04
その頃、エスとシェルはある住宅街に足を踏み入れていた。
あれからエスは迅速に、そして目立たないように、シェルの残した電話番号を元に女性の身元を調べた。あまり時間を延ばしていると、邪魔が入る可能性が高くなる。楽しく遊んでいるふりをしながら、少しずつ情報を集めた。電話番号は「カレン」という名前で登録されていた。だが、喜ぶことはできなかった。女性のフルネームは「カレン・サイバード」。息子のルトも同じ姓だった。シェルの不安は募った。子供がいるのなら結婚していてもおかしくはないが、なぜ今でもサイバードを名乗っているのだろう。エスに、離婚しても姓を変えない人は多いと教えられたが、最悪なことを想像せずにはいられなかった。戸籍を調べたかったが、役所を出入りするのはまずい。チャンスを伺ったが、なかなか踏み込めず、無駄に時間を過ごせないとエスがまた思い切ったことを言い出した。もう本人に聞いたほうが早いと、女性の家を訪ねることにしたのだった。
シェルは止めたが、エスが聞くはずもなく、割り出した住所へと乗り込むことになった。
車で移動するより、旅行気分で電車を使ったほうがいいと判断した。女性の自宅はここから四時間ほどかかる。思ったほど遠くないし、土地柄からして意外と裕福な生活をしているのが分かる。いきなり行って留守だったら何もかもがダメになる。日曜を選び、朝早いうちに出発した。後電車一本のところで、エスはカレンの自宅に電話をかけた。在宅かどうかを確認したかったのだ。電話は応答した。カレンだ。いいことではないと自覚しながら、エスは無言のまま切り、すぐに彼女の元へ向かった。
それから一時間。二人はカレンの住む郊外へ入った。地図を見ながら歩を進め、目的地へ近づく。シェルはどんどん息苦しくなっていった。途中で何度も引き返そうとエスの腕を引いたが、シェルは逆に引っ張られてしまうことを繰り返していた。
「ここだわ」
エスが足を止めて、二階建ての一軒屋を仰いだ。あまり新しいものではなかったが、白で統一された清潔感のある家だった。庭には芝生が敷いてあり、花壇も綺麗に整えられている。
エスの背後でシェルは不安そうな顔を下げて呼吸を整えていた。
「や、やっぱり、やめましょう」
シェルはエスの肩を掴む。エスはそれを振りほどいて。
「またそんなことを。あたしが無理やり連れてきたって言っていいから。ほら、行くわよ」
エスは大股で敷地内に踏み込んでいく。シェルも情けない顔をして、慌てて彼女の後についていった。
玄関の前に立ち、エスは遠慮なくインターホンを数回押す。そのたびにシェルの心臓が飛び上がっていた。目を閉じて、誰も出てきませんようにと祈ってしまった。だが、その祈りは届かなかった。扉の向こうではなく、二人の背後から返事は返ってきた。
「どなた?」
シェルは悲鳴を上げそうになった。エスも驚いて振り向く。そこには、少し薹は立っているが、キツめの綺麗な女性が立っていた。長い金髪を掻き上げながら、二人を眺めた。
さすがのエスも緊張したが、息を飲んで女性に向き合った。シェルは震えながらエスの影に隠れる。
「あの、カレンさんですか?」
「ええ。何のご用かしら」
「聞きたいことがあるんですけど、時間、あります?」
「……誰なの」
エスは何から言おうか考えた。シェルは縮こまって自分の背中に張り付いている。仲良く井戸端会議をしに来たのではない。畏まった挨拶もそれほど必要ないと、とりあえず話を進めることにした。
「あたしは、冒険屋です」
その言葉を聞いて、カレンは途端に眉を寄せた。
「彼女に」シェルを指して。「あなたと話をさせるために来ました」
「だから」カレンの口調が厳しくなる。「一体誰なの」
エスは震えるシェルを無理やり前に押し出す。シェルは今にも気を失って倒れそうだった。カレンの顔をまともに見れない。カレンはそんなシェルを見つめて、ふっと目を細めた。
「あのとき、電話に出た子ね」
シェルは見て取れるほど肩を大きく揺らした。
