紅ゐ縁




 ――邑華、女は、女に生まれただけで得なのよ。

 邑華は母である白菊の言葉を思い出していた。

 ――この世には男と女しかいないの。男は強く、出世し、目に見える勝利を手に入れることができる。だけどその男の価値を決めるのは女なの。男は本能のまま、いつでも好きなだけ子を作ることができるけど、女は違う。一人を産むために長い時間をかけ、耐え難い苦痛を伴う。だから選ぶの。より優秀な種を。つまり、選ばれた男しか子孫を残せないということ。選ぶのは女なのよ。

 邑華が祠を離れて一人になり、一日が過ぎようとしていた。今日も薄い雲がゆっくりと流れる穏やかな夜空だった。邑華は人里離れた農家の広い庭に侵入し、家畜用の鶏小屋の前で膝を抱えて座っていた。周囲は広大な畑が広がっており、人家も少ない。ただただ、広い緑の大地と藍色の空が広がっていた。
 邑華はカラスを怖がる代わり、それらとは逆の性質を持つ草食の鳥類が好きだった。鶏は特に心が和むものだった。小さな嘴、柔らかい羽、円らな瞳はカラスとは大違いで愛らしい。気持ちが荒んだときはいつも彼らを見て安らぎを求める。いつまでもこんなみっともないことをしていてはいけないと思いつつ、安らかに眠っている家畜を眺めていた。
(……母様のところへ戻りたいけど、一人前になるまで帰らないと言ってしまいました)
 白菊は何も言わずに、微笑んで邑華を送り出してくれた。きっといつ戻っても迎え入れてくれると思うが、今の状態では母にまで迷惑をかけることになりかねない。
(母様のところへ行きつく前に耶麻楽は私を襲ってくる。魔界には彼の足止めをするものは何もない。私を庇ってくれるものも、何もない)
 ――邑華、賢く生きなさい。男を超えようなんて思わなくていい。よく見てよく考えて、自分にとって必要なものを見極めるのよ。そして正面から立ち向かうのではなく、隙を見て奪い取るの。
 邑華は目を伏せ、ため息を吐いた。
(母様、私には分かりません。皆、私を責めます。私は自分の正しいと思うことをしているだけなのに……)
 背後の大きく古い屋敷も静まり返っている。朝の早い家族はとっくに眠りについているのだった。
 こんな時間、こんな場所に人など来るはずがないのに、コンと瓦を踏む音が邑華の耳に届いた。
 素早く振り返ったが、もう遅かった。邑華めがけて一本の矢が放たれていた。
 邑華は逃げた、逃げようとした。しかしこのまま避けては鶏小屋に直撃する――そうすれば鶏の安眠が妨げられ、大騒ぎになる。邑華は瞬時にして袖を刃物に変え、矢を弾いた。
 矢の軌道は逸れたが、ぶつけた彼女の右腕から血が飛び散った。邑華は悲鳴を堪え、腕を抑えて屋敷を背に駆け出した。
 気配を消して屋根に降り立っていた耶麻楽は、空より冷たい瞳を細める。
「……今夜、終わらせてやる」
 邑華は黒い羽を広げて不安定に飛び立った。耶麻楽は彼女を視界から逃がさず、瓦を蹴って後を追った。

 邑華は息を上げて逃げた。矢に当たった腕は切れたのではなく、焼けたように肉が潰れている。血が止まらない。背後から耶麻楽の気配は感じないが、凄まじい殺気が確実に迫ってきていた。視界の開けた場所では狙い撃ちされる。どこか隠れられる場所を。
 右を向くと、遠くに竹林が見えた。大きく動けるように高く飛んでいた邑華は、そこへ逃げ込むべく急降下して林を目指した。

