01
「災い」は突然訪れる。
いつもそうだ。すっかり忘れかけて、警戒が薄くなったところに隙をついてくる。計算しているのだろうか。まさか、姿を見せず、気配を消してこっちの様子を伺っているんじゃないだろうかとさえ思う。
ランの額に汗が流れる。この緊張感は、三年振りだろうか。
「本当か」
搾り出すその声も、親しい者ならただ事ではないと察するほど重苦しい。開店前の、ロードの端のテーブル席には、目に見えてしまいそうなほどのどす黒い空気が漂っていた。外はまだ明るい。大事な話をするために、店主であるランは裏口から客を招いていた。
不吉な知らせを運んできたのは、狐の獣人ロッカクだった。ランの向かいに腰掛け、上半身を少し倒して彼と同じく神妙な顔をしている。
「間違いないよ」ロッカの口調も重い。「シガーが追跡に失敗したらしい。気づかれて撒かれたそうだ」
「いつの話だ」
「連絡があったのはさっきだよ。シガーが見つけたのが三時間ほど前。いつからこの近辺にいたのかは、情報待ちだ」
「一人だったのか」
「今のとこは誰かと接触したという話はない」
ランは黙った。聞きたいことは山ほどあるのだが、きっとこれ以上はまだ何も分かっていないのだと思い、口を閉ざす。やり切れない表情を隠すように片手で顔を覆った。ロッカはその心理を察した。ランの代わりに大きくため息をつく。
ギガウォール・サイバード。通称ギグ。ランの実の父親だった。
ギグが帰ってきた。
ランが何よりも恐れていたことだった。恐れていた。そのはずだった。なのに、彼の存在を忘れかけていたことを否定できなかった。五年前にランがロードを継ぐことになったとき、入れ替わるように彼は姿を消した。不可解な男だった。どこで何をしているか、まったく情報が入ってこなかったのだ。三年ほど前に一度だけ実家に顔を出した。そのときはすぐにランに追い出されて、しばらくヴァレルをウロウロした後、一日も滞在しないでまた行方不明になった。何をしにきたのかは分からないまま。
それから三年。なぜ忘れていたのだろう。いろんなことがあり過ぎたせいだろうか。辛いこと、そうでないことに毎日追われていた。気がつくと三年前とは状況が変わっている。そうだ。だから帰ってきたに違いない。きっと、「あのこと」を聞きつけたのだとしか……。
苦悩するランの心をロッカは悟って、それを言葉にする。
「最悪だな」
ランの肩が微かに揺れた。その通りだった。
「どうして」ランが呟く。「誰も『死んだ』と言ってくれないんだろうな」
「死んでないからだろ」
「なんであいつは死なないんだ」
「なんでだろうな」
二人は無駄な会話をする。しかしこれ以上は時間を潰せない。ランは顔を上げた。
「とにかく『あれ』をなんとかしないと」
ロッカには「あれ」が何を指しているのか分かる。ランの気持ちは分かるが、少し面白くない。
「お姫さまだろ」肩を竦めて。「なんで俺にまで隠すんだよ」
「……隠してるわけじゃない」ランは目を逸らす。「あれは特殊な生き物だ。いろいろ面倒なんだよ」
「なんだそれ」
確かに、隠しているというより、他に理由があるような口ぶりだった。
「とにかく」強引に話を逸らし。「あれにだけは近づけないようにしなきゃいけない。しばらくどこか安全な場所に移そう」
そう言いながら、ランは席を立った。カウンターに向かう彼の背中を眺めて、ロッカが意地悪な笑みを浮かべる。
「俺を雇ってくれよ」
「は?」足を止め、眉間に皺を寄せる。「何のために」
「姫の護衛。ちょうど暇だし」
「暇なら仕事をやる。ギグを殺してこい」
「無茶言うなよ。こっちが殺される」
「だったら大人しく情報でも集めているんだな。何かあったら逐一俺に伝えろ」
ランに冷たく言い放たれ、ロッカは笑みを消す。ふて腐れて背もたれに寄りかかった。
「なんだよ。そんなに俺が信用できない?」
