Blood



 チビとブラッドはその足で院の外に出た。門の横にブラッドが止めていた古いオープンの四駆に乗り込む。周囲は荒野で囲まれ、その先には緑が茂っているのが見える。森があり、そこを抜けると大きな街がある。
 ブラッドはエンジンをかけながら、チビに小さな袋を手渡した。
「怪我の応急処置の道具が入ってる。その顔じゃ、まるで僕が虐めたみたいに見えるから何とかしといてくれ」
 チビは袋を受け取り、大人しく言うことを聞く。中を一通り物色した後、消毒液やガーゼを取り出して不器用に顔に当てる。治療の仕方は知っているようだが、あまり真面目にはやる気がなさそうだった。チビは怪我のことより、周囲をきょろきょろ眺めたりし、後部座席に置いてある剣や銃などに意識を奪われていた。口数は少ないが、やはり子供だとブラッドは思う。チビが好奇心旺盛な普通の子だということを確認して、ブラッドは嬉しそうに微笑んだ
 二人を乗せた車は街のある方向に進んだ。
「どこか行きたいところはあるか?」
 ブラッドが前方を向いたまま声をかけると、チビは思い出したように絆創膏を掴んだ。それを手の中で引っ張りながら、答えに困る。いきなり聞かれても、チビは外のことなんかほとんど知らない。でも確か、行ってみたいところややってみたいことがいろいろあったような気がする。突然訪れたチャンスに、チビは混乱してそのひとつひとつが思い出せないで俯いてしまった。そんな様子を横目で伺い、ブラッドは彼の心理を読んだ。
「お腹は空いてないかい」目線を戻し。「君の好きなものを奢ってあげるよ」
 それを聞いて、チビは顔を上げた。鳴るほど空腹ではないのだが、チビの頭の中にテレビや雑誌で見たことのあるいろんな料理の映像が飛び交い、襲われるように食欲が出てきた。
「えっと、俺……」
 反射的に声が出てしまっていた。チビは治療の手を完全に止めて、ブラッドを見上げた。その目は、輝いていた。
「あれがいい。でっかい肉を焼いたやつ」
「ステーキ?」
「そう、それ。すっごい高いやつ!」
 単純。だが、子供らしくていい。ブラッドは微笑んだ。
「いいよ。僕が知ってる一番高いやつ」
「ほんとか」
「うん、でも」
「な、なんだよ」
「高級な店なんだ。その顔じゃ連れていけないよ」
 チビは慌てて薬の入った袋を握りなおし、応急処置に集中した。その分かりやすい行動が可笑しくて、ブラッドは更に目を細める。チビは笑われていることにも気づかずに必死で傷に絆創膏を当てていた。


 それから数十分で街に入った。特に変わったものはないが、それなりに栄えた街だった。住宅街や商店街が多くも少なくもなく立ち並び、古いものから流行りのものまでが一通り揃っている。ブラッドは慣れた様子で駐車場に車を止め、上着の内側に護身用の短銃を差しながらドアを開ける。チビは彼の行動をひとつひとつ眺めながら、同じようにドアを開けて車から降りた。
 チビの顔の傷は、一応といった感じで治療されていた。ブラッドは小走りでついてくる彼をときどき振り返りながら大通りを歩く。チビはチビでブラッドから離れないように気をつけながらも、どうしても周囲の風景に目を奪われてしまっていた。様々な高さや色の建物、いろんな格好をした大人や子供。そのすべてがチビにとって新鮮だった。
 ブラッドに導かれて一度大通りから細道へ入り、抜けると急な坂道に出た。曲がりくねったそれの左右には、色とりどりの雑貨やインテリアを扱っているおしゃれな店が、道行く人を誘うように入り口を広げている。チビは、まるで絵本の世界のようだと思った。こんなに爽やかで、明るい空間に自分がいるなんて夢のようだったのだ。
 あっと思い出したようにチビが前を向くと、ブラッドの姿がなかった。