 そこは吸い込まれそうな緑の世界だった。夜空の下でも光沢を放つ立派な青竹が、天を貫かんばかりに聳え立っている。
 邑華は奥へ進み、一本の竹の下に座り込んだ。深く呼吸をしながら千切れた袖を引きちぎり、傷を強く縛る。
 周囲は太い竹に囲まれている。それでも耶麻楽の矢はこれらを貫くだろうが、まっすぐには飛んでこない。一本でも盾したものならば、体に当たっても貫通は避けられるはず。
 腕が熱い。傷口から痺れるような痛みが広がっている。腕で弾いただけでこの苦痛は、想像していたより重い。
 邑華は目線を落とし、腕から流れ落ちる血を見つめた。既に小さな血溜りが出来ている。そこに、右の手のひらを浸した。
 カツンと、ずっと邑華が怯えていたゲタの音が林に響いた。邑華は目を見開いて顔を上げる。頭上の竹の隙間を、鋭いものが駆け巡った。直後、いくつもの竹が斬り落とされ、邑華は立ち上がる。傷を受けた腕は手のひらまで真っ赤に染まっていた。
 耶麻楽が邑華を狙いやすいように、八つ手の鉄扇で竹を切り裂いていたのだった。邑華は慌ててその場から離れるが、耶麻楽はあちこちを飛び回りながらも彼女を見失わなかった。
 邑華は竹に手足を付きながら上下左右に飛び回った。耶麻楽の姿を時折捕らえることはできるが、その度に竹が一本二本と倒れていく。
 追われ、逃げ場を失った邑華は強く竹を蹴って林の上空まで飛んだ。耶麻楽の位置を確認すべく目を凝らしていると、彼が邑華と同じように上空へ飛び出してきた。その手には、既に弓矢が構えられていた。
 邑華は素早く回転しながら林へ戻ろうとしたが、放たれた矢を完全に躱すことができず、左のふとももを掠った。邑華の足から血が噴出す。耶麻楽がもう一本の矢を番えたとき、邑華は竹林の中に姿を消していた。

 腕と足をやられた邑華は逃げることもできなくなり、絶望的だった。力の差も歴然である。できることは、ささやかな抵抗のみ。
 傷口から全身に広がる苦痛で気を失いそうだった。呼吸が深くなるが、息の音でさえ漏らすのを怖いと感じる。耶麻楽はどこにいる? 眼球を左右に揺らし、耳を澄まして探るが辺りからは風の音さえ聞こえなかった。その静寂が、更に孤独感を増長させる。
 矢の走る音が聞こえた。ほとんど同時、邑華が体を起こす間もなく、目前の竹に矢が突き刺さった。
 邑華は悲鳴を上げることもできず、飛び上がるようにして振り返った。
 耶麻楽がいた。数本の竹の先に、隙間から、弓に矢を番え、真っ直ぐに邑華を狙っている。
(……しまった)
 誘導された。このまま撃たれたら眉間に穴が開く。邑華は取り乱しながらも考えた。
(矢を、せめて、矢を止めなければ……!)
 矢が放たれた瞬間に邑華はそれを飛び上がって躱し、竹に足を付きながら耶麻楽の横をすり抜けていった。血と汗を流しながら次に彼の背後を、頭上をと、飛び回る。
 耶麻楽は邑華の行動を目で追いながら、冷静に機を伺っていた。逃げるつもりがないということは、何かを狙っていると分かる。
「一体、何を……」
 呟きを漏らした直後、耶麻楽は体に異変を感じた。自分の体を見下ろすと、細い細い、糸が絡んでいる。その糸は紅く光っていた。衣服のあちこちがその色に染まり、弓矢を持った両手にぬるりとした感触があった。
