紅ゐ縁
壱
親の仇討ちに来ました。
おかっぱの黒髪に鋭い目を持つ少女は、正座で背筋を伸ばし、静かに、そしてはっきりと伝えた。
少女は邑華と名乗った。事実上、邑華に「死の宣告」をされたのは、半妖である暗簾と才戯だった。
邑華は妖怪であり、人間の世界で生活することになった二人に会うために魔界から出向いて来たのだった。邑華が人外であることは、半妖の二人にはすぐ分かった。しかし彼女には角も尻尾もなく、一見は人間と変わりない。丈の短い着物を身につけ、武器らしきものは見当たらないが、全身が漆黒に包まれた邑華からは異様な雰囲気が漂っている。最も印象が強いのは、凍てつくほど冷たい切れ長の瞳だった。恨みに捕らわれているそれではなかった。持って生まれたものなのだろう。
暗簾と才戯は邑華を見たとき、その瞳の鋭さに引き込まれ、同時、妙な既視感を抱いた。
最初に邑華が現れたのは暗簾の前だった。
暗簾は一人の人間として、人間と共に人間の家庭で生活している。昼日中、麻倉智示として番台と町を歩いているところ、人には感じられない気配を感じ取り、嫌な予感を抱いた。しばらく無視してみたが、どうもその気配は自分を見ているとしか思えなくなり、堪らず、連れの番台に寄りたいところがあると言い訳して道を外れた。
人気のない裏路地へ入り、神経を尖らせて辺りを見回していると、邑華は姿を現した。
彼女が妖怪であり、妖怪の部分の自分に用があるということはすぐに察した。邑華は暗簾が暗簾であるかを確かめたあと、才戯はどこにいるのかを尋ねてきた。才戯に用なら祠の場所を教えるからそこへ行ってくれと伝えたが、邑華は二人に用があると言った。
暗簾が後にして欲しいと言っても聞かなかったので、仕方なく彼女を連れて祠へ足を運んだところだった。
薄暗い祠の中で三人は向かいあっていた。
邑華が親の仇討ちで来たというのは聞いたが、なぜ二人なのかは不明だった。妖怪の頃は相当の命を奪ってきた暗簾と才戯である。恨まれる覚えはいくらでもあるのだが、二人がかりでどうこうした記憶はなかった。
彼女から話を聞かないことには黙って殺されるわけにもいかない。
「とりあえず」嫌そうに、暗簾が口を開く。「お前の親って誰」
もしかすると名も知らぬ相手かもしれない。それでも、こうして正面切って仇討ちを宣言されては無視することはできないと、少しだけ覚悟を決めた。
邑華は細い瞳を動かして二人を見つめる。そして真っ赤な唇から、温度のない声で言葉を紡いだ。
「虚空です」
――あまりの不意打ちに、二人は座ったまま腰を抜かしそうになった。しばらく頭が混乱して応えることができなかったが、平静を取り戻し、改めて彼女と向き合う。
「……ほ、本当に?」
暗簾の声は僅かに震えていた。
「はい。何かおかしいですか?」
暗簾と才戯はチラリと目を合わせる。正直なところ、仇討ちよりも邑華という少女の境遇に興味が向いてしまっていた。
「いや……虚空が女と関係もつのは別にいいんだけど」
邑華への警戒心が好奇心に摩り替わってしまった才戯は、少し腰を曲げて身を乗り出した。
「あいつに触れた奴は大概殺されてるんじゃないのか。お前はどうやって生まれたんだよ」
「母は生きてますから」
「誰?」
「白菊です」
二人は首を傾げる。
「聞いたことないな」
「逆さ女、と言えば分かりますか」
暗簾と才戯は、再び愕然とした。
逆さ女とは、魔界の森の奥、言葉通り常に逆さに吊られているという謎の多い女性だった。
彼女は真っ赤な着物を身に纏い、背後の蔦の塊に絡まれ、いつも気だるそうにぶら下がっている。なぜか耳たぶに小さな穴が開いており、そこから一滴ずつの血を流しながら、微笑を浮かべている不気味な女だった。逆さ女の足元、いや、頭の下には彼女が落とし続けている血で泉ができている。彼女を吊る蔦はその泉から生えており、根から血を吸い上げて逆さ女の体内に戻って循環しているために、失血死することはないらしい。
