Blood



 チビは一週間をかけて一人旅を続けた。
 オートレイ家を出て、またイデルに電話をした。盛り上がることのない会話を少し交わし、チビは彼の店に行くことにした。褒めも貶しもされなかったが、そこまでの道案内やちょっとした相談事は、今後は副店長であるシルファにするようにと、別の連絡先を与えられた。シルファは人間の青年で、イデルよりもずっと明るくて優しい。チビもその方が気が楽だと思い、了解した。
 チビは旅にも慣れてきて、宿や食事もスムーズに取れるようになった。たまに気にかけた様子で声をかけられることもあったが、行きと同じように「親戚のうちに行ってる」とはっきり答えると、それ以上しつこくする者もいなかった。
 バスや電車に乗ったり、いろんな景色を見ていると、辛いことも考えられずにいられた。だが、忘れられることはなかったし、忘れるつもりもなかった。チビは一人でいろんなことを考えた。まだ何かに対する答えは出せなかったが、自然と心は落ち着いていた。天気のいい夜は月を眺めた。月にいろんな話をした。だがチビは、二度とブラッドに会いたいと願うことはしなかった。
 彼の優しい姿も声も、もうどこにもなかったが、なぜか彼がここにいるような気がしたからだった。


 チビの目の前に見たことのある町並みが広がった。
 初めてブラッドと訪れた町だ。イデルの店までの道は覚えていなかったが、道行く人に聞くと誰もが知っており、教えられたとおりに進めばすぐに辿り着けた。確か、裏口から入ってくるように言われた。店の裏に回ると、小さな戸があった。近づくとそれが開いた。中から出てきたのは料理人姿の青年だった。すぐにチビを見つけ、子供のような笑顔になった。
「チビ君?」
 その声で、彼がシルファだとすぐに分かった。シルファはチビの想像通り、人のよさそうな青年で、クセ毛風にセットされた茶髪にコック帽という姿でチビに駆け寄った。
「よかった。元気か? お腹は空いてないか?」シルファは喜びで少し興奮していた。「疲れただろう? 中へ。イデルも待ってるから」
 シルファはチビの肩を押したが、無表情で突っ立ったままの彼に首を傾げる。
「どうした?」
 チビもよく分からなかった。疲れているし、お腹も減っている。意識ははっきりしているし、体調も悪くない。理由は分からなかったが、固まってしまっていた。
 シルファはそんなチビの様子を眺め、膝を折って優しく抱きしめた。チビは驚くこともなく、少し瞼を落とした。
「……お帰り」シルファは耳元で囁く。「よく、頑張ったね」
 チビは体の力を抜き、やっと、頷いた。シルファは何度も彼の頭を撫で、小声でよかった、よかったと繰り返した。


