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 千獄のあのときから、天上の暦で三ヶ月ほどが過ぎていた。
 天上界傘下にある地獄は、まだ落ち着いていなかった。
 そもそも地獄という世界が落ち着くことはほとんどない。なぜなら、地獄とは命のやり取りを管理する場所であり、その命は絶え間なく生まれて死んでいくものなのだから。
 今日も誰かが死に、入れ替わるように生まれ出でて魂は育まれていく。

 その世界の頂点に立つ閻魔大王は、人間の世界では恐ろしい風貌と貫禄ある恰幅のよい男性像で描かれることがほとんどだった。大人から子供に言い伝えられていく彼は、恐怖の象徴であり、そして罪を裁く神様として長年敬われ続けてきた。きっと、これから何十年、何百年経っても、ずっと同じ物語として語り継がれていくのだろう。

 実際地獄という世界は、人間界の寺に飾られている地獄絵図とよく似た世界だった。
 現世で罪を犯した魂が必ず通る道であり、そこで舌を抜かれたり、針のむしろで串刺しにされたりという想像を絶する苦行が毎日のように行われている。大王に従う鬼たちは人に非ず、たくましい体は人間の二倍近く、もしくはそれ以上の大きな体を持っていた。門番にいたっては、まるで飾りかと、飾りであってほしいと思わせるほどの巨人である。
 姿を見ただけで人々を震え上がらせる鬼たちが闊歩するそんな空間の支配者、閻魔大王は、朝から大きなため息をついた。

 現大王・音耶の仕事場の一つである書斎は、おびただしい数の台帳や書類で埋め尽くされている。果てしない広さのそこには大きな棚が立ち並び、飾り気など入り込む余地はなかった。いくつもいくつも並ぶ棚はまるで壁のように空間を仕切り、数え切れない書類はそれに収まりきれずに床にも積み上げられている。
 少し前――千獄のときより数年前までは、ここも綺麗に整頓された上品で知性を感じられる一室だった。しかし、今はまるで物置小屋、いや、ゴミ箱と言っても過言ではないほどひどい有様である。
 先代である父の後を無理やり継がされた息子は未だ慣れることができずに、捌けない仕事を毎日積み重ねていっている。
 慣れる以前に、音耶はやる気が出ず、どうせ自分では無理だという卑下の思いを拭い去ることができずにいた。仕方ない、という感情だけで振り回されているのが現状であり、何よりも彼には違和感があった。
 それは、先代の父とは似ても似つかない小柄で華奢な姿である。地獄ではもちろん、天上や人間の世界を含めても、決して頼りがいのある印象は受けない。まだ若いとは言っても、れっきとした閻魔の純血であるのならば、黙っていても気品や貫禄のようなものが漂っていてもよさそうなもの。だが、音耶にはそれもなく、閻魔の正装をしていなければ大王とは呼び難いほど貧弱だった。本当なら人を外見で判断するべきではないのだが、音耶からは人の上に立って命のすべてを管理するという大役を担う人物には、どうしても見えなかったのだ。
 しかし彼は閻魔大王の一人息子。素質があろうがなかろうが、いずれ自動的にその椅子に座らなければいけないことは本人も分かっていたことである。
 そんな彼の一番の不満は、今回の後任があまりにも突然で、あまりにも早すぎたことだった。後任の話が出る直前までは、元気に働く父の下でたまに仕事の見学をするという程度だった。父の仕事がどれだけ大変なのかは幼い頃から聞かされていたため、音耶でもその重さは理解していた。だから、いつか自分も父のようにならなければいけないという自覚を持ちつつ、少しずつ丁寧に知識や経験を身につけていけば大丈夫――そう思っていた、矢先だった。
 父が倒れた。その知らせだけで音耶は血相を変えた。自分の身より先に、父の容態が心配だと夢中で駆け出したところを、まるで準備されていたかのような鬼に捕まり、引きずられるようにしてこのイスに座らせられてしまっていたのだ。
 そうして、何がなんだか分からないうちに、音耶は今も閻魔大王として、できる限りで職務を果たしている。

