18





 りんは一人、居間でじっとしていた。
 僅かに肩が震えている。自分のしたことを深く後悔していたのだった。
 才戯は突然落ちてきた見ず知らずの自分を拾って今まで世話をしてくれた。本当は気づいていた。彼が自分に求めていたことも。だけど決して無理は言わずにずっと気遣ってくれていた。感謝こそして当然であり、恨み言などあるはずがないではないか。
 なのに、りんは才戯の申し出を無碍に突き放した。なんてことをしてしまったのだろうと、目を閉じて眉を寄せる。
(……馬鹿なことを。代わりでも構わない。どんな形でも彼の傍にいれるなら、これ以上に幸福なことはないのに……!)
 どう考えても自分が悪い。りんは震える手で腰に下げていた白い華を持ち上げた。
 じっと見つめていると、涙が込み上げてくる。雫が華に零れる前にりんは顔を上げ、才戯を探しに行こうと腰を上げた、上げようとした。
「!」
 しかし、庭から人の気配を感じてりんは息を飲んだ。
「お邪魔しまーす」
 ふざけた挨拶をしながら土足で上がりこんできたのは、数人の男たちだった。
 まったく面識はない。それらは薄汚れた衣服を身につけ、所々に武士の鎧の一部をまとっている。まとまりのないその姿、腰や背中に下げた大きな刀の品のなさは、決して堅気の者だとは思わせない迫力があった。
 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた男は五人。りんの前に立ち並び、じろじろと彼女を観賞していた。
 りんが理由も分からず怯えていると、男たちの背後から若い女性の声が飛んできた。
「こんなところに宿替えなんて、逃げたつもりだったのかしら」
 男たちが声を振り返ると、そこには一見どこにでもいそうな町娘が立っていた。
 茉である。
 見た目は普通の若い娘だが、りんを見下ろす表情は悪意に満ちていた。りんに悪寒が走り、ぎゅっと白い華を両手で掴む。
「馬鹿な男。私に恥をかかせるなんて。ただで済むわけがないのに」
 男たちは声を出して笑った。再びりんに顔を寄せて物色を始める。
「お嬢さん、ほんとにいいんですか?」
「いい女ですね。可哀想で涙が出そうだ」
 言いながら、男たちは縮こまるりんを威嚇するように取り囲む。
「ほんと、いい女ね」茉の言葉には心などなかった。「妬けちゃうわ。ま、その分苦しむことになるんだから、同情もするけど」
 何のことなのか、りんにはまったく分からない。逃げたくても体が動かず、叫びたくても声が出なかった。
「怖いの? 可愛いわね」茉はわざとらしく哀れみの声を上げた。「これからあんたに起こることを教えてあげる……あんたは、この男たちに追いかけられて、追い詰められて、心も体もボロボロに傷つけられるのよ」
 言いながら、三文芝居のような泣き真似をし始める。
「私ならとても耐えられないわ。いっそ殺してと泣き叫ぶのだけど、死ぬことも適わないで休む間もなく盗賊たちに弄ばれ続けるの。ああ、想像しただけで身が凍る惨劇だわ」
 同時に起こった男たちの笑い声に、りんは体を揺らして震え出した。
「でもお嬢さん、これだけのいい女なら薬漬けにして売り飛ばしてもいいんじゃないですかい? いい金になりますよ」
「人身売買も結構な生き地獄ですからねえ」
「ダメよ」茉は泣き真似をやめて男を睨み付ける。「今ここで地獄に叩き落してやりたいの。そんなに手間のかかることをして、助ける隙なんか与えるわけにはいかないわ」
 さすがに茉は盗賊頭の娘である。人が嫌がる方法をよく知っている。
「あんたたち、よく聞くのよ。できるだけ苦しめ、惨めな思いをさせてあげなさい。立ち直れないほど、救いようがないほど、非道の限りを尽くすのよ。でも、殺してはダメ。生かしたままここへ連れて戻ってきなさい。いいわね」
 どうして、そんなことを――りんは真っ青な顔で、今にも気を失いそうだった。