「そうじゃないかと思ったのよ。今朝、ランに電話したわ。まったく、やってくれるじゃない。こっちは緊急だってのに」
「ご、ごめんなさい……」
シェルは必死で頭を下げる。エスはあまりカレンを好きになれなかったが、口出ししなかった。
「いいわ。ところで、話って何よ。ただ謝りにここまで来たわけじゃないわよね」
「あ、あの……その」
シェルはそれ以上言葉が出なかった。エスはため息をつく。これじゃいつまで経っても話は先に進みそうにない。やっぱり仕切ってやろうかと考えていると、先にカレンから切り出した。
「ねえ、あなた。挨拶もしない。名前も言わない、顔も見せないで、それで話がしたいって言ってるの? ちょっと非常識じゃない?」
キツい。エスはむっとするが、突然やってきたのは自分たちの方だ。文句は言えなかった。シェルは胸が潰れそうだったが、このままではどうしようもない。肩で何度か深呼吸しながらゆっくりと顔を上げた。
シェルは潤んだ目でカレンを見つめた。彼女は自分の顔を見て驚愕し、言葉を失っていた。その様子に気づき、エスは警戒する。
カレンは少し考えて、漏らすように呟いた。
「……プリンセス、シェルローズ?」
「!」
しまった。二人は同時に思った。カレンは目を見開いて声を大きくする。
「何。どういうこと? あなた、カストラの、半年前に死んだはずのシェルローズ王女じゃないの?」
「あ、あの……違います。そんなこと」
「私ね、王宮の記事を扱うジャーナリストなの。王女の事故死は大きなニュースだったわ。でも、王女の写真は公開されなかった。誰もが疑問に思ったのよ。写真は一部にだけ流出したわ。それでも公開することはできなかったけど、私はそれのコピーを今でも持ってるの。間違いないわ。あなたよ。この目の色、この顔だった。ちょっと待ってよ。どういうことなの。まさか、王女は死んでなくて、ランが情報を操作して王家に圧力をかけてたっての? なんで? なんでそんなことになるのよ」
カレンは混乱しながらも、シェルに近寄った。
「とにかく、このことは警察に……いえ、カストラに連絡するわ」
シェルの顔が真っ青になった。カレンは震える彼女の腕を乱暴に掴む。
「や、止めてください!」
「何を言ってるの! これは事件よ。酔狂で済む問題じゃないのよ」
「違います……私が好きでやってるんです。お願いです。止めてください」
収集がつかなくなったかと思うと、カレンは急に静止し、そこに突然沈黙が落ちた。
カレンは息を潜めるが、厳しい表情に垂れる汗を隠せなかった。その額に、銃口が突きつけられていた。エスが、冷たく鋭い目で、カレンを抑制している。
「悪いけど」エスの声には迫力があった。「あたし、シェルを警察に突き出しに来たんじゃないの。あなたと話をさせるためだって、そう言ったわよね」
カレンは奮えを抑えて、体の力を抜く。シェルは急いで彼女の手から逃れ、再びエスの影に隠れる。カレンが反抗的な態度である限り、エスは銃を下ろすつもりはなかった。
「シェルの素性や生い立ちなんて、今は関係ないの。お願い、話をさせて。もちろん、断る権利はあるわ。それは強制できない。でも、どうしても通報するって言うのなら、あたしはあんたの敵よ。あたしにはシェルを守る義務があるの」
カレンは唇を噛んで、一歩下がる。眉を寄せ、エスに敵意を向けた。
「……ふん。何が冒険屋よ。ただの人殺しでしょ」
「ええ、そうね。人を殺すこともあるわ」
だから? とでも言うように、エスは涼しい顔を少し傾げる。シェルは怖くなった。これは「殺し屋」のエスだった。二人の間に張り詰めた空気が流れた。周囲には人の姿はない。閑静な住宅街の一部だけが凍り付いていた。シェルはその雰囲気にこれ以上は耐えられない。エスを止めようと息を吸ったと同時、カレンが目を逸らした。
「……何なのよ」歯を噛み締めながら。「話がしたいんでしょ。さっさと用件を言いなさいよ」