 しかし毎日毎日寝る時間を惜しんで働いても仕事は終わるどころか、ひと段落する兆しさえ見えない。
 音耶は誰よりも早い時間この席に着き、まずは前日に終わらせることができなかったこと、今日やるべきことをまとめる。そして本日死亡し、ここへやってくる魂の予定を把握し、その者がどんな人生を送ってきたのか、どんな境遇にあったのかを確認する。徳や業も考慮しつつ、与える罰と転生先を決定する。
 死亡予定者の数が少ないとき、多くてもある程度を予測できるのであればいいのだか、人生とはそうもいかず、たまに起こる「手違い」、これが閻魔大王にとって最も恐るべき事態だった。
 千獄のあのときから今まで、特にそういった問題は起きなかった。しかし、それでも音耶の仕事は日々積み重なり、増え続けている。

 きっと今日もまたいつもと同じように、決まった量の仕事を終わらせることができずに明日に回すことになるのだろう。
 それでも、できる限りでできることをやらなければいけない。一生懸命やって間に合わなかったことは、諦める。そこは割り切らなければと自分に言い聞かせながら音耶は毎日を過ごしていた。
 音耶の仕事が進まないのは、本人の能力の問題だけではなかった。いや、見方を変えれば本人の人格や人望、そして責任能力などの不足が原因と言えるかもしれないのだが。
 音耶が日々悩まされ、怯えさせられているもの――それは、周囲との人付き合いだった。
 まず地獄の住民である鬼たち。彼らは先代からの手下であり、息子である音耶にも素直に従ってくれる。しかし、それは彼らに何の責任もないからだということを、音耶は最近になって気づいた。結局、地獄では王である音耶にすべての権限があり、最終的な決定権も、それを行使したときに起きるすべての責任は音耶にあるのだ。だから鬼たちは、何が起きても自分達に害はないのだと、音耶のいう事に、言われたことに忠実に従っているだけのことだった。
 鬼たちは、多少態度が横柄でも音耶を見下すようなまねはしない。だけど、それも別に音耶を尊敬しているからというわけではなかったことに気づいてから、音耶は孤独を感じ、更に精神的苦痛を感じるようになっていた。
 そして、音耶を困らせるのは鬼たちだけではなかった。むしろ鬼たちはいい。扱い方さえ分かれば楽なものなのである。では何がこの世界の王を悩ませるのか。
 それは、ときどき、いろんな理由で姿を見せる天上人だった。
 地獄とは、用がなければわざわざ出向きたくなるような場所ではない。予定外の来客は滅多にないのだが、滅多にないそれがあったとき、音耶はいつも緊張して神経をすり減らしてしまうことになる。

