SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-35





 扉の先も蔦だけで構成された室内が続いた。天井から壁面まで滑らかなアーチ状になっており、円柱状のそれはまるでトンネルのようである。
 ティシラは周囲を見回しながら二人の後についていっていた。足元は人が歩くためだけに設置された形になっており、床というよりも架け橋を連想させる。その足元もまた、壁よりも細い蔦の集合体であり、注意を払わなければ気づけないほど凹凸なく滑らかに絡み合っている。
 僅かな気配を感じ、ティシラは咄嗟に顔を上げた。目線の先には蔦の壁がある。その隙間で、何かが蠢いているように見えた。
 ティシラは息を飲み、足を止めずにそこに意識を奪われた。何かがいるのは間違いないのだが、それだけではないと思う。耳を澄ましてみると、ティシラには微かな息の根が聞こえてくる。ここにある蔦のすべてが、生きているのだ。蔦の隙間で蠢いたものが蔦そのものなのか、別の何かが揺れたのかは分からないが、この空間自体が巨大な一つの生命体であり、ティシラはその腹の中にいるのだということを実感していた。
「ところで」歩きながら、ロアが口を開く。「まずは何から始めればいいのでしょう」
 長いトンネルの先はまだ見えない。ロアの少し後ろを歩くルミオルが返事をする。
「そうだな。ここの状態が悪くないなら確認は後でも構わない。先にティシラの用事を済まそうか?」
 言いながら、隣を歩くティシラに顔を向ける。ティシラは急に話題を振られ、えっ、と目を丸くした。
「わ、私の用事?」
 戸惑いを隠せないでいるティシラに、ルミオルは笑いを零す。
「何をとぼけてるのさ。君はここに何しに来たんだ?」
「え、あ、ああ」
 指輪のことだ。半分諦め、いろんなことに埋もれて忘れかけていたことは否定できなかった。
「そ、そうだわ。指輪」左手を見つめて。「この指輪、変な呪いがかかってるの」
「変な呪い?」と、ロア。
「ええ……よく分からないんだけど、どうかするともの凄い痛みがあって」
「どうかすると、と仰るのは、どういうときですか?」
 ティシラは答えに困った。ロアとは初対面とは言え、相手は人間の魔法使いである。「人を襲おうとしたとき」とは安易に言えない。
「と、とにかく、もう死にそうなくらい痛いの。下手したら指が切れるんじゃないかと思うほど。取りたいんだけど、どうやっても取れないのよ」
 明らかに不自然なティシラの誤魔化しにも、ロアは動じない。必要なら話すだろうと、そのまま進める。
「その呪いは、いつ、どこで、誰に、どうやってかけられたものなのでしょうか」
 ティシラは質問に一つも答えられなく、眉を寄せて口を一文字に結んだ。ルミオルも、彼女が何を隠しているのか、なぜ話そうとしないのかまでは知らない。少し首を傾げながら二人の話を聞いていた。
 ティシラは俯いて黙ってしまう。何から、どう話そうかと悩んでみるが、できることなら話したくなかった。
 沈黙する三人は、足だけは止めない。響く足音がティシラを追い詰めているようで、額に汗が流れ出す。この気まずい空気をなんとかしたく、何か言わなければと焦り、ティシラはつい咄嗟に話を変えてしまった。
「あ、そうだ。やっぱり」少し上擦った声で。「ねえ、先に呪樹の主に会わせてよ。彼には直接会ったことないの」
 唐突なティシラの発言に、当然ルミオルは更なる疑問を重ねるが、どうせこの空間で自由は利かない。彼女を拘束したと思っているルミオルはティシラの好きなようにさせるつもりでいる。
「ロア、可能か?」
「ええ」歩きながら微笑み。「『彼』もこんなところで姫に会えるなんて、きっと喜ぶのではないでしょうか」
 いつまでも隠してはいられないのかもしれないが、どっちにしてもこの空間のことも気になる。まずそこからはっきりさせてからでも、いや、むしろそうしたほうが気が楽かもしれないとティシラは考えた。
 しばらくすると道の果てが見えてきた。入ってきたときと同じ形の扉がある。
 扉の前でロアが足を止めると、後の二人も立ち止まった。
 足音が消え、あたりは静まり返る。ティシラが無意味に緊張していると、どこからかザワザワと、蔦の揺れる音が耳に届いた。ロアは二人を振り返らず、十分に届く小声で呟く。
「では、『彼』のもとへご案内してよろしいでしょうか」