カレンが逆らわないことを確認して、エスは銃を下ろした、しかし、まだ威嚇は解かない。いつでも攻撃できることを目で伝えながら、シェルの背中を押す。シェルは我に返ってカレンに向き合うが、この空気、とても声が出なかった。それに、やっと場所が整えられたところで、色恋の話題など振れる雰囲気ではない。どうしよう。シェルは焦りに焦って、エスとカレンの顔を交互に、何度も何度も見つめた。カレンは嫌悪を露わにしたまま、じっと待っている。その中で、とうとうエスが痺れを切らせた。
「あのね」シェルの代弁をする。「つまり、あんたはランの何、ってこと」
そんな率直な、と今度はシェルの顔が赤くなる。もう声を上げて泣き出したくなった。
カレンは動じない。どうせそんなことだろうと思っていた。ふん、と鼻で笑いながら。
「ちょっと複雑なの」目を細める。「その殺気を何とかしてくれたら、お茶のひとつでも出してあげるわ。どう?」
「へえ、意外と心が広いのね」エスは負けじと皮肉る。「これでも舌が肥えてるの。まずいものでないなら、いただくわ」
なんでこの二人が険悪になってしまったんだろうと、シェルは真ん中で平和を祈った。カレンが先に警戒を解いて、すっと玄関へ向かった。
「どうぞ」扉を開けながら。「殺人鬼なら、前も来たことがあるから、遠慮しなくていいわよ」
殺人鬼――誰のことだろう。エスとシェルは顔を見合わせて、カレンに続いた。
室内は特に珍しいものはなかったが、綺麗に整っていた。所々散らかっている。きっと子供がやったのだろう。
カレンは二人をリビングに入れ、先にソファに腰掛けた。当然かもしれないが、お茶など出す気はないようだ。エスとシェルは気にせずに少し室内を眺めていた。そして、シェルがふっと何かに目を奪われた。失礼だということも忘れて、それに近寄る。
「シェル?」
シェルはテレビの横にあるシェルフに飾ってあった写真立てを手に取った。エスも彼女の後を追い、横からそれを覗いた。
「……あ」
つい声が漏れてしまった。
(……ラン?)
そこには、幸せそうな家族のワンシーンがあった。銀狼の獣人が、それにそっくりな子供を肩車している。その隣では優しい顔をしたカレンが微笑んでいる。子供はまだ小さい。数年前の写真のようだ。
シェルは黙ってそれを見つめていた。エスの方が気まずくなる。これは、あまりにも彼女には酷なものだと思った。カレンは素知らぬ顔をして、背後でタバコに火をつける。
シェルは固まっていた。このままじゃまずい、とエスが写真を取り上げようかと思ったとき、シェルは振り向いてカレンに声をかける。
「あの」
改めて見ると、写真の中の朗らかなカレンとはまるで別人のようだった。この数年で何があったのだろう。カレンは冷たく、軽蔑したような目線を返す。
「この人」シェルは自然と悲しい顔をしていた。「誰ですか?」
エスにはその質問の意味が分からなかった。カレンはふっと笑う。
「へえ。分かるんだ」
「この人が、ルト君の父親なんですね」
「そうよ。そして、私の旦那」
「この人は……今どこに?」
エスは話についていけない。シェルは何を言っているんだろう。カレンの顔から、鋭いものが消えた。
「死んだわ」
エスは首を捻った。どうやらランの話をしているわけではないようだ。我慢できずに、口を挟む。
「……シェル。あの、何の話してるの?」
シェルは暗い表情で、写真に目を落とす。
「この人」そっと指でなぞりながら。「ランによく似てます」
「え?」
「この笑顔……きっととても優しい方だったのでしょうね」
「これ、ランじゃないの?」
今度はシェルが首を傾げる。
「見て分かりませんか?」
「だ、だって」もう一度確認するが。「同じじゃない。少し若くは見えるけど」
「全然違います」
「そう……」
人間の目には、同じ種類の獣人は見分けがつきにくいことがよくある。それは逆も言えることだった。ランと写真の銀狼は、色も体格もそっくりだった。カレンが感心したように、よくこれだけで気づいたものだと思う。やはりこれも愛の力なのかとエスは密かに胸が熱くなった。
シェルは写真を見つめ、浸るように呟いた。
