「私の男に手を出したことを後悔させてやろうと、立ち直れないほど叩きのめしてやろうと思った」
 またそういう身勝手なことをと、才戯は怒鳴りつけようとしたが、それを遮るように樹燐は続けた。
「だけど、叩きのめされたのは、私の方だった」
「……え?」
「私は自分が完璧で最高の女だと思っていた。だけど、違ったのだな」
 どうも今日の樹燐は調子が狂う。いつもの自信過剰な彼女であることは間違いないのだが、そんな樹燐からは想像もできない発言や態度が才戯を戸惑わせていた。結局は何が言いたいのかを確認しないことには返事をしようがない。とりあえず彼女の話を一通り聞こうと、才戯は耳を傾けた。
「私の美しさは神としてあって当たり前のものなのだ。小さき人間の作り物のそれなど、足元にも及ばないと思っていた。しかし、不幸や苦労を超えて磨き上げた心というのは、持って生まれた神々しいもの以上に美しいものだったのだな。その強さと輝かしさ、そして脆さと儚さは、努力と苦痛を乗り越えた暁にしか手に入れることのできない掛け替えのないもの。私のように、最初から準備されていた豪華な椅子の上に座っているだけでは、決して、その存在に気づくことさえできないものなのだ」
 真摯に語る樹燐の言葉を、才戯は聞いてはいるのだが、どこかつまらなそうな表情を浮かべていた。
「それは神の世界にはない。だから私にはとても衝撃的なものだった。その者が恋敵でなければ、私はあの女を尊敬し、女として惚れていたかもしれない。できることなら、その女と同じ舞台の上で戦ってみたかった。だけど今の私には、まだそんな資格さえなかったのだ。だから、負けを認める。そしていつか必ず、あの者以上にいい女になってみせる」
 樹燐は強い光を目に灯した。それを吹き消すかのように風が流れ、数枚の花びらに襲われて樹燐は目線を逸らし、少し瞼を落とした。肩を縮めて俯いたまま、微かに頬を赤く染める。
「……私は、変わりたい。お前が夢中になるような女になりたい」
 薄く目を開けて、膝の上に落ちた花びらを見つめる。
「そのためには、私はお前をもっと知りたい。そして自分のことももっと知りたいのだ。教えて欲しい。少しずつでいいから、時間がかかっても構わないから、お前に、教えて欲しいのだ」
 樹燐にとって、これほど勇気を出したのは初めてのことだった。赤裸々な言葉を綴るだけでも必死で、彼の目をまっすぐに見つめることはできなかった。
 その才戯は、表情を変えずに酒を口に運んでいた。口元の傷に酒が滲み、少し目を顰める。才戯は何から答えようかと考え、力なく呟く。
「……あのさ」
 その声、態度は真剣な樹燐とは対照的に感じた。樹燐はその温度差にまだ気づかず、胸の鼓動を早めていた。
「言ってる意味は分かるけど、何の話?」
「……え?」
 樹燐が顔を上げると、目の前の彼は呆れているような目を向けていた。
「あの女とか言ってるけど、誰のことだよ。お前さ、もしかして相手を間違ってんじゃねえの?」
「え……? え?」
 樹燐は混乱した。一度熱を冷まし、纏まっていたはずの頭の中を慌てて整理する。
 記憶を巻き戻して細かいところを掘り起こしていくと、確かに、明乃の言っていた相手が才戯であるという確証がどこにも、なかった。
 樹燐の顔が真っ赤に茹で上がった。
 もしも明乃が該当の相手ではなかったとしたら、自分は一体誰と、何を話していたのだろう――お互いに違う男を思い描きながら、本音を曝け出し、涙を流していたというのだろうか。
 しかも樹燐は、敵はない相手に心を見透かされ、誰にも言われたことのなかった弱点を指摘されてボロボロに傷ついて負かされてきたのだ。なのに、それが勘違いだったとしたら、まるで間抜けな一人芝居ではないか。
 いや、しかしと思う。それが才戯ではないという証拠もないのだ。
 もどかしい。こんなことになるくらいなら、怖がらないで相手の特徴などをもっと詳しく聞きだして、才戯なのかそうではないのかがはっきりするまで聞いておけばよかったと、今更思う。
 苛立ちが募り、錯乱した樹燐は才戯の胸倉を掴んで大声を出した。
「な、何を! 貴様は明乃という女を買ったのではないのか」
 才戯は樹燐の変貌に戸惑いながら。
「……な、名前なんか聞いてないし」
「か、顔に大きな傷のある女だっただろう? そうだろう」
