SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-28





 ティオ・メイ城下町の外れに一つの居酒屋があった。木造の建物には年季が入っており、壁や屋根のほとんどが焦げたような色になっている。一階建ての大きな店なのだが、あまりその広さを感じることができなかった。長年の運営で増え続けた荷物が、要るもの要らないものの区別もなく積み上げられているからだ。それでもこの店の客足は途絶えることがなかった。人気の理由は、客の素性を探ろうとする者もいず、外見で判断されることもなく気楽に飲み食いできるところにあった。
 ティオ・メイの足元にあるため、犯罪者や極悪人などまでが出入りできるわけではなかったが、素行や身体に事情を持つ者でも干渉されることなく歓迎される空間だった。当然、すべての客が影のある者ばかりではない。一般的に「普通」と呼ばれる者とそうでない者との隔たりがないだけ。ただそれだけのことで、荒んだ気持ちを癒される者は少なくない。その現実がこの店を繁盛させてきたのだった。
 店の常連でなければ知られていないことがあった。それは、ここに地下があるということだった。地下は天井が低く慣れない者には息苦しい空間である。だがここは慣れない者が偶然に迷い込める場所ではなかった。常連だけが入れるというわけでもない。地下室で酒が飲める者の条件とは「その空間が好き」なことだった。
 熱気が篭り酒臭く、換気が悪く煙草で煙い。そこには礼儀など欠片もなく、酔って暴れる者もいれば机に乗って歌い踊り出す者もいる。もちろん、店側に損害が出れば弁償は免れない。逃げようものなら出入り禁止は当然、この店を気に入っている者からの非難を受けることになる。自然と成り立った暗黙の掟に誰もが従ううち、ここは特殊な空間を作り上げてきた。


 今日も混雑した店内は空気が悪い。その一角にある古びたソファに、慣れない客が背を丸めて周囲を覗っていた。一見お嬢様風の赤目の少女、ティシラである。隣には、マントを脱いでラフな格好になったルミオルがいる。ティシラはルミオルに連れられて腰を下ろしたものの、この異常な雰囲気に嫌悪を抱いていた。
 店内の内装もおかしなものだった。よくある酒屋は、例え古くてもある程度は統一されたテーブルや椅子が並べてあるものだが、ここは違った。通ってきた一階は「よくある店内」でそれほど珍しいものはなかったというのに、地下は「店」と呼ぶことさえ抵抗を感じる。テーブルや椅子はあるにはあるのだが、どれもが形も大きさもデザインもバラバラで、隅に押し寄せられていたり、必要な人数分を寄せ集められていたりと、まるで、まだ辛うじて使えるものを持ち込んできた倉庫のようだった。客層はほとんどが男性だが、ぽつぽつと女性や子供の姿もある。しかし室内に漂う雰囲気のせいか、ここにいる誰もが説明できない不健全さを醸し出しているように見えた。
 ティシラは運ばれてきたカクテルを口につけるが、アルコールがやたら濃くて味わえるものではない。舌を出して眉を寄せていると、ルミオルが体を寄せてきた。
「こういうところは苦手?」
 ティシラはルミオルを肘で押し返しながらぼやいた。
「なんなのよ、ここは。汚らしい」
 ルミオルは仕方なさそうに体を引きながら笑う。
「俺のお気に入りの店。ここの遊び方が分かったら楽しいと思うよ」
「遊びに来たんじゃないのよ。いいから、言ってた魔法使いに会わせてよ。ここにいるんでしょ?」
「まあまあ、そんなに焦らなくていいじゃないか」
「そういう問題じゃないわよ。あんた、私を馬鹿にしてるの」
 ティシラはかっとなって大きな声を出すが、周囲の騒音に紛れ、誰も気に留められることはなかった。そんな彼女を宥めるように、ルミオルはティシラの髪を優しく撫でる。
「馬鹿になんて。俺は好きな女の子にそんなことしないよ」
 ティシラはその言葉で更に機嫌を損ねた。好きな女の子だとか、どうしてそういう見え見えの嘘が平気で言えるのか理解できない。そもそもこのルミオルという男のことを何も知らない上に、何度か言葉を交わしたものの、まったく彼の性格や考え方が掴めないでいたのだ。自分を好きだとかというのは上辺だけのものだとは分かるが、どうしてこうも馴れ馴れしく付き纏ってくるのだろう。何か目的があるのだろうか。ティシラはルミオルを疑いの目線で見つめた。