「この毛の色……ランより少し白いし、覗く歯は健康的で、きっときちんとお野菜も食べていらっしゃったのですね」
思い耽りながら、シェルは小さな息を漏らす。
「ランはとても偏食ですから、毛並みも荒くて少し血糖値が高いんです……」
なんだ、とエスは感動したことを取り消した。愛の力なのは間違いないが、ただの犬マニアのうん蓄じゃないかと、白ける。ほっといたらまだまだ語り出し兼ねない。そんなことはどうでもいいと、話を進める。
「じゃあ、これがランじゃないってことは、一体誰なのよ。なんであんたがサイバードを名乗っているの?」
「彼もサイバードだからよ」
「何よ、それ」
「ほんとに、何も知らないのね。呆れた」
「……何ですって」
「ジルファイン・サイバード。ランの弟」
二人は息を飲んだ。カレンは髪を掻き上げながら俯く。少し潤んでしまった目を隠すように。乱暴にタバコを消しながら、感情を抑えてカレンは語り出した。
「弟と言っても、異母兄弟よ」続けて、新しいタバコをくわえる。「彼はサイバードも、冒険屋も嫌ってた。優しくて、真面目で、明るい人だった。ジルとは職場で出会ったの。彼はフリーのライターだった。すぐに気があって、ごく自然にお互いが同じ気持ちになっていった。親しくなるにつれ、ジルは自分の置かれた環境を打ち明けてくれた。ギグのこと、ランのこと、そして、母親がどこの誰かも分からないこともね。ジルは私との結婚を意識するにつれ、忌まわしい血を持った自分で本当にいいのかと何度も私に確認した。同時に、自分に家庭を持つことが許されるなら、子供には決して同じ思いはさせたくないと強く願っていたわ。私はそんな彼を心から愛した。どんな困難も一緒に乗り越えようって神の前で誓った」
カレンは堪えきれずに涙を零した。
「結婚前に、一度ランに会ったわ。そして約束してもらったの。私たちの幸せを邪魔しない。二度と私たちの前に現れないって、絶対に関わらないってね。なのに……それなのに」
そして、とうとう片手で顔を覆った。指の間から涙が落ちた。エスとシェルは呼吸さえ控える。カレンはしばらく肩を揺らしていたが、涙を拭って再び顔を上げた。
「まだ知りたい?」
シェルははっと息を吸った。
「なんでランが金なんか払い続けているのか、別に私がそうしろって言ったわけじゃないわ。彼が望んでやってることよ。でも、理由は聞かないほうがいいと思う。知りたいのは分かるけど、今までランがあんたに黙っていたのだって理由があるの。聞かないほうがいいからよ。知らなくても生きていけるからよ」
シェルはカレンの迫力に圧され、足が少し震えていた。青ざめる彼女に、カレンは追い討ちをかけていく。
「これは忠告よ。ガキにはまだ分からないと思うけど、知らないほうがいいことなんか、この世にはいっぱいあるのよ」
「で、でも……」
「十分納得できるはずじゃない。ルトの父親も、私の旦那もランじゃなかった。養育費を払ってるのだって、身内だからってことで辻褄が合うでしょ? ランは金なんかいくらでも持ってるんだから、あんたがランと生活するのに大した支障はない。それに、私はランなんか嫌い。用がなけりゃ口なんか利かないわ。まだ何か不満がある?」
カレンは言葉を投げつけるように、シェルに言い放った。理由は分からないが、シェルは苦しくて仕方なかった。カレンの言うとおりだと思う。今の話で十分納得できる。それに、彼女の涙のわけは聞かないほうがいいのかもしれないと感じていた。
だが、これでは何も変わらない。自分の都合のいいことだけに包まれて、見たくないものから目を逸らす。今までと何も変わらないではないか。もしかしたら後悔するかもしれない。それでも、知りたい。知りたいと思ったからには知ろう。すべてを受け止めよう。シェルは逃げずに踏みとどまった。
「……教えてください」出た声は、弱かった。「私も、あなたと同じです。彼と一緒に困難を乗り越えたいんです」
カレンは濡れた目でシェルを睨み付けた。シェルは逸らさない。真剣な彼女に、カレンは見下したような笑いを見せた。
