SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-11





 ティオ・メイの城の一室に、特殊で強力な結界が張られていた。
 他ならぬ「天使」の隔離されている客間である。
 ラムウェンドに助言をもらいながら、ライザとサイネラが駆使したものだった。フーシャは自分が天使であり、特別な魔力を纏っていることを自覚しつつ、だが決してそれを隠そうとはしなかったからだ。もちろん、天使は高潔であり神聖なる存在である。疚しいことなど何一つあるわけではなかった。しかしこの世界では「異形」であることには間違いなかったのだ。彼女の姿を見て歓喜し、涙する者もいるかもしれない。いや、かもしれないどころではない。ほとんどの者が様々な理由で驚愕し、騒動が起きることは安易に想像できる。
 そうなれば、自動的にマルシオにも被害が及ぶことも考えられた。彼は人間界での生活も長く、自らの正体を明かしたがらない。それなりに人間界の秩序、魔法の理を理解しており、持つ魔力をコントロールする技を身につけている。それでも、魔力の強い者ならばマルシオの姿や持つ空気に違和感を抱くこともあるかもしれないが、そこまでのレベルに達している魔法使いや術師のほとんどは、必要がない限り他人を探ることはしない。
 それでも、マルシオまでが天使だと暴かれてしまえば、彼はもうこの世界にいられなくなってしまう可能性が高い。本人の望まぬ限り、この場にいるマルシオの友人たちは、それだけは守ってあげたいと思う末の決断だった。
 だからこそ、今はまだ彼女を結界に閉じ込めておく必要があったのだ。失礼は承知である。ただでさえ人間に好意的には見えないフーシャに対して隠すための術を施すことは、それなりの勇気が必要だった。
 フーシャは黙って窓から空を眺めたままだが、この結界には気づいているはずである。魔法使いの三人は内心で怯えていたが、トールだけは冷静だった。そもそも、彼は天使の有り難味以前に、魔法そのものに疎かった。彼にとってフーシャという少女は「突然の来客」でしかなかった。
 トールは彼女に少し距離を置いたところで、背後から声をかけた。
「フーシャ様」優しく微笑み。「私はこの国の国王、トレシオール・インバリンと申します。よろしかったら腰を落ち着けてゆっくりお話しいたしませんか」
 微妙に馴れ馴れしいトールの物腰に三人はヒヤヒヤしていた。フーシャに彼の言葉は確実に届いているはずだが、彼女は背を向けたまま動かない。トールはしばらく返事を待ったが、このまま無視されるのは後味が悪い。それにこの程度でめげる彼ではなかった。もう一声、と息を吸ったそのとき、フーシャは小さな呟きを漏らした。
「……どうして、このようなことをなさるのでしょうか」
 一同はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。口調からして、責めていることは間違いない。魔法使いの三人に冷や汗が流れる中、トールはやはり冷静だった。
「このようなこととは?」
 素直に聞き返すトールに、フーシャはやっと顔を向けた。そこに表情はなかった。
「あなた方は結界などで私を閉じ込めていらっしゃるではありませんか。その理由をお伺いしているのです」
 やはり、彼女には不愉快な処置だったようだ。フーシャの銀の目が僅かにトールを睨み付けた。
「どんな理由があれ、あなた方が私を侮辱していることには相違ございません」
 そんなつもりはない、とライザが慌てて弁解しようとしたが、ぐっと声を飲み込む。震える拳を握り、きっと他の二人も同じ気持ちのはずだと堪えた。
「やはり人間は変わってしまったのですね」フーシャは目を逸らして瞼を落とした。「私にとって魔法戦争は歴史上の出来事です。だけどその時代、天使と人間はお互いに敬いながら同じ時間を過ごしたと今でも伝えられています。そして戦争と、それに伴った天使と人間の決別も、決してすべてが愚行であったわけではないと、そう誰もが信じていました。もちろん、私もです」