その言葉を背に受け、ランは再びロッカに向き合う。彼に突きつける緑色の瞳は、鋭かった。ロッカは大きな耳を後ろに下げて、背を丸める。
「しつこい」ランは重く、低い声で。「お前のことは信用してる。実力も認めてるし、そのなんにでも首を突っ込みたがる癖の悪さも、よく知ってる。他に聞きたいことはあるか?」
どうやらこれ以上押し入るのは危険なようだ。ロッカは子供のように拗ねた顔をして誤魔化した。
「はい、分かりました。満足です」
「それは何よりだ」
ランは表情も変えずに、ロッカを置いてカウンターの奥に消えていった。好意で貴重な情報を持ってきたはずだったのに、この扱いの悪さに不満を抱きながらロッカは体の力を抜く。とは言っても、よくあることだった。今更驚くこともない。
それよりも心配しなければいけないことがある。他ならぬギグのことだ。
何をしに来たのか、ただ気まぐれに里帰りしただけなら問題はないだろう。またランが適当に追い出すだけだ。
しかし、今回はそういうわけではなさそうだ。ランが気にしていた通り、「姫」の噂でも聞きつけたに違いない。今まで、ロッカが知る限りでも、ギグはとにかくランの嫌がることを好んで仕掛けてきていた。見た目は間違いなく親子なのだが、関係性はそうだとは思えない異常さがあった。いや、親子だからなのだろうか。今のところ、唯一ランと対等の立場にあるのは父親であるギグだけだった。
ここ五年はギグがいなかったこともあって、二人の凄まじい争いを目にすることもなかった。だが、ギグがロードを経営している間は、冒険屋から最悪は一般人まで巻き込んで、呆れるような事件が続いていた。その中で、ランに対してのギグの嫌がらせは並ではなかった。陰湿で幼稚なものから犯罪じみたことまで、それでも親かと誰もが思ったが、同時に口出す勇気がなかったのも事実だった。
それにしても、と思う。冷静に考えると不思議な現象だった。これほど仲の悪い親子はかなり希少だ。それだけではない。確かにギグは、普段のいい加減さからは分不相応ではないかと思う計り知れない力を持っている。力と言っても腕だけではない。彼を取り巻く環境もそのうちの一つであり、天性で何かの才能を持って生まれたことを認めるしかなかった。ギグが現役だった昔は、ランはまだ若く、今以上に棘があった。その頃なら、ランがギグに勝てないのも、見ていて分からなくもなかった。だが今のランには、それ以上の実力と実績があるはずだ。なのに、何故だろう。何故ランは未だに彼を「畏れて」いるのだろう。
ギグは殺されてもおかしくないほどの所業を積み重ねてきているし、きっとどんな死に方をしても誰も同情はしないだろう。なのに、なぜギグを未だに野放しにしているのか。やはり腐っても父親だからだろうか。厳しいようで、ランは情が深い。さすがに肉親を殺すことはできない、それだけが理由なのだろうか。
その疑問を持っているのはロッカだけではなかった。彼と親しい者は、決して本人に尋ねることはしなかったが、この親子の関係に僅かな違和感を抱いていた。
もしかすると、今回のことでその答えが見えてくるかもしれない。ロッカは不透明な予感を感じていた。期待と共に、不安もあった。起きる事件は、いいこと悪いことどちらへ導いていくのか、それはこれから形になっていくのだろう。ランが神経質になっているのも理解できる。下手を打てば、取り返しのつかない方向へ向かうかもしれないのだ。
軽々しく手を出すのは控えよう。ロッカはそう思った。できることなら、すべてを知りたい。しかし、ここでランの信用を失うわけにもいかなかった。彼の言うとおりにして、大人しく情報をでも集めていよう。それが、きっと最善だ。
ロッカは重い腰を上げる。ロードはまだ看板を上げていない。表には鍵がかかっている。ランが消えた裏口から、やはり面白くなさそうに姿を消した。
