SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-37





 三人は核を後にし、来たときと同じようにロアを先頭に扉へ向かった。ロアは、今度はルミオルに行き先を確認せず、再び扉の前で呪文を呟く。すると、扉の奥が揺れ、開く。そこには、また灰色の靄があった。
 靄の先は、ティシラが思っていたよりも普通の室内へ繋がっていた。
 普通とは言っても、やはりそこも無駄に広く、蔦で構成された部屋だったのだが、今までと違うところは、テーブルや椅子などや棚など、人が寛げるような家具が揃っていりことだった。その一つ一つもやはり蔦でできたもので、この空間でないところで見れば珍しいデザインのそれという印象で済ませられるかもしれない。室内を区切られた平面な壁も、他に部屋らしいと感じられる箇所だった。いくつかドアもあり、それは先ほど通った大げさなものではない。ドアの向こうが寝室やシャワールームであるなら、まるで城の一室のようで、数日泊り込むくらいは可能なようである。悪くはない。だが、前置きがなければこの色といい、異様な存在感のある蔦といい、あまりいい趣味だとは言えないと思う。
 ロアは怪訝な表情で室内を見つめる彼女に、紳士的な笑顔でチェアを勧める。ティシラは誘導されるままに腰掛けながら、未だ周囲から意識が逸らせないでいた。チェアの感触は問題なかった。もしこれが背中や尻の下でモゾモゾと動きでもすれば悲鳴を上げたのだろうが。
 ルミオルは慣れた様子で、ティシラの隣にある椅子に腰掛ける。客人が腰を落ち着けたところで、ロアもテーブルを挟んで向かいのソファに座った。
「では、お話を」
 ロアが言うと、ティシラは我に返って彼に向き合った。話というのが指輪のことだとは分かっているのだが、何から話せばいいのか、と言うより、彼が何を聞きたがっているのかが分からない。
 ティシラが何の考えもなしに隣のルミオルに目線を移すと、目が合った。ルミオルは、どうやらティシラが自分に助けを求めていると分かり、肩の力を抜いてロアに目線を移す。
「……まあ、俺も詳しくは知らないんだが、ティシラの左の薬指にある指輪を取って欲しいらしい」
「ええ、それは聞きましたが、メイの魔法使いたちはなんと仰っていたんでしょうか。彼らが太刀打ちできないものを、私のような無所属の魔法使い如きが力になれるとは思いませんけどね」
「無所属だから頼ってきてるんだよ。力の強弱の問題ではないようなんだ。たぶん、種類の違い……そうじゃなかった? ティシラ」
「えっ」
 声をかけられるたびに驚いてしまっているティシラだったが、話を進めてくれたルミオルのお陰で、ロアに伝えるべきことが何かを、やっと把握でき始めてきた。
「ああ……そう。たぶん。そうかな」
 再び指輪を見つめ、ライザの言葉を思い出す。
「未知の魔法がかかってるって、そんなことを言ってたかも」
「未知の、魔法ですか」
「うん。何か強いものが邪魔をしてて、魔法の種類も、これをかけた人の属性も何も見えないって」
「……へえ。メイの魔法軍はこの世界の魔道の集大成だと言われています。そのトップが揃って何も見えないとは……」
「どうだ、興味あるだろう?」
 見透かしたようなルミオルの問いを、ロアは否定しなかった。薄く微笑み、腰を上げる。
「失礼します」
 言いながら、ティシラの前に跪いて手を差し出す。指輪を見せて欲しいという態度だった。ティシラはゆっくりと左手を、ロアのそれに添える。
 手が触れた途端、ティシラの胸が脈を打った。理由は二つ。一つは、この指輪が本当に取れるかもしれないという期待と、不安。
 そしてもう一つは、ロアという魔法使いへの違和感だった。
 初めて彼を見たときに湧いた、説明のできない感情。決して恋心や情のようなものではなかった。