 裏口の戸は厨房に繋がっていた。中はいろんな料理器具でゴチャゴチャとしていた。ランチタイムの終わったこの店は一度看板を下ろし、再び夜に開店する。今は昼の片付けも終わり、ほとんどの店員が出払っている時間帯で、中は静かだった。
 その奥に、この雰囲気に似つかわしくない者がいた。チビの顔が青ざめる。イデルだ。炭のように真っ黒な顔。ブラッドが言っていた通りの、顔を斜めに横断する生々しい傷跡。その中にある鋭い金色の瞳と白い牙が迫力を増している。そんな彼が纏うコック服や帽子は、ギャグを超越して、寒気を感じさせる皮肉に見えた。衣服に隠れて義足は見えない。イデルはチビを見つけても、まったく動じなかった。彼専用の大きなチェアでふんぞり返ったまま、チビを睨みつける。いや、きっと普通に見ているだけなのだろうが、チビは威嚇されているようにしか思えない。死んだふりどころか、本当に気を失ってしまいそうだった。
 シルファは漂う重い空気に構わずに、イデルに笑いかけた。
「イデル。チビ君だよ」
 イデルは必要以上に遅いテンポで「ああ」と呟く。
「ブラッドの隠し子か。チビなんて野良犬みたいな名前付けられて、扱いの悪さがよく分かる。可哀想なガキだ」
 言いながら、牙を見せて笑った。チビは反論できずに棒立ちしていた。シルファは吹き出しながらチビの背中を押す。
「だから、それは誤解だって言ってたじゃないか」
「どっちでもいいけどな」再び、チビに目線を戻し。「で、お前は何しに来たんだ」
「えっ」
 チビがつい声を出すと、すぐにシルファがフォローに入る。
「そんな言い方するなよ。彼だって、急に言われたって分かるわけないじゃないか。とにかく休ませて、チビ君の好きなようにさせればいい。お前もそのつもりだったんだろう?」
「ふん。うちはタダ飯は食わせない。ここにいる限りは働いてもらうからな」
 イデルは目を伏せて腰を上げる。義足であることなど思わせないほど動きはスムーズだった。精密で使い慣れたものそれは、日常生活では特に支障はない。
 イデルは一度立ち去ろうとしたが、ふと足を止めた。大きな背を向けたまま、呟く。
「お前は、なぜ人形を届けた?」
 チビは、自分に言われていることに気づき、目を丸くした。シルファは隣で黙っている。質問の意図が分からない。変なことを言えば怒られてしまいそうな気がした。かと言って、チビは綺麗な言葉で飾ることなどできる人間ではない。唇を尖らせ、怯えを隠そうとしたいのか、無意味に反抗的な態度を取った。
「べ、別に。ただ……」
「ただ?」
「ただ、他に、やることなかったから」
 つまらない答えに、シルファがため息をつく。イデルは何も言わずに厨房を出て行った。足音が遠ざかったのを確認して、チビはやっと緊張を解いた。シルファは巨大な冷蔵庫に向かい、肩越しにチビを振り返った。
「何か飲む?」
「え、うん」
「何がいい?」にっと笑い。「コーヒー?」
 チビはあの時の嫌な出来事を思い出した。どうやらシルファは、前にブラッドにからかわれていたところを見ていたようだ。
「いい。それだけはイヤだ」
 予想通りの反応にシルファは楽しそうだった。分かっていたかのように冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出した。グラスに注いでチビに渡し、近くにあったパイプ椅子に腰掛ける。
「そんなに怖がらなくて大丈夫。気持ちは分かるが、彼はあれで君のことを気にかけているんだ」
 チビはジュースを口に運びながら、シルファの話に耳を傾けた。
「ここの面接だって凄く厳しい。能力は当然だが、イデルがアレだろ? まずは彼と適度に付き合える者でなければ採用されない。ここは結構敷居が高いんだよ」
「……ふうん」
「何よりも、イデルは君を褒めていた」
 今まで、あまりここで働く気のなかったチビは興味なさそうに聞いていたが、その言葉で手を止めた。
「イデルは妙に、今回のブラッドさんの仕事のことを気にしていた。伝言屋を使って彼の情報を集めていた。だから、彼が死んだということもすぐに伝えられた」
 その日は仕事にならなかった。店はいつも通り営業したが、イデルはあまり動かず、声をかけても上の空だった。
「誰もが心配したよ。それに、イデルのあんな様子は、彼の下で一番長い俺だって初めてだった。俺がしつこく問いただしたら、やっとイデルは話してくれた。この店の者はみんなイデルを信頼してるし、彼と兄弟のようだったブラッドさんのことも大好きだった。いろいろ考えて、定休日の前日に俺がみんなに話した。その日の夜は、店全体が葬式のようだった」
 しんみりと話すシルファの隣で、チビは俯いた。
「それまでは、ブラッドさんの不幸を知っているのは俺だけだったから、イデルは君から電話があったときのことを自分から話してくれた。あれだけ暗かったイデルが、笑っていたよ。君のことを『バカだチビだと聞いていたが、思ったよりタフなガキだ』ってね」
 それは褒められているのだろうかと、チビは複雑な気持ちになった。バカだチビだって、一体ブラッドはイデルにどんな説明をしていたのだろう。
「でも、ブラッドさんが冒険屋だってことは知ってたけど……まさか、ね。そこまでだったなんて、とても考えられなかった」
 声を小さくするシルファを見ると、彼は薄く微笑んだまま目を潤ませていた。チビも釣られてしまいそうで、すぐに目を逸らした。
「俺も、君がタフだと思うよ」
「そ、そうかな……」
「その年で、例えば親が病気や事故で死んだってしばらくは立ち直れないほど落ち込むのに、次の日には仕事の相談してくるなんて。誰にでもできることじゃないと思う。でも、辛くなかったわけじゃないだろう? だからイデルは君を認めたんだ。俺も、凄いと思うよ」
 やっぱり、褒められているらしい。だが褒められようと思ってやったわけでもなく、自覚がないだけに特に嬉しくはなかった。
「これからどうする? 君ならここに置いてくれるはずだけど。正式に雇うのは年齢的に無理だが、十年くらいは誰かの弟子という形で修行って名目になると思う。それでも十分にいいものを食べさせてもらえるし、君くらいの年からイデルに仕込まれれば、将来はイヤでも一流のシェフになれる。それとも、君は冒険屋になりたいのか?」
 チビは俯いたまま少し考えて、首を横に振った。
「ううん」
「じゃあ、ここにいる?」
 少し考え、やはり首を振る。
「……まだ、よく分からない」
「そうか。そうだよな。今から将来のことを決めるなんて、無理だよな。でもここにいれば寝るところも食べる物にも困らない。ゆっくり考えたらいい。イデルもそうさせてくれるよ」
「……うん」
 シルファは立ち上がり、チビを仮眠室につれていった。夕方前には従業員が戻ってくる。それまで休んで、今日は夜の店の様子を見学すればいいと言ってくれた。チビは素直に従い、店の備品である二段ベッドの下段に潜り込んだ。