「絶対に許さない」恨みが滲み出た彼女の顔は、この世のものとは思えないほど凄まじいものだった。「私がどれだけ純粋に思っていたのか、知りもしないで。赤坐のために何年も、女にとって一番大事な時期を無駄にしてきたのよ。そのすべてを無情に踏み躙って、その後すぐに他の女と幸せになろうだなんて、そんなこと許せるものですか」
 茉はやはり赤坐を諦めたわけではなかったのだ。盗賊の能力を活かして彼を探り、復讐をするために無頼の男たちを集めてきたのだった。それらを使って、立ち直れないほどにりんを傷つけることが目的だった。
 もう赤坐を自分のものにしようという気はなかった。その後に彼に殺されるかもしれない。そうではなくても、少なくとも父親には酷い制裁を受けることになるだろう。その覚悟があろうがなかろうが、それでも、茉は黙って身を引くことができなかった。
「彼が戻ってくるかもしれないわ。早く始めなさい」
 茉が合図を送ると、男たちは舌なめずりをして更にりんに近寄ってくる。りんは我に返ったように目を見開いた。
「おい、逃げてくれよ」
「怖くて声も出ないか? でも逃げてくれないとつまんねえんだよ」
 男たちは猫が鼠を甚振るように、りんを追い詰めたかったのだ。
「逃げても逃げなくても、あんたが俺たちに死ぬ寸前まで犯されるのは決まってるんだ。どうせなら逃げたほうが旦那に言い訳しやすいんじゃないのか?」
 男たちの言っていることはあまり耳に入っていなかった。
「おいおい、観念するのはまだ早いだろ? 少しくらい抵抗してくれよ」
 一人の男がりんの肩を強く押し、上体を倒す。すると別の男が彼女の足首を掴んで持ち上げようとしてきた。
「……っ!」
 逃げなければ。りんは腕を振り払って、這うようにして裏口へ走った。男たちは笑いながら彼女を追い始める。
 一人になった茉は、しばらく彼らが消えた方を見つめていた。
 ふと、りんが落としていった白い華に目を奪われ、それに寄る。そして壊れたかんざしを、まるで親の仇かの如く踏み潰した。


 才戯は意味もなく町に向かう道を散歩していた。一度足を止めて空をぼんやりと眺めたが、まったく頭が働かなかった。
 やはり一人で考えても、何がよくて悪いのかなど答えは出ないと思う。
 結局は、自分がりんをどう思っているのかが大きな問題なのだろう。
 恋とか愛とか、そんなものには無縁で、りんのような存在は初めてだった。りんは自分が面倒を見ざるを得ない状況になっているだけだといえば、それも確かである。彼女に他に行くところがあれば、もっと余裕を持って気持ちを確かめることができたかもしれない。
 決してりんと一緒にいることが嫌なわけではない。ただ、彼女がどこかへ行くと言うのなら、それは仕方ないことだとも思えるのだ。
 きっと才戯のそういう曖昧な態度がりんを迷わせているのだろう。自分が居たいなら居ればいいと言っているのだから、彼女が居たいなら居ればいい。それではダメなのだろうか。才戯にはまだ理解ができない。
 畦道で眉を寄せて、頭痛に悩まされているかのような表情を浮かべる。知恵熱でも出て倒れてしまいそうだった。
 才戯は大きなため息をついて顔を上げた。こうしていても埒が明かない。やっぱり戻ろう。彼女の顔を見てちゃんと話をしようと、屋敷へ戻った。

 稲穂に囲まれた一本道の途中で、才戯は足を止めた。
 先に見える屋敷から漂う不穏な空気を察知したのだ。
 鬼火たちが騒いでいる。一つが才戯の姿に気づき、彗星のように向かってきた。それがたどり着く前に、才戯は走り出した。鬼火が彼の肩に止まり、何かを囁いている。才戯の顔が青ざめた。更に足を早める。

 才戯が屋敷に駆け込むと、そこに人の気配はなかった。息を切らして居間へ向かい、辺りを見回す。畳は泥で汚れていた。数人が土足で上がり込んだ形跡だった。
 泥に塗れ、りんが大事にしていた白い華が落ちていた。近付いてみると、華は踏み潰されてバラバラになっている。そしてその真ん中に、一本の脇差が突きたててあった。