「ガキが、軽々しく困難なんて口にするんじゃないわよ」
エスは隣で、またむっとする。
「どうせ自分に酔ってるだけでしょ。好き好んで不幸に足突っ込んで、痛い思いしても、それでも彼が好きなのって、そんな自分を可愛いとでも思ってるんじゃないの? バカバカしい。そういうのに限って、ちょっと嫌なことがあったらすぐ悲劇のヒロイン気取って、みんなに同情求めるのよ。私、そういう女、大っ嫌い」
「……そ、そんなことはありません」
「そうかしら? だったらどうして身分も家族も捨てて、あんな犯罪者の巣窟を選んでいるの? 危険な男に魅力を感じてしまったのかしら? それって、ダメ女の典型的なパターンなのよ」
「ダ、ダメだなんて……私はそうは思いません」
「ふうん。じゃあ、勝手に不幸になればいいじゃない。私には関係ない」
「不幸になんかなりません」
「ああ、そうね、恋する乙女はみんなそう思ってるのよ。ま、そのうち現実見ることになると思うけどね」
「私は幸せです」
「じゃあ、なんで電話のこと、隠したの」
「……そ、それは」
「なんで今、あんたはここにいるのよ。ランが信用できなかったからじゃないの?」
シェルは黙ってしまった。シェルを応援していたエスも、痛いところを突かれてしまったと気まずい顔をする。カレンは改めて濡れた顔を拭った。もう涙は止まっていた。鼻をすすりながら、気を取り直す。
「もういいでしょ。帰って。私だって暇じゃないのよ。私はあんたの恋愛遍歴にも今後の人生にも興味はないの。通報なんかしないから、今日のことは忘れてあげるからもう消えて。そして、二度とここへは来ないで」
エスはシェルの答えを待った。ここは彼女のしたいようにさせようと思っていた。シェルは動かない。何かを考えているようだ。
――長い。まだ一分も経っていないのだが、エスもカレンも同じことを思っていた。長い。眠っているんじゃないかと疑ってしまったエスは俯いたままのシェルの顔を覗き込んだ。それと同時、シェルは口を動かす。
「教えてください」
カレンは眉間に皺を寄せた。
「ランは……一体、あなたに、あなたの家族に何をしたのでしょうか」
そう呟くシェルに表情はなかった。きっと引くことも押すこともできなくて、それでもその場から動くこともできず、最後のお願いとして訴えているのだろう。
カレンはしばらく彼女を見つめ、ため息をつく。
「結構しつこいのね」首を傾げ。「ランに聞けばいいじゃない」
「いえ、本当のことを知りたいんです」
もう一度、息を吐く。カレンはとうとう腰を上げる。テレビの横に突っ立っている二人に近寄る。そのまま足元に屈み、テレビ台の中を探る。中にはいろんなビデオが詰まっていた。カレンはそれらを次から次へと引っ張り出し、一番奥にあった古いテープを取り出す。それをデッキに入れ、顔を上げる。
「これを見たら、帰ってね」
カレンはまたソファに戻り、リモコンを握ってテレビとデッキの電源を入れる。エスとシェルは戸惑いながらテレビの前に座り込む。画面には砂嵐が流れた。
「『その時』の一部始終よ。防犯カメラに全部残っていたの。画像も音も悪いけど、集中すれば問題ないわ」
二人は緊張した。ぷつりと砂が消えたかと思うと、ほとんど白黒の映像が映し出された。場所は、この家の一室だった。
いきなりの衝撃映像だった。室内の柱に、傷を負ったカレンと、まだ幼いルトが縛り付けられている。大きな声をあげないように、口にも猿轡がされていた。怪我をしているようで、あちこちに血が散っている。二人は怯えた表情で泣き続けている。
そこに誰かが現れた。一人の男が右手にマシンガン、そして、左手に血塗れたジルの足を掴んで引きずってくる。男は部屋の真ん中にジルを放り、抵抗できないほど痛めつけられた彼を片足で踏みつける。
胸が痛んだ。もちろん、シェルだけではない。エスも、その映像に意識を奪われた。
マシンガンを持った男が振り向くと、その顔が写った。長身で、細身で、冷たくて――驚くほど綺麗な顔をした青年だった。
(……カイル?)