 誰かに、どこかが似ている。見た目や仕草なのではない。ロアが持つ、内側にある何かがそう思わせているのだと思う。だけどその誰かが、どうしても分からない。それなのに、指が僅かに触れただけで、そこに熱が篭ったような気がしたのだ。
 そんなティシラの緊張を知ってか知らずか、ロアは指輪に見入っていた。瞬きもせずにじっと、指輪の表面から見えるものを探っている。こんな表情を露わにするロアを、ルミオルは珍しいと思った。彼は人に隙を見せたがらず、常に周りに気を張り続けている。こうして一つのことに集中することは少なかった。きっと魔法を行うときは、いつもの朗らかな態度を一変させているのだろうと思うのだが、なかなかロアがそれを人に見せることはなかった。
 ロアがどう出るか、どんな結果になるのか、ルミオルは楽しみだった。
 しかし、ロアはふっと顔を上げてルミオルの好奇心に水を差す。
「ルミオル様。申し訳ありませんが……しばらく二人にしていただけませんでようか」
「ええ?」
「どうやらこの指輪の魔法は一筋縄ではいかないようです。魔法に集中するために、ご協力をお願いします」
「……俺は見てるだけだ。声も出さないし、動くなというなら動かない。それでもダメなのか?」
 倫理に則って説得するのは時間がかかると思ったロアは、極論で諭す。
「呼吸も、止めていられますか?」
 それは無理である。からかわれているようで気分が悪かったが、これ以上邪魔者扱いされるのはもっと不愉快だった。ルミオルはヘソを曲げて席を立った。
「で、魔法は解けるのか?」
「さあ」
「俺を追い出しておいて」ルミオルは二人に背を向けながら。「何もできないわけがないよな? なあ、ランドールの血を引く魔法使いさま」
 皮肉られてもロアは笑顔を保って、大人しく室を出ていくルミオルを見送った。


 ロアは気を取り直して立ち上がり、ティシラの手を取ったまま隣の椅子に腰掛けた。互いに膝を斜めに向け合う姿勢になり、改めて目を合わせる。
「始める前に……確認しておきたいことがあります」
 ティシラは息を飲んだ。彼の優しい瞳の奥にある鋭いものが、心の中に染み込んでくる。
「な、何?」
「あなたは、本当にこの指輪から解放されたいと思っていますか?」
 ドキ、とティシラの胸が鳴った。そんなの当たり前だと思っていたのだが、迷わずに強く頷くことができない。少し俯き。
「……ええ、もちろんよ」
「なぜ?」
「なぜって、い、痛いからよ」ティシラは目を逸らして唇を尖らせた。「それに、左手の薬指なのよ。私にはそんな相手いないのに、周りから勘違いされるじゃない。恥ずかしいし屈辱だわ。とにかく、迷惑なのよ」
 単純な理由が子供っぽく感じ、ロアは少し笑った。ティシラは笑われた理由が分からず、顔を赤くして彼を睨んだ。
「失礼――では、もう一つ。これから私が行うことで起こること、起こったことのすべて、受け入れていただけますでしょうか」
 ティシラの胸がもう一つ鳴った。ティオ・メイで行われた儀式のことを思い出す。まさかあのときのような苦痛や恐怖が繰り返されるのだろうか。もう二度と、ごめんだ。目に見えて暗くなった彼女の表情に気づき、ロアは肩を竦めた。
「大丈夫。怖い思いはさせません」
 囁くような彼の声に、ティシラは顔を上げる。
「私はこの指輪の魔法に直接触れてみるだけです。あなたに負担はかけません。ましてやあなたの記憶や過去を操作するなど、そのような大技、私一人で行えることではありませんから」
 魔法を知らない者にすれば、ロアの言葉は謙遜に聞こえた。だがレベルの高い魔法使いなら、彼の言っていることに耳を疑うだろう。指輪の魔法に直接触れるということは、術師を探り出すということなのだ。
 それができないから皆が苦労しているのである。しかしティシラはそんなことは知らずに、安心して体の力を抜いた。
「信用していただけますか? でも――魔法が必ず解けるという保障は、まったくありませんので」
