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 ――殺せ。
 暗闇の中で、誰かが呟いた。
(……ああ、まただ)
 ――恨め。
 いつからだっただろう。眠りが浅くなるたびに重苦しい男の声が、呪文のように、言い聞かせるように、しつこく語り掛けてくる。
 いや、こちらの意見など聞く耳を持たず、ただ自分の言いたい言葉だけを吐いていくだけなのだ。語りかけているとは言えない。
 ――許してはならぬ。
(だから、何を……)
 聞いても答えてくれないのだが、身動きが取れない状態の彼は口答えするしかできなかった。
 ――決して、この恨みを忘れてはならぬ。
 本当は、分かっていたのだ。顔も知らない先祖が何を訴えてきているのか。
 いつまでこの連鎖は続くのだろう。
 もう終わったことだ。関係ない。
 何度も反発してきたのだが、強い怨念が己の内側に棲み付いているかのように拭い去ることができない。
(……いい加減にしてくれ)
 言っても無駄なのだが、言わずにはいられない。
(お前はそうやって、自分の血の流れる者すべてに怨念を継がせようとしているのか)
 答えは返ってこない。
(そんなことをしても意味がないことを分かっているんだろう? 俺も、他の血縁者も、もうの地の住人でも種族でもない。恨んだところで復讐を果たす手段はないじゃないか。一体俺にどうして欲しい?)
 答えは、分かっているのだ。
 これは「幻」。体に流れる血に居残ったただの呪文。なのに、どうして消すことができないのだろう。
(それに、俺はもう別の人間に生まれ変わった……今となってはこの体に角一本生えてなければ、お前の血は一滴も流れていない。何よりも、いくら怨念をたきつけられても俺は何もできない)
 ――恨め、恨め、恨め。
(恨んでどうする……!)
 ――殺せ、殺せ!
(何を? 誰を殺せと言うんだ。そして殺して、一体どうなる?)
 ――憎い。我を地に落とした奴らが憎い。同胞はすべて殺された。だが我だけを生かし、見せしめの如く地の底へ落とした。奴らは天上から我を嗤っている。決して許してはならぬ。
 この声の言うことが本当なら、天上人の嗤いを止める手段は一つ。すべてを破壊し、殺すこと。そうならば、声、つまり祖先の言っている意味は理解できる。
 しかしそれほどの力が自分にあるわけがないし、あったところで、自分は真実を知らないのだ。恨む理由は、ない。
 才戯は鬼神の血をもつ妖怪として魔界で生まれ、物心ついた頃にこの因縁を知り、いつの間にか「天上人は卑怯な生き物」であるという意識が植え付けられていた。しかしその声に反するように、今の才戯の、あまり一つのことに執着しない性格は出来上がっており、滅多に会うことのない天上人になど興味さえ持っていなかった。
 気がついたら生まれていた。強い力の宿る角を持ち、肉体や妖力に恵まれたことは、先祖に感謝してもよかった。だが、大昔に、顔も知らない誰かに何があったのか、知る手段もなければ知りたいとも思わない。
 魔界での生活に不満はなかった。厄介なことに首を突っ込んでしまい、半妖となってしまったが、それも受け入れるに容易いことだった。
 ただ、理由もなく過去に拘束されるのだけは、苦痛以外の何でもないのだ。
 もう才戯の中の「鬼」は死んだ。いい加減に解放してくれ。こうして何度生まれ変わっても、永遠に先祖の業に苦しめ続けられなければいけないのか。
 業を浄化する手段があるなら、誰か、教えてくれ。


「……才戯様」
 それは、恨みがましい男の声ではなかった。消え入りそうな、透き通った女性の声だ。
 才戯は深い場所から掬い上げられるように目を覚ました。
 視界には見慣れない、高い天井があった。胸を大きく揺らして呼吸を整えていると、見開いた目の前を緑色の鬼火がふらふらと横切っていく。
 そうだ、確か、不気味な幽霊屋敷に宿替えし、片付けをしている最中だった。
 凝り固まった体を起こすと、全身に嫌な汗が噴き出していることに気づく。額のそれを拭っていると、傍らで心配そうに様子を伺っているりんの姿があった。