そして「災い」は、追い討ちをかけるように容赦なく攻撃してくる。
目に見える者なら、問答無用で撃ち殺してやりたい。それが可能なら、どんなに楽に人生を過ごせるだろう。
シェルはいつもと同じ日常を過ごしていた。城を出て、この屋敷で生活を始めて半年以上が経つ。ここにくるまでは掃除、洗濯、料理を始めとする家事全般をプロの仕事だと思い込んでいた彼女は、いきなり笑われてしまうところからスタートを切った。ランには呆れたような顔をされ、誰にも言わないでと念を押したのにエスやブラッドにばらされてしまい、大恥をかいてしまったことを今でも忘れられない。最初はあまりにもかけ離れた文化の違いに戸惑い自信を失くすときもあったが、周囲に助けられながらシェルは変わっていった。元々細かい作業は嫌いではなかったし、綺麗好きで気配りもできる。少しずつ物を覚えながら、できるだけ体を動かして毎日を過ごしているうちに、体力もついてきた。
それでも、やはり幼い頃からの習慣やクセは抜けない。今でもランのだらしないところや行儀の悪さを口うるさく指摘してしまうときがある。彼は鬱陶しそうに聞き流して直すつもりはなさそうだが、本気で機嫌を損ねたり大きな声で怒鳴りつけるようなことはしなかった。ランは彼女が居心地悪くだけはならないように気を遣ってくれていたのだ。ただでさえ、ここはシェルにとって異世界だった。ヴァレルでは「面白い女」として歓迎されることは分かっていたが、彼女自身が「面白い」と思うかどうかは別だ。今のところは面白く、楽しくやっているようだが、まだまだ分からないことだらけで言葉を失って落ち込むときもある。そんな彼女に、ランは適度に励ましの言葉をかける。難しいことは言わない。ただ、「ここに居てもいい」ということだけを伝えてきた。
シェルはその気持ちを素直に受け取っていた。不安になるたびに、まるで心を読み取っているかのように必ず彼は助けてくれる。幸せだった。危険なこともあるし、心無い人の無神経な言葉に傷付けられることもある。だけど、それ以上に楽しいことの方が多かった。役に立とうとか、褒められようだとか考えないことにした。ただ、ここにずっと居たい。それだけが彼女の望みだった。
――だが、何故だろう。幸せはそう長くは続かないものだ。
神様の意地悪か。それとも、やはりこの世に完璧なものなどないという啓示なのだろうか。人はそれに逆らえない。何者かの差し金であるのなら、武器を持って太刀打ちするまで。だが、相手が「運命」という目に見えないものである限り、苦難を甘んじて受け、乗り越えるには見合った強さが必要とされる。そうやって人は生きてきた。そうするしかない。決して自分だけが不幸なのではない。それを受け入れられる者の数は、まだ少なかった。
電話が鳴った。バルコニーで植木に水をやっていたシェルは顔を上げる。ランは不在だ。一時間ほど前に、急用だと言ってロードに向かった。シェルは急いで室内に戻り、受話器に手をかける。
「はい、お待たせいたしました」
何の警戒もせずに電話に出る。自分からは名乗るなと教えられた。それだけ言って返答を待つ。数秒、無言だった。シェルが少し首を傾げたと同時、相手は突然敵意を向けた。
「……誰?」
低く重い、女性の声だった。ランの知り合いにはマナーを知らない者が多い。よくあるほどではないが、いきなり用件に入られて困ることは何度かあった。だが、今回は少し違う。理由は分からないが、シェルは無意識に緊張した。
「……えっと、あの」
何を言えばいいのか分からずに戸惑っていると、受話器の向こうでため息が聞こえた。
「ランは?」
女性は乱暴に話を進める。ぐずぐずしていると怒られる。シェルは慌てて質問に答える。
「あ、あの。ランは、今出かけています」
「そう。いつ戻ってくるの?」
「えっと、聞いていませんが、たぶんそんなに遅くはならないと思います」