「これは、血の糸か……」
 その間も邑華は周囲を飛び回り、指先から放つ細い血を耶麻楽に絡めていった。次第に耶麻楽の体が締め付けられる。邑華はとくに彼の腕を狙っていた。血で浸し、指先を傷つけることで弓矢の攻撃を封じようとしていたのだった。
 耶麻楽の周囲には緑に映える赤い糸が幾重にも重ねられていく。締め付けが強くなり、耶麻楽の素肌の部分から細く切れ出した。
 邑華は地面に着地し、両手を耶麻楽に向かって伸ばした。指先から伸びる糸を、まるで人形でも操るかのように素早く動かした。
 糸はさらに複雑に絡み合い、耶麻楽の自由を奪い、体を傷つけていく。このまま締め付けていけば、彼の体は小さく切り刻まれる――邑華は感情のすべてを切り離し、糸に全妖力を注ぎ込んだ。牙を剥き出し、両腕を大きく振り上げた。これで、最後。
 が、耶麻楽の妖力は彼女のそれを大きく上回る。弾け飛んだのは、邑華の赤い糸のほうだった。
 二人の間に、バラバラになった糸が雨のように降り注いだ。
 邑華は絶望し、一瞬呼吸をすることを忘れた。
(やっぱり……全然、きかない)
 血で汚れた耶麻楽は怨念の篭った目で邑華を睨み付けていた。もう反撃する手段も、気力も失った邑華は、ただ彼から浴びせられる凄まじい怒りに飲まれるばかりだった。
(……ああ、そうだ。彼は)
 邑華は一歩下がりながら、耶麻楽の呪縛から目が離せなくなっている。
(彼は……私と、似ている)
 しかし、恐怖と絶望で震えが止まらない体とは反し、邑華は耶麻楽に何かを見出していた。
 ――恨みと絶望に捕らわれ、それだけに支配された、可哀想な人……。
 自分と同じだ。邑華はそう思いながら羽に力を入れた。
(彼は、一体どこへ行くのだろう)
 ――唯一の生き甲斐となった敵討ちを叶えたあと、一体どうなるのだろう。
 耶麻楽の手も弓も血で染まり、指先も傷ついたため、もうこの場で矢を撃つことはできない。だが、彼の心はまったく折れていなかった。
「……矢を使えなくしたくらいで、私を封じたつもりか」
 耶麻楽は弓矢を捨て、腰に差した鉄扇に手をかけた。
 邑華はもう一歩下がり、背後の竹に両手を付いた。乱れる呼吸を止めることができないまま、舞い上がった。
 逃げた、つもりだったのに、朦朧とする邑華の目の前には既に鉄扇を振り上げた耶麻楽がいた。
 そして、考える前に、鉄扇は邑華のわき腹に突き刺さっていた。
「地獄で、悔いよ……!」
 鉄扇は一振りで邑華の体の半分近くまで入った。耶麻楽はこのまま振り切って彼女の胴体を二つにするつもりだったが、邑華が最後の力を振り絞って体を捻ったため、狙いは逸れてしまった。
 邑華は大量の血を流しながら落ちていき、無抵抗のまま強く地面に叩き付けられた。
 その隣に、耶麻楽が降り立った。足元に転がる邑華は、特に腹部からの流血が激しく、力なく横たわる体は自分の血に浸っていた。
 薄く開いたままの目は瞳孔が開き、呼吸もしていない――耶麻楽は僅かに瞳を揺らした。膝を折り、指一本動かない彼女にそっと手を伸ばす。
 脈も完全に止まっている。邑華は、既に息絶えていた。