逆さ女は、一時期魔界で噂になったことがある。
彼女は殺しても死なない、と。
逆さ女の血には不死の能力があり、生き血を飲むとその力にありつける。そんな話が一部に広がり、彼女の元を訪れる妖怪が増えていた。逆さ女は蔦や血を手足のように操って攻撃することができるのだが、圧倒的に強い者には当然適わず、何度か殺されているらしい。しかし奇妙なことに、数日後にはいつものように逆さに吊られて微笑んでいるのだと言う。
そのうちに彼女を狙う者がいなくなったのは、血を飲んでも実際に不死になった者がいなかったからだった。
きっと虚空も不死の能力に興味を持って彼女に近付いたのだろう。それは分かるとして、どうして二人の間に子ができてしまったのか、経緯や理由を知りたかった。
邑華という少女は、つまり虚空の「遺品」である。改めて見ると、目元が虚空によく似ている。最初に抱いた既視感の理由がはっきりした。そして口紅が不要なほど異常に赤い唇は、逆さ女の血の泉を連想させる。邑華の話には驚かされるが、疑う理由もなかった。 「やっぱり、逆さ女って不死なのか?」
だから邑華を産むことができたというのなら納得もできる。万に一つ、虚空と逆さ女が愛し合ったというなら、それはそれで人の趣味にケチをつけるつもりはなかった。
今は亡き虚空は二人に取って敵でもあり、遠慮なく対等にぶつかり合える「悪友」でもあった。もし彼が今も生きているのなら、状況によっては笑い話にしてからかっていたのだろうが、死者に対してはいいことも悪いことも「思い出」でしかない。今では「虚空がいたからこそ充実した人生を送れた」と素直に思える。彼の度を越える残虐性も含め、虚空への嫌悪感はもう一切なかった。
「それは、秘密です」邑華は暗簾の問いに、淡々と答える。「私は逆さ女の血を引いてます。能力を明かすことは敵に手の内を明かすと同じこと。だから教えることはできません」
「ああ、そうですか……」暗簾は肩を落としつつ。「じゃあそれはいいから、お前の親の関係を、ちょっと聞きたいな」
「どういうことですか」
「まあ、だから、仲がよかったのか、どうかとか……」
「さあ。少なくとも私の記憶の中では、父と母は一度も会っていません。母は父の話はよくしてくれましたが、会いたいというようなことはとくに言っていませんでした」
そこで才戯が口を挟んでくる。
「逆さ女って歩くのか?」
「歩きますよ。生まれたときから蔦に吊るされているわけではありませんから。必要があれば地面に降りますが、じっとしていると血の巡りが悪くなるらしく、落ち着かないそうです」
聞けば聞くほどよく分からない女だと、二人は思う。
「お前、逆子だった?」
「……もしかして、バカにしてるんですか?」
才戯のくだらない質問に邑華の表情は変わらなかったが、明らかに機嫌が悪くなったのは伝わった。暗簾が慌てて、お前はもう喋るなとでも言うように才戯を遮った。
「お前は虚空に会ったことがあるのか?」
「いいえ」
「え、じゃあ、虚空はお前のことを……」
「知らないと思います」
あっさりと答える彼女の言葉に、二人は拍子抜けした。
「母曰く、生き血を狙っていた父を、自分から泉に引き込んで襲ったそうです。そのときに私ができたのでしょう」
暗簾と才戯は、聞きたいことはあるような気がするのだが、何を聞いたらいいのか分からなくなっていた。そんな二人の気持ちを知ってか知らずか、邑華はやはり淡々と続ける。
「母は私を見て、父親によく似ていると嬉しそうに言っていました。たぶん、好みだったんじゃないでしょうか」