「そう。それじゃあ……」
女性はまた黙った。何かを考えているようだ。その間にシェルの心拍数が上がっていく。心の準備を、と構えているうちに、再び女性は口を開いた。
「伝えてくれる? ルトが怪我して通院しなきゃいけなくなったの」
「えっ、あ……」シェルは反射的に声を出していた。「申し訳ありません。今、メモを取りますので……」
「早くして」
「ご、ごめんなさい」
女性の態度も口調も厳しい。少し震える手で、フォンボックスにあったペンを握る。
「ど、どうぞ」
「いい? それで、今月は急にお金が必要になったの。いつものだけじゃ足りないから急いで送金して欲しいの」
「…………」
「聞いてる?」
「は、はい」
「細かい事は本人と話すから、こっちに連絡するように伝えてちょうだい」
シェルは返事をするのを忘れた。気になる。まだ頭の中は整理できない。だが、どうしても気になる。不安と恐怖からくる震えは全身に回っていた。一度呼吸を整えて、声を搾り出した。
「い、いつもの……って、何のことでしょうか」
女性はすぐには答えなかった。しばらく沈黙が流れ、シェルの緊張が頂点に達しそうになったとき、女性のふっと笑う息の音で体を揺らした。
「何も聞いてないんだ」
シェルの心臓の音が受話器の向こうまで聞こえてしまいそうだった。先を読むこともできない。聞くべきなのか、知らないままの方がいいのかも判断できる状態ではなかった。それを分かっているかのように、女性は続ける。
「あんた、ランの新しい女?」
シェルは虚ろな表情になる。
「彼に……お世話になっている者です」
「ふうん。声や話し方からして、経験の浅い、夢見がちなガキってところかしら。これはまた、意外な女を囲ってるわね、あの男」
女性は小さく笑ったあと、すぐに声のトーンを変えた。
「ごめんなさい。あんたを悪く言う必要はなかったわね。ただ、可哀想だなって思っただけなの」
「……可哀想、ですか?」
「何も知らないんじゃ、こんなこと言われたって面白くないだけよね。気にしないで。とにかく私、忙しいから失礼するわ。伝言、よろしくね」
「……え、あの、ま、待ってください」
切られそうな雰囲気に、シェルは慌てて上擦った声を上げた。それを聞いて、女性は思い出したように話を続ける。
「ああ、質問に答えてなかったわね」少し早口になり。「いつものってのは、養育費よ」
ヨウイクヒ……シェルにはあまり聞きなれない言葉だった。
「ルトの、十歳になる私の息子のね」
シェルはウンともスンとも言わない、言えなかった。
「じゃあ、伝言、お願いするわ」
女性は、自分の名前も伝えないまま電話を切った。受話器の向こうにはツーツーという寂しい音だけが残った。シェルはしばらくそれを聞いていたが、腕の力が抜けたように受話器をそっと置いた。目線を落とすと、そこには急いで書いた「ルト」という乱雑な文字だけがあった。
(……ルト)
シェルはその言葉の意味を考えた。頭が働かない。そうだ、確か「ルト」は名前だ。名前――誰の? 先ほどの電話の女性の、十歳になる息子。そして、ランは「ルト」に「ヨウイクヒ」を払っている。
(どうして……?)
普通に考えれば、導かれる答えはひとつだった。シェルも、ここにきてからドラマや本で見たことのある話だった。ロードでも、客の世間話で似たような会話が交わされていたのを小耳に挟んだこともある。だがそんな事情など、自分には無縁なことだとしか思っていなかった。それが現実で、こんなにも身近にあるなんて。あり得ないとまでは言い切れない。だが、あまりにも突然すぎる。せめてラン本人や周囲の者からでも、ちらっとでも聞いていれば心の準備くらいはできていたかもしれない。
(……どうして、話してくれなかったの?)
私が世間知らずだから? 弱いから? すぐ泣いてしまうから?
それとも、他に理由があるの?