 途端にチビの足が止まり、胸が痛んだ。見失ってしまった。どうしよう。チビはその一瞬で、内側から急激にこみ上げる何かを感じていた。それが恐怖なのか、悲しみなのか、分からない。
「チビ」
 チビの体が大きく揺れた。反射的に声のしたほうを振り向くと、チビの斜め後ろにある白い建物の影からブラッドが顔を出していた。
「こっちだよ」
 どうやら、彼が曲がったことに気がつかないで通り過ぎてしまっていたようだ。チビはブラッドに急いで走り寄った。一瞬とはいえ、こんなにも人が恋しくなったのは初めてだった。ブラッドとはまださっき出会ったばかりだというのに、まるで彼を兄のように頼ってしまっていることは、本人はまだ自覚していなかった。
 ブラッドはそのまま白い建物に入っていく。どうやらここが目的地のようだ。ドアを開けると香ばしいいい臭いがする。チビのさっきまでの不安が吹き飛んだ。
 店内は広く、そこも外観と同じ白でまとめられた空間だった。昼食の時間帯は過ぎているがそれなりに客が入っている。当然チビは知らないが、ここは雑誌などでも紹介されるほどの人気のあるステーキ専門の店だったのだ。
 ブラッドの姿を見つけ、タキシードを着た男性店員が寄ってきた。軽く頭を下げて席へ促しながら笑顔でブラッドに挨拶をした。
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」
「ああ。イデルは元気か」
「当然です」
 イデルとは、ここのオーナー兼料理長のことだった。どうやら知り合いのようだ。チビは緊張しながら彼の後についてくる。
 席に案内され、椅子を引こうとする店員にブラッドが軽く手のひらを見せると、店員は目を伏せて手を収める。その向かいの椅子に、チビはよじ登るようにして腰掛けた。そして店員はテーブルの上にあったメニューを差し出そうとするが、それもブラッドは止める。
「この店で一番美味いやつを」
 ブラッドが店員と目を合わせてそう言うと、店員もニコリと微笑む。
「つまり、この世で一番美味いやつ、ということですね」
 この店員、いや、この店の従業員全員がシャレの分かる者ばかりだった。もちろん、誰にでもこういう皮肉めいた冗談を言うわけではない。ブラッドがイデルの知り合いであるからこそのリップサービスだった。ブラッドは肩を竦めて。
「そういうことになるのかな?」
「ご注文、承りました」
「デザートも忘れずに」
「かしこまりました」
 店員はメニューを脇に抱えて厨房に姿を消した。チビはぽかんと口を開けて店員を見送った後、ブラッドに向き合った。
「……お前」小さな声で。「なんかよく分からないけど、偉そうだな」
 悪い意味ではなかった。チビはまるで尊敬するかのような眼差しを向けている。ブラッドはテーブルに肘をつきながら。
「偉くなんかないよ」
「でも、なんか……」
 そこに、再び店員が現れた。さっきとは違う男性だった。失礼します、と声をかけてテーブルにナイフやフォークを並べる。チビはそれを夢中で目で追っていた。一通り作業が済み、店員は胸のポケットから紙を取り出した。
「ブラッド様。オーナーより伝言がございます」
 そうだと思った、とでも言うように、ブラッドは少し頷いた。店員は周囲に聞こえない程度の声で紙を棒読みする。
「まだ生きてたのか。この腰抜け」
 えっ、とチビは息を飲む。ブラッドは笑顔のままため息をつく。
「こっちの台詞だ、死に損ない。いいからさっさとうまいものを食わせろ」
 チビはまた口を大きく開けた。店員は表情も変えず、ブラッドの言葉をメモに取りながら伝言を続ける。
「お前がうちの豪華な料理を口にできるほど偉くなったとは、世も末だな。ツケは利かないぞ。まさか食い逃げでもしようものなら、その頭をかち割って脳みそでスープを作ってやるからな。何がデザートだ。馬のクソでも食ってろ」