 ルミオルはそれを敏感に察知し、目を細めて見つめ返す。
「いいよ。疑われるのは慣れてる」声を潜め、耳元で囁く。「女の子にそんな目をされるのはちょっと辛いけど、でも、俺はどう思われても構わない。ただ、君が寂しいのなら、傍にいてあげたいとそう思ったんだ」
 彼の言葉にも、影のある表情もティシラは受け入れることに抵抗があった。これが本気であると感じられるのなら悪い気はしないはずなのだが、どうしても違和感がある。
「私を喜ばせたいなら、早く魔法使いに会わせなさいよ」
 冷たいティシラの反応にもルミオルは笑顔を消さない。
「もちろん。できるだけ早く会わせるように努力するよ」
「じゃあ連れてきてよ。ここにいるんでしょ? どこよ。どの人がそれなの。教えてよ」
 ティシラはルミオルから顔を離して周囲を見回した。視界に映る限りでは魔法使いらしく見える人物はどこにも見当たらない。ルミオルは少し強めにティシラの頭に腕を回し、自分の肩に引き寄せた。
「だから、慌てないでってば」
「ああもう、ベタベタしないでよね」
 ティシラは彼の腕をまるで汚いもののように払おうとするが、ルミオルは今までのように力を抜かなかった。
「……な、何なのよ」
 ティシラは彼の強引な態度に戸惑う。周囲には人目も憚らずに接近している二人を気にする者もいなかった。ティシラは改めて、ここの異常な空気に寒気を感じた。
 まさか、騙されたのだろうか。ティシラの中には恐怖ではなく、怒りが込み上げてきた。自分を誰だか知らないで、よくも。ティシラの瞳の赤が深まり、微かに歯が尖った。
 増加し始めるティシラの魔力に、指輪は反応しなかった。その理由は分からないが、彼女の危険な感情を止めるものはここになかった。
 普通ならばティシラに魔力が灯る目を突きつけられただけで人間は怯えるはずである。しかしルミオルの表情に変化はなかった。おかしい。それだけでティシラは更に彼への違和感を強める。
 そのとき、ルミオルの胸元にあった水晶がぼんやりと光った。二人は我に返って目線を落とす。同時に、ルミオルはティシラから腕を離し、光を揺らす石を見つめた。
「……へえ、君、魔法使いなの?」
「う、ううん。どうして?」
「違うの? この水晶は魔力に反応するんだ」
 ティシラには理由が分かった。当然である。自分自身がこの距離で強い魔力を放ったのだから。それにしても、彼の理解不能な態度の変化にはどうも調子が狂う。どうして話題を本題からすぐに逸らそうとするのだろう。騙そうとしているにしては安直すぎる気がした。もしかすると、からかわれているだけなのかもしれない。やはり、腹が立つ。ティシラはこれ以上先延ばしにはさせないように、彼を追い詰めることを決意する。
 だが、口を開こうとした直前、ルミオルはティシラの行動を遮った。
「俺を攻撃しようとした?」
 ティシラは喉まで出かけていた言葉を飲み込んだ。図星だった。しかし悪いとは思わない。いつまでもふざける彼がそうさせようとしたのだから。それが分かっても、ルミオルは余裕の態度を変えない。むしろ「何でも知っている」とでも言わんばかりに微かに鼻で笑った。
「俺自身が強い結界に守られているんだ。俺も魔力がないわけじゃないけど、専門分野じゃない。だからそういったものからの攻撃から身を守るための魔法をかけてもらっている。この水晶はそれの核。危険を察知したら、術師の意志がなくても力を発揮してくれるんだ」
 ルミオルは水晶を持ち上げて軽くキスをする。その仕草はキザで鼻持ちならないが、やはりただのバカではないかもしれないとティシラは警戒心を強めた。しかし、冷静に考えると別に彼自身に興味はない。攻撃する価値もないと、話を元に戻す。
「その術師っていうのが、特殊な魔法使いってことね」
 ティシラの鋭い言葉にルミオルはつまらなそうな表情を浮かべて目を逸らした。当たりだと、ティシラは透かさず踏み込んでいく。