 フーシャは辛そうな表情で目を潤ませた。
「ですが、人間がマルシオ様を奪ったことで私の気持ちは変わりました。ネイジュ様やミロド様からお話をお伺いし、マルシオ様は自らの意志で人間界を選ばれたのだと、その事実を受け入れる努力をしました……それでも、どうしても私の心の靄が晴れることはありませんでした」
 しばらくフーシャは俯き、黙った。まさか泣いているんじゃないのだろうかと思い、トールは少し腰を折った。それとほとんど同時、フーシャは顔を上げた。
「だから、私は決心したのです」強く眉を寄せ。「私も、マルシオ様と同じ目線へ下り、彼が何を見て、何を持ってして人間界にいらっしゃるのかを知ろうと」
 胸の前で握る拳に力を入れ、フーシャは熱く語りだした。
「本当にマルシオ様の心を捕らえるほどのものがここにあるのか。あるとしたらそれは一体何なのか。私も同じものを見て、それで納得できるのなら、考えを改めることができるでしょう。しかし、もしそれが天界を捨てるに値しないものだったら……若しくは、マルシオ様が何かに惑わされていたとしたら? 心を汚され、謀られ、人間界に縛られているとしたら? そんなこと、決して許されることではありません。そのときは、私が彼をお守りし、絶対に救ってみせます。それがマルシオ様の婚約者である私の役目なのです」
 フーシャはまるで威嚇するかのように四人の顔を見ていった。彼女が何を目的としているのかは理解できた。四人はお互いに目を見合わせる。全員が同じことを感じていた。
 フーシャは、最初から人間に好感を持っておらず、人間界を敵視しているとしか思えない。おそらく、語る言葉の後半部分──マルシオが人間に騙されているに違いなく、何としてでも彼を連れ帰るつもりでいること以外は考えてないのだと思う。
 彼女の言い分は聞いた。だがまだマルシオの気持ちと、フーシャを見て、言葉も交わさずに「逃げた」理由は分からない。とは言っても、トールはなんとなく二人の関係図式が想像できていた。そもそも、マルシオが「逃げた」という態度だけで多少は読める。それは、彼女の迷惑そっちのけな思い込みの強さで確信できた。やはり結界は正しい判断だったようだ。天使とは魔法使いたちにとっては特別な存在かもしれないが、魔道に疎く信仰心の弱いトールには、フーシャがただの我の強い少女にしか見えない。それに、と思う。これは邪推だが、フーシャ以外の天界の誰かもマルシオを連れ戻したがっているのではないかと感じた。利用という言葉は悪いが、フーシャはその為にここへ送り込まれたのではないのだろうか。
 それにしてもまた面倒が増えたことには変わりない。マルシオのあの怯えた表情は尋常ではなかった。彼だけで解決できる問題ではなさそうだ。もちろん協力できることがあるなら惜しむつもりはなかったが、相手は天使だ。人間の権力や常識は通用しない。それだけではない。フーシャという少女のこの強烈な性格。一筋縄ではいかなさそうだ。
 このことは、下手に口にすると魔法使いたちに冷たい目で見られる可能性がある。言葉を慎む必要があることを心に留め置きながら。
「貴方のお気持ちは受け取りました」真摯な態度を貫く。「フーシャ殿のマルシオへの一途な思い、敬意を表するに値します。マルシオの真意、貴方の見極めるべき事実。そして正しいと判断された末の結論。そのすべてを紛うことなく明快にするためのお手伝いを、この私にも担わせていただけませんでしょうか」
「……あなたが?」
 フーシャは声を落とし、眉を寄せた。ライザたちも、彼女の一方的な豪語に対して前向きなトールの態度に驚いていた。
 トールは手応えを感じ、話を進める。
「私はマルシオの友人です。彼が天上界を追放された理由も存じております」
「あなたは、一体」
 トールは、ここで重大な事実を口に出す。
「私は、マルシオが五大天使様に追放を言い渡される場に居合わせておりました者の一人です」
「なんですって」フーシャは目を見開いた。「では、五大天使様をその目でご覧になったとでもおっしゃるのですか」
「はい」
