SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-24





「……さて、今度は何をするつもりかな」
 ルミオルは自室で一人、小声で呟いた。
 金のベルベットと銀の細工で飾られた大きなチェアに腰掛け、行儀悪く肘をついている彼の前には、黒い布が掛けられた真ちゅうのテーブルがある。その上には揺れる光を灯す水晶玉があった。ルミオルはそれを見つめながら、首にかけた涙型の水晶のネックレスに語りかけていた。
「ロア、見えるか?」
 魔法使いロアは水晶を通し、ルミオルと会話しながら城で起こっていることを見通していた。
『少しぶれますが、見えます』
「何が起こる?」
『そうですね……』
 ロアはしばらく考えた。ルミオルは決して急がせず、黙って光の中にある魔力を見つめていた。
『高等な魔法が発動します』
「それは面子を見れば分かる。お前の意見を聞きたい」
 ルミオルは冷たく言い放つが、ロアはさほど気にしなかった。再度気を集中させて考える。
『ちょっと……私としては、無謀ではないかと思うのですが』
「無謀?」
『ええ。成功か失敗かと言うと、魔法は完璧に行われます。しかし、なぜか凶兆が見えるのです。問題は、その危険を予測できないことではないのに、それでも強行しようとしているということ……私にはそう感じるのです』
 ルミオルはあまり詳しくは聞こうとしなかった。聞いてもロアが答えないことを知っていたからだ。
「それは」ふっと笑みを零し。「俺にとってはいいこと?」
 水晶の向こうで、ロアも僅かに笑ったのがルミオルに伝わった。
『どうでしょうね。私は一般的な目線で凶だと感じただけなので』
「……一般的ねえ」
『そのことがあなたに直接関わってくることかどうかは分かりませんよ』
「じゃあさ、俺から関わっていったら、何かいいことあるかな」
『さあ』
 彼の曖昧な返事にルミオルは目を細めた。
「お前がはっきり否定しないってことは、動く価値ありのようだな」
『そうですか? 私はお勧めはしていませんよ。ですが止めもしませんので、自己責任でお願いしますね』
「またそういう冷たいことを」ルミオルは水晶玉から顔を離した。「ま、いいや。どうせ俺に何かあったらお前が出ないといけないんだしな」
『ええ。そのつもりですよ。ですから、あまり無理なことはしないで欲しいんですけどね』
「だから、お前が止めないってことはなんとかなるってことなんだろ?」
『それは分かりませんよ。すべてが見えるとは限りませんし、人が動けばその都度未来も運命も変わります。尽力はしますが、私では手に負えないことだってあるんですから』
「それはそのとき考えればいいさ。ただ、これだけは言っておくよ」
『なんでしょう』
 ルミオルは目を伏せて、言葉の速度を落とした。
「俺は、お前を信頼している」
 本音だった。水晶を通してでもそれは分かる。
『ええ。分かっていますよ』
 そしてロアもまた、ルミオルを裏切るつもりはなかった。二人の関係が友と呼べるものかどうかは分からなかったが、それぞれの理由で互いが必要としていることだけは確かだった。
 ルミオルからの通信は切れた。それでもロアは水晶玉を通して彼の様子を見守り、同時に城で行われようとしている儀式の行方を探り続けた。


