SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-26





 サンディルたちがどれだけティシラの魂を呼んでも返事はなかった。次第に三人の魔力は削がれ、集中力も欠け始める。このままでは……と、誰もが最悪の結果を想像してしまいかけたとき、ティシラの意識が僅かに戻った。
 一同は目を見開き、これを逃すわけにはいかないと心の中で手を伸ばす。
 手応えはあった。
「ティシラ! こっちへ」
 堪らずライザが大声を上げると、ティシラは体を反らして息を吹き返した。
 一命を取り留めたことを確認し、三人はその場でどっと疲れを曝け出した。しかしまだティシラは円の中心で震えている。サンディルは自分を落ち着かせながら、うずくまっている彼女に近寄った。
「……う、うう」
 ティシラは自分の肩を強く抱いて呻いていた。次第に、漏れる声は嗚咽となる。泣いている。それほどに苦しい思いをさせてしまった自覚はあるが、その涙の明確な理由は分からなかった。
 彼女は何を見たのだろうか。何を感じたのだろうか。
 しかし、今それを尋ねることはできない。もしかしたら、いくら待っても答えてくれないのかもしれない。
 決して、術は成功と言えなかった。欲しい情報は何一つ得られなかったのだから。その上、ティシラの身の安全さえも確保してあげられなかった。サンディルは己の未熟さ、無知さをつくづく恥じた。
 黙って見守られる中、ティシラは子供のように声を上げて泣き出した。床を濡らすほど涙が溢れ出している。
 なぜ自分がこんな目に合わなければいけないのか。何も知らないのに、何も分からないのに。だからこそ、苦しかった。
 誰が何のために自分を拘束するのだろう――きっとそれは目に見えない、壮絶で巨大な何か。太刀打ちできないほどの恐怖。怖い、怖いとティシラは何度も思う。しかし、それを言葉に出すことを躊躇っていた。
 あの闇の世界。どうしてあんなものがこの世に存在し、そして自分が関わらなければいけなかったのだろう。もしも、あのとき「暖かい何か」が自分に負荷を与えなければ、指一本動かせず留まることに抵抗できないまま、一体どうなってしまっていたのだろう。
 だけど、ティシラはその何かと離れたくないと、無意識に感じていた。
 真っ暗な世界で、孤独に支配されそうになった。あのまま時間が経てば、きっとすべてを諦めていたのだと思う。希望を失い、未来も過去もすべてを捨ててしまえば、簡単に「虚無」の一部になることができたのだろう。
 なのに、なぜかティシラは、あの場から遠ざかる瞬間に「離れたくない」という感情に捕われたのだ。理由は分からないが、脳裏にはっきりとその言葉が浮かんだことだけは忘れられなかった。どうして、どうしてと思うほどティシラの涙は溢れ続けた。