「あんたのことなんてどうでもいいから、早く連れてきなさい」
 詰め寄ってくるティシラに、ルミオルは観念したかのように肩を落とした。
「それはできないよ」
 ティシラは目が点になった。ルミオルはソファに体を預けながら開き直る。
「ごめんね、彼はここにいないんだ。一応声をかけてみたけど、今日はダメだって」
「……はあ?」
「でもちゃんと、別の日にでも会わせてあげるから、そんなに怖い顔しないでよ」
 そう言われても、ティシラは黙ってなどいられない。
「やっぱり騙したのね!」
 大声で怒鳴りつけるが、周囲の騒音は相変わらずで誰も動きを止めなかった。ルミオルも当然の反応に悪びれる様子はなかった。
「騙してなんかないよ。俺は、今、ここで会わせるなんて一言も言ってないんだし」
「なんですって!」
「どうせ城にいても何もいいことないだろう? 今日は嫌なことは忘れて楽しもうよ」
 ティシラは怒りで顔を真っ赤にし、拳を握って立ち上がった。
「冗談じゃないわ。なんであんたの暇つぶしなんかに私が付き合わなくちゃいけないのよ。帰る!」
 ティシラは髪を靡かせてルミオルに背を向けるが、その腕を素早く掴まれ、足を止められる。
「離しなさい!」
 ルミオルは怒り心頭のティシラを掴む腕に力を入れる。
「帰るって、どこへ?」
「……そ、それは」
 ティシラは眉を寄せながらも、抵抗する力を失った。ルミオルは腕を掴んだまま、離さない。
「ティオ・メイの城へ? それとも、君のママのところへ?」
 皮肉だった。彼が何を言わんとしているのかは説明などなくても理解できる。どこへ帰るのだと、帰ってどうするのだと問われ、ティシラは答えることができなかった。
「……でも、ここにいてもどうしようもないじゃない」
 ティシラはぼやくように呟く。力が抜けて指が垂れた彼女の様子を確認して、ルミオルは強引に腕を引いて隣に座らせた。
「『彼』と会わせる準備を整えてから声をかけようと思っていたんだけどね……君があまりにも辛そうだったから、どうしても黙って見ていられなかったんだ」
「……それって?」
 ゆっくりと肩を抱き寄せてくるルミオルを、ティシラは押し返さなかった。ルミオルは自分に傾けられた彼女の頭に軽く唇を当てる。
「見てみなよ。ここはみんな、とても楽しそうだろ?」
 ティシラは虚ろな目で周囲を改めて見回した。確かに、品性の欠片もないが、その代わりに誰もが心からの笑顔を浮かべている。歌い、踊り、浴びるほど酒を酌み交わし、誰に遠慮することなく腹の底から大きな声を出している。
 気持ちよさそうだと思った。こんなにも羽目を外せる場所なんて、ティシラは知らない。今までのことをなかったことにはできないが、この空間には何の関係もない。
 きっと、ここにいるみんなも同じなのだと思う。みんなそれぞれに悩みを抱えて、毎日苦しくて、どうしようもなくなってここへ来ているのだろう。自分も同じ。そう思うと、この場限りでも楽しまなければ損するような気分になる。そしてこれ以上はもう、考えたくない。
「よし」
 ティシラは体を起こして深呼吸した。ルミオルから離れ、飲みかけていたグラスを掴んできつい酒を一気に飲み干す。
「今日は暴れるわよ」ルミオルを睨み。「あんたが誘ったんだからね。後で文句言っても聞かないからね」
 ルミオルは彼女の開き直った態度を見て嬉しそうに笑った。
「もちろんそのつもりだよ。ああ、でも、ここで魔法は使用禁止だから。それだけ忘れないでくれ」
「うるさいわね……使いたくても、使えないのよ!」
 頭に血が上ったティシラは、彼が初めて自分に見せた素直な表情には気づかずに大きな声で店員を呼びつけた。
 ヤケクソのようにビールジョッキを抱えて人混みに紛れてティシラは歌い踊った。城では浮いてしまうティシラの暴言や金切り声も、ここではなんの違和感もなかった。酔いも回り、ティシラは次第に嫌なことを忘れてしまっていた。
 ルミオルは一人、楽しそうに笑う彼女を見つめながら静かに酒を味わっていた。騒ぎは明け方近くまで続いた。


   

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