逆さ女のことは、又聞きでは理解できないものなのだと思う。しかしあの虚空が女に犯され、止めも刺さなかったということは、それなりに恐怖を抱いたのだろう。いや、本当はいつものように八つ裂きにしたのだろうか。ただ単に逆さ女が殺しても死ななかっただけなのか。それとも、二人の間に多少なりとも愛情が芽生えてしまったのか――いずれにしても、本人にしか分からないことである。 邑華も邑華で違和感がある。虚空に似た冷たく近寄りがたい外見であるのに、話してみるとなんとも誠実で礼儀正しい。見た目が親譲りなだけで、性格は真面目なのだろう。
「……で」頭を抱えながら、才戯が話を進めた。「親の仇討ちって、一体どういうことだよ」
本題に入り、そこで邑華はふっと目元を陰らせた。
「……私は成長してから母の元を離れて独り立ちしました。魔界を彷徨っていると、どこへ行っても父の名前を知らぬ者はいませんでした。悪く言われることがほとんどでしたが、誰からも恐れられる強い父を私は誇りに思いました。だから、会いたくて、探しました」
虚空の住処を見つけることは容易かった。手下のカラスと共に一つの山を支配しているのだから当然だった。
邑華は、同じ血と妖力を持つ者なのだから、きっとすぐに自分を娘と分かってくれる、きっと喜んでくれると信じて駆け出した。
「……しかし私は、縄張りを守るカラスの集団に取り囲まれ、問答無用で襲い掛かられてしまいました」
邑華は血と涙に塗れながら必死で逃げた。大きな声を上げれば、虚空が気づいてくれて止めてくれると思ったが、飢えたカラスたちの追撃が途切れることはなかった。
「私は父と娘の感動的な出会いしか想像していませんでした。なのに、青天の霹靂でした。私は父と顔を合わせることもないまま、危うくカラスの餌になってしまうところでした」
暗簾と才戯は気の毒に思うと同時、「やっぱり虚空は虚空だな」と、どこかでほっとしてしまっていた。彼ならそれが通常の反応だということを、二人は知っている。おそらく彼女が娘と分かっても虚空の態度が変わることはなかっただろう。
「私は決心しました。強くなろうと。あのカラスたちを蹴散らすほどの力を持てば、きっと父に近付くことができる。それが私の希望となりました」
健気な娘だと感心するが、冷たい目のままで言われても気持ちが伝わりにくいのは確かである。
「だから私は修行をしました。日々、父に近付いているのだと信じて……そんな矢先でした――」
邑華は声を落とし、ギョロリと眼球を上げて暗簾と才戯を睨み付ける。
「――父が殺されたと聞いたのは」
今までぼんやり話を聞いていた二人は、まるで刃を突きつけられたように息を飲んだ。
「私にとっては父と会うことが夢であり、生きる目的でした。なのに、殺されたのです。絶望しました。絶望し、落胆したままずっと考えました。そして答えが出ました。次の生きる目的ができたのです。それは、父の仇を取ることです。父を殺した暗簾と才戯という男、あなた方をこの手で殺すために、私はここへ来ました」
室内はしんとなり、重い空気が漂っていた。暗簾と才戯は、妖気を灯した邑華に睨まれて体が固まってしまったが、固まったままでいるわけにはいかなかった。
「ちょ、ちょっと待った」暗簾が邑華を宥めるように。「どうして俺たちが殺したことになってるんだよ」
「シラを切るつもりですか」
「い、いやいや……そんな話、一体誰から聞いたんだ」
「魔界ではそう言われています」
暗簾、才戯、虚空の三人が天上の宝を奪い合っていた話は、依毘士と鎖真が出てきたことで魔界に広まった。そこから先は、彼らを知る者の情報と憶測から作り出された噂話だった。