「そんなことが……一介の人間がエウラシェノール(五大天使)と……」
 毅然と返事を返すトールに、フーシャはつい失言をしそうになり、慌てて語尾を飲み込んだ。信じられなかった。五大天使は天界でも特別な空間に所属し、同じ天使でさえも簡単に会える存在ではなかった。
 フーシャは、マルシオの父親であるミロドに連れられて初めて、マルシオに追放を言い渡したネイジュと言葉を交わすことになった。同じ空間に足を踏み入れるだけでも稀少な経験であり、フーシャは話を聞くことに集中するために必死で震えを抑えたものだった。なのに、今目の前にいる、特別に何かに秀でているとは思えない一人の人間が、と強く否定したい衝動に駆られていた。
 だが、と考え直した。ネイジュは人間界でマルシオと何を話したかを聞かせてくれた。確か、そのときマルシオの他に数人の人間がいたと言っていたことを思い出す。それより先に驚いたことは、ネイジュが人間界へ降りるきっかけとなったのは、ある魔法使いに召還されたからと──フーシャはそれさえも疑いたいほどだった。もう縁遠く、幻となりつつある人間、そして魔法使いという存在。それが五大天使を召還する術を未だに持ち、駆使できる者がいるなんて。
 信じられない、フーシャは繰り返した。だが否定しまうことは、ネイジュが嘘をついていると言っているも同然なのだ。それは許されないことだった。納得はいかないが、それは「あった」のだと自分に言い聞かせた。
 聞いた言葉を受け入れ、そしてここに来た。どうしてもできなかった「納得」をするために。ネイジュが嘘をついているとは思っていない。だが、彼はこうはっきりと言った。
 天使が人間界に戻ることはない、と。
 ならばなぜ、マルシオはここに留まったのか。恐縮しながらも問うたが、ネイジュははっきりとは答えてくれなかった。マルシオ自身が選んだ道だとしか。それ以上の話はできなかった。戻ったところで、再びミロドに疑問を投げかけた。フーシャは彼に何度も問い、何度も話をした。その中で、ミロドは決してマルシオを否定も肯定もしようとはしなかった。
 戻れば受け入れる、戻らないのなら、いないものとする。その曖昧なものがミロドの答えだった。
 業を煮やしたフーシャは、怖くて聞けなかったことをとうとう口にした。
 マルシオと自分の婚約は、継続か解消か。
 待てと言われればいくらでも待つつもりでいた。しかし、もしも解消だと言われてしまったら……フーシャは深く悩んだ。悩み、考えても、それだけはどうしても素直に受け入れることができなかった。だから意を決して尋ねた。ミロドに待つように言って欲しくて、そう言ってくれると信じて。
 答えが提示されるまで少し時間がかかった。その末にミロドが差し出したものは、希望でも絶望でもなかった。
「もしマルシオが望むのならば、伴侶として傍にいてやってくれ」
 素直には喜べなかった。無礼を承知でフーシャは問い詰めた。
「それは……『天上界で』ということでしょうか」
 もちろん、彼女はそれが最善だと考えていた。いや、それ以外のことなど考えられなかった。まさか、マルシオさえ望めば「人間界で結婚を」というのもあり得るのだろうか。そんなこと、想像できない。認められない。
 そうだ、とフーシャの中にあった見えない糸が切れた、そう感じた。こうして話を聞くと、マルシオは決して見放されたわけではないのだ。彼が人間界に留まるには理由がある。それがいいことか悪いことなのかは分からない。ただ、少なくとも天界にはまだマルシオが戻ってこれる場所はある。それは二人の態度や言葉から確実に汲み取れた。それどころか、戻ってきてくれることを望んでさえいるように、フーシャの目にはそう映った。
 それに、何よりも自分自身が一番強く望んでいるのだ。どうやらそれを反対する者はいない。ならば、答えは一つ。
 そうして、フーシャは強い決意を抱いてこの地に足を踏み入れたのだった。


   

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