「……うなされていましたよ」
 はあ、と才戯は息を吐く。何を見ていたのか、説明する気にはなれなかった。自分自身もよく分からないのだから。
 才戯はりんを無視して、辺りを見回す。鬼火たちがせっせと掃除を続けてくれているようで、だいぶ埃臭さは消え、空気が澄んできている。
 屋敷の中央にある十畳ほどの広い居間を先に整え、昨晩あまり眠っていなかった才戯は片付けをさぼって横になっていた。
 常ならぬものを目にして倒れてしまったりんは、中へ運ばれてしばらくすると目を覚ました。記憶喪失なのが逆に幸いしたのか、思ったよりも早くこの状況を受け入れ、最初は鬼火を見るたびに身震いしていたが、悪さをしないと分かってくればすぐに慣れていった。
 正体不明の人魂はほとんど姿を見せない。鬼火に怯えているのもあるが、もう刻は辰二つ(午前九時)。外はすっかり明るくなり、陰気臭い霧も晴れている。暗闇を好む人魂たちは、影に潜んでいるのだろう。
 この調子なら、今日中に「人間らしい住まい」になってくれそうだ。才戯は夢のことを忘れ、腰をあげた。
「あ、あの……」
 苦しんでいた彼を心配していたりんが声をかけてくるが、才戯は何もなかったかのような顔をしている。
「どうした」
「え……いえ」
 大丈夫かと聞く必要もなさそうな彼の様子に、りんは言葉を詰まらせた。その理由が分からず、才戯は首を傾げる。
「ああ、腹減ったな。町へ行くか」
 自炊などするわけがない才戯はいつも外食だった。今後は炊事場もあるこの場所でどうするかはまだ考えてないが、現時点では食料など一切ない。
 昨日の食事は、夕刻に才戯が適当に買いだしてきたもので済ませた。早朝に起きたりんは一人で、その残りを少し口にしただけで、朝餉あさげと呼べるものではなかった。才戯は昨晩から酒とつまみだけである。一人ならそれで構わないのだが、りんにまで不規則な食生活に付き合わせるわけにはいかない。
 昨日はりんがぼんやりしていたために、町へ連れていくこともなかったのだが、今日は鬼火に紛れて屋敷内を歩き回れるほどの体力があるようだ。ここに閉じ込めるつもりはないのだから、少しずつ外へ出していったほうがいいだろう。どうせ必要な家具などの買い物をしなければいけないのだしと、才戯は踵を返す。
 彼を目で追い、少し踵を上げながらりんが呟いた。
「あの、どこへ?」
「近くの町だ。飯食って、買い物とか……ああ、何か心当たりがあったり、見てみたいところがあるなら寄ってもいいぞ」
「わ、私も、ご一緒してよろしいのですか?」
 ――いちいち面倒臭い女だな、と、才戯は肩を落とす。
「……あのな」ため息を漏らし。「お前は歩くのも飯食うのも人に断りいれないとできないのか?」
 明らかに苛立っている。りんは慌てて立ち上がった。
「い、いえ。ごめんなさい」
「それと、その喋り方もやめろ。事あるごとに謝るな。俺にも、暗簾にも『様』はつけるな。余計な時間がかかるだろ。いいな?」
 りんは叱られた子犬のように目線を落とす。才戯は自分が間違っているとは思わなかったが、虐めている気分になる。
「そのくらいで落ち込むなよ」
「……ごめんなさい」
 ダメだ。埒が明かない。才戯は大きな声を出さないように注意を払いながら、ゆっくりと話す。
「だからな、お前は自分を居候か何かと思ってるかもしれないが、そんなことは忘れるんだ。他にやることがあるんだから、余計なことは考えるな」
 りんは泣きそうな顔になりつつ、才戯をじっと見つめた。
「ここには何もないだろ? 今片付けてて、住めるように準備をしているところなんだから、遠慮しないで自分の好きなようにすりゃいいんだよ。そもそも、お前が何者なのかがはっきりしないことにはどうしようもないんだ。だからお前はお前でどんどん行動しろよ。宿を借りているからって縮こまって、こんな人里離れた屋敷でじっとしてても何もならない。そうだろう?」
「…………」
「答えろ」
「は、はい」
「返事はいい。分かったのかどうか、答えろ」
「……わ」りんの目が、潤んだ。「分かりました」