 誰がこんなことを――才戯は真っ青な顔で華に手を伸ばす。脇差を掴んだとほとんど同時、才戯は掌に激痛を感じて反射的に手を引いた。
 小さな針のようなものが刺さった刺激だった。慌てて掌を見ると赤い点があり、そこを中心に熱と傷みが広がっていく。
 しまった。才戯がそう思ったときは、もう遅かった。毒だ。柄に毒針が仕込んであったのだ。
 かなりの猛毒のようだ。早い速度で体に回っていくのが分かる。
 体中から汗が噴出し、今すぐにでもりんを探しに行きたいのに、体中の力が抜けてしまい、その場に膝をついた。
「……ご機嫌いかが?」
「!」
 茉が不適な笑みを浮かべ、障子の影から姿を現した。才戯は彼女の顔を見た途端、何が起きているのかを予測できた。まずい。りんが、危ない。
「具合が悪そう……」茉は馴れ馴れしく、才戯の肩に触れる。「当然よね。人を簡単に死に陥れる猛毒だもの。でも、大丈夫よ。死なない程度に薄めてあるものだから」
 今すぐ茉を殴ってやりたかった。同時、わずかでもりんから離れた自分を心の中で責め立てる。
「怖い顔……でも、それももうすぐ絶望に満ちた情けないものに変わってしまうのよ。今のうちにいくらでも私を睨み続けていればいいわ」
「……なにを、した」
 まともに声も出せなくなっている才戯に、茉は微笑んだ。
「考えれば分かるでしょう? あなたから受けた屈辱を、何倍にもしてお返ししてやってるの」
 普通なら、大人でも既に気を失っているであろう毒だった。しかし才戯はかろうじて意識を保ち、茉を睨み付けることを止めない。それでも、今はそれが精一杯である。
「ここで大人しく待ってるだけってのも、つまんないわよね。教えてあげるわ。あなたの大事な人は今……五人の盗賊に追われて、乱暴されているところよ」
 才戯は何よりも最悪な言葉を聞き、唇を噛んだ。何とか立ち上がろうと、片手を地について力を入れる。
「そんなに焦らないで」茉は彼の状態が分かっており、目を細めてみせた。「男たちの気が済んだら、生きたままここへ連れてくるように言ってあるから。あなたはここで休んでいればいいのよ」
「……てめえ、頭おかしいんじゃないのか」
「あら、そんな口が利けるほど元気があるのね。ほんと、逞しい人だわ。こんなに強くていい男に愛されるなんて、彼女は幸せ者よね」
 茉に込み上げる笑いは憎悪と皮肉に満ちたもので、もう誰も止めることができなところまで感情が昂ぶってしまっている。
 何よりも、今すぐりんを追ってももう間に合わないかもしれないという恐怖が才戯に取り付く。どうすればいい? 鬼火も、きっと後を追っているものがいるはずだが、強い妖術や肉体があるわけではない。五人の盗賊から彼女を守る手段は持っていない。
 怒りよりもりんの身を案じている様子が、茉には分かった。才戯への憎悪が、更に積み重なっていく。
「ふん……この私を馬鹿にしたこと、深く後悔させてあげるわよ」茉は醜い笑顔を浮かべ。「あの女、少なくとも子供が産めない体になるでしょうね。屈強な男たちに組み敷かれて骨の一本や二本、折れるかもしれないわ。綺麗な顔にも消えない傷が刻まれて、命が助かったところで五体満足ではいられないほど惨めな姿になってここへ戻ってくるのよ……あなたはそんな彼女を変わらずに愛せるかしら? 最初は同情と責任でかいがいしく守っていたとしても、いつしかあなたはあの女を重いと、邪魔だと思うようになるのよ。そのときあなたは彼女を、一体どうするのかしらね。そして彼女は、愛する男の重荷にしかならない自分自身を、どう思うのかしら……私には分かるわ。同じ女だから、ね」
 ここで茉を殺してしまいたい衝動もあったが、そんなことをしてもりんが助かるわけではない。このまま、りんが蹂躙されるのを待っているだけだなんて、とても、耐えられない。
 こんな仕打ちを受けるために彼女はここへ来たのではない。前世であんな目にあって、少しでも不幸が報われるために生まれ変わったのだ。こんなこと、許されるはずがない。
