神々の住む、天上の世界。
 そこには四季があり、人間の世界とよく似ている。春には淡い花が咲き誇り、夏は緑濃く空が白く光り、秋は木々も空も深い赤に染まる。冬は薄い雪と冷たい空気が静寂を呼び寄せた。
 人間界と違うところは、そのすべてが美しいということだった。自然の均衡が崩れることのないそこに天災や災害は起きず、神々は移り変わる季節の風景や天候を、まるで美術品の鑑賞のように愉しむ。常に不幸や事故の絶えない人間にとっては、まさに極楽。人々が憧れてやまない世界。ゆえに人間はここを目指して、たくさんの苦行に耐え続けているのだった。

 その日は、朗らかな春から眩しい光に包まれる夏へと移行する途中の季節だった。
 空気は湿り、空が白む梅雨。霧雨がまだ若い葉に落ち、しずくとなって地を濡らす。
 そんな自然の神秘に包まれた天上界一巨大な城が、ぼんやりと霧の中に浮かびあがっていた。そこは天上界を統治する帝の鎮座する神聖なる場所だった。帝を頂点に、位の高い者ほど彼の近くに居ることができる。武神から天女、それらに従う部下や女官ら、その数を把握している者は少なかった。様々な神族の中にはさらに派閥もある。帝の城は一つの社会であり、当然その建物も「家」とは言いにくく、一つの国に匹敵するほどの広大さだった。

 雨はいつの間にか止んでおり、薄い雲の隙間から月が覗いていた。
 城内の一角にある広間で宴会が行われていた。そこに集まっていた男も女も、すっかりできあがっている。
 その中に、自然と目立ち、当然のように集団の中心になる男の姿があった。
 武神の中でも飛びぬけて腕の立つ、地獄の断罪神という異名を持つ鎖真だった。彼は昔から何も変わっていない。酒も女もケンカも大好きで、欲に正直で忠実。しかしこうだと決めたことは最後まで貫く芯の強さがあり、おせっかいなほど他人に世話を焼くこともある。鎖真を野蛮だと嫌う者もいれば、純粋な強さに憧れ、尊敬する者も多かった。
 彼は依毘士の部下として地獄に属してからも、時々天上界へ顔を出していた。元々ガキ大将のような存在だった彼は退屈を嫌う。天上界へ行けば自分を知らぬ者などいるはずがなく、誰もがいろんな目を向けてくる。嫌な顔をする者もいれば、嬉しそうに駆け寄ってくる者もいる。どんな思いを持とうと、自分には逆らえる者がいないことを知る鎖真はその反応さえも楽しみの一つとしていた。
 誰が何の名目で始めた宴会なのか分からないが、誰も疑問に思わずそこに寄り集まった。鎖真もその輪の中に馴染んでいる。赤い柱の並ぶ広間もまた、誰が歌い踊ろうと不便のないほどの広さがあった。
 宴もたけなわ、満足して帰る者や酔いつぶれて眠る者が増え、夜の帳とともに、少しずつ落ち着きを取り戻していた。