 なんのことだか分からないティシラの隣で、ルミオルが頷く。
「ああ」
 ロアは瞼を落とし、声には出さずに呪文を唱えた。小さく動く唇からは、見えない文字が紡ぎ出されている。ティシラとルミオルには変化が感じられなかったが、ロアは、触れずに扉の向こうを操作していた。呪文を止め、顔を上げると扉が自動で開き始める。
 開いた扉の先には、灰色の靄がかった水面があった。まるで木漏れ日が差し込んでいるかのように、細かい光の粒が揺れている。ロアは静かにその中に溶け込んでいった。ルミオルも抵抗なく、彼の後に続いていく。しかしすぐに振り向き、呆然としているティシラに体を向けて手を差し伸べた。
「怖がらなくていい」目を細め。「これは水でも壁でもない。空間を区切る、ただの光だから」
 別に怖いわけではなかったのだが、ティシラは頷きながら靄に近付く。確かに、よく見ると水でも壁でもなかった。なんだろうと目を凝らしていると、ルミオルが少々強引に腕を引き、まるでそこには何もないかのように靄の中に引きずり込んでいった。


 靄の向こうは、今までと同じ蔦の世界だった。
 だが、建物とは呼びにくい場所である。まるで森だった。蔦でできた世界なのだから、もしかするとこのほうが自然に近いのかもしれない。
 そこにあるものは蔦だけではなかった。蔦と同じ素材の木々が所狭しと立ち並んでいる。太さや背丈は様々。共通していることは、樹皮には乾いているかのように皺が多く、木の葉は一枚も開いていない。しかし決して「死んでいる」とは思わせない生命力の強さも漂っている。無知な者でも、木々が枯渇しているだけの弱い森だとは思わないだろう。なぜなら、そこに渦巻く異様な「怨念」のようなものに飲み込まれてしまうからだ。木々には、突然一人で歩き出しそうな不気味な迫力があり、迷い込んだ者の恐怖心を煽る。呪われている、そうティシラは感じた。
 深く、人の手の付いていない広大な森。違う。野生のものには見えにくい。何が違うのかは、具体的には説明できないが、少なくとも人間の世界では成り立たないであろう不自然さがある。
 天井まで覆い囲まれた蔦と絡み合うように、木々は逆さまに生えているものもある。完全に自然の法則を無視しているとしか思えない。
 見回しているうちに、ティシラは木々にあるもう一つの共通点を見つけた。そこにあるすべての木からは、枝が二本しか生えていなかったのだ。二本のそれの先は更に細かい枝に別れている。人の腕と手のようにも見える。だからこそ、気味が悪いと感じたのだとティシラは気づく。
 一見は確かに樹木なのに、見ようによっては、それらが人のように歩き出すのではないのかと思えるのだった。
 決して気持ちのいい空間ではなかった。魔界にももちろん森はあるし、似たような侘しさを醸し出している枯れた木々には慣れているつもりだった。しかし、それとは何かが違う。元は同じだとしても、それ以上の負の魔力を帯びている。ここがまともではないことは分かるのだが、誰が何のために、その謎を解かないことには長居したくない場所だった。
(……これが、呪樹の木ってことかしら)
 微かに身震いするティシラより先に、ルミオルとロアが森の奥へと歩き出した。今ここで事情を聞くより、呪樹の主に会えるなら本人と直接話せばいいと思い、ティシラは二人についていく。
「凄いな」そう呟いたのはルミオルだった。「数日の間にこんな大きくなったのか」
「もうすぐ、人間でいう成人にあたります。最終的には二メートルから三メートルほどになるでしょう。その頃には『戦士』として立派に育っているはずです」
 二人の話に耳を傾けながら、ティシラは木々の隙間に倒れた一本のそれを見た。倒れているだけではなかった。その上に、他の樹木が踏みつけるように根を張っている。それは、理性のない生物が弱いものからエネルギーを吸い取っているような、嫌な言い方をすれば「共食い」をしているように見えた。
 二人の会話とその光景が、ティシラに嫌な予感を抱かせる。
 息を飲みながら目線を前方に向け直すと、森の空気が変わった。それを目にした瞬間、無意識にティシラの足が止まる。
 そして、見た途端に「核」という言葉が、脳裏を過ぎった。
 まるで森が膨張したかのように、更に広がったそこの中心に、一本の大木がそびえ立っていたのだ。正確には「木」とは呼びにくいものだった。やはりそれも細い蔦が絡み合ったものである。しかし、今までのものとは比べ物にならないほど大量の蔦が、そこに集中していたのだ。