「神」が見捨てるなら、「鬼」が守ってみせる――。

 才戯の瞳が、赤く光った。
 内側から、溶岩のようなものが湧き出てくる。これは、鬼神の血潮だった。
 ――恨め。
 あの声が、才戯の頭の中に響いてきた。
 ――殺せ、殺せ。
 ドクン、と胸の中で大きな太鼓が鼓を打つ。

 才戯の変化に茉が気づいた。異様な気配を察知し、茉は笑みを消して彼から一歩離れた。

 目に見えない妖力が、才戯の腹の底に渦巻いた。次に心臓へ駆け上がり、腕を通って右手に集まってくる。
 才戯は赤く燃える瞳で右手を見つめる。掌が、傷口を中心に盛り上がった。
 その現象を目にし、茉は後退さった。
 才戯の掌からは、脈を打ちながら一本の刀が迫り出してきた。
 牙落刀である。
 大きく、鋭く、呪われたそれは、才戯の中にあった怨恨の念と猛毒を吸い込みながら再び姿を現した。
 才戯は柄を掴み、手に馴染ませる。呼吸は乱れており、毒の後遺症も完全には消えていなかった。
「……な、なんなの」
 茉は目の前で起こった現象を信じることができず、その場に座り込んだ。
「一体、何? あなたは何者なの……!」
 茉への怒りはなくならないが、今は彼女に構っている暇はない。体に残る痺れを堪えて、才戯はりんの元へ走った。


 屋敷の裏口を抜けると竹林が広がっている。
 りんは裸足のままそこへ迷い込み、当てもなく逃げ続けた。どこをどう走ったのかは分からないが、いつの間にか周囲は竹ではなく、名もない木々が繁る森になっていた。
 何度か転び、木の枝などであちこちを引っ掛けて、既に傷だらけになっている。石や樹木にぶつけた足は酷く痛み、折れてしまいそうな激痛がある。それでも走らずにはいられなかった。
 せめてどこかの町に出てくれればと祈るが、森は深くなるばかりで人の気配などどこにも感じられなかった。
「……誰か」
 叫ぼうにも力が入らない。背後から、自分より体が大きく、鍛えた男たちが追ってくる。おそらくすぐにでも捕まえることができるのだろうが、彼らはそれをせずに、りんを森の奥へと追いやっていく。
 徐々に体力を削り、恐怖が極限に達するまで追い続けるつもりなのだろう。
 怖い、怖い……逃げ切れるわけがないのに逃げなければならず、捕まってしまえば、それ以上の恐怖が与えられるのだ。
 りんの足がもつれ、大きな木の根に崩れ落ちた。一度止まってしまった足は限界を超えており、力を入れても立つことができなくなっていた。りんの体中に寒気が走った。足が釣り、呼吸もままならない。血の滲む弱々しい手で、頭上にあった木の枝を掴む。なんとか立ち上がろうとしたそのとき、りんの目の前に盗賊が立ちふさがった。
「もう終わり?」
 男は仁王立ちでりんを見下ろして笑っている。りんはもう微塵も動けず、石のように固まってしまった。
 その背後から残りの盗賊が歩み寄ってくる。
「大人しい人だねえ。泣きも叫びもしないなんて」
「それはこれからだろ。堪え切れずに溢れる涙、叫び声、最高じゃないか」
 男たちは笑いながらりんを取り囲んでいく。
 もうお終いだと、りんは気が遠くなりかけた。

 男たちの頭上で、木の葉の揺れる音がした。男たちは反射的に頭上を仰ぐ。
 一人の男に、黒い雨が降り注いだ。
 一体何が起こったのか、誰も把握できない。
 男に向かって落ちてきたそれは雨ではなかった。黒く、長い針金のようなもの。数え切れないほどのそれが男の顔、胸、腹に垂直に突き刺さる。
 一瞬の出来事だった。男が誰だか区別もつかない状態になったかと思うと、針金のようなものは途端にふわりと糸状になった。同時、大量の血が男から噴出した。
 血を浴びながら、残りの盗賊が悲鳴を上げた。
「な……!」
 まともな言葉が出てこない。取り乱しながらりんから離れ、黒い糸の正体を探した。
 糸は揺れながら上空に引いていく。その先を目で追っていくと、糸は高い木の上から伸びており、葉の影に吸い込まれていっていた。男たちがそこに集中していると、突然それは姿を現した。