「売女の顔なんかいちいち覚えてねえよ」
「嘘をつくな。傷があれば覚えているはずだ。あったのか、なかったのか、答えろ」
 才戯は目を泳がせた。思い出そうとしているのか、何かを考えているのか区別はつかない。樹燐が誤魔化しはさせないと睨み付けていると、才戯は彼女の手を振り払って怒鳴り返した。
「知らねえって言ってるじゃねえか。しつこいんだよ!」
 それでも樹燐は怯まない。と言うか、いつもの状態に戻っているだけだった。
「ふざけるな! ならばなぜ夜鷹など買ったのだ。理由もなく拾い食いしたとでも言うのか」
「うるせえな。俺がどこで、どんな状況で欲情しようが勝手だろうが! 理由があったとしても、てめえに説明する義理なんかねえんだよ」
 なんという冷たい言い方。今まで自分がどんな思いをしたのか、どれだけの屈辱を我慢してここまで来たのか知りもしないでと、樹燐は自分のことを棚に上げて怒り心頭だった。
「ならば、やはり貴様は、道に転がっていた性病持ちの腐ったバカ女に騙されたうつけ者だったということか」
「は! なんともでも言え。俺はお前に好かれようが嫌われようが、どーっでも、いいんだよ。痛くも痒くもない。そう思いたいなら勝手に思ってろ」
 ふんと才戯が顔を背けると、樹燐は歯を噛み締め、喉の奥から唸り声を漏らす。
 自分ほどのいい女が素直に気持ちを告白したというのに、と樹燐は思う。優しい言葉の欠片もないだなんて、悩みを理解してそれなりの助言してくれた、なんの関係もない暗簾のほうがまだ人情味がある。今の才戯はそれ以下だ。
 樹燐は拳を握って立ち上がり、怒りに任せて右足で彼の下腹部を蹴りつけてきた。
「!」
 才戯は目を見開き、間一髪で彼女の足を両手で掴んで止める。
「バ、バカ! それはシャレにならねえぞ!」
 樹燐の力はやはり並ではなく、止められても引こうとはしなかった。それを掴む才戯の腕が震えている。
「そんな節操のない癖の悪いもの、いっそのこと潰れてしまえばいい!」
「いい加減にしやがれ! てめえの方がよっぽど下品だ。それが惚れた男にすることか!」
 才戯はもう我慢ならず、掴んだ彼女の足を持ち上げた。体制を崩した樹燐は背中と腰を強く打って倒れる。痛みを堪えてすぐに起き上がろうとするが、才戯はそうはさせないと足を掴み上げたまま樹燐に顔を近づけた。
「ああっ、頭にきた。俺を舐めるのも大概にしろよ」
 これほど接近したことは初めてだというのに、ときめきどころか、樹燐はそのことにさえ気づかず毒付き続ける。
「汚い手で触るな。痴れ者が!」
「やかましい。所詮女は男の力には敵わねえんだよ。思い知れ」
「な、何を考えている!」
「病気を移してやるよ。てめえも、地獄に堕ちやがれ!」
「…………!」
 移してもいいなどと言う言葉は、感情の昂ぶった樹燐には既に忘れ去った狂言だった。冷静ではいられない彼女には才戯という「クソ男」が、ただの「病原菌」にか見えない。
 樹燐は身震いし、高い悲鳴を上げた。そして素早く左足を縮めて、そのかかとを、組み敷いてくる才戯のみぞおちに力いっぱい叩き込んだ。女の力が男には敵わないという常識は、樹燐にはない。その細い体のどこにそんな力があるのか分からないが、才戯は上体が浮くほど蹴り上げられて胃液が逆流しそうになる。樹燐から手を離し、蒼白しながら咄嗟に腹と口を押さえてその場にうずくまった。
 樹燐は着物を乱したまま後退さり、悲痛な声を上げて泣き出した。
「酷い……どうして私がこれほどに虐げられなければいけないのだ。私が、一体何をしたと言うのだ」
 こっちの台詞だと思いながら、涙目で樹燐を睨み付ける。
「貴様のような下種に、真剣に向き合った私が愚かだったのか」
 樹燐は両手で顔を覆って庭に駆け下りた。数歩走った後振り向くと、散った涙と一緒に樹燐の体を淡い光が包む。それとほとんど同時に彼女の扮装は解け、いつもの姿に戻った。
「お前なんか嫌いだ! もう二度と来るものか。こんなに辛い思いをするくらいなら一人がマシだ」
 樹燐は背を向けて森の方へ走った。走ったかと思うと、再度振り向く。
「たぶん、寂しくなるけど、寂しくなっても……絶対に、我慢する……! もう、絶対に来ないからな」
 樹燐はそう言い残し、煙になって天に昇っていった。それを見送って、才戯は縁側に体を倒した。