 しかも、今現在も、朝っぱらからこの散らかった部屋に無理やり侵入して勝手に寛いでいる者がいた。
 鬼子母神の眷属・樹燐である。それほど親しくはないのだが、千獄のときをきっかけに、こうして時々顔を出してはちょっかいをかけてくるようになった。天上人というだけで気を遣う上に、音耶はこういう気の強い者が苦手だった。あまり邪険にすると後が怖い。だからできるだけ中身のない会話で済ませて早く帰ってもらうことしか頭になくなる。
「いい加減にしてください」
 目を合わせないように努めながら、音耶が呟く。
 彼の苦労を分かっていながら、樹燐は素知らぬ顔で肩を寄せてくる。
「少しくらいいいではないか」
「ダメですってば」
 猫なで声を出す樹燐を音耶は冷たくあしらう。いくら頭が上がらないと言っても、地獄での決まりごとを破るわけにはいかないのだ。
 樹燐の用とは、想い人である才戯の過去や現在の資料を見せろという無茶な要求だった。今までも何度か同じことを言われてきたのだが、相手が天上人だろうと私情や私利私欲のための情報開示など、許可できるわけがなかった。この世界では自分が王であり責任者なのだ。地獄での戒律を破る行為には強く反対することができる。
 千獄のときにも樹燐はとんでもない違反を犯し、帝からきつく注意を受けた。なのに、多少の自粛は見えるものの、それほど懲りているわけではないようである。
 こんなときに限って、音耶の手伝いに戻ってきてくれていた父親は外出中。もしかすると樹燐は先代がいない日を狙ってきているのかもしれない。
 樹燐は背を伸ばして口を尖らせた。
「じゃあ、私が探して勝手に見る。お前が許可したことにしなければいいだろう?」
「ダメです」
「だから」山ほどある書類を眺めながら。「どの辺にあるかだけでも教えろ」
「ダメです!」
 音耶は机に掌を叩きつけて大きな声を出す。
「大体、そんなもの見てどうするんですか」
 怒鳴られ、樹燐はいじけて書類の束に腰掛ける。
「弱味を握って言うことを聞かせてやりたいのだ。才戯は神を舐めておる。そんなのを野放しにしていていいわけがない。神が万能であることを思い知らせてやる必要があると思わないか」
「思いません」再び目線を机の上に戻して。「人間界で適当に生活してるんですからほっとけばいいじゃないですか。神をどう思おうが自由でしょう」
「音耶、お前はそんなんだから無能だと言われるのだぞ。もっと自尊心を高く持て」
 うるさいなあ……音耶はその言葉をぐっと飲み込んだ。ここで口答えしてしまうと話が長くなる。
「と言うか、樹燐様。あなたは彼のことが好きなんでしょう? だったらそうやって弱味を握って、力でねじ伏せようだとか企んでないで、素直に好かれる方向に持っていって方がいいんじゃないですか?」
 音耶の言葉は正しい。樹燐はそれが面白くなく、眉を寄せる。それに気づかずに音耶は淡々と続けた。
「だから、ここで時間を無駄にしてないで、そんな暇があるなら彼に会いにいけばいいじゃないですか。そうですよ、そうしてください」
 神が人間界に降りることは、理由がない限りは基本的に禁止されている。それを勧める音耶の発言は無責任なものだったが、地獄の住人である彼は、天上界での規律にまで義理を払う必要はないと認識していた。
 心無い音耶の態度と言葉を、樹燐が快く思うわけがなかった。どうやら今日も思い通りにはいかないようだと悟り、諦める。しかし黙って帰るつもりはなく、肩を落として深く息を吐いた。
「……まったく、お前はつまらん男だな」
「はいはい、そうですね」
「でも、せっかく足を運んできたのだから、何か楽しんでいきたいなあ」
 音耶に嫌な予感が走った。顔を上げると、案の定樹燐は不適な笑みを浮べている。
「そうだ、依毘士と鎖真もどうせ暇をしているのだろう? 奴らを呼んで酒でも飲まぬか?」
「な……何を言ってるんですか」
「お前も毎日毎日、同じことの繰り返しで飽きるだろう。たまには息抜きをしたほうがいいぞ」
 音耶の顔が青ざめる。音耶はあの二人が苦手だった。身分の高い神族のくせに地獄に居座られているだけで息苦しい。その上、自分の言うことは聞いてくれないし、怒らせると手が付けられないという性質の悪い存在なのだ。
 彼女なら本当に行動してもおかしくない。しかもその二人は実際に、普段は暇をしているし簡単に呼ぶことができる距離にいる。依毘士はともかく、鎖真ならきっと喜んで乗ってくるに違いない。
 まだ今日という日は長いこの時間から、天上の神仏に挟まれて酒盛りだなんて、音耶にとっては真の地獄である。
 樹燐は二人と音耶の相性が悪いことをよく知っていた。彼ができるだけ顔を合わせないようにしていることも分かっていて、敢えて二人の名を出したのだ。
「さ、酒なんて」音耶は数回、机を叩き。「朝っぱらから、非常識でしょう。そんなの、私が許可しませんからね! 私は忙しいんです。用がないなら出ていってください!」
 怯える彼の姿に満足し、樹燐は高い笑い声を上げる。
「もう、早く、帰ってください!」
 怒鳴られ、樹燐は笑いながら腰を上げた。書類を避けて扉に向かい、軽く手を振る。
「じゃ、音耶。また来るからな」
「……何度来ても同じですからね!」
 最後まで聞かずに樹燐は退室していった。やっと静かになった書斎で、音耶はぐったりと机につっぷした。



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