「今日はどうなさいました」
 顔を赤く染め、女性に囲まれて気分よく飲んでいる鎖真の隣に、阿修羅の眷属である珠烙がとっくりをもって割り込んできた。珠烙は童顔で中性的な容姿をし、体も細身だった。無害そうに見える彼だが、樹燐と対等に付き合えるほどの腹黒さと、阿修羅一族の持つ天性の戦闘能力は鎖真もよく知っている。
 鎖真は杯をぐっとあけ、珠烙から酌を受ける。
「どうって、暇だったからな」
「依毘士様は?」
「あいつも今日はこっちに来てるんだろ。知らないのか」
「そうでしたか。なにか用が?」
「さあ。なんか天竜が関係あるみたいだな。儀式とかなんとか。数日かかるらしい」
 鎖真はまた杯をあけ、珠烙に差し出しすと同時、彼からとっくりを取り上げた。
 珠烙はにこりと微笑んで酌を受けたが、酒豪の彼と飲み競うつもりはない。杯に少し酒を残したまま、話を続けた。
「地獄は退屈ですか?」
「そうだな、音耶はいつも仕事だし、鬼どもはバカだし、依毘士もいないとなると話し相手すらいないからな」
「こちらに戻られればいいのに」
「そうはいかねえよ。まあ地獄は退屈だが、居心地はいいんだぜ」
「そうですか」
 意味深に目を伏せる珠烙に、鎖真は笑い出す。
「なんだよ、お前さみしいのか」
 珠烙は笑いもせず、彼に目線を移した。
「俺に戻って欲しいのか?」珠烙の背中を強く叩き。「ああ、お前、そんな面して結構強いもんな。今の天上界にはろくな奴がいなくてつまらねえんだろ。俺の弟子になりたいのか? だったらそう言えよ」
「……さあ、どうでしょう」珠烙は肩を竦め、口の端を上げる。「確かにあなたは強い。それは誰も否定できない事実」
 鎖真は別の杯に手酌し、笑うのをやめる。
「何が言いたいんだよ」
「前から疑問に思うことがありまして」
 珠烙はやっと杯をあけ、手酌をし、鎖真を見つめた。
「なぜあなたは……あなたほどの方が、依毘士様に従っているのでしょう」
 鎖真はわずかに目じりを揺らす。酔っているとはいえ、理性は失っていない。珠烙への警戒心を強めた。
「なぜって?」鼻で笑いながら。「そういう契約だからだよ」
「だけど、あなたが選んだのでしょう?」
「そうだ」
「なぜそれを選んだのですか?」
 妙なことをしつこく尋ねる珠烙を、鎖真は睨みつけた。
 二人の静かな会話が続くうち、不穏な空気を読み取った者は彼らから離れていた。鎖真と珠烙が親しいとも、仲が悪いとも話は聞かない。しかし二人は位の高い武神同志。酒の場とはいえ、好んで深入りしたいと思う者はいなかった。
 周囲に人がいないこと、誰も聞き耳を立てていないことを確認し、鎖真は力を抜いて息を吐いた。
「いろいろあるんだよ」
 突然気の抜けた言葉に、珠烙も拍子抜けする。
「あいつの下に就きたいと思ったんだ。それができるのも、俺しかいないと思った。だから、選んだんだよ」
 意外にも素直な答えに、珠烙は戸惑った。鎖真を怒らせてしまうかもしれないと予感していたからだった。そうなったとしても次の対策はあった。だがそれもムダになった。
 大きな体の背を丸めて、溜息まじりに酒を飲む鎖真の表情からは、どこか幸せそうに見える。その姿に、珠烙の憧れる武神の威厳はなかった。
「で、なんでそんなこと訊く?」
 珠烙は杯をあけ、また手酌をする。無意識に、飲む速さが増していた。
「正直に言っていいですか?」
「どうぞ」
「あなたは、依毘士様に従っているのですか? それとも、天竜に従っているのですか?」
 鎖真は杯を持った手を止め、遠くを見つめた。
 珠烙の疑問に、疑問はなかった。鎖真自身も考えたことがあったからだ。
「……依毘士様の強さは天竜あってのもの。もしあなたが彼の強さに惚れたのなら、それが依毘士様のものなのか、天竜のものなのか、私には分からないのです」
 酒で火照っているせいか、溜息が止まらない。鎖真はさらに背を丸めた。
「お前は、依毘士が弱いと思っているのか?」
「いえ、そこまでは……」
「いくら正直だと言っても、依毘士を侮辱するとはな。てめえ何様だよ」
「そんなつもりは……」
 言葉を濁す珠烙だが、取り消す気はなかった。鎖真も彼の度胸と性格は理解している。問い詰め、咎めるつもりはない。
「……単純な武器での勝負なら、俺のほうが強いかもしれない。けどな、俺には天竜を使うことはできないんだ」
 珠烙は臆することなくじっと鎖真の言葉を聞いていた。
「つまり、天竜を使うことのできる依毘士はそれだけ高等で特殊な魂をもっているってことなんだよ。きっと、楽じゃないだろう。それに耐え得る精神力ももっているということ。普通じゃねえんだよ、あいつは。俺じゃとても、無理な所業だ。俺にできないことができる相手に敬意を払ったって、損はしねえだろ?」
 珠烙は目線を落とし、隣の鎖真にも分からない程度に奥歯を噛んでいた。
「分かったか?」
「……はい」
「お前じゃなかったらぶん殴ってるところだ。さ、そろそろお開きだな」
 そう言いつつ、鎖真は空になったとっくりを倒し、別のに手を伸ばしている。珠烙はもう酌をする気はなく、彼もまた自分の杯に酒を注いだ。
「まだ訊きたいことがあるか?」
「いえ」
 珠烙は答えたあと、少しの間を置き、声をさらに落としてまた話し出した。
「……この数日、依毘士様が何をなさっているのか、本当にご存じないのでしょうか」
「は?」
「私も知りません……でも、不確かな噂を耳にしました」
 鎖真は途端に興味を抱き、姿勢を変えて珠烙に近寄った。
「噂? どんな?」
「本当かどうか……」
「いいから、言えよ」
 脅しているというより、好奇心に支配された子供のようだった。珠烙は鎖真のこういうところが長所でもあり、短所でもあると思う。
「依毘士様は数年に一度訪れるこの儀式のあいだ、例外なく誰とも会わず、近づけることも許さないそうですね。一体、なぜなのでしょう」
「知るかよ。俺もそう言われてるんだよ。なんか意味でもあるのか?」
 儀式がどんなものなのか分からないが、きっと邪魔になるのだろうと、その程度しか考えていなかった。
「本当かどうか分かりませんが……」
「早く言え!」
 珠烙は鎖真の耳に顔を寄せ、そっと「不確かな噂」を告げる。
「……依毘士様の傍に、天竜がいない、かもしれません」
 珠烙はそれだけ言うと、息を飲む鎖真から離れた。広間にはもう二人しか残っていなかった。しんと静まり返った室内は、外側からゆっくりと温度を下げている。
「……天竜がいない? どういうことだ」
「さあ。ただの噂ですから。本当にいなかったとして、どのくらいの距離と時間、離れているのかどうかも……」
 それでも、確かめてみる価値はあるのでは――珠烙がそう誘うまでもなく、鎖真はそのつもりになっていた。
「そうだとしたら、依毘士様が誰も近づけさせない理由も納得できますね」
 鎖真の中に悪戯な気持ちが湧きあがっていた。同時、見てはいけないという警告の音も聞こえる。見てはいけない、見るべきではないのかもしれない。そう思えば思うほど、好奇心が強まっていく。
 激しい葛藤に、あまり意味はなかった。そうしたいと思ったことを我慢できる男ではない。見て後悔したとしても、見ずに後悔するよりマシだ。
「天竜のいない依毘士様に会って、あなたは一体、何を思うのでしょう」
 鎖真が必ず行動すると確信し、珠烙はそう言い残して、その場を立ち去っていった。
 一人になった鎖真は、そのまま、しばらく酒を飲み続けていた。



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