(……何を言ってんだ、あいつは)
 あの様子だと、きっとまたほとぼりが冷めた頃に来るつもりなのだろうと思う。しかし顔を合わせるたびにこれでは体が持たない。もしも次会ったら、少しだけまともに会話してやろうか――そんなことを考えていると、屋根の上から笑い声が降ってきた。
 声は才戯の知る者のそれだった。まさか見られていたなんて想像もしていなかった才戯は、急いで体を起こして顔を上げた。声の主はそれを待たずに屋根から飛び降り、縁側の細い手すりに器用に着地する。彼はそのまま屈みこみ、ニヤニヤと才戯を見下ろした。
「いやー、楽しかった」
 他でもない、暗簾だった。才戯は不貞腐れてそっぽを向く。
「ほっとくつもりだったけどさ、もしかしたら面白いことになるかもって思ってね。わざわざ屋敷を抜け出してきた甲斐があったよ」
 暗簾は肩を揺らして笑い続けていた。また見られたくないところを、見られたくない人物に見られてしまったと才戯は落胆する。人間になってからというもの、どんどん立場が悪くなっているような気がした。
「どうしようもなく面倒臭い女に目を付けられたもんだな」暗簾は同情しつつも喜んでいる。「でもさあ、余計に面倒臭くしてるのは、才戯、お前なんじゃねえの?」
「何だと?」
「少なくとも、今のはお前が悪い」
 暗簾の意外な言葉に、才戯は息を詰まらせた。
「別に相手が合ってるか間違ってるかなんて重要じゃないだろ。そんな議論は後にすれば、喧嘩にもならなかったのにさ」
 才戯はばつが悪そうに顔を逸らす。
「なんでお前にそんなこと言われないといけないんだよ」
「逃げ方がわざとらしいっての。お前、わざと怒らせたんだろ? あの女が短気だから誤魔化せたんだろうけど」
 才戯は暗簾の言葉に戸惑う。暗簾が今まで、重箱の隅をつつくような皮肉を言うことはしょっちゅうだったのだが、こんなふうに個人的な事情に口出ししてきたことはなかったからだ。それと言うのも、昔は色恋関係で揉めたという記憶はなかったし、あったとしても二人が絡むなんてあり得ないことだったのだ。
 もう昔とは違う。同じではいられないという脅迫に似た圧迫感を、どこかで抱くことはまたにある。今ある違和感がその枝葉なのか延長なのか、才戯にはまだ見えそうにない。
「……知ったようなことを」
 子供のように反抗する彼に、暗簾はゆっくりと続けた。
「喧嘩しなきゃ、結構いい女だと思うぜ?」
 そうだろうかと少し考えてみるが、才戯は僅か数秒で答えを出す。
「喧嘩しかしたことないから、分からん」
 呟き、もういいから一人にしてくれと思い、深いため息をついた。投げやりな彼の態度を見て、暗簾もため息をつく。
「どうしてそんなに天上人を嫌うかな。それも血筋か?」
 才戯は答えない。心地よい風に眠気を誘われ、床に寝転がった。
「とりあえずさ、あの女の勇気は認めてやってもよかったんじゃないの? あれだけ気の強い女が負けを認めて、素直におねだりして来てたのに。勿体ないねえ。ほんとは、ちょっとくらいグッと来たんじゃないの?」
 ない、という言葉を言ったのか言わなかったのか分からないまま、才戯は重くなる瞼に逆らえなくなった。暗簾は彼の反応を少し待ったが、やはり才戯は何も言わない。今度は暗簾がため息をつく。
「なあ、あったんだろ?」
 遠のく意識の中、夢現の境で才戯は呟く。
「……何が」
 暗簾は自分の右目から頬へ人差し指を這わせながら、声を潜めた。
「傷跡」
「…………」
 才戯の落した長い沈黙に耐えられず、暗簾は手すりから飛び降りて彼に近付く。
「なあ」
 顔を覗き込んでみると、才戯は疲れ果てて眠っていた。暗簾は舌打ちをして背を伸ばす。
「肝心なことは何も言わないんだよな。お前は、昔からそうだった」
 聞いていないのを承知で言葉を残し、暗簾は再び屋根に飛び上がった。才戯は一応病人である。治るまでは張り合いがない。
 暗簾は、茶化すのはまた後日と心に決めて、野良猫のように身軽に屋根を伝い、静かに寝床へ戻っていった。<了>



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-後書-



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