 数時間後、熟睡していたチビは騒がしさで目を覚ました。何事かと顔を上げた彼の視界には、狭い仮眠室に詰め込まれた大人たちの物珍しそうな表情が飛び込んできた。
「あっ、起きたぞ」
 大きな声を出され、チビは驚いて布団を体に巻きつけた。どうやら、開店の準備に集まった従業員たちが珍しいもの見たさに押しかけてきていたようだ。中には若い女性もおり、目を輝かせている。
「可愛い! ねえ、この子、ブラッドさんの隠し子って本当?」
「バカ。だから店長の作り話だって言っただろ。全然似てないじゃないか」
「こんな子供、使えるのか?」
「ここで働くかどうかもまだ決まってないんだってば。怖がってるじゃないか。大きな声を出すな」
 チビは目を丸くして固まってしまっている。室の外からイデルの怒鳴り声が響いてきた。
「てめえら、さっさと働け! それ以上サボってると挽肉にして客に出すぞ」
 シャレにならない叱咤に一同は震え上がり、押し合いながら室を出ていく。開けっ放しのままのドアの外には、即座に気合を入れなおした従業員たちの掛け声が飛び交った。チビは布団に包まったまま息を飲む。あの上品なフロアの雰囲気とは別世界だと思った。だけど、とても活き活きしていて、楽しそうだった。チビは取り残されたような気分になった。そこにシルファが顔を出す。
「驚いた?」
「あ、う、うん」
「みんないい奴ばかりだから、緊張しなくていいよ。お腹空いただろう。賄いがあるから相伴すればいい。夜の営業は十時までで、その後仕込みがあって少し遅くなるけど、今日は俺のうちに泊まっていいから。それまで適当にやってなよ」
 チビはにこりともせずに、深く頷いた。ベッドから下り、シルファの後についていった。