 まるで時間が止まってしまったかのようだった。耶麻楽が邑華を見下ろし、彼女への怨念を振り返っていると、大事な家族への情が甦ってきた。
 憎い、憎い。その憎い相手は死んだ。自分の手で殺した。なのに、何一つ満たされない。
 耶麻楽の鋭い瞳から、涙が零れた。次第に嗚咽が込み上げてくる。周囲には誰もいない。耶麻楽は力尽きたように頭を垂れ、大きな声を上げて泣き続けた。


*****



「――そうして耶麻楽は、あの恐ろしい瞳を虚ろなものへ変えていきました」
 邑華はそこまでをゆっくりと話した。足の傷がまだ癒えていないため正座ができず、横に崩している。
 悲しみに暮れる彼女の前には、呼び出された暗簾と才戯がいた。
 二人は邑華が消えた夜から数日間、彼女の身を心配していなかったといえば嘘になる。このまま永遠に邑華に会うことはないのかもしれないと、少し哀れに感じていたところ、傷ついた彼女が戻ってきたのだった。
 暗簾と才戯はどこかで安堵しながらも、邑華が耶麻楽と戦ったのか、だとしたら彼に勝ったのか、どうやってあの力の差を覆したのか、興味を持って邑華の話をじっと聞いていた。しかしどうしても気になることがあり、そのまま続けようとする邑華を暗簾が遮った。
「ちょっと待て」
「はい?」
「その話が本当なら、お前はなんで生きてるんだよ」
 もちろん才戯も同じ疑問を抱いていた。確かに彼女は話のとおり、左足と右の腕に深い傷があった。ということは、着物で見えないが、横腹にはもっと酷い傷があるのかもしれない。
 いいところで口を挟まれた邑華は、少々気分を害したかのようにため息をついた。
「質問は最後まで話を聞いてからにしてもらえませんか」
「そうはいくか。もしそれが作り話ならこれ以上聞いている理由がないからな」
 邑華はもう一つ息を吐き、目を伏せた。
「作り話だなんて……私がどれだけ怖い思いをしたか分からないのですか」
「分かるか」暗簾は即答する。「あ、そうだ。お前の母親、本当に不死なんじゃないだろうな。だから、まさかお前も?」
「それは秘密だと言ったでしょう。とにかく、私は話をしに来たのです。聞いてください」
 やはり邑華は邑華だった。人の都合などお構いなしである。二人が眉を寄せて黙ると、再び話し出した。
「私は耶麻楽に自分を重ね合わせました。家族を殺され、復讐することに捕らわれた姿を。ああ、きっと私もこんな顔をしていたんだろうなと……」
 耶麻楽と邑華の恨みの深さは、客観的に見ると大きく度合いが違うような気がするが、二人はもう追求しないことにした。
「泣き崩れた耶麻楽は、私の傍で、まるで死体のように生気を失ってしまいました。しばらく呆然とし、立ち上がった彼には、天狗の頭領という威厳は欠片もありませんでした……それを見て思いました。人は生き甲斐を失ったら生きていけないのだと。私は、そこから一つの答えを出したのです」
 邑華は顔を上げ、やる気のない顔で聞いていた暗簾と才戯に向き合った。
「私は、もうあなた方を討つことを止めます」
 二人はもう驚かなかった。
「今の私の生き甲斐は親の仇であるあなた方を討つことです。それを失ったら、私は耶麻楽のように廃人になってしまうのです。だから、私はあなた方を生かして、死ぬまで恨み続けることに決めました」
 ――ああ、そうですか。どうぞ、ご勝手に。
 暗簾と才戯は同時にそう思い、目線を外した。
 邑華は反応の薄い二人を気にせずに、今までにない柔らかい表情を浮かべていた。
「……それで」才戯が疲れた声で。「もちろん、魔界に帰るんだよな」
「はい。耶麻楽があれからどうしたのかは分かりませんが、彼は私が死んだと思っています。見つからない限り、私は自由です。まずは、母の元へ戻ろうと思います」
「ずっと隠れて生きるつもりか?」と暗簾。
「しばらくはそうしていますが、ずっとではありません。親に恥じないほどの力を得た暁には、改めて魔界で名を馳せようと思っています」
 邑華の考え方には最後までついていけなかった二人だが、彼女の表情や雰囲気が最初と変化していることに気づいた。彼女は彼女なりに何かを身につけたのだろう。
「あなた方にはお世話になりました。それに、耶麻楽にもいろいろ教えてもらいました。彼のお陰で自分の進む道が見えたのですから。感謝しています」
 素直といえば素直なのだが、何かが間違っている。しかし邑華がいい方に受け取ったならそれでいい。そう思うしかなかった。
「それに」邑華は、微笑んだ。「人を騙すという感覚を、なんとなく掴めたような気がしているんです」
 その笑みは優しいものではなく、「冷笑」という言葉が似合っている。そのこと本人が自覚してるかどうかは分からない。
「私はもっと母に生き方を教えてもらわなければいけません。難しくてよく分からなかったから、あまり聞いていませんでしたけど、母の言葉はすべて私への愛情を形にしたものだったのです」
 邑華は傷を庇うようにして腰を上げた。
「あなた方の仰るとおり、私には母がいます。最悪ではありません」
 言いながら戸口へ向かう彼女を、暗簾と才戯は目で追った。
「目的は果たせませんでしたが、ここへ来てよかったと思っています」
 祠から出て庭へ進んだあと、振り返って少し頭を下げる。
「それから、父とよく似てると言われたこと、嬉しかったです」
 最後に「お元気で」と言い残し、邑華は森の中へ姿を消した。

 いつの間にか始まって、いつの間にか終わったような出来事だった。
 夢でも見てたような気分で、暗簾と才戯は祠の中で呆然としている。
「……ありゃ大物になるかもなあ」
 皮肉を篭めて、才戯が呟いた。確かに、と納得しつつ、暗簾はもう一つの彼女の姿を想像してしまう。
「それか、何もないところで転んで、頭打って死ぬかだな」
 眠気とともに、疲れが押し寄せた。
 いずれにしても、二人が邑華の将来を知る手段はない。


 白菊――通称「逆さ女」の特異の術。それは、強い衝撃を受けたとき、体を一時的に仮死状態にして敵の目を欺くことだった。
 つまり、「死んだフリ」である。
 その心理攻撃は巧みで、白菊は自分の見た目や状況も利用する。情や優越感や迷いという、戦闘時に垣間見える相手の弱い部分を見透かし、「終焉」という舞台を演出する。
 邑華もその能力を受け継いでいる。あとは、白菊のように「相手に合わせる」ことができるかどうかだった。
 いつか邑華が、本当の意味で「紅い糸」を操れるようになったとき、魔界では新たな大物が注目されることになるのだろう。


<了>

後書


◇  ◇  ◇  ◇



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