 彼の浮かべる爽やかな笑みが、感じの悪いものに見えた。ロアは緊張が解けて呆けているティシラに「そのままでいてください」と伝え、彼女の左手を少し持ち上げた。
 指輪を自分の額に近づけ、目を閉じる。
 言われなくても、喋ってはいけない、余計なことはしていけないという雰囲気がロアから漂ってきた。ティシラは口を結んでじっと彼を見つめる。


 ロアは指輪の中に意識を飛ばした。
 今椅子に座っている彼の体は、魂の抜け殻となっている。ティシラにはそれが分かった。魔族の目線からすれば、ロアはかっこうの「餌」状態なのだが、彼女にはそんな企みなど微塵も思い浮かばない。
 これから何が起こるのか。本当に指輪が外れてしまうのか。ロアの力がどれほどのものなのかの興味に支配されていた。
 ロアは指輪の中にある魔力に、自分のそれを侵入させる。
 ――やはり、これはランドールの魔法。
 手ごたえを感じ、ロアは魂の眼で奥へ進む。
 ――だけど、私の知らない魔法だ。とても古い、いや、見たことも聞いたこともない、誰かの独創魔法。間違いなく、ティシラの力を制御するためだけに創り出されたもの。
 答えはどこにもない。ティオ・メイの魔法使いが束になっても解明できるわけがないものである。知りたいという気持ちは、よく分かる。それで手荒なマネをしてしまったのだろうが、かくいう自分も、彼らの失敗がなければ同じことをしていたかもしれない。
 ロアは、賢人たちを翻弄したこの魔法を見破ってみたかった。この「謎」の先にあるものが、自分が欲しいと思っていた、探していたものである可能性が高いと感じたからだ。
 ロアはまだ見えない術師に、闇雲に語りかけた。争う意思はない。まずはそのことを伝えたい。その思いは声にも言葉にもなっていなかった。凝縮された膨大な魔力と、細い組織が複雑に絡み合ったその空間の隙間へ、ゆっくりと潜り込んでいく。
 まだどこにも、誰の気配も感じられなかった。術師はかなり遠い場所にいるようだ。もしかすると、この世界ではないところにいるのかもしれない。
 それでもロアは諦めなかった。外部の魔法だとするなら、尚更知りたい。
 いつも平静を心がけてきたロアが、こんなに興奮することは少なかった。
 ――術師は私の存在に気づいているはず……きっとそこまで届かないと侮っているのだろうな。
 なめられていると、ロアは感じた。確かに、このままの速度で移動していてもどこにも辿り着かないのは分かる。向こうからも歩み寄ってもらいたいものだと、ロアは細い息を吐いた。
 その吐息はまるで糸のように先へ先へと伸び、いくつも枝分かれしていく。空間の組織に絡みついていく。ロアはその様子をじっと見つめた。
 ここに組み込まれている組織は、呪文や魔法陣の塊である。一つでも狂わされたら魔法の効力に歪みが生じる。術師が黙っているとは思えなかった。
 ロアの期待の目線の中、自分の出した息吹の糸が震え出した。ロアの目の前で、捻れ、切れる。
 ――きた。
 息吹は細かく千切れ、糸くずとなって空間に散り落ちていった。
 ――私が見えますか。
 反応があったことを喜び、ロアはどこにともなく語りかけた。
 ――私は敵ではありません。あなたと話がしたいのです。どうか、お応えください。
 返事はない。言葉が通じないかもしれないということ、人間ですらないのかもしれないということも可能性として考えられる。そうだとしても、術師が何者なのかだけでも知りたいと、ロアはできる限り広い範囲に意識を飛ばし続けた。
 意識の遠い先に小さな光が見えた。ロアはそれに集中する。
 ――あれは、術師が発するもの。私を呼んでいるのか。
 心が躍った。じっと光を見つめていると、吸い寄せられるように近付いていく。もうすぐだ。
 ロアが我を忘れて目を見開くと、突然、輝いていた光が黒に変色した。
 思わず悲鳴を上げそうになったロアを、黒い影が包み込んだ。
 その暗黒の光の中には、おぞましい光景が映し出されている。
 ――なんだこれは……!