声が出なかった。髪と目の色も、性別も違うが、そこに映っていたのはエスのよく知る者だった。これが、ルークス。これがカイルの本当の姿。まるで悪魔のようだった。エスに寒気が走った。
ルークスは腕の時計を見る。その間も、まだ意識のあるジルが必死で体を起こそうとするが、ルークスは表情も変えずに踏みつけて抑える。その度に、カレンとルトが泣きながらもがいていた。
シェルは目を逸らしそうになった。残酷な映像に涙が出てくる。だが、自分が望んだことだと必死で見つめた。
『……悪いな』
ルークスがジルに呟く。
『お前には何の恨みもない。もう少し辛抱してくれ……すぐに楽になる』
そこで、カレンはテープを早送りした。五分ほど進め、そこで再生する。
しばらくすると、また誰かが現れた。
ランだった。シェルの目から涙が溢れた。
『ルークス』息を切らしている。『これは一体、何のつもりだ』
ルークスはジルを踏みつけたまま、彼に銃口を向ける。
『ラン、お前はこいつを殺さなければいけない』
『……何を言っている』
ルークスは上着の内側からピストルを取り出し、ランに投げ渡す。ランはそれを受け止めるが、その顔は蒼白していた。
『やめるんだ、ルークス。組織からのバカな要請は受けないと言ったはずだ。何故こんなことをする』
『確かにバカな話だ。組織を抜けるのに、なぜこんな善良な一般市民を殺さなければいけないのか――だが、デスナイトはただのバカではない。この条件を出したのには理由がある。それはお前が“できない”からだ。つまり、単にお前を手放したくないということだ」
ランは、分かっている、という言葉を飲み込んだ。ルークスは次第に、内から湧き出る苛立ちを我慢できなくなり始め、その感情を露わにしていく。
『できないなら、俺がやらせるまで。お前の意思にはそれだけの価値がある。お前は一度組織を抜けると決意したはずだ。それには理由があったよな? その理由と、この男の命と、どっちが大事だと思う?』
『バカな……そんなこと……一体、誰に頼まれてこんなことをしてるんだ』
『俺の意志でやってる。俺はお前の望むことを叶えたいだけだ』
『俺の望むこと、だと? これが?』
『そうだ。俺は、お前ほどの男がこんな虫ケラに縛られているのが我慢ならない。なぜ殺さない? 血の繋がりがあるからか? そんな理由だけで、お前はやるべきことを放棄するのか』
『……いいから、もう止めろ。銃を下ろせ。俺がどうするかは、俺が決める。お前は口を出すな』
『いいや。これは俺の役目だ。お前はこの男を殺せない。だから、俺がやる』
『止めろと言ってるだろう』
『俺はこいつを殺す。どうしても庇いたかったら、俺を殺せ』
ランの表情が強張った。だがどこかで分かっていたのか、動揺は少なく、覚悟を持ったていたようにも見える。
『選べ。俺を殺して組織に留まるか、それとも、こいつを殺して自由を手に入れ、やるべきことに従事するか。もちろん、何もしないという選択肢はないと思え。俺がこいつを殺せばお前はすべての可能性を失うことになる。お前の手で殺さなければ意味がないんだ。お前はジルという逃げ口を失い、そして、俺もいなくなる。その意味は分かるよな?』
『……いいから、頼むから、止めてくれ』
『ラン、お前は一体何者だ。よく考えろ。生まれ持ったその力、才能。神がただ気まぐれに与えたとでも思っているのか。そしてこの男も同じだ。サイバードの血が流れる限り、運命に逆らえはしない。楽になろうだなんて、そんなものは望むだけ業が積み重なる。戦いを放棄することは、死を選ぶこと。そして俺はお前に従うと決めた。お前が運命から逃げると言うのなら、俺は死ぬしか道はない。選ぶのは、ラン、お前だ』