 ――どうして、私を一人にするの。

 自分でも、その気持ちがどこに向いているのか理解できない。ただティシラは、気が済むまで泣き続けた。

 ――寂しい。苦しくてもいい。傍に、いたい。


 誰もが意気消沈している中、扉の外が騒がしくなった。
 まだ立ち入り禁止は解禁していないが、サイネラは反射的に結界を解き、それを中に入れた。
 緊張した面持ちのマルシオが駆け寄ってきた。いつものティシラとはかけ離れたその様子を見てもそれほど驚かなかった。何が起こったのかは分からないが、この空間から危険が去っていることと、ティシラに意識があることだけで少し安堵したからだ。
「ティシラ……?」
 突っ伏して泣き崩れているティシラは、声をかけても返事をしなかった。マルシオは息を飲む。
「一体、どうしてこんなことに?」
 三人は俯いてすぐには答えなかった。開けられたままの扉の傍で、トールとフーシャが口を閉ざしていた。室内の空気の重さは普通ではなく、まだ誰も冷静になれる状態ではなかった。このままでは埒が明かないと、マルシオはティシラの肩に手をかけた。
「とにかく、ティシラを……」
 途端、ティシラは髪を振り乱して悲鳴を上げた。瞳孔は細り、顔中が涙で濡れていた。
 マルシオは、こんな彼女を見たことがなかった。驚きと同時、恐ろしくて、あまりにも哀れで放っておくことができず――だけど、どうしたらいいか分からず――本能に任せてティシラを強く抱きしめた。
 誰もがマルシオの行動に目を奪われた。
 ティシラ本人さえ、泣くことを一瞬、忘れてしまっていた。
「……は、離して」
 ティシラは彼の耳元で呻くように呟いた。振りほどこうとするが、マルシオは更に腕に力を込める。そこから慟哭が伝わった。暖かい。暗闇の中で感じたものと似ていた。
 ティシラは目を揺らした。この暖かさ、体温。まさか、あの時感じたものは誰かのそれだったのだろうか。だとしたら誰の? いや、あの世界に何者かが存在するとは思えない。だけど、あそこが完全なる無の世界だというのなら、一体何が自分に触れてきたのだろう。
 再び、ティシラの目から涙が溢れ出した。寂しい苦しいと何度も唱えた。違う。自分だけではない。どこかで誰かが、もっと寂しい思いをしているのかもしれない。今まで自分が抱えていた悲しみよりも、それ以上の孤独を強いられている者がいることを想像すると、居た堪れずに胸がぎゅっと痛くなる。もしそれが、あの世界で自分を突き放した者だとしたら――なんという強さ、なんという勇気だろう。
 本当は迷い込んできた「同士」を繋ぎとめて、僅かでも寂しさを埋めたかったに違いない。自分だったら、きっとそうする。なのに、「彼」はそれをしなかった。無償の優しさを、姿も見せずに与えた「彼」に、一体自分は何をしてあげられるのだろうか。ただ泣いていた自分が小さく、弱く思える。本当に苦しいのは、自分ではない。自分だけではない。
 ティシラは次第に抵抗するのをやめ、素直に泣き声を上げた。
 理由は分からないのに、マルシオも一緒に泣き出してしまいそうだった。理解してあげられないもどかしさなのか、もしくは、言葉や理屈では説明できないところで何かに共感してしまったのか。マルシオはほとんど無意識に囁いていた。
「……大丈夫」ティシラにだけ届くほどの小声だった。「大丈夫だから。光がある限りすべては変動している。必ず、行き着くから。大丈夫」
 ティシラは彼が何を伝えようとしているのか、なんとなくだが理解できた。そうだ。そのために永遠を捨ててマルシオはこの地に降り、自分も辿り着いたのだと、そのことを思い出した。
 まだ悲しみは癒えないが、心の変動と共に、ティシラは落ち着き始めた。
 変わらないことなど、この世界にはない。ずっと悲しい、寂しいままだなんてあるはずがない。事は必ず変わりゆくものなのだ。もしかすると悪い方へいくこともあるかもしれない。それでも、ずっと同じところへいるよりはいい。
 光のない世界。あれは、あんなものは幻だ。
 ティシラは、そうではないのだろうと、むしろそうではないことを祈りながら、今は考えることをやめようと思った。そうでなければ、あれは肉体のある魂ではとても耐えられない世界なのだから。それでいい。今はまだ、それでいい。
 いつか必ず「そのとき」は訪れるのだろうから。


 静寂が落ちた室内で、ティシラの嗚咽だけが時折聞こえる。一同はやっと肩を落とした。
 だが、その中で一人だけ、険しい表情で感情を押し殺している者がいた。他ならぬフーシャである。彼女にとってはあまりにも残酷な光景を見せ付けられ、もう涙さえ出ない極限状態にあった。その心は激しく掻き乱され、嘆きは怒りや嫉妬などに塗り潰されるほど苦痛に満ちていた。
(どうして……? どうしてマルシオ様はそのような者に愛を注がれるのですか……?)
 いくら考えても答えは出なかった。
(まさか、本当にマルシオ様は魔族なんかに心を奪われていらっしゃると言うの? そんなこと、あり得ないし、あってはならないこと。だけど……それは何度も申し上げてきた。マルシオ様もご理解されているはず。それでもこうしてあの娘をお守りなさろうとするのは何故なのでしょう)
 やはり、とフーシャは歯を擦り合わせた。
(……そうなのですか、マルシオ様? でも、でも……あなたは一度でも私を庇ってくださった。それに、本当に私以外と約束を交わされたのであれば、婚約を解消することもできるはず。あなたがそれをなさらない理由はなんなのでしょうか。本当に、あなたは聖なる心に救いを求めていらっしゃらないのでしょうか?)
 何度ティシラと衝突しても、マルシオは明確な態度を取らなかった。それがフーシャを迷わせていた。
(ならば、もうマルシオ様を説得することはやめます。その代わりに、本当にあの娘があなたに相応しい女性なのか、マルシオ様が心奪われる何かを持つ者なのかを確かめましょう)
 そうフーシャは答えを出した。もうこれ以上、苦しみを分け合っている二人を見てはいられない。いつの間にか隣でフーシャの様子をじっと伺っていたトールには目もくれないまま、静かにその場を立ち去った。


   

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