 人間の姿だった。殺し合い、憎しみ合う、醜くも恐ろしい人間の姿。自分だけが生き残るために、他の存在を許さない凶暴な生き物。
 人が人を殺している光景を掻き分けて、小さな丸いものが転がってきた。
 死の傍で生まれ出でた赤ん坊だった。血塗れで、けたたましい産声を上げている。
 これが人間の世界だなんて思えず、思いたくなく、ロアは反射的に口を塞ぐ。ここで声を上げてしまったら、現実に引き戻されてしまう。おそらく術師の狙いはそこなのだろう。自分を追い出したがっている。生理的嫌悪を与え、深層心理を抉るような、陰湿な方法で。
 ロアは普通の人間より精神が強いほうだと自負している。命のやり取りも理解しているつもりだった。しかし、これは人が見てはいけない人の心の闇。賢者や魔法使いが決して外に出さないように閉じ込めている、人の最も醜い姿なのだ。身体への攻撃なら防御することも反撃することも可能なのに、精神を傷つけられては理性を保ち虚勢を張ることもできない。
 直接魔法で攻撃されれば、その感触で相手の特性などを見抜けることがあるのだが、相手はそれさえも許してくれなかった。
 ロアの呼吸が上がる。
 ――なぜ、あなたは私を攻撃するのでしょうか。
 ロアの勘が当たっているのなら、「彼」は同じ血を持つ者のはず。すべてを曝け出してくれるとも、簡単に分かり合えるとも思っていない。だが話し合う隙くらいはあるものと信じたかった。
 ――指輪の魔法が貴重なものならば、侵すつもりはありません。ただ、理解したいだけです。何のためにこのようなものを、今の世界に送り出したのかを。
 ――――。
 聞こえた。声が。言葉が。ロアは力を振り絞って耳を澄ます。
 ――キエロ。
 届いたのは、無情で冷たいものだった。
 ――イマハ、マダ、ハヤイ。
 早い? ロアが何度も瞬きをしていると、暗闇が幻だったかのように消えていた。目線の先には、白い光が灯っている。
 声はそこから発せられていたのだが、再び沈黙した。
 ――なぜ? 私はあなたにとって敵でしょうか。どうしてこのような仕打ちを?
 ロアは問いかけながらも動くことができなかった。再びあの暗闇に襲われることに恐れていたのだ。
 気配は感じるが、術師は答えない。これ以上は無理かもしれないと、ロアの心は折れかけていた。話し合いができないからといって、戦う気も起きない。とても適う相手ではないことだけは、嫌というほど思い知らされたのだから。
 最後の一押しと、ロアは最後のつもりで言葉を発した。
 ――私がしたことは、罪ですか。
 光が揺れた。やっと会話が成立すると期待したロアに返ってきた「彼」の答えは、こうだった。
 ――ワタシハ、オマエノヨウナモノガ、キライダ。
 ロアは、一瞬放心した。
 これほどの魔法使いが、そんな個人的な感情で攻撃してくるなんて信じがたかった。いや、違うとロアは否定した。他に理由があるはずだ。自分にランドールの血が流れていることか。興味本位で立ち入ってきたことか。心当たりはいくつかある。しかし、はっきり指摘してくれないことには改めることはできない。
 ――いつか、あなたにお会いできるのでしょうか。そのときに本当のことを知ることができるのでしょうか。
 光が数回瞬きした。その速さは好意的には受け取れない。これ以上長居すればまた攻撃が始まると、ロアは腰を引いた。
 ――ワタシニ、チカヨルナ。
 光が膨張し、ロアを包み込んだ。今度は暗闇ではなかったが、その圧力に押し返される。
 もう限界だと、ロアは諦めた。
 同時に、理由は分からないが、やはり術師は自分を嫌っているのだと思う。
 嫌いだから口をききたくない。出会い頭にそこまであっさりと拒絶されたのは初めてだった。
 しかし、ロアはこの姿の見えない術師が嫌いではなかった。現実に引き戻されながら、微笑む。
 似ている、と思った――ティシラに。
 分かったことは、彼がティシラの敵ではないということ。今得られることはそれだけだった。ティシラはきっとがっかりするだろう。それでも、彼は「早い」と言った。つまり、いつかはそのときがくるのだ。
 逆らうことは嫌いではないのだが、これに関しては待っていたほうが利口だと、手を収めた。


   

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