 長い黒髪を揺らした少年が、地上に着地した。いつもは綺麗にまとめている黒髪は乱れ、まるで生きているように蠢いている。
 暗簾だった。彼はゆらりと立ち上がり、顔を上げる。
 りんは信頼できる者の姿を見て安堵したが、暗簾は彼女が知る彼ではなかった。
 目の色が違う。野性の動物が獲物を捕らえたかのように爛々と光り、揺らす指先には鋭く尖った爪が漫ろ伸びていた。中途半端に浮かべている笑みの意味は理解しがたい表情であり、口の隙間からは牙が覗いている。
「な、何者だ……!」
 男の一人が絞り出すように声を上げるが、彼は返事をしなかった。暗簾は一人ひとりの顔を見ていき、最後にりんに目を移し、込み上げる何かを抑えるような声で呟いた。
「……りん。こいつら、知り合い?」
 りんは息を飲んで、必死で首を横に振った。
「じゃあ……悪人、だな」
 りんが答えるまでもなく、暗簾は再度男たちを見回し、耳の近くまで口の端を上げた。
「殺して、いいんだよな」
 その狂喜の微笑みに、男たちだけではなく、りんも飲み込まれた。
「人殺すの、久し振り……!」
 暗簾の中の妖怪の血が沸騰していく。堂々と、思い切り人を殺せるこの状況に見舞われたことを心から喜んでいたのだ。
 男たちも黙っているわけにはいかず、恐怖を振り切って暗簾に刃を向けて斬りかかった。
 その後は、文字通りの惨劇が始まった。
 誰一人として暗簾の動きや妖術に足も手も出ず、次々に肉塊に変えられていく。変幻自在の頭髪はときに細く、ときに太く絡み合い、刀のように硬くなったかと思えば瞬時に縄のようにしなやかに人を翻弄する。異形の力を前に逃げ出そうとする男もいたが、暗簾がせっかくの獲物を逃がすはずがなかった。
 辺り一面の樹木や土の中に張り巡らせた細い髪の毛は四方八方から襲ってくる。足を捕らわれ逆さに吊られ、頭に血の集まった男の耳や目元が肉を抉られた。すると大量の血が噴出し、男はいつまでももがき苦しんでいた。
 直接刀で斬り付けても、暗簾は猫のように身軽に木に飛び上がったり、下りてきたかと思うとそのまま土の中に姿を消したりと、男たちの武器は一切通用しなかった。
 できるだけ残酷に、猫が鼠を甚振るように――茉が望んだ仕打ちは、手下の男たちが受ける羽目になっていた。
 暗簾はここしばらく服や体が汚れることを避ける生活をしていたが、妖怪のときの感覚が甦ってしまっている今は、むしろ返り血を浴びることに快感を覚えていた。
 ……懐かしいな。
 あの頃はよかったと、もう慣れたはずだった、一回り小さくなった体に忌々しさを抱きながら、暗簾は昔を思い出していた。
 りんは血の飛び交う嵐の真ん中で、巻き込まれないように縮こまっているのが精一杯だった。もう怖いという感情を超えてしまっている。見開いた目は虚ろで、顔の前で組んだ両手は小刻みに震えていた。
 時折、りんが背中をつけている大木にも動く頭髪が絡みついてくる。暗簾は気が昂ぶっていたが、彼女だけは傷つけないように意識しているらしく、樹皮を削ったり、頭上の枝を折ったりしつつもすぐにそこから離れていた。しかし辺りに飛び散る血肉までは制御できず、じっとしているりんも、次第に残酷な色に染まっていっていた。
 周囲には次第に血腥ちなまぐささが漂い、木々や岩は暗簾に倒されたり潰されたり、根っこから掘り起こされたりして見通しがよくなってくる。
 男は最後の一人になり、かろうじて立っているのがやっとの状態だった。
 左腕は肩から引きちぎられ、顔面には斜めに横断する深い傷を負っている。暗簾は返り血で赤く染まった姿で男に向き合い、少し背を丸めて不適な笑みを見せつけた。
 男はもう何も言わなかった。殺されることは承知で、最後の力を振り絞って刀を振り上げる。刃先が暗簾に届く寸前、暗簾の一総ひとふさの髪の束が目に見えない速さで薙ぎを払った。それによって男の残った右腕も斬り落とされ、刀を掴んだままの腕が、りんの傍に飛んでくる。