 しまったと、才戯は体を引く。このままでは泣き出してしまいそうだ。気をつけたつもりだったのだが、言い方がきつかっただろうかと、冷や汗が流れ出した。分かったとりんは言うが、絶対分かってない。やはり自分ひとりの手には負えないのかと、ついつい暗簾に助けを求めたくなってしまう。
 正直、これなら、人の都合など無視して勝手にやりたいことを行使する樹燐の方がマシかもしれないなど、才戯は非現実的な方向にばかり考えが走ってしまっていた。
「ああ、もういい」顔を逸らして。「いいから、これだけは言っとく。いや、頼む。泣くな。いいな」
 今まさに泣いてしまいそうだったりんは、ぐっと堪えて鼻をすすり上げた。目元をこすって、必死で感情を抑えようとしている。
 まるで、子供だ。素直なのではなく、自分で物事を判断できないのだ。できたとしても、行動に移せないのだろう。何がそうさせているのか、先が思いやられるという思いと、誰かが傍にいないと簡単に壊れてしまう彼女の姿が容易く想像できる。
 嫌悪感はないのだが、彼女を守る役目を自分が背負うことになっている事実を考えると頭が痛くなってしまう。決して自分もりんも、嫌がるものを無理に繋いだわけではない。どちらかが根を上げない限り、この戦いは終わらない。
 これが「人付き合い」か、と、才戯は遠い目になる。
 才戯がモヤモヤしている間に、りんは気分を切り替えて、彼に言われたことを前向きに受け入れる努力をした。
「あ、あの」胸の前で両手を組み。「それでは……一つお願いがあるのですが……」
 りんから頼みごとをしてくるのは初めてだった。開けっ放しになっている障子の向こうへ、彼女はそそくさと消えたかと思うと、すぐに大きな箱を持って戻ってきた。抱えていたものは箱ではなく、木製の鏡台だった。
 古いものだが、綺麗に磨かれている。才戯が寝ている間にりんがやったのだった。
「これを、いただいてもよろしいでしょうか」
 りんは鏡台を下ろし、両開きの戸を開く。
「奥の部屋にあったものです。鏡面の隅は少々くすんでいますが、しっかりしていて、まだまだ使えそうなんです」
 下段にはいくつかの引き出しがあり、そこを開けると、既に中身が入っていた。暗簾にもらった小物を入れて、飯事ままごとのように遊んでいたのだろう。
 記憶がなくて右も左も分からない状態だというのに、女はこういうものを欲しがるものなんだなと、才戯は呆れつつ、楽しそうな表情を浮かべている彼女を見て少々安堵していた。
「別に俺のじゃないんだから、好きにすればいい」
 彼の言葉は冷たいが、りんは微笑んだ。
「ありがとうございます」
 この屋敷には、今までの住人の置き土産がいろいろと転がっているようだ。
「使えるものは使えばいい。でも、何かあったらすぐに言えよ」
「え? 何か、と仰いますと……」
「いや、例えば、変な霊が取り憑いてて、生首とか……」
 あってもおかしくないと軽く口にしたのだが、青ざめて手を引っ込めているりんに気づき、余計なことを言ってしまったと才戯は口を閉じた。せっかく機嫌をよくしてくれたのに、りんは再び涙目になって震えてしまっていた。


 不吉な話題は今後しないようにと決め、才戯はりんを連れて外へ出た。
 橋の先に広がる稲穂の隙間に人影が見える。農民の朝は早い。早朝に通ったときもいたのかもしれないが、背の高い穂の影になって気づかなかったのだろう。
 人里離れているとはいえ、いずれ「幽霊屋敷に人が住まっている」と噂が立つ予感がした。そのときは幽霊のふりでもすればいいか、などと悠長なことを考えながら、才戯は畦道を進んでいく。
 背後から着いてくるりんは、気持ちのいい気候にすっかり霊のことは忘れていたのだが、ふとあることを思い出して目を泳がせた。
「……あの」
「?」
「気になったことがあるのですが」
 才戯は返事をせずに肩越しに振り向く。彼に発言の許可を得ようとすればまた怒られると思い、りんは続ける。
「才戯様は……昨晩、どこへ?」
 ギク、と才戯の肩が揺れた。どうしてそんなことをと、焦りを隠しきれずに彼女から顔を逸らした。