ルークスは微笑んだ。その笑みは、粗い画像からも伝わるほど、冷たいものだった。
『選べ――どうせどっちも地獄だ。だが同じ地獄でも同時に二つは手に入らない。さあ、選ぶんだ』
テレビに張り付く少女二人は、それぞれの思いを胸に涙を流さずにはいられなかった。その背中をカレンはじっと見つめていた。
ガチャ、と撃鉄が起こる。ルークスの腕の筋肉が動き、引き金を引く寸前、反射的にランは銃を構えた。
『そうだ。俺か、こいつか、どちらかを撃て。お前の好きなようにすればいい。誰もお前には逆らえないんだ』
「……やめて」
シェルは無意識に呟いていた。これは過去のこと。止めても無駄なのは分かっていたが、撃たないで、と祈らずにはいられなかった。
再び、ルークスの腕が揺れる。
瞬間、ランの目の色が変わった。
画面の中に、銃声が轟いた。
そこで、カレンはビデオを止める。
今まであった、緊張した空気が緩やかになった。しんとなった室内に、エスとシェルの漏れる泣き声だけが聞こえた。カレンは目線を落として、静かにタバコをくわえる。
すべてではないが、いろんなものが繋がった。こうしてランに罪を犯させたルークスは、自らもすべてを捨てて彼に命を捧げた。二人の間には常人には理解できない、深くて、異常な繋がりがあったのだ。エスとシェルには重い事実だった。「知らないほうがいい」という言葉の意味を否がおうにも思い知らされてしまった。だけど後悔はなかった。ただ、深い悲しみに捕らわれてすぐには帰ることができずにいた。
カレンも、もう無理やり追い出そうとはしなかった。
「この男は」ルークスのことだった。「わざとカメラに映るようにやったのよ」
エスが顔を上げる。涙を拭うが、まだ止まりそうになかった。
「テープは一度持っていかれたわ。数日後にポストに放り込んであった。きっと組織ってやつに提出されたのね」
カレンは虚ろなまま、続ける。
「ランは正式に組織を抜けてから、改めてここへやってきたわ。私は彼を罵り、何度も殴った。彼は一切抵抗も、言い訳もせずにただ頭を下げた。それでも私は許せるはずがなく、殺してやろうと思った。でも、できなかった。情なんかない。ルトが見ていたから。そして、殺して、楽になんかさせたくなかったのよ。ランはとても辛そうだった。だから、生きて、もっと苦しめばいいと思った」
カレンが目線を移すと、目を真っ赤にしたシェルが自分を見つめていた。シェルは嗚咽を交えながら、呟く。
「……どうして、あなたはこのテープを今でも持っていらっしゃるのですか」
カレンは微かに肩を揺らした。短くなったタバコを押し消す。
「……恨みを、忘れないようによ」
シェルは言葉を飲んだ。シェルにはカレンの気持ちが痛いほど分かってしまった。
――こんなものを持っていなければ、恨むことができない。そして、恨んでいなければ生きていけないのだ。
なぜ、と思ったが、それを確認することができなかった。素早く、これもまた「知らないほうがいいこと」だと感じたのだ。
横から、エスがシェルに抱きついてきた。エスはまだ泣き止まないまま、シェルの耳元で囁いた。
「……帰ろう。もう、いいでしょ」
「……はい」
シェルは頷いた。もうここへは来ない。カレンとも、二度と会うことはないだろう。シェルは最後に、あの写真を見納めた。幸せそうに微笑む家族の写真。もうそれはどこにもない画だった。
運命によって完全に破壊されてしまった、一瞬の風景。未だにその時間から抜け出せずにいる、可哀想な一人の女性の頬に、一粒の涙が流れていた。
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