シェルの目が震えた。目頭が熱くなる。唇を噛み締め、ぎゅっと目を閉じる。数秒後に顔を上げ、壁にかかった時計を見て時間を確認する。その後、無意味に周囲を何度か見回した。
もう一度呼吸を整え、電話を見つめる。この電話機は、見た目は普通だがいろんな機能がついている。少しなら扱える。シェルは先ほどの電話の着信履歴を表示させ、番号を書き写した。そして、少し躊躇しながら、その履歴を消す。さすがに逆探知の使い方までは分からない。急いで取ったメモを小さく折りたたみ、ポケットに忍ばせた。
ゆっくりとその場を離れる。何もなかったかのようにバルコニーに向かった。だが、やはり表情は暗い。まだ十分に水を貰っていない植木たちの前に立ち尽くし、シェルは俯いて胸に手を当てた。
(……嫌な女)
シェルはそう、自分を責めた。騙すつもりはない。だが、隠してしまったことは否定できない。だからと言って、何をどうしたいわけではなかった。ただ、言われたとおりに伝えることに抵抗があったのだ。自分を通じて用件が交わされて、それでもまだ何も教えてくれないかもしれない。それが怖かった。女性は急いでと言っていた。きっと隠したところで、今あったことはすぐにランに知れるのだろう。隠したことがバレたら、余計に責められてしまうかもしれない。
まさか自分がこんなに心の狭い人間だったなんてと、胸が痛んだ。だけど何もしないでいられるほど素直にはなれなかった。
知りたい。事実を。そして、ランの本当の気持ちを。そうだ。彼はいつもそうだ。いつも何かを隠している。おそらく自分には関係のないことだったり、余計な心配をさせないように気遣っていてくれているのだと、そう思うことにしていた。何度も自分に言い聞かせてきた。隠し事があったとしても、ランが何かを企んでいるとは思えない。だから探るのは止めようと決めていた。そのつもりだった。
だがやはり無理をしていたのだと、今初めて自覚した。いいことも悪いことも、すべてを知りたい。それが本音だった。何もかもを打ち明けて欲しい。もっと信用して欲しい。支えられるばかりではなく、たまには支えになりたい。もっと、もっと求めて欲しい。
そのときだった。玄関から聞きなれた物音がした。ランが帰ってきた。シェルは飛び出そうになった心臓を落ち着かせ、必死で平静を装った。笑顔、笑顔とそれの作り方を急いで探し、強張っていた顔の筋肉を緩める。
自然に歩けるだろうか、声はちゃんと出るだろうかと心配しながら彼を迎えに玄関へ向かう。ランの姿を確認して、「おかえりなさい」と声をかけた。よかった。ちゃんと言えた。
だが、そんな彼女の心理に気づく余裕もないほど、ランの表情は厳しかった。せっかく作ったシェルの笑顔が消える。
「な、何かあったんですか」
一瞬、もうバレたんじゃないかと息を飲んだが、ランは棒立ちする彼女の横をすり抜けた。
「シェル」奥へ進みながら、早口で。「数日、ここを出るんだ」
「えっ!」
シェルは途端に嫌なことを想像した。後ろめたいことのある彼女は「出て行け」と言われているような気分になったのだ。
「問題が起きた」ランは彼女の顔も見ないまま。「片付くまで安全な場所に非難していてくれ」
言いながら、武器倉庫になっている地下室へ向かっていた。シェルはその後に着いていきながら、早とちりだったことに気づく。だが、ほっとしている場合でもなさそうだ。こんなに慌ただしいランは珍しい。
「な、何があったのでしょう」
ランは普段は使わない奥の一室に入り、床に引いてあったラグを剥ぐ。その下には扉があった。片膝をついて、掛かっている暗号式の鍵を外し始めた。
「詳しいことは後で話す。急いで荷造りするんだ」
まただ。シェルはそう思った。また話してくれない。いつもなら黙って言うことを聞いているところだろうが、今のシェルにはストレスの上乗せにしかならなかった。ランは背を向けたまま、鍵を外す。乱暴に戸を引き開けると砂埃が散った。そのまま中に入ろうとしたとき、シェルがやっと返事をする。
「……分かりました」
結局、彼に従うことに決める。後で話すと言っていた。今はその言葉を信じよう。ランは、暗い顔でその場を後にするシェルのことなど気にもしないで地下に潜った。
NEXT◇BACK◇CONTENTS
|