*****



 紫水晶で囲まれた室内の天窓は閉じられ、光は長方形の台に灯された三十一本のろうそくの炎のみだった。
 台の前にはあらかじめ描かれていた大きな魔法陣があり、その中央にティシラが座っていた。見慣れない重苦しい空間を見回しながら不安を募らせている。
 魔法陣は三重。外側に「未来」の円陣、その内側には星の形をした「現在」の象徴。そしてティシラを囲む三角の「過去」の星。それぞれに読めない太古の文字が羅列されている。
 ライザとサイネラは深い緑の聖位を纏い、ティシラを挟んで対称の位置で印を組んでいた。それぞれの方法で精神を統一し、独り言のように呪文を唱えていた。
 サンディルは台の前に立ち、時空の精霊たちと心で言葉を交わしていた。両手を広げ、時折指だけが形を変えている。
 準備が整うまで、ティシラは陣の中でじっとしているように言われたが、どうしても落ち着かず手を揉んだり姿勢を変えたりしていた。次第に、この空間に見えない「何か」が寄り集まってきているのが、彼女には分かった。その中でティシラが一番恐ろしく思ったのは、紫の空間が閉鎖され始め、通常の時空ではない別のものに変換されていくのを感じていたことだった。
 サンディルが薄く目を開けた。ライザとサイネラは変わらずに呪文を唱えているが、それが合図だということには気がついていた。
 そのとき、ティシラを囲む星と、三角の二つの陣が光った。ティシラは身を縮める。ライザとサイネラは、各々に印を結び、呪文を唱えていたかと思うと、まるで糸で操られているかのように次第に同じ動きをし始めた。呪文が重なる。始まった、とティシラは強く目を閉じた。
 ティシラは完全に闇に包まれる。その中で、理解不能の呪文だけが耳に届いていた。
 闇の中に何かが見えた。広大な世界だった。パライアスである。ゆっくりと大地に近づくと、ティオ・メイの城が見えた。溶けるように城内へ入る。
 これは、現代だ。ティシラはそう思った。マルシオやトール、ダラフィン、ルミオルなど、知った人物が現れては消える。次に城を抜け、森が見えた。それを抜けるとウェンドーラの屋敷があった。同じように中に入り、室内を一通り見回る。
 再び庭へ出る。そこには、青い目のメディスの姿があった。
 ティシラはあの時のことを思い出した。彼に連れられ人間界へ来たこと、そして、奇妙な指輪をもらったこと。
 そうか、と思う。順次に過去へ遡っているのだ。次は、そう、魔界だ。ティシラは次第に流れを制御できるようになっていることに気づく。抵抗せずに記憶に意識を預けた。
 屋敷の庭の映像が掻き消えた。意識の中で瞬きをすると、生まれ育った世界、魔界の空が広がった。自分の家、魔王の城へ入る。そこには父と母がいた。自分に笑いかけているように見えた。これは、過去の出来事だ。自分の部屋には、新しく調達されたドレスや宝石が積み上げられており、それを大量のピクシーが慌しく整理していた。
 城内にある大広間には、着飾ったたくさんの貴族が集まっていた。毎夜のように行われる、理由のないパーティだった。そこでも、ティシラは大勢の魔族に声をかけられた。
 そうだ。いつもこうだった、懐かしい。
 意識は城から少し離れた黒い森の中に流れ、その奥には一人の青年がいた。枯れた木々の間でマントを翻す若い吸血鬼。赤い目のメディス。ティシラはこの場所で彼と初めて出会ったのだ。先ほど見かけた青い目の彼とは、まるで別人に見えた。
 そういえば、メディスは一体誰だったんだろう。彼の言っていたことは本当だったのだろうか。ティシラはいろんな思いを抱き、少し切なさに包まれた。だけど、この森をもっと進めば何かが分かるのかもしれない。ティシラは闇の中で逆さまになり、奥を見つめた。意志に関係なく、先へ進み始めた。
 ここからが、失った過去。
 ティシラの意識の変化を汲み取ったライザとサイネラは同時に眉を寄せ、更に魔力を強く発した。できるだけ、ティシラへの負担を軽くするように。
 だが、ティシラは異常を察知し、目を見開いた。これは、痛みか、重みか。ティシラは次第に息を上げていく。
(なに? 体が、思うように……動かない)
 ティシラは気を乱し、暴れだした。しかし体が重くて身動きが取れない。
(なに、これ……!)
 体が闇に侵食され始めていた。ティシラの形が歪んでいく。脳裏に、涙を流しながら取り乱すブランケルとアリエラが現れた。二人の悲しみがティシラの中にも流れ込み、同じように涙があふれ出た。
 いつの間にか、体がなくなっていた。闇の中で悲鳴を上げるが、声が出ない。涙だと思っていたものも、濃度が濃く、意識に張り付いて拭うことができない。
(これは……血? 私の血が、どんどん流れ出ていってしまう。止まらない)
 ティシラは「死」を意識した。違う。そんな生易しいものではない。永遠の孤独、永遠の苦しみ――希望のない世界。
 違う、違う、違う……ここは、私のいる場所じゃない。いてはいけない世界。
(……逃げなきゃ、抜け出さなきゃ。でも……体が動かない!)
 呼吸すらままならない。ティシラは必死で道を探る。しかし、大地も方向もない暗闇だけの世界にそんなものがあるとは思えなかった。
 絶望。しかも、永遠に続くそれ。
 せめて肉体があれば戦うことも死ぬこともできるのに、ティシラは恐怖に捕われた。
(……いや。誰か……)
 ふと、何もないはずの空間に、何かを感じた。それがいいも悪いもなかった。知らない、理解できないものであることだけが確かだったからだ。
 ないはずの体に、何かが触れた。その何かも、自分さえも何も見えない。ただ、それには温度があった。僅かだが、確実に。恐ろしいものかどうかも判断できない。分からない。泣きたい。叫びたい。逃げたい。だが、そのどれも叶わない。
 もう、限界だ。
 その瞬間、温かい何かに押された、気がした。制御不能のティシラの意識は、その小さな力にさえ抵抗できない。摩擦も重力もない空間で、ティシラは体感できないほどの速度で流されていく。
 永遠――違う。これは、「無限」。
 苦しみや悲しみという感情だけではない。嬉しい、楽しい、愛しい……人が欲しがるものもここにある。
 肉体という限られた「入れ物」の中には収まりきれないほど、無限に溢れる「心」。
 ティシラは突然「寂しさ」に支配された。この思いが永遠に続くのだとしたら、生きている意味などないと感じた。
 無意識に手を伸ばした。体がないのだから、ただの幻想であることも分かっているのだが、いつもそうしてきていたような感覚に襲われたのだ。

 いつも、夢でそうしてきた。そう、これはあの悪夢の続きなのだ。
 ティシラは漠然と「離れていく」と思った。
 寂しくて、寂しくて、頭がおかしくなりそうだった。
 離れていく。
 ティシラはすべての感情を切り離し、闇に閉ざされた。



 ――あなたがいないと

 生きていても、意味がないの――


   

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