依毘士は真っ白な着物で直立し、感情のない瞳で珠烙を見つめていた。天竜も彼の頭上に顔を乗せ、同じように珠烙を見ている。
「……珠烙、よくぞここまで、私を追い詰めた」
 褒めている、とは思えない。珠烙は彼から襲ってくる凄まじい殺気に恐れを抱く。
「だが、少しだけ、間に合わなかったようだな」
 ぞくりと、背筋が凍る。怒っている。当然だとは思うが。
「なぜこんなことをしたのか……理由は、どうでもいい」
 依毘士は左足を前に出し、わずかに膝を曲げた。
「だが私も立場上、舐められるわけにはいかないのだ」
 珠烙にはそれが、宣戦布告だと分かる。冷たい汗が額を伝った。動揺を隠し、平静を装う。
「依毘士様、それは、私と戦うということですか?」
「体が鈍っているのでな。貴様なら、ちょうどいい運動になるだろう」
「あなたは地獄の使者。帝の命令なしで戦闘行為など、よろしいのでしょうか」
「戦闘? 誰が戦うと言った」
 依毘士の冷たい目は変わらず、ふんと、鼻で笑う。
「これは、躾けだ」
 珠烙が両手で防御するとほとんど同時、依毘士の膝が顔の前にあった。珠烙はかろうじて弾いたが、受けた衝撃で腕が痺れる。
 依毘士は一時も止まることなく回転し、後退する珠烙に次から次へと拳と蹴りを入れていく。天竜は振り落とされないよう、蛇のように彼の首にしっかり巻き付いていた。
 珠烙にとって依毘士は武神の頂点にいる、本来は忠誠を誓うべき男だった。それでも、これは「躾け」でも「戦闘」でもなく、「喧嘩」として、防御に伴う彼への攻撃が許されると判断する。集中力を高め、一瞬の隙に拳を叩きこんだ。弱っている依毘士の脇腹は、確かに軋んだ。この手応えは、骨にひびが入った、はずだった。
 しかし依毘士は顔色一つ変えず、傷ついた箇所を庇うこともなく、珠烙を攻撃し続けた。激しい動きで、ひびの入っていた脇腹の骨が折れる。それでも依毘士の動きは止まらず折れた骨が肉を破り、白い服に血が滲み始めていた。
 珠烙も戦闘の経験は豊富で、死を恐れたことはない。だが彼の心はもう持ちそうになかった。先ほどの、名のないの少女と鬼土竜、そして痛みを感じない男。こんなおかしな者と立て続けに向き合うには、あまりにも心の準備がなさすぎた。
(……依毘士様が最恐だと言われる理由が、分かった)
 彼には感情がないのだ。痛みも、苦しみも、迷いも、葛藤も何もない。
 天竜がすべて、覆い隠しているのだった。
 勝てるわけがない。
 珠烙の闘争心が削がれたとき、鞭のようにしなる依毘士の足が、後頭部を直撃する。視界がぐらつき、珠烙はその場に倒れた。吐き出した血が、床に散らばる。
 依毘士はやはり脇腹など気にする様子もなく、倒れた珠烙に近寄り、その頭を無情に踏みつけた。
「安心しろ。殺しはしない。貴様の腕は確かで、工作員としても優秀だ。少々過ぎた悪戯ごときで失うには惜しい人材だからな」
 珠烙は奥歯を噛み締める。
 依毘士は強い。勝てない。その事実を思い知り、認める、が、この傲慢な性格だけは尊敬できそうにないと思う。
「私が憎いならまたかかってくればいい。好きなだけ悪知恵を働かせ、どんな手段を使っても構わん」
 依毘士は彼の頭を踏みつけたまま、薄く、冷たく、微笑む。
「……貴様ら阿修羅一族は、何度、誰に盾突いても、勝てはしない運命なのだがな」
 珠烙はその言葉で頭に血が上り、彼の足を振り払って態勢を整える。依毘士も一歩下がり、珠烙と距離を置いた。
「依毘士様、あなたの力はよく分かりました……ですが、一つだけ、教えてください」
 珠烙は最後の抵抗を試みる。
「今のあなたは、殺された妻である『薄雲(うすぐも)』様のことを……どうお思いなのでしょう」
 珠烙は切り札として、彼の深い傷の根源である妻の名を出し、依毘士に叩きつけた。
 これは禁句だった。ましてや本人の前で声に出すなど、誰もが避ける行為だった。
 珠烙は期待を込めて依毘士を見つめた。どんな反応も見逃さないように。
 だが依毘士が、指一本、動かすことはなかった。
「誰のことだ?」