「私、疲れてしまっていて……図々しく深く眠っておりましたが……」
 申し訳なさそうにしているわりに、どうしていらぬ詮索をしようとしているのか――才戯の鼓動が早まる。
「……暗簾様が、何か意味深なことを仰っていたので、私なりに考えてみたのです」
 りんには見えていなかったが、才戯は目を見開いてみるみる怒りの形相になっていく。
(あのクソ野郎……! やっぱり変な話ばっかりしてやがったな。今度会ったら締め上げてやる)
「……ごめんなさい。私のせいだったのですね」
 りんは才戯の背中で、俯きながら声を落とした。
「気がつかなくて申し訳ないです。私は自分のことしか頭になくて……恩人であるあなたに大変失礼なことをしてしまいました」
 もう聞きたくなかった。お情けで夜伽をしてもらおうなど、願い下げである。昨晩はそのくらい当然だと考えていたが、こんな状況でいざ「どうぞ」と言われても、まるで卑しく貧しい獣のようで情けないではないか。しかも、なぜこんな清々しい朝の、風流な畦道でそんな話をと、才戯は逃げるように足を早めた。
 しかし、りんは小走りで着いてくる。
「少し考えれば分かることですよね……布団が一式しかない一間では、一人しか休めないなんて」
 最後まで言うつもりか。考えるなら、相手が返事に困ることまで考えてくれ。もうやめろと、彼女を止めようとした。
「……私があなたの寝る場所を横取りしてしまっていたのですね」
 した、が、りんの言葉は才戯の「期待」を裏切るものだった。
「まさか床で寝ることもできずに……才戯様は私に場所を譲って、どこかに宿を借りにご足労されたのですね」
 想像していなかった展開に、才戯の思考は停止した。
「本当に、ごめんなさい。あなたの深い思いやりには頭が上がりません。こんな私など、外に放り出されても構わないのに、あなたは何も言わず、恩を着せることもされないなんて……そんなことにも気づかずに、私は当たり前のように疲れを癒させていただきました。お許しくださいますでしょうか」
 才戯の足取りが緩む。
 安心、と同時に、残念な気持ちが交錯した。
 どうやら、彼女に「布団が一つしかないなら一緒に寝る」という発想はないようである。それに、と思う。きっとりんは、自分にそんな価値はないなどと思っている。それどころか、そんな発言は失礼に当たるとまで考えていそうな気がする。だから彼女から誘ってくるなんて、絶対に、あり得ないということを、才戯は心に深く刻んだ。
(……ああ、そうか、そうなんだな)
 才戯は自分の中で一つの答えを見出す。「りんと樹燐はまったく逆の性格」なのだということである。二人が同一人物かどうかは別の話として、樹燐が言いそうなことをりんは言わず、樹燐が言わないことをりんは言うのだ。そう考えたら、少しは彼女を理解できるかもしれないと思った。
 なんて、極端なんだろう。真ん中はいないのかと、才戯は胸中で愚痴る。
 それにしても、拍子抜けとはこのことだ。だが、それでいいと思う。変に意識されても気まずいし、今の状態で関係を持ってしまって、後で取り返しのつかないことになる可能性もあるのだ。二人の距離を確定するのは、せめて彼女に自我が芽生えてから――それでいい。そうでなければ、自分も納得がいかない。
 才戯は胸を撫で下ろしながら、澄んだ空を仰いだ。
 ああ、なんて平和なんだろう――。
 虚しいほど、心が安らいだ。
「……あの」
 背を丸めて頭を垂れる才戯に、りんは恐る恐る声をかける。
「あ? ああ」才戯は半笑いを含め。「気にするな。酒を飲みながら朝まで過ごすなんて、よくあることだから。慣れてる」
「そ、そうですか……」
 才戯の虚ろな笑顔が怖くて、りんはこれ以上話を続けることができなかった。怒っているのとは違うようだが、また何か間違ったことを言ってしまっただろうかという不安が残った。
 その後二人は町に出るまで、他愛ない会話でぎこちない雰囲気を凌いだ。



◇  ◇  ◇  ◇




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