「はいはい」ブラッドは眉尻を下げて。「まったく、いつも多めに払っているのに、相変わらず扱いが悪いなあ。顔が出せないなら黙っていろって伝えておいてくれ」
 店員は紙をしまい、一礼して席を後にした。チビは何がなんだかで混乱している。
「なんだ、今の」
「オーナーのイデルとは友達なんだ。昔、仲間だったんだよ」
「仲間? ってことは冒険屋か?」
「そう。でも、数年前に事故で右足を失って仕事ができなくなってしまったんだ。それまでは一線で活躍していたんだけど、事故に遭ってからは組織からも厄介者扱いされて、追い出されるような形で引退したんだ。だが今更普通の仕事なんかできるはずもなく、路頭に迷いかけていたようだが、彼は料理が得意だった。ダメ元で店を開いてみると大繁盛して、今では立派な職人だよ。僕は彼が幸運だと思う。冒険屋は冒険屋でしか生きられない者が多い。だけどイデルにはそれ以外の才能があった。きっと、怪我したことは運命のようなものだったと、今なら言えると思う」
 チビは肩の力を抜いた。深くまでは理解できなかったが、この上品な店がそんな過去を持った男によって築かれたものだなんて、誰が想像できるだろう。
「……でも、なんで顔を出さないんだ?」
 友達なら普通に話せばいいのに、と思う。
「まあ、義足だから客の前に出られないっていうのもあるけど」ブラッドは声を潜めて。「それに、彼は熊の獣人なんだ」
「えっ」
「それも、顔に大きな傷のある、かなりの強面なんだよ」
 言いながら、ブラッドは人差し指で自分の額から左耳の下まで線を引いた。想像できない。チビの額に汗が流れた。
「まさか有名な高級肉料理店の料理長が熊だなんて、そこまでギャップがあると逆に笑われてしまいそうだよね」
 ただ怖いだけだと思う。肉料理って、一体何の肉なんだろうと、チビは急に不安になった。
「暗黙ではあるけど」ブラッドは少し周りを気にしながら。「ここは獣人立ち入り禁止なんだ。それに、冒険屋もね」
「え、でも、お前は?」
「僕は特別。イデルは相棒のようなものだったからね。それに、店を開く資金も援助してやったし。そもそもここでイデルが働いていることを知ってる者は少ない。だから、君も内緒にしておいてくれよ」
「う、うん」
「それに、僕のブラッドという名前も、彼がつけたものなんだ」
 ひそひそ話をしているところに、豪快な肉の焼ける音が近づいてきた。チビは目を丸くして背を伸ばす。両手に鉄板を乗せた店員が「お待たせしました」と料理を運んできた。
「油が跳ねますのでご注意ください」
 そう言いながら軽やかな身のこなしで、分厚い鉄板に、それ以上に更に分厚い肉が乗った料理を並べていく。そして「ごゆっくり」と言い残して店員は去っていった。
 チビの目が輝き、それに釘付けになった。憧れていた高級な料理が現実に、自分の目の前にあるなんて。肉はチビの胃袋よりも大きいかもしれない。つまり、嫌というほど味わえるということだ。チビは五感のすべてをそれに集中させていた。今は他のことは考えられない。見ているだけでお腹一杯になってしまいそうなチビに、ブラッドは「いつまでそうしてるつもりだ」と思いながら、合図を送る。
「ほら、遠慮せずに、どうぞ」
 ポカンとあけたチビの口からは涎が垂れそうだった。まるで何かに操られるかのようにナイフとフォークを掴んで、震える手で切れ端を口に運ぶ。チビは噛みながら、縮こまっていく。ブラッドはニコニコして彼の様子を眺めていた。チビはじっくりと味を噛み締めて、上げた顔には万遍の笑みが咲き誇っていた。「おいしい」とかの言葉は出なかったが、その態度で十分伝わる。チビは何も言わないまま、マナーなどの欠片もなく、夢中になって続きに食らいついた。
「ここまで喜んでくれると」ブラッドもゆっくりとナイフを掴み。「僕も嬉しいよ」
 チビは返事もしない。と言うか、聞いてさえいなかった。