 珠烙は完全敗北を認め、依毘士にこうべを垂れた。その後、帝から謹慎を命じられてしばらく人前に出てこなかった。



◆◇◆◇◆




 数日後、依毘士は怪我の治療と体力の回復を済ませて地獄に帰った。
 今までと何も変わらない姿と態度の依毘士と再会した鎖真は、最初は彼が元に戻った現実に打ちのめされ、その場に座りこんでしまっていた。
 さらに数日後には、また天上界で自棄酒を飲む鎖真の顔に、大きな痣ができていた。
「……今度はいったいどうした」
 呼び出された樹燐だったが、飲むのも話に付き合うのも嫌そうにしている。
「くそ。依毘士の野郎、最低だよ。ああ、腹が立つ」
 樹燐は質問するのも億劫だった。言いたいことがあるなら早く言えと、心の中で呟く。
「帰ってきた途端、これだぜ」鎖真は痣を指さし。「傷心のときくらい優しくできないもんかな」
 樹燐は深いため息をつく。
「……どうせ貴様がバカなことを言ったのだろう?」
「なんで分かるんだよ!」
「だったら文句言うな」
「いいから聞いてくれ」鎖真は樹燐に詰め寄る。「俺はまだ立ち直ってないんだ。元に戻ったあの根性悪の依毘士を見て、泣きそうになったほどだ」
 なのに、依毘士は何もなかったかのように、素知らぬ顔で茶を飲んでいた。鎖真は彼をじろじろ、舐め回すように見つめ、眉をしかめた。
「……やっぱり、同じなんだよ。俺が惚れた、あの最高に美い女なんだよ。でも、男だった。顔も体も、男だったんだ」
 目の前にいる。いや、彼女はもうどこにもいない。しかし依毘士がそこにいる限り、忘れようにも忘れられないではないか。
「辛すぎるだろ……分かるか? 俺の気持ち」
 それは分からないでもなかった。樹燐は少々気の毒に思う。
「でさ、あいつも気を使って、ありがとうとかごめんとか、ただいまとか、なんか、そういう切ない言葉の一つでも言ってくれるかと思ったのに……近寄るな、気色悪い、だってよ!」
 樹燐は苦笑いとともに、溜息が出た。依毘士らしいといえばらしい。
「もうなんかバカバカしくなったよ。でも、どうしても吹っ切れないし……だからさ、男でもいいから一回やらせろ、って言ってやった」
「…………」
「そしたら、これだ」
 樹燐は鎖真に同情したことを後悔した。
 結局、依毘士はいつも通り帰ってきたと聞いて、鎖真なりに真剣に考えて出した答えなのだろうと、彼を少しだけ見直した。恋愛は人を成長させる。自分の欲望を抑え、相手を思いやったのだとすれば、叶わないとはいえ、いい経験になったのだろうと、そう思った。
 しかし、恋多き樹燐でも、こればっかりは言葉がなかった。
 二人の関係はもう完成しているから。恋人でも夫婦でもなく、それ以上の居心地のいい距離で付き合っている。樹燐が口を挟むまでもないことだった。



◆◇◆◇◆




 梅雨が明け、日差しが強くなり始めた頃、用があって天上界を訪れた依毘士の前に、花の髪飾りがよく似合う美少女が現れた。
「こんにちは、依毘士様」
 可愛らしい仕草と声で挨拶するが、依毘士は眉を潜めて返事をしない。
 その少女は、女装した珠烙だった。
「こないだは、ごめんなさい」珠烙はしおらしく頭を下げる。「ずっと謝りたかったのですけど、謹慎処分にされてしまい、遅くなってしまいました」
 依毘士はまた何か企んでいるのかと、疑わしい目で彼を睨み付ける。頭上に乗る天竜も同じように目を吊り上げた。
「そんなに怖い顔なさらないでください」珠烙はか弱き乙女のように、肩を縮めた。「何も悪いことは考えておりません。私、謝るときは、いつもこの姿なんです」
 そうすれば、たいていの者は怒りを軽くしてれる、ということだった。
 なるほど、と、依毘士は警戒を解く。
「謝る必要はない。貴様への罰はもう与えられたのだから」
 依毘士に言われ、珠烙は笑顔に戻り、両手を胸に当てた。
「よかった。私はもう許されているのですね」
 本心かどうかは知らないが、もう話すことはない。依毘士は目を伏せて珠烙の横をすり抜けていった。
「……依毘士様」
 だが、珠烙はまだ終わっていなかった。
「もう一つだけ、聞いていいですか?」
 依毘士は足を止め、振り返らずに質問を待った。
「なぜ、鎖真様なのですか?」
 短い問いだったが、意味は分かった。依毘士は考えるまでもなく、答えた。
「鎖真が天上界一、頑丈で、そう簡単には死なないと思ったからだ」
 静かに立ち去っていく依毘士の背中を、珠烙はいつまでも見送った。
 彼の答えには納得がいったし、聞いてよかったと思う。
 やはり、依毘士は亡き妻のことを、心のどこかで悼んでいるのだと思う。だから、もう二度と自分のせいで大切な「番い」が無残に殺されることがないよう、そんな願いから、鎖真という男を選んだのだ。
 珠烙には天竜が依毘士を救っているようには思えなかった。
 あれは、「痛み止め」に過ぎない。
 神経を麻痺させ、誤魔化し続けているだけ。
 他に方法はないのだろうか? 女になる特異な性質があるのなら、いっそすべてを捨てて、心から信頼できる男に嫁いだほうが、平穏な時間を手に入れることはできるのではないのだろうか――そうなるまでに、気が遠くなるほどの時間と苦労を要するのだとしても。
 珠烙は、自分には関係ないと思いながらも、そんなことを考えた。
「まあ……」珠烙はその場でくるりと回り。「このままのほうが面白いから、いいか」
 機嫌よさそうに鼻歌を歌いながら、依毘士とは逆の方向へ消えていった。 


<了>



◇ あとがき ◇



◇  ◇  ◇  ◇



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