×××××


 今日も店は大繁盛だったようだ。夜も更け、厨房は祭りの後のように落ち着いていた。営業中、チビは従業員たちの足元をうろついたが、何もできない彼は邪魔者以外の何者でもなかった。シルファも忙しそうで、ほとんど姿を見ることもできなかったし、結局チビは居辛くなって仮眠室に戻っていた。最後の客を見送ったところで、チビは思い出したようにシルファに呼ばれた。こき使うつもりはなかったようだが、戸惑うチビは掃除やゴミ出しなどを手伝わされていた。明るい従業員たちはチビをペットのように扱い、あまり反応しない彼に構わず冗談を投げかけ、彼らなりのやり方で可愛がっていた。
 そんな従業員たちも片付けを終わらせ、少し雑談しながら一人、一人と帰路についていった。店内にはイデルとシルファだけが残った。
 どっと疲れた様子のチビは、シルファに「まだやることがあるから、仮眠室で待っていてくれ」と言われて、またベッドに横になった。目を開けたまま、物思いに耽った。仮眠室には窓がひとつあった。チビは体を起こし、背伸びをしてそれを開ける。月を探した。空は晴れているが、ここからでは見えない。待っている間、外にいようと思ったチビは仮眠室を出た。裏口に向かう途中、イデルとシルファの声が聞こえ、足を止める。
「……昨日、また伝言屋が来ていたけど」
 二人の雰囲気は暗かった。
「見てたのか」
「また、何かあったのか」
「どうしてお前はそう知りたがるんだ」
「もう俺しかいないだろ。話してくれよ」
 何の話だろう。チビはつい聞き耳を立ててしまった。
 イデルは重い口を開いた。
「ずっと、おかしいと思っていたんだ」
 顔が見えないからか、チビはイデルの声に悲しみや、他のいろんな感情が混ざっているのを感じ取った。聞かないほうがいいような気がしたが、そのまま動かなかった。
「たぶん、ブラッドもどこかで気づいていたんだろうな」
 それでも、はっきりとは言おうとしないイデルに、シルファはため息をついた。
「だから、一人で抱えるなって。冒険屋のことはあまり知らないけど、友達の死の悲しみを分け合えることはできるだろ」
 数秒、イデルは言葉を選んだ。ふっと目に灯す色を変え、結論から口に出す。
「……ブラッドは、意図して殺されたんだ」
 チビの目が虚ろになった。
「任務は、遂行された。オートレイの手にチップは渡った。自宅ではない別の場所で、別の冒険屋によって、無事に手渡されていた。おそらく数日後、ナローゼ降伏のニュースが世界中に流れるだろう。核戦争は免れた。だが、その裏でどさくさに処分されてしまった男の名はどこにも残らない」
「……どういうことだ」
「こないだ、昔ブラッドが間引きの仕事をしたと話したよな」
「ああ」
 一般人であるシルファには信じがたい話だった。だが、今更彼の言葉を疑う理由はなかった。イデルがあったと言うなら、あったのだ。誰にも話せないことだからこそ、シルファは信じた。
「あれは政府からの依頼だった。人口過密で手に負えなくなった小国の一部を、事故にみせかけて消滅させてくれと。そんなメチャクチャで自分勝手な依頼、ブラッドという人材がいなければ、組織は断っただろう。だが、依頼を受け、ブラッドもまたバカ正直に遂行した。ほんとに、あいつはバカだ。言いなりになるにもほどがある。仕事である以前に、人としてやってはいけないことくらいは判断できたはずだ」
「まさかブラッドさんは、そのことで……」
「滅ぼされた村を持つ小国は、政府と冒険屋の関与を疑った。火事の原因を探り、異常で不自然な箇所をまとめた書類を突きつけてきたんだ。もし政府が仕組んだことなら、これは大量殺人以外の何でもない、殺された国民に対する慰謝料を払ってもらうと、莫大な金額を請求してきた。もちろん、認めるわけにはいかない。金の問題だけではない。世界中から批難を受けることになる。政府は真実の暴露を恐れ、組織に相談してきた。そして組織が下した判断は、ブラッドという『物的証拠』を消すことだった」
「で、でも、ブラッドさんはそのことを知らなかったのか」
「小国の訴えは政府と組織の圧力で公にはならなかった。だが小国が騒ぎ続ければそれも長くは持たない。そのうちにブラッドの耳にも届いた。同時に自分の身の危険を考えなかったはずがない。だが、あいつは逃げなかった。何も知らないふりをして組織に従い続けた」
「どうして……」
「罪の呵責だろうな。自分は殺されてもおかしくないことをしたという自覚があったんだろう。やったことを後悔する男じゃなかった。ただ、あまりにもすべてを受け入れ過ぎるところがあった」
「そういうふうには、見えなかったけどな」
「組織はブラッドに死んでくれなんて、そんな子供みたいなことは言えない。ブラッドを殺す大義名分が必要だった。そして、今回の仕事が入ってきた。ブラッドの指揮官、ラグアは切れ者だ。ブラッドを囮にし、敢えてルチルに情報を漏らした。その影で別の冒険屋に荷物を運ばせ、ブラッドにはルチルの大将を道連れにして死んでもらった──大した仕事振りだ。今頃、ルチルは地団太でも踏んでいるだろうし、死者であるブラッドの口座にも、誰も手にしたことがない大金が振り込まれているんだろうな」
 沈黙になった。イデルは皮肉な笑みを浮かべていたが、チビには、彼の殺したいほどの凄まじい悔しさが伝わってきた。それを感じながら、体中が石のように固まってしまっていた。チビの中の感情という感情が働かなかった。
 シルファは微かに震えていた。
「……イデル、気持ちは分かるが、お前はおかしなことはするんじゃないぞ」
「おかしなこと?」
「お前はもう戦えない。それは百も承知のはずだ。それに、きっとブラッドさんは納得している。そうだろう?」
「……さあな。死人は喋らないからな」
「俺の知ってるブラッドさんは争いが嫌いで、平和な場所で笑っているのが好きな優しい人だった。あの笑顔が嘘だとは思えない。だからこそ、犯した罪を償いたかったんだ。そして、逃げずにそれを果たした。俺は、ブラッドさんを心から尊敬する」
「そうだな」
「政府や組織のしたことは許せない。だけど、俺たちはこの世界で生きてる。そして、決して不幸じゃない。だから、このままでいいと思うんだ」
 シルファの声が僅かに上擦った。
「きっと、ブラッドさんもそれを願っている。だからこそ犠牲になったんだと思う。だから……」
「分かってる」
 次第に感情的になっていくシルファを宥めるように、イデルは言葉を遮る。滲み出た涙が、シルファの目から零れた。声を押し殺し、イデルに背を向けた。
「……冒険屋ってのは、そんなものなんだよ」
 シルファの揺れる背中を見つめ、イデルは呟いた。
「それは、俺がよく知ってる」
 シルファは、とうとう嗚咽を漏らす。チビはじっと、ぴくりとも動かずにその声を聞き届けた。