 天井から地上までを太い線で結ぶそれは、鏡に映したかのように比例した形で扇状に根を張っている。
 これが、この空間のすべての木々と魔力を支え、原動力の主軸であるということを、ティシラはすぐに察した。
 核の向こうの大地は大きな洞穴となっていた。そこから先は、もう今までの緩い球体というイメージはなくなる。穴は何百メートルも深く、地上から底は見えない。遠いからというだけではなかった。幾層にも重なったそこは、まるで地下に埋もれた巨大な基地のようだった。そこから下は、完全な異空間、つまり「魔界」となっていた。
 ここ自体も異空間と言えるものなのだが、魔界とも人間界とも言えない中途半端なものだった。しかし、地下にある魔力の濃度は完全に魔界と同じレベルに達している。地下は薄暗い。その闇の中で、何かが呼吸をしている。
 核の前に立ち、深い緑の眼球で洞穴を見下ろしている一人の青年がいた。彼が人間でないことは一目で分かる。背は高く、立ち姿も美しいものだったのだが、整った顔を覆う頭髪の部分が、周囲を取り巻く蔦によく似たものだったのだ。細く滑らかな蔦は彼の踵より下まで伸び、その隙間から覗く耳の先は尖っている。体の線を出さない豪華で派手な衣服の袖から出る、白い指から伸びる爪もまた蔦と同じような形をしており、武器のように鋭いものだった。
 彼こそが「呪樹の一族」の王子、サヴァラス。呪樹の主の一人息子であり、老体である主の後継者として、魔界では注目されている貴族だったのだ。
 サヴァラスは、まるで化粧をしているかのような赤い唇の端を上げた。左手をゆっくりと持ち上げ、指を鳴らす。すると掌の中が一瞬、小さな光を灯し、開いたそこには片手で掴めるほどの小瓶が現れた。サヴァラスがそれを頭上に掲げると、洞穴の中から奇妙な呻き声が響いてきた。
「……これが欲しいか」
 穴に向かって、サヴァラスは呟く。彼が今向き合っているのは、言語の通じない相手である。言葉はおまけであり、それらを挑発することが目的だった。サヴァラスの声は届いていないのだろうが、穴の中のそれらは答えるように更に奇声を上げてきた。
 乾いた、貪欲な声だった。彼らの空腹は限界を迎えている。サヴァラスの手の中にあるわずかな命の水のためなら何をも恐れはしないのだろう。
 洞穴から、膨大な魔力が溢れ出してきた。
 その様子を遠巻きに見つめていたティシラは息を飲んだ。隣にいるルミオルとロアにとってはいつものことであり、今更驚くことは何もなかった。サヴァラスが行っている儀式を、黙って見守っている。
 サヴァラスは三人の気配には気づかないまま、小瓶を傾ける。すると瓶の蓋がするりと抜け落ち、そこから細い透明の水が穴に落ちていった。瓶の中身は、ただの水ではない。僅かに回転しながら、小さな光を灯している。しかも瓶は小さいのに、水は途切れることなくいつまでも線を描き続けているのだ。
 水が洞穴の中に注がれた途端、地下のそれらが暴れだした。見えない場所からでも、光る水を欲しているのが伝わってくる。水は細く、数え切れないほどいるであろうそれらが、とても満足できる量ではなかった。だから、それらは奪い合っているのだ。命の水を得るために、生き残るために、仲間を踏み台にしなければいけないほど僅かな水を求めて。
 ティシラはその様子を体で感じ取り、眉を寄せた。
 地下で争い合っている卑しい生き物からは、押し潰されそうなほどの執念が発せられていた。聞いたことがある。強い戦士を作り出すために、狭く暗い空間に閉じ込めて命の限界まで追い詰める。そして互いに争わせるように仕向け、そこで生き残ったもののみを勝者として称え、戦いに投じる方法があると。
 呪樹の魔族は、そして、ルミオルとロアはそうして「戦士」を作っているのだ。
 何のために――いや、そんなことよりも。ティシラは気分が悪くなって口元を片手で押さえる。地下から発せられる呪われた魔力は強大なものだった。それを無防備な状態で受けてしまったために目眩を起こしたのだ。
 それだけで、ティシラは機嫌を損ねる。まだ儀式の途中、二人に何の許可も得ず、苛立ちを顔に出しながらサヴァラスに向かって勝手に足を進めた。


   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.