地獄の使者に狙われた者は確実に消されるはずなのだが、虚空だけは生き残っていた。その虚空はなぜか人間界へ赴き、二度と帰ってこなかった。そのことは魔界でかなりの話題になっており、それからしばらくすると、なぜか暗簾と才戯は死んでいなかったのではないかと誰かが言い出した。
ただそれだけのことで、「きっと天上人に追い詰められた暗簾と才戯が影で取引をし、極悪人である虚空を騙して始末したのだ」という話になっていた。
それを聞いた暗簾と才戯は、開いた口が塞がらなかった。
二人は虚空より先に殺されており、運がいいのか悪いのか、消滅せずに別のものに生まれ変わっただけである。虚空の死に無関係ではないが、濡れ衣もいいところだった。
「ち、違うって。俺たちじゃないんだ」
「じゃあ誰だと言うのです」
「うーん……」
暗簾は首を捻り、一度才戯と目を合わせたあと、人差し指を上に向けた。どう言えばいいのか迷っていると、邑華は暗簾の指す上空へ顔を上げ、少し考えて再度二人を睨む。
「天上人のことですか? あなた方が手引きをして父を陥れたのでしょう? あなた方は父と同格の、強く誇り高い妖怪だったはず。どうしてそのような卑怯なことを……」
「違うって」暗簾は指を引っ込めて。「なんて言うか、天上より、もっと上」
「……上?」
「仇討ちとか、そういう問題じゃないと思う。天命みたいなもんかな。まあでも、虚空は虚空で限界超えるとこまで行ってたから、恨みとか無念とか、そういうのはないと……」
暗簾が、虚空が死んだ経緯をすべて話して理解してもらうのは難しく、どう言えばいいのか悩みながら話していたが、邑華は最後まで聞かなかった。 「意味が分かりません」
しかし彼女の気持ちも分かる。確かに、天上人を越える「時空の神」は「奇跡」と同等の存在。それを仇討ちの対象にしろと言うのもムチャクチャな話だと思う。
暗簾はもう一度うーんと唸り、才戯に近寄って小声で囁いた。
「なあ、皇凰がムリなら、直接的な仇はあれじゃないのか」
「あれ?」
「斬太たち」
確かに、そうかもしれない。が、まさかあの二人を邑華に差し出すつもりなのかと、才戯は暗簾の神経を疑った。
「……お前は鬼か」
「だって、本当のことだし」
邑華は虚空に対して情を抱いており、それを殺した者に恨みを持つのは当然の権利だ。仇をどう思い、どうするかを決めるのは彼女自身である。
邑華は勘違いしているとはいえ、真剣だ。殺すだけなら不意打ちでも何でもできるものを、わざわざ名乗って事情を説明している。こちらも真剣に相手をするのが礼儀だ。
「教えるだけ教えてみようぜ。気が変わるかもしれないし」
せっかく不幸から開放された斬太と久遠を、どんな形にせよ、また妖怪と関わらせるのはどうかと才戯は気が進まなかった。
「この時間ならその辺にいるかもしれない。ちょっと探してみよう」
「やめとけよ」
「俺たちは親の仇じゃないんだから、殺されても意味ないだろう。本当のこと教えて、ちゃんと説得はするよ。それでも許せないってんならしょうがないんじゃないのか」
才戯はため息をついてその場に横になってしまった。
「どうでもいい。酒飲んで寝る。お前がやれ」
「ふざけんな。俺に押し付けるなよ」
「俺、関係ないし」
「俺だって関係ねえよ」
二人のやり取りに痺れを切らした邑華が、空間を切り裂くような声を出す。
「こそこそと、何を話しているのですか」
いつの間にか、邑華の全身から少女とは思えない強烈な妖力が取り巻いている。我に返って初めてそれに気づいた二人は、のらりくらりと躱していられるわけではないことを肌で感じた。
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