×××××


 次の日の早朝、シルファと一緒に出勤したチビは改まってイデルに向き合った。話に付き合ったシルファが驚きの声を上げる。
「なんだって?」
 チビは前置きもなく「孤児院に戻る」と言い切ったのだ。昨日の夜も、ここまでくる道のりでも何も言わなかったのに、シルファは戸惑った。
「チビ、それがどういうことか分かっているのか」
「うん。俺、冒険屋になる」
 チビの決心は揺るぎなかった。昨日までのオドオドした様子もなく、言葉もはっきりしている。
「俺は別に構わないが」イデルは冷静だった。「理由はあるのか?」
「理由っていうか、そうするって決めたんだ」
「どういう心境の変化だ。お前は冒険屋を嫌っていると聞いたが?」
「うん。嫌いだった。好きになってもない。何て言うか、冒険屋じゃなくて、俺、ブラッドになる」
 イデルは、まるで長い悪夢から覚めたような衝撃を受けた。
「あいつは死んでない。ここにいる。俺がブラッドだ」
 チビのその言葉で、本当にブラッドが死んでいないような錯覚に襲われたのだ。
「俺はあいつが望んだ大人になる。あいつを幸せな世界に連れていく」
 チビは、あれだけ怖がっていたイデルの目をしっかり見つめた。
「その為には、強くならなきゃいけないと思うんだ。だから組織に入って、人殺しはしたくないけど、あいつみたいに強くなる。なんとなく思ったんだけど、世界が平和になるには、今はまだ戦わなくちゃ行けない時代なんじゃないのか? 違うのか?」
 シルファは、はっと息を吸った。
「チビ……まさか、昨日の話を聞いていたのか」
「うん」チビは表情を変えなかった。「それに、あいつが言ったんだ。争いが終わるのはまだずっとずっと先のことだって。そのときはケンカをやめればそれで済むんじゃないのかって思ったけど、そうじゃないんだよな。今はまだ、誰かが幸せになるには、代わりに誰かが不幸にならなくちゃいけない時なんだ。でも、俺はそんなのイヤだ。俺が生きてるうちに叶わなかったとしても、俺は絶対に世界を平和にするって決めて、戦い続ける。生まれ変わっても、叶うまでずっとそうする」
 チビは、無意識に笑っていた。
「『ブラッド』と一緒に」
 反対する理由は何もなかった。子供の浮ついた夢物語のようで、彼なら本当に遂げるかもしれないという根拠のない希望の両方があった。
 少なくとも彼の言うとおり、ブラッドがここにいるということは間違いないと思った。チビさえいれば、ブラッドは殺されたのではないと、決して不幸ではなかったと考え直すことができる。イデルとシルファは同じ気持ちでチビを見つめた。あれだけ遣り切れなかった悔しさも悲しさも、まるで昔のことのように感じ、自然と頬が緩んでいた。
 やはり、神は無情ではない。イデルは目を伏せ、心の中で感謝の言葉を伝えた。

 そして少年は大人になり、今もブラッドと共に戦い続けている。まだ世界は平和にはならない。それでも、いつも笑っていられた。気の合う仲間や、大切な人と一緒に。 <了>