 男は戦意を喪失して膝を付き、虫の息で暗簾を見つめた。暗簾も見つめ返し、別れの言葉の代わりに目を細める。
 男の足元から、大量の黒い針金がまっすぐに生え伸びた。男はそのすべてに串刺しにされ、声も出さないまま、息絶える。
 森の中は静寂に包まれた。暗簾はまだ興奮が収まらなかったが、それを抑えて一息つく。
「……楽しかったぁ」
 頭髪は通常の長さに戻っていた。
 暗簾が普通の人間ではないことは聞いていたが、まさか、こんな能力があるなんて驚かずにはいられない。いや、驚くどころではない。肉眼で見ても信じ難い現象だった。
「おい、りん」
 落ち着いてきた暗簾は、本来の目的を思い出す。
「大丈夫か?」
 声をかけてきたのは、いつもの暗簾だった。もう怖くはなかったが、まだ心の整理はできていない。助けてもらったのは確かなのだから、必死で首を縦に振った。
「そうか。よかった」
 屋敷に盗賊が押しかけてきた後、すぐに暗簾の鬼火が彼の元へ走った。彼は仕事中で人と会っていたのだが、あまりの鬼火の慌てように見過ごすことができず、また仕事を放棄して飛び出してくるしかなかったのだった。
「あーあ、これであのジジイとの交渉は完全に決裂だな。まったく、才戯のバカは何してるんだよ」
 そういえば、二人に進展があったはず。まだ暗簾はそのことを聞いていなかった。ここでりんに尋ねてみようかと、彼女の様子を伺った。
 りんはあまりに衝撃的なことが続いてしまったために、まともに話せる状態ではなさそうである。
 それに、と暗簾は思う。目に見えるほど震えている彼女の姿に、妙な違和感を抱いた。
 そのとき、森の奥から声が聞こえた。
「……りん!」
 才戯の声だった。暗簾が声を張って答える。
「才戯! こっちだ」
 暗簾の声を聞き、才戯は途端に安堵感に包まれながら足を早めた。りんの無事な姿を見て、大きな息を吐く。
「……よかった」
 暗簾がここにいるからこそ彼女が助かったのは考えずとも分かる。だが、才戯は彼を素通りしてりんにゆっくり歩み寄り、彼女の前で座り込み、力が抜けたように牙落刀から手を離した。傷だらけでうす汚れてはいたが、乱暴された形跡がない彼女を見て、ただただ、深く胸を撫で下ろした。
「よかった……」
 りんはそんな彼の表情や態度がよほど嬉しかったのか、漏れそうになる声を堪えるように両手を口元に当て、真っ赤になった目を震わせていた。助けてくれるかもしれないという身勝手な期待はどこかで抱いていたが、酷いことを言った自分を、こんなにも心配しているなど考えてもいなかった。
 これほど自分を大事に思ってくれている彼の、一体何を疑うことがあるのか。今まで二人で過ごした時間を思い出しても、才戯は自分を一番に考えていてくれたはず。
 信じよう、そう、りんは心の中で強く誓った。
 そんな二人に水を差すように、暗簾が才戯の背後に立った。
「おい、才戯。何があったんだよ」
 牙落刀まで持ち出し、しかも才戯は腕や肩が痙攣している。それに、暗簾が殺した盗賊といい、ただ事ではないのだけは誰にでも分かる。
「……ああ、クソ。毒にやられたんだよ。まだ痺れが残ってる」
「毒? 誰がそんなものを」
 話すと長くなるが、話さないではいられないだろう。どこから話せばいいのか悩んでいると、今度は甲高い女の声が森の中から響いてきた。
「……ごめんなさい!」
 茉の声だった。彼女だけではなく、数人の気配もある。才戯に嫌な予感が走った。
「許して、父様……!」
 ――やはり。どうやら錆介が出てきたようだ。これは厄介なことになりそうである。りんが助かっただけなら問題ないのだが、手下であろう五人の男は既に惨殺されている。「何もなかった」とは言えない。
 才戯が冷や汗を流している間も、数人の足音は近付いてきていた。



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